第307話 手を取り踊る混沌。俺が繋ぐべき希望のこと。
――――――――…………波の飛沫を肌に感じて、俺は瞑っていた目を開いた。
俺とヤガミは、蒼く透き通った水底に降り立っていた。
白い砂が一面に広がっている。
それは水面から差す薄っすらとした光に照らされて、ガラス片のような輝きをほのかに放っていた。
不思議なくらい静かだ。
魔力の気配だけが、俺達の周りを行き交っている。
「…………リズの結界だ」
ヤガミが息を上がらせて呟く。
ジューダム王にやられた傷からの出血は止め処なく、顔色は蒼白いを通り越して最早恐ろしい。俺は彼に睨み返されて仕方なく、再びリーザロット達に呼びかけた。
――――リズ。フレイア。
今、行くからね。
また波飛沫が俺を打つ。
波…………。今度は生温かく、血に似ていると感じた。
次いでこだまじみた、ぼんやりとした言葉がどこからか届く。発信元を辿るには時間がかかりそうだった。
――――…………コウ様?
…………コウ様ですね…………?
「…………フレイア! …………ああ、そうだ。俺だ」
フレイアは途切れがちに話をした。
――――…………私と…………蒼姫様は…………ジューダム王と戦闘中です。コウ様とヤガミ様のいらっしゃる…………そこは蒼姫様の…………領域で…………長くはもちません。
…………ジューダム兵…………この腕達…………力を増しています…………。
「いや、もうこっちにはいないよ。そっちに行ったんじゃ?」
――――…………では、隠れているのですね…………。
しばらく声が飛ぶ。
今度はあからさまにぬめりのある、熱い飛沫が額に散りかかった。
手が震え、気持ちが逸る。
しかし、ジューダム王は心乱したまま挑める相手ではない。
恐らくリーザロットは、かなり無理をしてこの結界を編んでいるはずだ。それを無暗にかなぐり捨てるわけにはいかない。
焦っちゃダメだ。
今俺にできる最良は、冷静でいることだ。
ややしてから、もう一度声が続いた。
――――…………ヤガミ様の…………ご容態は?
俺はヤガミを見やる。相変わらず瞳だけは異様にギラついているが、全身は目に見えて弱っていた。
嘘など吐いてもどうしようもない。
俺は正直に答えた。
「危険だ。…………もう戦えない」
ヤガミが弱々しく俺に掴みかかるのを、俺は簡単に振り払った。
ズタズタに乱れた灰青色の眼差しを、俺は半分怒りに駆られて見つめ返している。ヤガミは歯を食いしばり、呻いた。
「っ…………ざけんな。何、勝手に…………」
「勝手はお前だろう! やっぱりお前は何としてでも先に帰す。…………足手まといなんだよ!」
「んだと…………っ!」
言い争いを、フレイアが遮った。
――――不可能です…………。
フレイアは結界が血飛沫の気配を徐々に濃く、強く飛ばす中、言った。
――――もう…………誰も撤退…………できません。牙の魚が…………魔海の混沌が…………水際までせり上がってきています…………お師匠様さえ…………。…………全てを斬り抜けるより他に…………道は…………ないでしょう…………。
結界を満たしていた光が危なっかしく揺らぐ。
遠い地鳴りが水面に波を立てた。
水が冷たく濁り始めてきている。水底の白砂は血の跡じみた赤黒い染みを、あちこちに浮かび上がらせていた。
フレイアの魔力が咽喉に熱く垂れる。
彼女はヤガミに話をした。
――――ヤガミ様、聞こえていらっしゃいますね…………?
…………私の…………火蛇の炎で…………少しは止血できます。
…………お覚悟を。
火の粉のちらつきが、視界をよぎる。
見れば火蛇の一匹が、中空から滑り降りてヤガミへ身を巻きつかせていた。
フレイアが火蛇の名を呼ぶ。
彼女は声にも心にもそれを浮かべていないのだが、火蛇はしっかりとそれに応じた。
合図に応じて、火蛇が丁寧に身を滾らせてヤガミの傷を焼く。
ヤガミは歯の隙間から微かに苦悶の呻きを漏らしたが、意地で静かに耐え抜いた。
「…………助かる…………」
滲んだ脂汗を拭い、ヤガミが長く息を吐く。
フレイアは火蛇を俺の方へ滑らせ、言葉を返した。
――――…………あくまで応急処置です。
…………コウ様は、私が…………お守りいたします。…………貴方は蒼姫様の…………お傍へ…………ジューダムの力場を…………制御…………、
…………
沈黙が訪れる。
完全に声が途切れたのと時を同じくして、鉄錆の味が口の中いっぱいにぶちまけられた。
結界の限界が近い。騒がしい気配がいよいよ圧し掛かってくる。
高まる胸騒ぎに、俺は乾いた唇を引き結んだ。
じっとりとした不快な湿り気が辺りに充満していく。
水底の砂はいつしかすっかり赤黒く、泥のように重たく変わっていた。
振り返ると、ヤガミはすでに剣を構えている。火蛇は俺の周りにベールを張り、ちらっとこちらを気にかけた。
俺は目線だけで彼らに合図し、押し寄せて来る凶悪な予感に備えた――――――――…………。
――――――――…………上空から薄ぼんやりと白い光が差していた。
照らし出された痛ましい光景に、思わず吐き気を催す。
血と死肉が溢れかえる巨大な岩礁の中央で、リーザロットはヤガミと共にジューダム王と向かい合っていた。
彼女らの周りに漂っているのは、無数の白い腕。
そして牙の魚。
あるいは、それらの残骸。
黄金色の強い眼差しを感じる。ヴェルグだ。混沌から呼び覚まされたばかりの牙の魚の尋常でない狂乱が、五感にヒリヒリと響いた。
死神の嵐の余波もまた、風となって肌に触れる。熱が俺の血まで滾らせる。どうやら彼も、ここで壮絶な戦を繰り広げているらしい…………。
俺は岩礁のすぐ傍にうずたかく積まれた死骸の山の上に立っていた。
生々しい死体の匂いが鼻を突く。
魔術師も、教会の騎士も、男も、女も、大人も、子供も…………まるで土嚢みたいに折り重なっていた。
死骸は異臭を放ち、ドロドロと溶けて灰色の煙となって力場に染み入る。
白い光をほのかに浴びながら、虚ろな死の狼煙は毒々しく揺れていた。
中空からもう一匹の火蛇がスルリと降ってくる。
尾を食んで作られた円の内から、フレイアが姿を現した。
「コウ様、よくぞお戻りで!」
彼女は俺の傍らへ軽やかに着地し、尋ねた。
「コウ様は、お怪我はありませんか!? 治療のご必要は!?」
「いや、大丈夫。焼かれる程のものは無い。本当に大丈夫だから、火蛇を巻きつけないでくれ。君こそ平気?」
「はい」
煌々と燃え盛る紅玉色の目を見て、俺は頷く。
さすがだなぁ。彼女は血まみれだったが、確かに傷一つ負っていなかった。
身についた汚れは全て返り血と見える。
俺は内心苦笑しつつも、心底安堵した。
「よかった…………。ジューダム王の…………戦いの様子はどう?」
「強いです」
フレイアが剣を構え、警戒の網をいつも以上に緻密に広げる。
彼女はそのまま、淡々と語った。
「牙の魚の群れは、お師匠様とヴェルグ様がどうにか抑えてくださっています。…………しかし、ひとたび勢いを得た混沌の噴出は留まる所を知りません。あの方々のお力をもってしても、すでに多くの魚が陸へと上がって行ってしまいました。
ジューダムの兵達もまた、魚の襲撃に苦しんでおります。ですが、王は何らかの手段により、魔海に還った兵をも使役し、この状況をより有利に捌いております。
加えて今現在、王と同じ魔力をお持ちのヤガミ様以外に、王の力場を突き抜ける手段が見つかっておりません。
ですから…………お傷が深いことは重々承知しておりますが、今はヤガミ様を頼るより他に…………」
フレイアがわずかに俯く。
伏せられた睫毛の下の眼差しには、勇ましいながらも当たり前の滲みが湛えられていた。
俺は彼女の肩に手を添え、話した。
「わかってるよ。…………アイツも、よくわかってる」
躊躇いの欠片が、紅玉色にささやかに瞬く。
俺は手を離し、言葉を足した。
「しかし…………そうなると、ヤガミとジューダム王が俺達と共に相見えているこの機を逃すわけにはいかないな。まさに今がチャンス…………むしろ、決着の時ってわけだ」
フレイアは王へと剣を向け、刃の上の火蛇を燃え上がらせた。
「ええ…………。コウ様とヤガミ様が、私達の希望です」
リーザロットの凛々しい詠唱が力場を震わせ始める。
王が重ねて、白く血の気の無い手を前へかざした。
王の呼びかけに、白い腕が応える。地獄が今一度、激しく踊り始める。
死骸の山から灰の煙が、火山の如く吹き上がった。
暗がりから何かが物凄い勢いで迫ってくる。
世界がぐらぐらと脅かされる。
まもなく死骸の山をぶち破って、巨大な鮫が俺達の眼前へ出現した。
「――――来たか!!!」
フレイアが瞳を強烈に輝かせて叫ぶ。
幾重にも牙を研ぎ澄ませた大鮫、顎門は――――死体を喰らい、さらに逞しく、禍々しく血にまみれていた――――獰猛に、フレイアへとその身を叩きつけた。
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