第282話 打ち捨てられた魔都と呪われた「主」。俺が救いの御手を求められること。

 「裁きの主」。

 それはサンラインの神。

 三寵姫達の唯一の主人にして、この国の真の王。


 俺は今まさに、その化身と対峙していた。


「そうじゃ。ワシは常にオヌシらの傍におる。オヌシらが思っておるよりも、さらにずっと近しいところにのう」


 浮浪者じみた姿の老人は、煤と木の葉にまみれた汚らしい髭をさすりさすり、俺の心を無遠慮に読んだ。


「やはり賢いのう、オヌシは。この姿は確かに、化身じゃ。オヌシはどうにも器用にワシを理解しよる。…………オースタン流のやり方か。はたまた、オヌシ一流の処世術か」


 怯え戸惑う俺の間近に、老人は立っている。

 水晶のように硬く鋭くきらめく眼差しは恐ろしく深く俺の内側へとえぐり込んでくる。

 何も言えないでいると、彼は黒く乾いた皮膚を皺くちゃに歪め、何とも形容し難い人間くさい笑みを浮かべた。


「ほれ、言うてみい。恐れることはない。そもそもワシには、「裁き」なぞくれてやる力は無いのじゃ」

「え…………?」

「見よ」


 老人が骨ばった指を俺の後ろへ伸ばす。

 視線を送ると、そこには一面、廃墟のサン・ツイードが広がっていた。

 振り返ると、リーザロットがいない。不気味な客の肌を通して見えていた少女の景色は、もうどこにも見えなかった。


「えっ!? な、何で急に…………っ? どうして…………!?」


 目を剥いてうろたえる俺に、老人は静かに首を振った。


「考えるな考えるな。いかに考えようが、わからんもんはわからんよ。いずれオヌシの魂はとうに全部知っておるのじゃから、それでよかろう」


「よくない!」

 と、叫んだかもしれないし、結局叫べなかったかもしれない。

 俺は自分がまた子グゥブの姿と化していることに、すぐさま気付いた。


「プッ? プキャーッ!?」

「ほっほっほ」


 焦って自分の尾を追って走り回る俺を見て(己の姿が確かめたいだけなんだ)、老人が楽しそうに笑って手をたたく。

 俺は怒り、鼻息を荒くした。


「フンーッ!!! フンーッ!!!」


 馬鹿にしやがって!

 せめて大人のブタ…………じゃない、グゥブにしやがれってんだ!

 老人は心得たもので、すぐに俺の口を利けるようにしてくれた。


「何で子グゥブなんだ!?」

「考えない、考えない」

「本気で気にしてるわけじゃねぇよ! 人をおちょくるのもいい加減に…………」


 そこまで言って、話し止める。

 水晶の瞳が、キラリと輝いたからだった。


「…………何ですか?」


 背中を小さく丸めると、老人が俺の前にしゃがみ込んで目線を合わせてきた。

 彼は絡まった髭をねじったり解いたりしながら、荒廃した街をしみじみ眺め渡し、今度はこう尋ねてきた。


「オヌシ、ここをどこだと思う」

「…………サン・ツイードじゃないんですか? っていうか、さっき考えるなって…………」

「気にしない気にしない。…………ふむ、サン・ツイード。…………ふむ」


 老人の目の先に、黒く焦げた小さな教会がある。だいぶ焼け落ちてはいるが、屋根や祭壇の感じにまだよく見知った「裁きの主」教の面影が残っていた。

 老人は深く息を吐くでもなく、さらりとこぼした。


「…………左様。ここは在りし日、サン・ツイードと呼ばれておった街じゃ。…………もっとも、滅びし今は名もなき魔都に過ぎぬがのう」

「在りし日…………? ってことは、ここは、未来のサン・ツイードってこと?」


 カチャカチャと蹄を踏み鳴らすと、老人はおもむろに立ち上がって道へと歩み出していった。

 足を引きずり引きずり歩く老人に、トコトコとやや小股のスピードでついていく。

 老人はとりわけ寂しそうに、というわけでもなく話していった。


「未来、過去…………とりとめもない線引きじゃが。オヌシから見れば、あるいは「未来」ということにもなろうか」

「何でこんな風になっちゃったんですか? まさか、今回のジューダムとの戦争のせいで…………?」


 尋ねる俺の方を向かず、彼は答えた。


「いや、それには限らぬ。遠く因果の糸を手繰ってゆけば、それも一端とはなっておるのかもしれぬがのう。

 あまねく世界において、滅びぬ都なぞ無い。永遠とわとは、魂のみぞ知る知。現世にこれと指し示せる絶対など、あるはずもなかろう」

「…………この街はあくまでイメージ…………ってことだったりしませんか? 寂れちゃった街を、人々が心の中で思い描いた幻の姿みたいな…………」

「出たのう、賢ぶりめが」

「そうやってすぐグゥブを馬鹿にする!」

「ほっほ。残念ながら、そうではないのじゃよ。心優しきグゥブよ。

 オヌシの言うような形の都も、無限の時空のいずこかにはある。じゃが悲しいかな、この魔都は紛れもない一つの現世じゃ。

 今、オヌシ達が争うように、多くの者がこの地で争った。それはもう凄絶に、争い続けたものじゃ。人の魔術と欲望は留まるところを知らぬ故のう。

 そうしていつしかサンラインはサンラインと呼ばれず、都の名も、幾度となく差し変えられていった。…………「サン・ツイード」、この名は、余程長く残ったものじゃったがのう…………。

 時空の扉もまた、一つ所には留まらぬ。住まう者の様相は、扉の移ろいに従いどんどん変わっていきおった。「異邦人」が指す者の正体も、ズルズルと変わりゆく」


 老人の足取りは本当に、カタツムリみたいにゆっくりだが、子グゥブの短い手足にはゆったり丁度良い。

 老人は俺の方をちらとも見ず、前だけを見つめていた。

 道の奥にはうらぶれた路地が延々と控えている。


「「時空の逆流アブノーマル・フロー」と、オヌシらは呼んでおったかのう。「過去」と「未来」が、扉を介して繋がってしまうことがある。そもそも魔海において繋がっておるのじゃから、ワシから見れば少しも大したことでは無いのじゃが、オヌシらはそうでないと思い込んでおる。

 まったく、賢い生き物はどうしてやたらと愚かな境界の縄を引きたがる? 己の首に絡んでも、息が詰まるその瞬間まで気付かぬ。

 …………オヌシらは、そうした扉の開くところでは決まって大きな戦を起こした。丁度オヌシらの戦が、そうであったように」


 俺はそこで老人を見上げ、口を挟んだ。


「そうで「あった」。…………ってことは、戦の結末を知っているの?」

「無数にある」


 顔を(鼻の頭を)顰める俺に、老人は言葉を継いだ。


「なんじゃ、不満か?」

「…………いや。でも、神様と言ったら、もっと全知全能なものかと思っていたから」

「一筋の眼差しよ。オヌシらの魂が知らず知らず知っておることを、ワシはよくよく知っておる。それだけよ」

「でも、奇跡とか裁きとか起こすじゃないですか。俺達と違って」

「ワシは起こさん」


 老人は突っぱねると、つらつら喋り続けた。


「…………ある大戦の折、現世全土に巨大な裂け目が走った。時空の逆流は止め処なく、世はたちまち混沌に飲まれた」

「混沌…………」

「異なる時空、その過去、未来、全てが一つに繋がった。オヌシらの考えたありとあらゆる可能性が世に実現し、不可能もまた一つ残らず裏返った。祈りと呪いは完全に溶け合い、魂はまったき魔海の映しとなった」


 ぶるっと背筋に寒気が走る。

 人気のない街を彷徨う老人は枯れ木に似ていた。

 風に吹かれて細かな煤が舞っている。

 街の至る所に潜む虫人間が身体を震わせた。


「縋るべき縄を失くした世界を、オヌシらは混沌と呼んだ。

 あるべき姿なぞ元よりないというのに、それが失われたと嘆き続けた。

 あろうことか…………呪い続けた」


 赤い月が今にも滴り落ちそうだ。

 虫人間の目が暗がりの中、薄ぼんやりと悲しく光っている。

 老人の話は途切れない。


「そしてオヌシらは不遜にも要求した。恵み…………いや、対価を。オヌシらは神の証明を、祭壇に火を掲げ、叫んだ」


 水晶の瞳に無機質な光が差す。

 血の気が引いて、何も言えなかった。

 もつれそうになる足を、そっとそっと動かして歩く。


 魔物の気配だろうか。

 血の味が舌に滲んでくる。

 血と…………水草と、しょっぱい、苦い、冷たい…………重たい砂の感触。


 老人の声は、あくまで抑えられていた。


「雨を喰らう者の気高さはそこに無かった。白き雨の都の民は、最早何も信じてはいなかったのじゃ。

 主は死んでいた。とうの昔に締め殺されていた。

 荘厳な神殿には何もいなかった。…………我が愛しい姫達すらも、火にくべられた」


 そんな、とこぼす俺に、老人は被せて語った。

 重くもなく軽くもない、ただ風になびく、さざめき混じりの調子で。


「なぜ助けなかったのか? …………それはな、届かなかったからじゃ。最後の姫達はついぞ、ワシを見なかった」

「謁見できなかったってこと?」

「できなかった…………しなかった…………境をつけるべきではない。どちらかなぞ、ワシにもわからぬ」

「わからないの? 神様なのに? っていうか、それでも助けてあげるぐらいのこと、本当にできなかったの? ずっと、貴方を支えてきた魂なのに!」

「…………」


 老人は首を振り、語り続けた。


「…………魔海は干上がっておった。魂に還る場所はなくなっておった。我が雨も裁きも、丈夫な縄の網に阻まれ、地に落ちることは滅多になくなっておった。

 強い呪いが、オヌシらの「主」を「オヌシら自身」と置き換えておったのじゃ。あまりにも強過ぎる呪いじゃった。オヌシらの手には到底、負えはしなかった。

 それでなくとも、呪術を心得る者は魔術を知る者より遥かに先に絶えておったのじゃが…………」


 魔物の気配が濃厚になってくる。

 子グゥブの身体がそれとは思えぬ程重く、鉛の塊みたいに感じられてくる。

 老人の足をずる音が、いやに強調されて聞こえてきた。


「…………都は滅んだ。その「主」と共に。最早魔物とすらも呼べぬ、このワシを残して」


 老人の掠れた声が、しょんぼりと短い尾を垂れている俺の背に、まばらな雨粒のように降りかかった。


「なぜ滅んだ? 都の民が「異邦人」であった故か?」


 素足の擦れる音が耳に痛い。

 頭と足が重くて、もう一歩も歩きたくない。

 老人の声はそれなのに、しとしとと降り続けた。


「…………違うのう。断じて違うのう。

 表す名と物語は数多あれど、魔海を知らぬ者なぞない。それは魂の知である故に」


 鼻をすする。

 魔物の気配が咽喉にぴりっと染みる。

 言葉が止んでくれない。


「賢いオヌシならわかるかのう。

 オヌシらは、賢過ぎたのじゃ。愚かであることが許せなかった。どうしても」


 老人の歩む路地の景色が段々と、騒々しく汚れた飲み屋街の幻に包まれていった。

 目の前が霞む。

 虫人間が四方からぞろぞろと集まってきているような、嫌な足音がした。


「オヌシらはその瞳に映るもの全てを我がものにせんと欲し、映せぬものを憎んだ。恐れたというべきかのう。

 オヌシらはやがて、己の手で魂の目を抉り取った。これでもう眼差せぬものは無いと、安堵するために。

「主」の目を、もう見ずにすむように」


 ついに耐えきれなくなってぺたんと尻餅をつくと、老人が立ち止まった。

 だが振り返ることはしない。

 幻の街の喧騒が、ざわざわと俺の意識を侵食し始める。


「グ、ブゥ…………」


 唸る俺の身体の上を、たくさんの虫人間達が這い上ってきている。

 悲鳴を上げたかったが、声も手も出なかった。金縛りの感覚が、俺をきつく圧迫していた。

 老人がゆっくりと振り返り、硬く輝く水晶の瞳をこちらへ下ろした。


「いかに盲いてもなお、救いを求めるのじゃのう。オヌシらは」


 助けて。

 助けてよ、主。


「安心せい。そやつらには何の力も無い。オヌシを今、呼んでおるのは、我が幼き蒼の姫よ」


 リーザロット?

 リーザロットが俺を呼んでる?


「まだワシとお話し中じゃというのにのう。まったく、甘えん坊の姫じゃ」


 魔物の気配がする。

 海の泥をさらって血で固めたような、ひどく生臭い魔力の味がする。

 すり寄ってくる虫共が煩わしい。


 助けてくれ。

 俺、今度はどうなっちゃうんだよ?


「よかろう、姫の下へ行ってやるがよい。ワシはしばし、オヌシ達の内で時を待つとしよう。

 姫を助けてきてあげなさい。ワシの可愛い姫が、何者にも汚されぬように。無力なワシの代わりに、あの娘を導いてやるのじゃ」


 魔力が膨れ上がっていく。

 泣けるもんなら泣きたい。

 哀れな子グゥブは身を丸めた。


 畜生…………は俺だけども。

 畜生め。何だってこんな目に。


 自分で直接会いに行けばいいじゃないか!

 どんなに無力な小汚い老人だって、リーザロットは見捨てやしない!


「…………甘いのう」


 老人の声が、荒々しい喧騒に揉まれながら微かに届いた。


「オヌシはまだまだあの娘を知らぬ。

 魂を受け入れるとは、それを己とするということ。己の心すら拒絶する者には、断じて成せぬ。

 …………さらばだ。

 オヌシらに恵みの雨が降り注ぐよう――――――――…………」



 馬鹿にしてんじゃねぇぞ! と、金縛りを振り破って怒鳴れただろうか?




 ――――――――…………錆だらけの鏡に縋りついた少女は、温かな焦げ茶色の眼差しをやっと見出した。

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