第292話 空は灰色、薄濁り、かすかに青く。俺がメビウスの力場を翔けること。

 肉体には魔力がほとんどないので、魔術は使えない。

 そのはずなのだが、ヤガミは心配していたこちらが馬鹿らしくなるぐらい、巧みに魔術の刃を使いこなしていた。


「コウ!!! ウロチョロすんな!!! 俺から離れんじゃねぇ!!!」


 すっかり口の悪くなった彼に怒鳴り飛ばされながら、俺は急いで足元について走る。

 リーザロットの花吹雪はしなる鞭となって、執拗に俺とヤガミとを攻撃し続けていた。


「プキャーッ! ムキィーッ! フーッ!」


 大蛇にも似た桜色の渦が、広場の床を抉り抜いて俺達の行く手を塞ぐ。

 ヤガミには難なく飛び越えられる瓦礫の山も、いたいけな子グゥブの俺には断崖絶壁に他ならなかった。


「コウ、何してんだ!? 早く来い!!」

「うるせぇ!!! 俺、今ブタなんだよ!! 少しはブタの気持ち考えろよ!!」

「わかるか、んなもん!!」


 戻ってきたヤガミが俺を抱えて、花吹雪と呼ぶには少々猛烈過ぎる旋風の真下をスライディングし、剣を構えなおす。

 折れたままの彼の剣の刀身を形作っているのは、辺りに散らばっている砂塵や瓦礫だ。

 土くれの即席の刃は、膨らんだり固まったり、時には自ら砕けたりしながら、俺とヤガミとを守った。


 クラウスが、リーザロットを挟んだ向かいから叫んでいた。


「コウ様と共力場を編め、ヤガミ・セイ! お前だけの剣では到底姫様には太刀打ちできない!」

「やる暇がねぇって、見てわかんねぇか!?」


 言い切るが早いか、ヤガミが俺を突き飛ばして地面を転がる。

 次の瞬間、星の矢が俺達がいた場所に激しく降り注いだ。


 立ち上がったヤガミが、額に垂れた血と汗を拭い、眉間を狭める。

 地べたに這いつくばって倒れている俺は、そのまま長く小さく溜息を吐いた。


 弱ったな。

 クラウスの時よりも明らかに攻撃が速いし、狙いも鋭い。

 リーザロットもいよいよ調子が上がってきたってことか。

 それは何よりだけども、これでは扉を探す余裕が無い。


 リーザロットは軽やかに蒼いスカートの裾を翻し、獰猛な花吹雪を広場中に咲かせて指を唇に添えた。


「退屈です、セイ君。…………やっぱりクラウスに相手してもらおうかしら?」


 ヤガミがさらに目元を険しくする。

 煽り方をよくわかっていらっしゃる…………と感心する一方で、俺はまたとない好機を見逃さなかった。


 クラウスの魔力が急激に冷たく研ぎ澄まされていく。

 空気中に無数の透明な結晶がきらめいたその刹那、俺は彼の力を即座に開放した。

 クラウスとの共力場はまだ途切れていない。

 油断したな、リーザロット!


 空気の破裂する音がして、凍てつき粉々に砕け散った花びらが真っ白な吹雪となってリーザロットへ渦巻いた。

 盤石な夜空が震え、水飛沫を浴びた水彩画みたいにあちこちが滲み出す。


「よくやった、クラウス! ――――コウ!!」

「ああ、わかってる!!」


 ヤガミからの合図と同時に俺は大きく息を吸い、意識をヤガミの灰青色の力場へと没入させた――――――――…………。



 ――――――――…………そこには奇しくも、クラウスと同じ冬景色が広がっていた。


 うっすらと暗い、俺達の故郷の冬の曇り空。

 微かな湿り気が肌に沈み込むようで、全身がじっとりと冷え込んでいく。

 風に巻き上げられた砂埃、淡い土の匂いがどこからともなく漂ってきていた。


 俺は幽霊みたいに半透明になって、くすんだ青空に溶けていた。

 眼下に街が見える。

 妙な話だが、それはサン・ツイードにも、俺の地元にも似て、あるいは全然知らない異国の街のようでもあった。


 瞬きの度に印象が揺らぐ。変わらないのは水底のような静けさと、吹き抜ける風の冷たさだけだ。


 これはヤガミの心象風景なのだろうか?

 それとも、俺の…………?


 共力場なのだから、きっとどちらでもあるのだろうが。

 サンライン人と力場を編むのとは、やはり何となく感触が違う。前にスレーンで一緒にアードベグと戦った時に感じたのも、こういう境目の透き通った力場だった。


 ヤガミの力場は探れば探る程、気付けば自分自身の内側へ手を伸ばしていっているという、いわばメビウスの輪じみた力場だ。


 要するに癖があるんだ。

 まぁ、知っていればどうということもない。彼はつまり、どこにだっているということ。どういう風にしたって聞こえているということだ。

 俺はやまびこを呼ばわるみたいに、ヤガミへ叫んだ。


「ヤガミ!」


 ふいに耳元で羽音がして、俺はすぐにその方を振り返った。

 一羽のカラスが音も無く真っ直ぐに空を横切って飛び去って行く。

 気付けば俺はそのカラスの姿に移り変わって、冬空を飛翔していた。


「…………イルカほど可愛くはないが、まぁ悪くない」


 舌打ちするように、気流が翻る。

 竜になった時のことを思い出しつつ、俺は風をいなして飛んだ。


 そうこうするうちにも、はやくもリーザロットの魔力が大気中に染み込み始めてきた。

 彼女の魔力は凍える空に熱く流れる。

 喉の奥を触る甘い蜜の香に、俺は身体を震わした。


「きた…………!」


 途方も無く巨大な石を削り擦るような、低くくぐもった音がして、街の奥にそびえる山が動き出した。

 山は辺りの山脈を崩し、ゴーレムの如く立ち上がる。

 大きく口を開いたゴーレムの咆哮が大気を震わした。


 たちまち空に重たい雲が垂れこめる。

 うんと冷え込んだ風に、俺は緊張を走らせた。

 これは…………かなり分が悪そうだ。


 雪が降り始めた。

 ハラハラと舞い散る粉雪ではなく、じっとりと湿った大粒のボタ雪。

 翼が重い。身体の外ばかりでなく、中を吹き抜けていく風にさえ、身を切り刻まれている心地がする。


 強い追い風が吹く。

 ヤガミに急き立てられている。

 わかっているって。


 俺は思い切って翼を畳み、一気に低所へと身を躍らせた。

 街へ降りよう。

 扉はあそこにある…………気がする。


 雪が激しくなっていく。

 暗い空が唸り声を上げている。あるいは雲の中にも巨人が潜んでいるのではと、背筋が凍る。


 ゴーレムは大股に歩を進めながら、俺を追ってきていた。

 一歩一歩こそ鈍いが、山の一歩はカラスの羽ばたきとは比べ物にならない。

 大地の巨人は、もう手を伸ばせばすぐ俺まで届く距離に迫っていた。

 リーザロットの溜息に似た微笑みが、脳裏に浮かんだ。


「――――…………何だか、コウ君とセイ君は兄弟みたいね。貴方達はなんて自然に同じものを見つめるのかしら。…………それだから、少し物悲しいのね。この力場は」


 風がわずかに逆立つ。

 すぐに滑らかな気流が戻ってきたが、俺の方はそうはいかず、煽られて一瞬だけ飛行を波打たせた。


 その隙を突き、ゴーレムの手が悠然と頭上へと伸びかかってくる。

 俺は急降下して街の中へ逃れようとしたが、間に合わなかった。


 ゴーレムのゴツゴツに節くれだった岩石の手が、無慈悲に俺を掴み潰す――――…………。



 …………かに、思えたが。


「っ…………?」


 咄嗟に瞑った目を恐る恐る見開いてみる。

 覚悟した圧迫感もなければ、激痛もない。

 ただ沈黙だけが…………己の羽ばたく音だけが力場に響いている。


 旋回しながら、俺はゴーレムがただの山に戻ったかのように、ピタリと固まってしまっているのを目にした。

 やけにシンとしている。

 リーザロットの魔力はまだ感じるが、何か厚い膜を隔てたみたいに感触が鈍かった。

 何が起こった?


「…………ヤガミ?」


 風はひそやかにひたひたと流れている。

 ボタ雪がそれに沿って、街を白く、ほの青く染めていた。


 よくわからんが、どうせまたアイツが何かやってくれたんだろう。

 ともかくも、扉を探すなら今の内だ。


 力いっぱい翼を漕ぎ出だすとすぐに、俺は見知らぬ異国の風情を湛えた街の中にポツンと独り佇む人影を発見した。

 風がそこへ向かって収束していっている。

 他でもない、ヤガミ本人であった。



 ただ…………いつもの彼ではない。

 彼は俺がこれまで共に戦ってきたヤガミ・セイは、そこにはいなかった。


 彼はあたかも俺の過去から蘇ったが如く、真冬の湖面じみた眼差しをじっと俺へと向けていた。

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