第305話 魂の語らい。俺が痛みの色に触れること。

 ――――――――…………叩き落された泥の底には、一段と暗く深い海が広がっていた。

 目だけをギラギラと光らせた大量の牙の魚が辺りを蠢いている。

 マグロの群れにも似た巨大な魚群は、猛然と渦巻きながら夢中で何かを喰い散らかしていた。


 と、ふいに群れから離れた小柄な魚が一匹、こちらへ突進してきた。



「うっ――――うわぁぁあぁ!!!」


 思わず悲鳴を上げる。


 危ういところで火蛇が襲い来る魚を真っ向から弾き飛ばしてくれた。

 燃え盛る蛇は怯んだ相手をすかさず追って締め上げると、たちまちのうちにその全身を燃やし尽くした。


 いつもよりも火蛇は強く攻撃的だ。

 事前に編んだ精鋭隊やリーザロット、ヴェルグとの共力場のおかげだろうか。


 火蛇の業火が辺りを照らし出す。

 想像していたよりも遥かに大規模な牙の魚の群れがほの見えて、俺は息を飲んだ。


「…………っ」


 冷や汗と動悸が止まらない。

 魚達が何を喰っているのか、今やっと気付いたのだ。


「人、だ…………」


 ジューダムの白い手も、サンライン教会騎士団「白い雨」の兵士も、全てが一緒くたに喰われていた。

 噛み千切られ、零れ落ちる肉片が次々と貪り喰われていく。

 最早、この場にいる者だけが襲われているという話では留まらない。エズワース全体が、レヴィの混沌に飲まれてしまったのだ。


 ある程度の被害は想定はしていた。

 けど、ここまで壮絶なことになるなんて…………。


 ナタリーの絶望は考えていた以上に深かった。

 そもそも彼女が抵抗しないとは全く思っていなかったけれど、それでも彼女のことまでは俺達だけで何とかできるはずで、あくまで本番は、ジューダム王との対決だと考えていた。


 …………甘かった。

 ナタリーの言う通りだった。俺達は実の所、彼女のことを少しも考えていなかった…………。


 いや…………違う。あの時、俺が力を使うのを躊躇ったからなんだ。本当は彼女に動揺させる隙も与えず、全力でいくつもりだった。そういう手筈だった。そうしたら、彼女も、誰も、こんなに痛い思いをしないで済んだ。

 それを、俺が…………。


 そうこうしているうちに、辺りの魂を漁り尽くしてまだ飽き足らぬ貪欲な牙の魚の大群がこちらへ迫ってきた。


「――――ヤバい!!!」


 さすがの火蛇も、あの数は捌き切れないだろう。

 俺は扉の力に手を伸ばそうとしたが、眼前に迫りくる牙の森に気圧された。


 ――――ダメだ…………!


 死を覚悟したその刹那、流星の如き蒼白い光の斬撃が魚達を灰と葬った。


 翻るは巨躯を覆う、常夜を塗り重ねてきた漆黒の衣。

 蒼の剣鬼はその頭蓋骨を白々と闇に浮かび上がらせると、涼やかに二刀の刃を滑らせて俺の前に立ちはだかった。


「勇者、戦え」


 俺は死神の眼窩を仰いだ。

 この闇の地においてさえゾッとする程暗い、深い闇が俺を睨み据えている。

 彼は地獄の火口から煙りくるような、低い声で続けた。


「水先人の娘と語らいたくば、戦にて語れ。もとより魂は言の葉にては綴り得ぬ。…………勇者、己が力の本質を見誤るな。その身、その心、極限を超えて研ぎ澄ませ。…………至高の刃とせよ」


 言い切るや否や、彼は高く遠く飛び去って嵐と化す。

 魚の大群は幾重にも重なるの刃の強襲に慌てふためき、逃げ惑った。


 天地無く入り乱れる牙の魚達と、縦横無尽に刃を走らすタリスカによって乱れされた水流が、食べ零しの魂の欠片を舞い上がらせ、闇を薄ら白く、赤茶色く濁す。

 斬り殺された魚は灰塵となり、闇はさらに霞む。

 そして魚は闇の底から尽きることなく、まさに湧いて出てきていた。


 俺は自らを取り巻く光景にしばらく呆然としていたが、どうにか力を振り絞り、拳を握り締めた。

 …………そうだ。

 ここは魔術の世界。

 何も繕わなくていい。

 繕えなくていい。


 俺は火蛇を片手に呼び寄せ(腕をかざすだけでいいんだ)、意識を集中させた。



 ――――…………火蛇を通じて、フレイアの魔力がトクトクと伝わってくる。

 ほの甘い、クリームの味がする。

 大勢の魔力場が混ざり合っているけれど、それでも俺には彼女の力が一番わかりやすかった。


 だが、この扉は開けない。

 邪の芽が俺の内すぐそこにいる。

 今も冷ややかな笑いを浮かべて、憎たらしい中学生の姿で見張っているのが瞼の裏に映っている。

 俺がフレイアの扉に手を伸ばす時、今度こそヤツはその芽を開く。


 だから開けるべきは別の扉だ。

 俺は呼吸を静め、さらに意識の網目を細かくしていく。

 雫が落ちて波立った。

 そう感じた時、俺は呼びかけた。


「――――リズ」


 とろりと広がる極上の蜜香。桜色の花びらが蒼いさざ波に乗って薄く俺を取り巻く。

 冷たい潮流は春の雪解け水のように、ちょろちょろと俺の足元を彩った。


 ――――コウ君、聞こえますか…………。


 リーザロットの声は、蝶の羽ばたきみたいに微かに届いた。


 ――――レヴィが暴れています。コウ君のいる領域には、牙の魚が現れていますね?

 魔海はひどく荒れている…………。

 このままでは、相殺障壁にも影響が出るでしょう。


 俺は努めて淡々と応じた。


「ああ…………。牙の魚は今、タリスカが抑えている。でもキリがない。…………これからどうすればいい?」


 リーザロットもまた感情を滲ませず、雨音のように抑えた調子で答えを返してきた。


 ――――私とセイ君の扉を解放してください。そしたら私と彼とフレイアで一気に勝負をかけます。


「…………ヴェルグは?」


 ――――…………彼女の扉を見つけることができますか?


「いや…………」


 そういえば考えていなかった。確かに彼女程の魔導師ならば、自分の扉を隠す…………あるいは偽ることだってあり得る。

 大体、俺達の胸の内などとっくに全部悟られているのだ。

 こうして話題に上っているにも関わらず反応しないのは、単にどうでもいいからに過ぎない。アイツに関しては、こちらからどうこうしようという選択肢なんて最初から無いに等しい。


 沈黙の後、リーザロットは言葉を継いだ。


 ――――…………いずれ向こうから仕掛けてくるはず。

 私達は、今の私達にできることを精一杯やりましょう。


「うん…………」



 ――――――――…………火蛇をロープとして滑らせながら、俺はさらに魔力場を探る。

 火蛇は牙の魚の気配をいち早く察知して、俺をうまく網目の奥へと潜り抜けさせてくれた。


 リーザロットの扉は、すぐに見つかった。

 それは休日の昼下がりの窓みたいに、ほとんど自ら開け放たれていた。


 そっと押し開く木の扉は、羽根のように軽い。

 窓際には白いカーテンが揺れていた。

 風に誘われるまま、そっと掻き上げるだけでいい。


 部屋の中には日を浴びて眩しく輝く、洗い立てのシーツが張られた小さなベッド。

 木彫りのミニチュアの祭壇が、ちょこんとベッドの脇に据えられている。

 リーザロットはそこで、敬虔に祈りを捧げていた。


 ふと向けられた蒼玉色の眼差しと、俺の視線がかち合う。

 微笑みを浮かべた桜色の唇が、俺の名の形に変わる。

 やがて強く優しく吹き込んできた桜色の花吹雪が、辺りの景色を覆い尽くして俺と火蛇とを温かく包み込んだ。


 透明な波が大きく寄せてくる。

 力場は澄み渡り、色の無い花びらは輝きながら力場に沈んでいった。



 ――――――――…………リーザロットの力に満たされながら、俺は火蛇の命綱を頼りにまだまだ潜っていく。


 ジューダムの力場の気配を色濃く感じる。

 何の味もしない、ただ果てしない虚無が白い腕の森を形作っている。

 いっぱいの花びらを透かしているから、落ち着いて見ることができるけれど、それでも彼らの幽鬼じみた姿は恐ろしい。


 手探る内に気付くのは、自分の力場の味。

 今日は何だかやけにしょっぱい、砂まじりの感触にまみれている。血の味の予感…………それと共に咽喉を過ぎるアルコールのひやりとした感覚に、不安を掻き立てられた。


 いつしか俺も、あの波打つ白い腕の一部になってしまうのではないかと無性に悲しくなる。

 だけど惑わされはしない。

 ヤガミの力場も、ジューダム王の力場も、こういう構造をしているってだけだ。

 裏返っていつの間にか自分が結び付けられてしまう、奇妙な力場。人を煙に巻く、ねじれたメビウスの輪。

 途切れ目を作ってやろう。


 火蛇の明かりと揺れる花びらを手掛かりに、俺は灰青色の冷たい虚空を巡る。

 白い腕はいつしか溶け合い、ほの白くくすんだ湖となった。

 冷たく青い霧がかかっている。


 俺はさまよいながら、火蛇に一瞬だけ霧を晴らすよう頼んだ。

 従順な蛇はふわりと大きく渦を作り、回転の勢いと火の熱で霧を打ち払う。

 と同時に、俺はリーザロットの花びらを水底に沈めた。


 澄んで凪いだ湖面に俺の姿がくっきりと映る。

 こんな状況なのに、自分でも拍子抜けする程の間抜け面。

 心強いことに、いつだってタカシは元気なのだ。


 俺は深く息を吐き、水面を突っ切って手を伸ばした。


「…………ヤガミ」


 俺の手に、少年の手が触れかかる。

 そう思った途端に少年の手は青年の手へと節くれ立ち、俺の手を強く打った。


 ――――…………任せろ!


 ヤガミの力が霧を白く渡らせ、くすんでいた湖を鮮やかな灰青色になみなみと染め上げる。

 白い腕が今やっと目覚めたように、ぐんと力強く沸き起こった。


「こ、これでいいのか!?」


 俺の問いには、魔術が答えた。



 ――――――――…………火蛇が俺の腕を絡め、急浮上する。

 あっという間に引きずり上げられた俺は、黒砂に濁りきった翠玉色の海へと思い切りよく放り出された。


「――――ッ!!!」


 眼下に浮かぶレヴィに、思わず息を飲む。

 真っ黒に染まったレヴィは赤黒い妖しい光を禍々しく纏い、何百、何千尾もの牙の魚を従わせていた。

 元の面影なぞもうない。

 彼とナタリーの世界をつんざく叫びが、辺りに散らばった死体を震わせて俺の鼓膜を痛めつけた。


 凍える蒼い潮流が水底の砂を巻き返し、さらに水底から押し寄せてくる無数の白い腕が怒涛となってそこへ雪崩れかかる。

 フレイアが、レヴィの傍で剣を構えていた。

 紅玉色の瞳は燦然と燃えている。


 俺から離れた火蛇が彼女の剣を巻いているもう一匹と綾を成した瞬間、フレイアは剣を振り抜いた。

 それはリーザロット達の大波がレヴィに覆い被さるのと、全く同じタイミングであった。


 レヴィが巨大な津波と火蛇の刃に押し倒され、壮絶な血柱を噴き上げる。

 この世のものとは思えない絶叫の中、牙の魚が暴れ回り、海が真っ赤に染まる。

 仕舞いに、地獄の底から声が聞こえた。


 ――――勇者。


 光よりも速く短い合図に、俺は応じた。

 熱風と狂愛の漆黒は、刃の先に唯一つの扉を見据えている。

 俺は垣間見えた太刀筋に、意識を放った。

 わかりやすい扉…………!


「――――…………眠れ、レヴィ」



 蒼白い二重の刃が大いなる獣を完全に斬り捨てる。


 ナタリーの涙が、俺の頬に一雫、跳ねた。


 ――――…………痛いよ…………ミナセさん…………。


 消えゆくその声を飲み込んで、闇の底から声がした。



「…………そうか、それ程に死に急ぐなら…………その望み、叶えてやろう」



 波と重なっていた白い腕の軍団が急に血色を失い、透き通って力を失くす。

 ヤガミのものよりも遥かに狂暴で無慈悲な灰青色の眼差しが、力場に稲妻となって走った。


 ヤガミが鋭く叫ぶ。

 それと重なって、声の主の両目が俺を暗く淀んだ力場に乱暴に打ち付けた。


「――――…………まずはお前だ、扉の魔術師。

 …………似合いの無残な最期をくれてやる」


 ジューダム王は血まみれのレヴィの身体の上に、「顎門」アギトを伴って立っていた。

 水銀じみた瞳には、底知れない虚無と憤怒が湛えられている。

 皆の魔力の感覚が、暴力的な魔力でたちまち塗り潰されていく。


 彼は眉一つ動かさずに俺を指し示すと、一言、己の大鮫に命じた。


「喰い殺せ」

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