第283話 魔海からの使者。彼女が生きる路地裏の店のこと。

 彼の眼差しは優しかった。

 いつも見るからに困り果てていて、とても頼りにはなりそうにない。

 それでも、どんな時でもきっと傍にいてくれると安心できる瞳。

 同じ強さで…………弱さとは呼びたくなかった…………歩んでくれるものの存在を、少女はかけがえなく思った。


 銀のトレイを下ろして、一息吐く。


 …………ああ、良かった。もう大丈夫だ。


 彼のおかげで、心が透明さを取り戻した。

 これで体調も少しずつ良くなっていくことだろう。


 今朝方に押し掛けてきた危険な客達は、信じられないことだが、あの後すぐ帰った。

 力場が盛り、いよいよ奥の部屋へと向かおうというところで、彼らは突如慌ただしく異国の言葉で騒ぎ始めた。

 そうして雑に身なりを人の姿へ戻すと、投げつけるようにして支払いを済ませ、風のように素早く店から飛び出していったのだった。


 何か、彼らにとって不穏な気配を感じ取ったらしい。

 少女とアカシにその正体はわからなかったが、取り乱しようからみて、明らかにただ事ではなかった。

 いつだったか、それなりの地位がある魔術師がこの店に来た時、教会騎士団から審問を受けて連れ去られていったことがあったが、その時よりも一層、深刻な雰囲気さえした。


 …………それにしても、命拾いをしたとつくづく思う。

 とても恐ろしい体験をした。

 少女は自分の魔術が決して正当なものでも、上等なものでもないのは重々承知していたが、それでもこれ程までに自分を上回って「異端」な魔術には出会ったことがなかった。


 そもそも、翻弄されるというのが初めての経験だった。

 魔海のずいぶんと深い領域まで引きずり込まれ、取り乱してしまった。

 飾られた感情、抑制された感情、染み出した感情、ありのまま吹き晒された感情…………。心の色形は様々あると知ってはいたが、あんなにも直接的で、混沌とした暗い欲情を浴びせられるとは思いもよらなかった。


 性交とよく似ていたと、姉役の娘達は苦笑気味に少女に語った。

 客の相手をして倒れた姉役の中には、まだ目の覚めぬ者も多かったが、大事に至った者は幸い一人もいなかった。


 姉役の娘達は魔術師ではない。彼女達は生来の魔力への感受性の高さを女将に買われて、ここで「花姫亭」流のもてなしの作法を学んできた者達であった。

 幼い頃に買われるなり拾われるなりしてやってきた彼女達は、ある意味では魔術学院の生徒よりも余程多様な経験を積んでいる。

 その彼女達をもってしても、今回の客との対応は骨が折れたようであった。


 少女もまた、物心つかぬ頃に海辺に打ち上がっていたところを拾われた。

 彼女は女将や姉役達の手伝いをしながら、花姫亭流の魔術まがいを学び、今日に至っている。

 霊体上の成熟はともかく、まだ肉体の上では客を取れないというので妹役を続けているが、今回はその彼女の手さえも必要だったというのは、死屍累々のありさまを見れば十分納得できた。


「調子はどう、リーザロット?」


 部屋の片づけをしている少女に、すっかり青ざめやつれたアカシが冷淡に尋ねてきた。

 少女は半ば魂の抜け落ちたような心地で、


「大丈夫です」


 とだけ答えた。

 アカシは少女の姿を一瞥すると、


「これで凝りましたか?」


 と皮肉めいた笑みを浮かべ、女将の部屋へと歩いていこうとした。

 少女が追いかけようとするのを、アカシは霜のように冷ややかな目で止めた。


「結構です。それとも、私の報告に不安が? この私が、この惨状を誰かのせいにするとでも?」

「いえ、そんな…………」

「いいですか、リーザロット。貴女には少しも、子グゥブの尻尾の先の毛程も、期待していませんでした。そこをよく理解して。

 それより、貴女はお部屋のお片付けを続けなさい。手が空いたら厨房へ。あの異邦人の坊やは、目の届かないところではどうもサボりがちですから」

「…………わかりました。…………あの、でも、アカシ姉様のご体調は…………」

「私を気遣うの? 百年早いわ」


 アカシが眉間を険しくし、すげなく歩み去る。

 少女は溜息を吐き、魔術的にも物理的にも大いに荒らされた部屋の清掃を続けた。


 液状となった「下着」の始末はとりわけ手のかかる仕事なのだが、中にはわざわざこれを集めて売る者もあるという。

 何にどう使うのか実はよくわかっていないのだが、もの知らずと思われそうで、未だに尋ねることができないでいる。 



 部屋をひとまず片付け終えた少女は、厨房の少年と、ようやく起きてきた妹役の娘達と一緒に、食器を片付けていた。


 妹役の娘達は、彼女から見てもあどけなく、元気が良くて可愛らしい。

 自分も傍目には同じく見えるのだとすれば、アカシが頑なに部屋に出したがらないのも頷ける。

 もう少し大人っぽく、姉役らしく見えるようになりたいような、このままもうしばらくこの子達と賑やかに過ごしていたいような。

 少女にはまだ、自分の心の色がわかりづらかった。


 異邦人の少年をからかって遊んでいた娘達のひとりが、ふと少女に話しかけてきた。


「リズ! 姉様達と一緒にお部屋へ出たんですって?」


 聞かれて、少女は一応頷いた。

 しかし、語る言葉がうまく出てこない。言葉にするには、今少し客達について考える必要があった。


「出ましたが…………配膳だけ手伝ってと言われました」

「誰に? 女将に? アカシ姉に?」

「アカシ姉様に」

「やーっぱりねぇー! アカシ姉は厳しすぎるよねぇー! いっつもさー!」


 話はアカシのことへと流れていく。

 次々と飛び出てくる文句と軽口の中に、拭えない明るい羨望が混ざっているのを、少女は何となく誇らしく聞いている。

 憧れの花が咲いている。それは彼女達にとって、とても大事なことだった。


 客について話す娘はいなかった。そもそも陰口は女将に厳しく戒められているし、見ていないものに興味が湧かないのは当然である。

 けれど、少女だけは別だった。

 心を落ち着かせた後も、不可解な客のことは彼女の頭に残り続けていた。


 彼らは何者なのか?

 何のためにサンラインへやってきたのか?

 あの刺青は何を呼ぶためのものなのか?

 どうして急に立ち去ったのだろう?

 何より…………。


 娘達の話題が、少女に戻ってきた。


「それで、リズ。貴女はこれをもらったのよね? すごい…………本物みたいね!」


 少女が見せた客からの土産を手にして、娘達が騒ぎ立てる。

 それは虹色に輝く、美しい正方形の、竜の逆鱗だった。


「コク…………なんだっけ?」

「コクガリュウ。そういう竜が、どこかの世界にいるそうです」


 少女の言葉に、「ふぅん」と気の無い返事が返る。

 異世界も竜も、彼女達にはあまりにも遠い話。「本物みたい」は、「すごく綺麗」と同じ意味でしかない。

 少女自身、冷めていた。


「本物ではないでしょう。それでも非常に珍しい、良い鉱石で作られています。これなら間違いなく、高値がつきます」

「高値って、どのくらい?」

「ケーキが買えるかも。…………全員分の!」


 娘達が声を上げて喜ぶのと一緒に、少女も笑顔になる。

 花姫亭の娘達は一蓮托生だ。土産は、余程個人的に贈られたものでなければ、分かち合うのが決まりだった。


 少女は己の手に戻ってきた逆鱗をしげしげと眺めた。

 黒蛾竜の女王竜の逆鱗には、時空を超える力があるという。だがこれが模造品であることは、手に取ればすぐにわかる。

 纏う魔力の気配、気脈との繋がりが、生物に由来したものでないことを冷たく物語っていた。


「…………通貨なのかもしれません。お客様の国の」


 少女の言葉に、娘達はまたしても「ふぅん」と間延びした声を上げた。

 鼻白むという程ではないが、少女がどこからこういう知識や発想を得てくるのか、娘達には時々やや怖く思えた。


 妹役の中でも特に大人びて、一段と見目麗しい少女には皆、一目置いている。だが彼女の人一倍鋭い魔術の感覚は、自然と人を恐れさせてもいた。


「貴女、魔海から上がってきたの?」


 というのは、少し前に客の共力場に飲まれて死んだ、シンルゥという少女の言葉であるが、問われた少女本人も、あるいはそうかもしれないと感じることが少なくなかった。


 いや…………実際の所は、自分も普通の人間の捨て子に過ぎないだろう。それでも、どこか妙に広く、果てしなく己の魔力場が続いているような幻想を時々抱く。


 そんな時には何もかもが近しく、同時に遥か遠く、そしてこの上なく愛おしく思えた。

 魂ある者も無き者も、生者も死者も、魔物も人も、未だ知らぬ時空の彼方のそれらと溶けあって、美しく甘く冷たく澄み、瑞々しく心が潤っていく。

 「主」の眼差しと声とを最も身近に感じる。その瞬間が少女は好きで、日々はそれを支えに送られていた。


 少女は磨き終わった食器に、己の顔を映した。

 蒼い自分の瞳。その奥に潜む、焦げ茶色の眼差し。さらにその深くから覗いている、水晶のような白い輝き。

 触れたい…………触れてもらいたい。

 ふと湧いた欲求に、少女は自分でも驚いた。


 「主」の水晶の眼差しは昔からよく知っているけれど、そんなことは今まで考えたこともなかった。

 焦げ茶色の瞳が、自分の殻を知らず知らず溶かしてしまっているのか。


 少女は小さく首を振り、サッとトレイから目を逸らして続く食器磨きに取り掛かった。

 今は止そう。

 あんまりのめり込むと、本当に帰ってこられなくなりそうだ。


 再び、逆鱗のことを考える。

 少女にとっての問題は、この逆鱗の正体ではない。どうしてこのようなものを、彼らが渡してきたかだ。


 単純に綺麗で、子供が喜びそうだから?

 通貨だと考えたのは、それがある国ならば、誰でも常に持っているものだと思ったからである。

 しかし、竜の逆鱗がそんなにもありふれている世界など本当にあるのか?

 選んで渡してきたのだとしたら、どんな意味を込めてなのか?

 できることならば二度と会いたくはない客だが、訳を尋ねられなかったのは心残りだった。


 しばらくして、アカシと女将のニッカが連れ立って戻ってきた。

 二人ともひどく険しい表情をしている。ただ、それはいつものことでもあるので、娘達は特に気に留めなかった。


 少女はアカシの体調をこっそり窺おうとしたが、あっさり見破られて、ぴしゃりと言葉を浴びせられた。


「リズ、いい加減になさい。貴女に心配される「花姫」ではありません」

「ごめんなさい」


 かしこまって雑巾を握り締めている少女に、アカシは言葉を続けた。


「…………貴女こそ、夕には出られるのでしょうね? 吐き気は治まりましたか? 履物は汚していませんね?」

「はい。ですが、ドレスが…………」

「わかっています。例え友人の形見であっても、あんなみすぼらしい真似は二度としてはいけません。今朝でわかったでしょう? 染み付いたものというのは、とても危険なの。

 代わりに私の昔の服をあげます」

「えっ?」


 目を丸くする少女に、アカシは淡々と繰り返した。


「貴女に服を差し上げます。もう二度は言いません。聞こえた通りに」


 少女はパタパタと胸を躍らせて礼を言う。妹役達の視線があるので大袈裟に喜ぶことはできなかったが、素直に嬉しい。

 娘達の会話が騒がしくなるのを先んじて制し、女将が話した。


「さぁ、アンタたち! 掃除が終わったならさっさと夕の支度を始めな! ぶっ倒れてる姉さん連中も、夜には戻るよ。

 さぁさぁ、ちんたらしている暇は無いよ! 何たって姉さん達がいないんだからねえ! 2倍! いつもの2倍、動きな! そしてそのついでに考えるんだ! なるべく多く考えられるように、素早く! テキパキ動く! さぁ、さぁさぁ! 行った行った!」


 「はぁい」と返事がちらほら上がって、娘達が受け持ちの場へと続々と散らばっていく。

 少女だけが、引き留められた。


「お待ち、リーザロット」


 振り返ると、女将が押し殺した声で囁いた。


「お前は、私達と一緒に裏へおいで。さっきの客がやらかしたんだ」

「何があったのです?」

「朝、質屋が死んでたろう。どうもあの客共の仲間がやったらしいと、ついさっき自警団から連絡が来た。これから話をしにいく。お前もついておいで」


 殺人は、この辺りでは別に珍しいことではない。

 何をそんなに慌てることがあるのだろう?

 疑問をあえて口にせず、少女は頷いて従った。

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