第281話 賢い俺のバカ野郎。俺が見つめる、裁きの始まりのこと。
老人は水晶の瞳でリーザロットをじっと見つめている。
くるくると忙しなく翻っては次々と料理を乗せて回る銀のトレイに映る彼女は、やはりまだどこか幼く、何か純粋な…………固い蕾のような青さをその横顔に宿していた。
老人は囁くように語った。
「ワシらは何も知らぬ、何もわかっておらぬというわけではない。…………誰しも、己の未来をそこはかとなく予感し、恐れておる。
いかにあっけない結末だとしても、魂はずっと前からそれを知っておったのじゃ」
老人が胡坐をかいて俺を仰ぐ。どうやら隣に座れと言いたいらしい。
ならって座ると、彼は淡々と言葉を続けた。
「死は根源の光。滅びゆく全ては魔海へと溶けていく。命脈は細くとも細くとも、その枝葉」
静寂ばかりが留まる空間に響くのは、働くリーザロットのドレスの衣擦れ。
パタパタと響くたくさんの足音。
遠い談笑。
潮の香りが微かにした。
俺は老人に言った。
「誰だか知りませんが、俺はまだ死ぬような歳じゃありませんよ。いくら辛気臭い話をしたって、馬鹿の耳には届きません。まさに子ブタ…………いや、子グゥブの耳に念仏ってやつです」
少女を見守る老人の眼差しは、少し羊に似ていた。草を見る時も人を見る時も、あるいは狼を見る時でさえ、同じ形をしているのではないかと不安になる、あの無機質な目。
老人はそのまま話を継いだ。
というより、独り言を連ねるみたいに話を重ねていった。
「そう、届かぬよ。それでなくては、生は紡げぬもの。世界は脆く儚く、光の如く。命は愚か故にこそ、しぶとく、強く、雨を喰らう。
よいか、真の知恵は最奥にこそ横たわっておるのじゃ。…………オヌシの魂も、我が姫の魂も、ようく知っておるはずじゃ。根源の繋がりが、全て覚えておると。深き眼差しが、遥かな空を貫くと」
花姫亭の宴は、次第に色合いを変えてきていた。
まるでサモワールみたいだ。
あそこよりずっとずっと小規模だけど、その分すごく濃く、荒っぽい感情が、飾られずに激しく波打っている。
トレイの映す景色が歪んできた。
甘く気怠い煙を放つ紫色の濁流が、俺の意識にぼんやりと流れ込んでくる。
リーザロットがトレイを胸に抱え、俯く。何に耐えかねたのか、彼女は急に小走りに部屋を出て行った。
老人の声が薄れゆく意識の後を追った。
「哀れな我が姫、蒼の姫…………。まだ何も知らぬ。いや、全て知っておると、わからぬ。わかろうとせぬ。
…………のう、しがない子グゥブや」
俺は老人を振り向きかけた。
…………いや、ダメだ。
考えちゃいけない。
俺も彼も、どこにもいないんだ。
ただ、この心があるだけ。
魂の舞台に、劇場は必要無い。
あってはならない。
老人の声がまだらに染まった紫色の世界にこだました。
「オヌシはまだまだ、賢ぶっておるのう…………」
「何を小癪な!」と腹が立ったのは、ほんの一瞬のこと
俺は再びリーザロットの世界へと飲み込まれていった――――――――…………。
――――――――…………少女は店の裏へ走り出て、ほとんど無い胃の中のものを全て戻した。
吐き気が治まらない。
頭が割れそうに痛い。
配膳係の少年が持ってきてくれた白湯を受け取り、壁際にうずくまる。
今は水面を覗き込みたくない。弱った己の姿を彼に晒したくはなかった。
「リーザロット? 大丈夫か?」
少年からの呼びかけに、少女は精一杯の声を張って答えた。
「…………ええ、平気です」
悟られてはならない。例え相手が魔力を持たぬ異邦人であったとしても、この界隈で弱みを見せるのは文字通り、致命的なのだ。
魔力の色形を不用意に露わにするのは、裸になるのと変わらない。
飾られない裸は、無防備な皮膚でしかない。
彼女は一息に白湯を飲み干し、深く息を吐いた。
無作法な客に浸食された魔力場を整え、今一度、己の身体を確かめる。
大丈夫だ。何も問題は無い。少なくとも目に見える部分においては影響は出ていないようだった。
シンルゥのドレスに染み付いた魔力が、浸食に呼応して妙な生臭い匂いを放っていた。脱ぎ捨てるわけにもいかないのでどうにか耐えるしかないが、これは予想外の事態だった。
「リーザロット、本当に平気か? 女将を呼ぼうか?」
「やめて! それだけは!」
少年へ返す声は自然と強くなる。少年は困りきった様子で、こっそりともう一杯白湯を持ってきた。
「なんか適当に言い訳して休んじまえよ。協力するぜ」
「ありがとう。でも、戻らないわけには」
「そんなにヤベェのか?」
こくりと、頷きだけで応じる。
実際、ひどい客だ。
おびただしい悪意が魔力に混ざっている。単純な肉欲だけが目的であったなら、どれだけ助かったことか。
彼らは人が堕ちるのを心底愉しんでいる。
嬲るべき相手をゆっくりと見定め、それからさらに悲劇を巻き起こす気だろう。
「人が堕ちる…………?」
「私達と魔物と、貴方は何が違うと思いますか?」
少女の問いに、少年はたっぷりと皮の重なった首を傾げる。
少女は皮肉っぽく擦れた微笑を浮かべ、自ら答えた。
「同じ魂よ。魔物も貴方と私と同じ、同じ魂を持った生き物なんです。でも、彼らは「堕ちている」。魔は、その感情というか、衝動というか、何か強い念にすっかり取り憑かれてしまっているの」
「…………わからん。頭に血が上っている酔っ払いみたいなものってことか?」
「私達だって、ある意味ではそうなのですけど」
うんざりと顔を顰める少年に、少女は今度は柔らかく笑って言い継いだ。
「私達だって、とにかく「生きたい」でしょう? それなの。それが入れ替わってしまうの。だから、とても危険。そこが染められてしまえば、私達はとても簡単に私達でなくなってしまいます」
人はいとも簡単に捻じ曲がる。
その手段が愛であろうと、暴力であろうと。
ふと、白湯の内から眼差しを感じる。
切実な焦げ茶色の瞳のさらに奥に、水晶の輝きが確かに閃いた。
…………「主」?
何か、言いたいことがあるのだろうか…………?
しばし耳を澄ませたが、何も聞こえない。
湿った冷たい風が路地を抜ける。
そういえば、今朝方に少年から聞いた質屋の死体を見かけないが、誰かが片付けたのか。
いずれにせよ、今は構っていられない。
少女はふぅと胸をなだめ、白湯を飲んで立ち上がった。
少年に椀を返し、ドレスの埃を払う。
「忙しいのにありがとう。貴方って本当に優しい」
「惚れんなよ。俺、人間の女には興味ねぇんだ」
「残念」
少女がくすくすと肩を揺らすのを見て、少年は大きく鼻息を漏らす。
元気になったならと、彼は太い足を揺らして厨房へとさっさと戻っていった。
少女が部屋に戻ると、すでに何人かの姉役の娘が酔い潰されていた。
呼吸の様子からみて、重症ではあるが取り返しがつかない程ではないと知り、ひとまず胸を撫で下ろす。
帰ってきた少女を、まだ客の相手をしていたアカシがすかさず睨み付けた。
「来なさい」。目がそう言っている。
自分の手には負えないと彼女が認めるのは、大変に珍しいことだ。
少女は急いでアカシと彼女が受け持つ主賓の傍へと寄った。
「妹のリーザロットです」
アカシがまるで本当の姉であるかのような優しい声音で少女を客に紹介する。
少女は教わった通りに優雅に礼をし、面を上げた。
「リーザロットです。よろしくお願いいたします」
客の顔を間近で見て、改めて息を飲む。
無論おくびにも出さない。だが瞳を覗き込まれるのはさすがに恐ろしく、微かに睫毛を伏せた。
客は、最早人のなりを繕ってはいなかった。
今まで見たどんな異邦人とも似ていない。
いや、かつて貴族の男がくれた魔物図鑑に載っていた、どんな魔物とさえも似つかない。
今にも弾けそうな、シャボン玉のようにぶよぶよとした肉の上に、小さな頭がポツンと果物のように実っている。
円らな目が2つ、よく見れば無数の小さな目がその内に潜んで蠢いていた。
纏う空気は海の中のように湿って冷たく、生臭い匂いを色濃く孕んでいる。
青紫色のゆらゆらと落ち着かぬ表皮には、異国の刺青がほとんど隙間無く、びっしりと刻まれていた。
…………何と繋がっているというの?
少女は見知らぬ刺青が導く魔術に密かに身震いしつつ、貴族の令嬢にも劣らぬ優雅さで桜色の小さな唇を微笑ませた――――――――…………。
――――――――…………俺は迷惑客のぬめりてかった肌の内から、リーザロットを見つめていた。
「…………何だ、この気持ち悪いヤツは?」
何だ誰だと問わぬのが礼と知りつつも、俺は隣の老人についこぼしてしまった。
知りたいから尋ねているというよりも、あまりの不快さに何か口にしないではいられなかったのだ。
老人は鳥の巣状態の髭を退屈そうに撫で、同じ調子で話した。
俺の心が読めているようで、直接答えを投げはしなかった。
「…………人と魔物、オヌシはどう思う?」
「さっきガマ君とリーザロットが話していたこと?」
老人がちらりと、伸び放題の髪の下から水晶の眼差しを寄越す。
俺はその目を探り、答えた。
「正直、明確な違いって無いんだと思います。どちらも一種の動物でしょう。…………なんなら、魔力を使う動物を魔物って呼ぶんだとしたら、この世界じゃ人間だって、魔物なんじゃないですか」
老人はモジャモジャの髭から木の葉を取り、ふっとその辺に吹き飛ばした。
木の葉がふわりと揺れて、どこまでも遠く運ばれていく。
「なるほど、オヌシらしい答えよのう。…………なれば、もう一つ問おうか」
俺が眉を顰めるのを、彼はやはり荒れ放題の眉でもって真似て見せる。
老人はさらりと尋ねた。
「「裁きの主」と魔物、違いは何じゃろう?」
馬鹿になれなかった自分自身の髄が、瞬時に凍てつく。
問いの意味を知ってしまった今となっては、偽ることなどできやしない。
訪れた裁きの時に身を強張らせる俺に、老人は笑って――――――――髭がくしゃりと歪んだ―――――――続けた。
「何、遠慮はいらん。…………他ならぬ本人の前なのじゃから」
ああ、だから怖いんだよ! と怒鳴れるぐらい、度胸があったなら。
うるせぇ馬鹿野郎! と張り倒せるぐらい、頭を空っぽにできたなら。
俺は言葉に窮して、賢い自分を呪った。
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