第293話 はぐれ魂の一片。俺が彼と彼の境界に飛び込むこと。
俺はヤガミの前に降り立ち、彼を見返した。
気付けばいつの間にか、カラスでもグゥブでもない、ただのミナセ・コウに戻っていた。
ヤガミの魔力を確かに感じる。
ずっと透明で、掴みどころ無く俺の魔力と同化してしまっていたのに、今は明らかに異質な存在として力場にわだかまっている。
彼の魔力は、砂のような灰のような、ざらついた感触にまみれていた。
味というよりまず、痛みに似た違和感がある。
澄んだ水の冷たさが風のように空虚に流れていくのが、今までの魔力の名残と言えた。
俺はヤガミに、何と声をかけるべきか悩んだ。
彼に自分が変化した自覚があるのかもよくわからない。
いいや、それよりも…………。
こんなコイツは、まるで…………。
ヤガミは冷たい笑みを浮かべ、口を開いた。
「そうあからさまに嫌がるなよ。…………俺だって、好きでこんな姿になっているわけじゃない」
彼が俺の方へ一歩近づいてきた時、俺は思わず身を強張らせた。
ヤガミが立ち止まり、無表情で俺を見る。
吐く息が白く儚く立ち上っていた。
「あ…………ご、ごめん」
俺はどうにか言葉を続けた。
「その…………ちょっと力場の雰囲気変わったからさ。…………姿? 姿は、変わってない、ように見える、よ。…………ともかく、早く扉を探して、リズの退屈を吹っ飛ばしてやろう。な?」
「…………」
ヤガミは何も言わない。
ただ黙って俺を見つめている。
灰青色の瞳は、何を責めるでも拒絶するでもなく、ただ静かに湖面を冷やしていた。
「…………」
何だよ。
何か言いたいなら、早く言えよ。
そんな言葉すら口に出せない自分の動揺が、じわじわと力場に伝わっていく。
降りしきるボタ雪は本当の牡丹の花びらみたいに、空を舞っていた。
「コウ。…………今の俺はな、ジューダムの俺の欠片を取り込んでいる。どうしても魔力が足りないから、引きずり出してきた」
「え…………?」
「お前、本当はとっくにそうだってわかってんだろ。…………だから、お前は俺をまともに見ようとしないし、そういう妙な顔をする」
険しい眼差しに、俺は指摘されたそのまんまに視線を泳がせる。
ああ、畜生。勘弁してくれよ…………。
ヤガミがあっちのヤガミ…………ジューダム王の力場から力を汲んでいるのは知っていたけれど、まさかここまでやるとは。
いつかロクでもないことが起きるんじゃないかって、ずっと不安ではあったのだが…………。
コイツ、どうしてこうも自分をぞんざいに扱えるんだ?
空は一層暗く冷え込み、雪はこんこんと降りしきる。
どんどん寒くなっていく。
靴から浸みた冷たい水が、足先の感覚をすっかり奪っていった。
ヤガミが顔を背ける。
鬱屈したその横顔とあかぎれた頬が、否応にも昔の、俺がよく覚えているヤガミを彷彿とさせた。
俺はそれとなくリーザロットの気配を探った。
相変わらず遠い。時が止まったみたいに静かで、迫ってくる気配すら感じられない。
これがジューダム王の力なのか? ほんの欠片でも、こんなことが可能なのか?
俺はヤガミに言った。
「別に…………気にし過ぎだよ。いいから行こう。今のうちに」
「どこに行くんだ? ここでいい」
「ここ?」
「こういうことだ」
ヤガミが空に手をかざすと、彼の魔力が波紋となって瞬く間に力場中を駆けた。
透明な力の波は音も無く伝播し、固まったゴーレムを粉々に崩してしまった。
「っ!?」
俺は目を見張り、一拍呼吸を忘れた。
砕けた岩石は瓦礫へ、瓦礫はたちまち風にさらわれて乾いた砂と化して雪に交じる。
ヤガミはこう話を続けた。
「これでも、まだリズには敵わないだろう。この陰鬱な空。忌々しい雪。いつ彼女に支配されて牙を剥くかわからない。確実に打ち破るには、やっぱりお前の力が要る」
「陰鬱なのは概ねお前の魔力のせいだぞ…………。で? どうすればいい?」
「扉を」
ヤガミは空を睨み、それから俺を睨んだ。
「ここで探せ」
俺は威圧感に不覚にもちょっと怯み、振り払うようにして言葉を返した。
「いいけど…………なんか偉そうだな、いつにも増して」
「そうか」
ヤガミはさして気にかける風でもなく、目を細める。
俺はやはり耐えきれず、彼に言った。
「あのな。命令されて「がってん承知!」って具合にいくもんじゃないんだよ!」
ヤガミはまだ黙って俺を見ている。
不快がる様子さえない。
俺は彼の無表情に、さらに神経を逆なでされた。
「ヤガミ。お前さっきさ、俺がまともに顔見ないだの、変な顔しているだのって言ってたよな? …………言っとくけど、お前も明らかにおかしくなってるぞ。強くならなきゃいけないってのはわかる。でも、俺にそんな態度取ったってどうしようもないだろう? いい加減、変な壁を作るなよ」
相手の表情がわずかに硬直する。
彼はやや語調を強め、言葉を投げた。
「壁か。…………そうだな。確かにお前の言う通りだ。…………俺の側にまでそんなもん作っちゃ、どうしようもない」
「はぁ? 俺がいつ壁なんか作った?」
「気付いてすらいない」
初めて、ヤガミが顔つきを歪める。
彼は続けようとする俺を封じるように、より強い調子で被せてきた。
「ともかく! 言い方が気に入らなかったってんなら訂正する! …………悪いが、扉はここで探してもらえるか? あんまり自分の力場に深入りしたくない。力の制御が難しくなるからな」
「…………な」
一体何だって言うんだよ? 面倒くさいヤツ。
っていうか、今のはもしかして丁寧に頼み直したつもりなのか? 本気か?
問い詰めたい気持ちは多々あったが、俺は溜息を吐いてひとまず堪えた。
いいさ。どうせ共力場を編んでいれば、伝わることだ。
「ったく…………わかったよ」
俺は折れた剣を構えて街の外へ集中するヤガミを見守りつつ、意識を静めた。
力場に満ちる気配を、慎重に手繰り寄せていく――――――――…………。
――――――――…………。
…………本当に、追いづらい力場だ。
大地の底を這うように、細く長い洞窟が延々と続いている。
吹き抜ける風は湿っていて、陰鬱な雫の滴りがそれに乗って、時に微かに届く。
奥に湖が広がっているぞと、すれ違った見知らぬ影が耳元で囁いた。
何者だ?
もしやあれが、ジューダム王の欠片?
何にせよ、影は意識を向ける間もなく、より深い影の溜まり場へと溶けていってしまった。
俺は黒いネズミの大群となって通路を疾駆している。
大群そのものなのか、大群の中の一匹なのか、己でも見分けがつかない。
ただひたすらに水を望む本能だけが俺を突き動かしていた。
湿った水の気配。苦くてしょっぱい、固い土の味。入り混じっている。
俺は自身の獣の匂いをも、生々しく感じ取っていた。
舌に触るざらつきは、もうほとんど砂利を噛んでいるに等しかった。
暗闇は漠然と広がり、洞内を反響しているかの如く、静かに、それでいて喧しく滞っている。
…………走る。
…………走る。
とにかく本能の赴くままに…………走り続ける。
そのうち、一筋の影が俺達を追ってきていると気付いた。
さっきすれ違った影だ。
流れる布切れの姿を模した、黒い幽霊。
俺を捕まえる気ではないようで、ただ尾ひれのように俺の影にかかっている。
重さも抵抗も無い。水面を行く魚の重なる影のよう。
駆けながら、ふと考える。
このヤガミの欠片は――――もしかしたら、自分からこちらのヤガミの下へ流れ込んできたのでは?
魂の欠片。いや、こんなもの欠片とすら呼べまい。
これはアイツの、細切れの、その切れ端だ。
いつかどこかで破り捨てられた思いの、残骸なのでは?
俺はボロになった影の囁きに、今一度耳を澄ました。
衣擦れに似たささやかな音の響きが、複雑に入り組んだ道の行先を俺に示してくれる。
空気がうんと冷え始めてきた。
みるみるうちに、洞窟に霜が張り付いていく。
構わず疾走する俺達の手足が次第にあかぎれて、血痕が点々と俺の足跡を残していった。
影の尾がそれを墨で掃くように塗り潰すも、全ては消えない。
霜が追ってくる。
枝分かれした洞窟の全ての道を閉ざしながら、無慈悲に俺達を追い詰める。
強烈な寒気の奥に、俺は蒼いさざ波を聞いた。
…………急げ。
辿り着け。
例え最後の一匹でも、辿り着ければ勝ちだ。
大群は一匹、また一匹と霜に力尽きながらも、勢いを失わず走り続けた。
切れ切れになった裾をなびかせ、欠片が俺へ嘆きを吹きかける。
聞きようによっては、すすり泣きにも聞こえた。
亡骸の声は非常に弱弱しい。
俺は必死で走る傍ら、それを微かに聞き取った。
「…………吐けないのは、言の葉にする術を知らないから。
…………見えないのは、この目が濁ってしまっているから。
…………堪え難いのは、それでも届けたい相手がいるから。
…………何にも増して、この傷が愛おしいから」
俺達はいつの間にかもう数匹しか残っていなかった。
まばらに走り続ける小さな獣の群れを尾から抜け出した影が覆っている。
俺達は辛うじて影に守られていた。
囁き声に俺はまだ耳を澄ましている。
ヤガミの声じゃない。俺の声でもない。
色も匂いも完全に失った、虚ろな響きだ。
魂の、吐息だった。
「…………願っているのは、信じているから。
…………望んでいるのは、信じていたいから。
…………忘れたくないのは、恐ろしいから。
…………忘れてしまいたいのは、美しいから。
…………いつか永遠に失われてしまうのが、悲しくて耐え難いから」
水の匂いが近い。
暗い湖面が目の前に見えてくる。
俺は一匹、また一匹と、俺のみを残して魂が地に沈んでいくのを感じながら、ひたすらに前進し続けた。
俺は今、何を失っているのだろう? 最後のこの俺まで飲み込まれたらどうなる?
余計な考えは本能の雄叫びによって、あっという間に飲み込まれて失せる。
あとほんの少し!
…………走れ!
…………走れ!
走れ、走れ、走れ!
ついにはヤガミの欠片にまで霜が降り始める。
凍える影は苦しそうに、途切れがちに言葉を吐いた。
「覆う…………のは…………眩し…………から…………。
塞ぐ…………のは…………痛…………から…………。
隠す…………の…………は…………」
いよいよ全身の血が蒼く染まる。
俺は最後の力を振り絞り、凍てつきかけた身体を湖に向かって躍らせた。
影が崩れながら剥がれていく。
俺は消える寸前の欠片に向かって、声を張った。
「――――――――隠してんのは、大事だからだろ!!!
自分だけ格好つけやがって…………ナメてんじゃねぇぞ!!!
俺はな…………初めから…………そんなこと全部知ってたよ!!! 俺だって同じだ!!
同じで、守りたいから…………俺は、お前を捨てない!!! 必ず!!! 全部!!! 引きずり出してやる!!!」
湖に落ちる。
飛沫が水面を騒がしく波立たせ、俺は無数の細かな泡に包まれた。
ネズミの身体が泥団子みたいにボロボロ溶けていく。
俺はすっかり透明になって、水中を漂っていた。
水底を覆って、たくさんの薄灰色の手が伸びている。
不気味な揺らめきに圧倒されかけたが、俺は魂を奮い立たせた。
負けてたまるか。
ここが、ヤガミとジューダム王の境目なのだ。
彼の扉は、ここにある。
俺は素早く意識を巡らせ、そしてすぐに見つけた。
…………黒く小さな、ボロ雑巾のような、細い手を。
「…………行こうぜ」
伸ばした手に、彼の手が触れかかる。
静電気に似た痛みが鋭く走った――――――――…………。
――――――――…………鋭い痛みに弾かれて、俺はヤガミの共力場へと戻ってくる。
降りしきる雪は最早、吹雪と呼ぶべき段階にまで至っていた。
空には分厚い雲がずっしりとのしかかっている。チカっと、遠い空で光が瞬いた。
荒ぶる波音が、すぐ近くで大きく砕ける。
氷柱と瓦礫とにまみれた辺りの光景に、俺はここで激しい攻防が行われていたことを今更悟った。
傍らに立っていたヤガミが、傷だらけの眉間を険しくしてこちらを振り返った。
「…………お前は本当に恥ずかしいヤツだな」
俺は口の端を歪めて頷き、同じ空を見据えた。
「そうさ。安心しただろ? …………それより、とっととお見舞いしてやれよ。痺れる一発をさ!」
ヤガミが微笑み返す。
彼は折れた剣を天へ振りかざし、声を上げた。
「さぁ――――味わえよ、お姫様!!! お望みの激辛だ!!!」
剣が思い切りよく振り下ろされる。
強い雷光が、大地を打った。
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