第291話 白き野を照らす光。俺が輝く大歓声を浴びること。

「あー、スッキリした!」


 クラウスは逆立った毛を落ち着かせ、「ふん」と鼻を鳴らして剣を構えなおした。

 まだ輝きの残る氷の魔法陣の中心で、彼の瞳は氷柱みたいに鋭く尖っていた。


「では、コウ様! やりますよ!」

「いや、いきなり何すんだよ!?」

「良いザマです! 少しは痛い目見ろってんです!」

「はぁ!? 俺が何したってんだ…………」


 背中の毛を逆立てて威嚇の姿勢を取りかけた俺を抱えて、クラウスが素早く飛びのく。

 氷面を滑るが如く、リーザロットの花吹雪がそこへ優雅に巻きかかる。

 静かだが厳しい声が、後を追った。


「クラウス。真剣にやってくださいね」

「真剣ですよ! 俺は、いつも!」


 クラウスが短く詠唱すると、風に煽られた桜色の吹雪がたちまち真っ白い粉雪へと姿を変える。

 彼は俺を脇に抱えたまま素早く間合いを詰め、彼の姫君へと向かって横凪ぎに剣を振り抜いた。


「いい加減なのは、むしろ姫様では!?」


 さっと身を躱したリーザロットの長い髪の先がはらりと切れる。

 廃墟の街を覆う夜空の星が、肩を震わすみたいに揺れた。


「…………そういうことは、ちゃんと当ててから言ってくださいね」


 場違いに優しい微笑み。

 ふわっ、と大気の膨らむ音がした。

 空から零れ落ちた一筋の星が、次の瞬間、夥しい数の光の矢となって地上に降り注いだ。


「プキャーッ!!!」

「コウ様、落ち着いて!」


 クラウスが切っ先を剣舞のように翻し、薄い氷の膜を俺達の頭上に張り巡らせる。

 光の矢は辺りを粉々に破壊し、砂煙で辺りの視界を濁らせた。


「やっ、ヤガミは!?」

「あの人なら平気です!」


 投げやるようにクラウスが言う間にも、星が次々と落ちてくる。

 クラウスが苦々しげに氷の膜を二重、三重と張り重ねていく端から、最早空ごと落ちてくるのではという勢いで矢が降り注いできた。


 どうするんだ?

 これでは防戦一方だ。

 本気を出させるどころの話ではない。


「そんなことわかってますよ、コウ様!」

「プキャ!?」

「何を驚いているんです? 貴方の考えなんて心を読むまでもない! 一から十まで、全部顔に出るんですから!」

「プキィーッ!?」

「いいから、さっさと俺と共力場を編んでください! 早くしないと、ヤガミ・セイが死にますよ!」

「!? さっき大丈夫って…………!」

「状況はすぐに変わるんです!! はやく!!」


 強引だ。

 どうやらまだ怒りは治まっていないらしい。

 俺はおとなしくクラウスの力場に意識を集中し、感情とは裏腹にひんやりとしたその魂の内へと潜り込んでいった。




 ――――――――…………見渡す限りの雪原が見える。


 銀世界という言葉が浮かんで、輝く鋭い陽光にたちまち心を溶かされた。

 キツネの赤い尾が脳裏をかすめて、俺を誘う。

 俺は獣に誘われるままに、力場を吹き抜けていく風に耳を澄ませた。


 …………波の音が聞こえる。

 これは…………リーザロットの力場だな。

 ほの甘い蜜の味と良く馴染む、淡い花の香が鼻腔を刺激する。


 獣がさらに駆けていく。

 足跡すら残らない、軽い跳躍。

 小さな子グゥブのままでは、とてもついていけない。

 風にならなくては。



 ――――――――…………陽光照り付ける白銀の世界を、俺達はひた走る。

 クラウスの戦う様が手に取るようにわかる。

 強まる波音やぶつかる風の冷たさ、雪原に反射する花の色彩の濃淡が、リーザロットの力を華々しく映し出している。


 獣は逃げ続けている。

 だが、決してそれだけではない。

 荒波をあえて呼び込み、凍てつかせ、砕く。

 あわや押し寄せてくる夜空の気配を、強い陽光が押し留めている。

 蒼の海へ差す一条の鋭い光が目に浮かんだ。


 何だ、クラウスも案外やるじゃないか。

 このままでも頑張れるのではと思うが、獣もいつまでも逃げていられるわけではあるまい。

 やはり、彼の扉を探さねば。



 ――――――――…………雪原は果てしなく広がっている。

 青空はキンと音が鳴る程に澄んで、雲一つない。


 日差しを浴びて雪の結晶がきらめいている。

 俺が駆け抜けると、風に乗って雪が舞った。

 リーザロットの花びらがその中にチラチラと混じっている。

 …………いつの間に?


 あっと叫んだ瞬間、桜色に染め上げられた雪の子が急に渦巻いて俺を絡め取った。


「うわっ!」


 風になった身体が崩れて、グゥブに戻った俺が雪原にドスンと沈み込む。


 …………雪?

 うわ、うわ、うわ。

 違う、違う、違う。


 雪原の下には深く冷たい海が広がっていた。

 じゃぶじゃぶと周りの雪が溶かされ、俺は溺れる、暴れる。


「グブーッ! グッ、ブクブクブク…………」


 水中は暗く、凍えるようで、このままでは冷凍生ハム待ったなし。


 俺は息を吐きだし、いったん意識を真っ白に戻した。


 …………大丈夫、まだ大丈夫だ。

 落ち着いて…………そう、イメージすれば…………。



 ――――――――…………凍える海に魚が一匹。


 鰭を動かす感覚は初めてじゃない。

 鱗を滑る水の感触は心地良くすらある。

 俺は勢いのある水流に乗って、水中を飛ぶように泳いだ。


 水面には薄い氷が満遍なく張られている。

 雪原はもう溶かされてしまったのか。

 氷面を通して差し込んでくる日の光が、まるでカーテンのようだった。


 獣が氷の上を駆けている。

 足音は聞こえないし、もちろん足音も残らない。

 限りなく透き通った、一本の矢に似ている。


 光のカーテンをぐんぐん掻い潜って、俺と彼は走り続けた。


 暗い蒼い水の中。

 一際冷たい水流が後ろから迫ってくる。

 気を抜けばたちまち飲み込まれて、深い水底へと引きずり落されてしまうだろう。

 咽喉を垂れる極上の蜜の甘さが、今は空恐ろしい。


 獣は時折氷にひびを入れ、水流を乱す。

 陽光は割れた氷片にぶつかり散らばり、四方に光を放つ。


 俺は逃げ続ける。

 小魚のスピードではいよいよ厳しくなってきた。

 獣の荒い息遣いが聞こえ始める。彼も限界が近いらしい。

 氷の上に小さな足跡がついた時、俺は決心した。


 こうなったら、こっちも強引にやってやる!



「――――クラウス!」



 チカッと、薄氷越しに野生の瞳から火花が弾ける。

 俺は全身に力を込めて、水面へと加速した。

 ようし、やるぞ。

 できる。

 やってやる!



「よく聞け!!!

 ――――「海」に「豚」って書いて、イルカって読むんだ!!!」



 俺は思い切って頭で氷面を叩き割り、水面から飛び出した。

 今の俺は小魚ではない。

 魚とは比べ物にならないパワーがこの身体には宿っている。


 水族館の人気者と化した俺は、冷たい宙へと向かって、高々と身を投げ出していた。


 湧き上がる歓声の如く、砕け散った氷の欠片が陽光と水飛沫を浴びて燦然と輝く。

 見下ろす世界は一面、唸る蒼と果てなく平らかな氷に覆われている。


 扉は、この光だ。

 雪よりも白く、吹雪よりも激しく、浴びせてやればいい!


 氷上の獣が力の限りを振り絞って駆ける。

 強くしなやかな獣の風は洋上の氷と波とを高く高く巻き上げ、無数のきらめく結晶を空に作り出した。

 クラウスの詠唱が、回転しながら落ちていくイルカの下顎骨に響き渡った。



「――――――――目覚めよ、白き子らよ!!!」



 結晶が水晶へと育っていく。

 スレーンで感じた、竜王の眼差しそっくりの緊張が空気を満たした。

 詠唱は彼の魂の奥から噴き出していた。



「――――――――我は、精霊の縁者!!

 ――――――――遥かなる白の浜より血を授かる!!

 ――――――――我は、裁きを欲するにあらず!!

 ――――――――我が女神の、導きをのみ望む!!!」



 着水した俺がさらに、氷片と水飛沫を舞い上がらせる。

 桜色の花びらが無数の氷面に、雫に映り込んでいる。

 俺はそれが一つ残らず凍てつくのを見た。



「――――――――精霊よ、応えよ!!!

 ――――――――散るべき花の色を!! 香を!! 行く先を!!

 ――――――――照らし出せ!!!



 花を宿した全ての水晶が砕け散る。

 陽光を受けて何倍もの輝きを放つ光の粒を見ながら、俺は水中へと落ちた。


 すぐさまドルフィンキックで蒼い水流を打ち破る。

 身を滑る冷たく爽やかな流れが、降り注ぐ光を浴びて清々しく空色に澄んでいく。

 俺はそのまま助走をつけ、今一度、今度はもっともっと高く、水面にジャンプした――――――――…………。




 ――――――――…………俺は再びグゥブの姿で、雄々しく廃墟の都の広場に立った。

 先の魔力場での戦闘を映してか、街一面が霜と氷片に覆われている。

 清らかだが凍える風が強く激しく荒っぽく、街を吹き抜けた。


「やったか!?」


 息を上がらせたクラウスがそう言った途端に、ギョッと目を見張らせる。

 俺もまた彼の視線の先へと目を向け、ブルリと小さな身体を震わせた。


「…………素敵じゃない、クラウス。貴方がこんなに私を傷つけたのは初めてね。コウ君も、もうすっかり容赦の無いこと。

 でも、まだ足りません。…………綺麗なだけじゃ、物足りないわ」


 リーザロットは全身を真っ赤にあかぎれさせて、破れたワンピースを風にひらつかせて立っていた。

 まだ真っ白な太腿を、はためく短い裾が惑わしくくすぐっている。

 美しい蒼玉色の瞳は、明らかに濃くなった隈に縁取られていた。


「さぁ、もっと踊りましょう。…………全てをさらけ出して。もっと貴方達の、生の色を味わわせて」



 俺とクラウスを囲って、不穏にさざめく花吹雪が舞い上がる。

 クラウスが慌てて結界を張ろうとしたが、その時にはすでに、花吹雪は俺の足を掬い取って宙へ放り投げていた。


「プギィーッ!!!」


 悲鳴を上げる俺めがけて、若干くすんだ夜空から星が落ちてくる。

 迫る光の矢の雨の気配に、俺は絶叫した。


「――――コウ様!!!」


 叫ぶクラウスの張りかけの結界を蹴って、人影が飛び込んでくる。

 俺はその人物に抱えられて、乱暴に地面に伏せられた。


 すぐに光の矢が降り注ぐ。

 俺はやってきた人物の下から、矢がもう1ミリの足の踏み場も無い程に広場を砲撃し尽くすのを見ていた。


 攻撃が止み、砂埃がうっすらと晴れていく。

 まだ震えの治まらない俺を、傷だらけの手が強く叩いた。


「ったく、何が「海豚イルカ」だ。…………俺以外の誰にも通じてねぇぞ? アホか」


 見上げた先のヤガミは、すでにクラウス以上に消耗していた。

 辛うじて纏っているシャツはもう全く肌を保護する役目を担っていない。折れた剣の周りに浮遊する瓦礫の欠片からするに、どうやらこれを使って矢を防いだようだった。

 彼は俺に目を向けず、向かい合うリーザロットだけを睨んで言った。


「リズ、今度は俺達が相手だ」


 リーザロットは妖艶に、そして無邪気に微笑み、長く優雅な指先をヤガミに向けた。

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