第261話 命の網と泉。俺が怒り狂った空を駆けること。

 ヤガミの気配が共力場に戻ってきた。

 氷柱から雫が滴り落ちるように、冷たく意識に波紋を刻む。

 かと思いきや、それはたちまち鉄砲水となって押し寄せてきて、俺の竜の身体をジィンと激しく痺れ上がらせた。

 打たれた衝撃と静寂が耳鳴りとなって残る。


 背上のヤガミは確かに生きていた。

 万力じみた力で俺の手綱を絞り、シスイを睨みつけている。

 大きな魔力を…………肉体である彼のうちに潜んでいたとは到底信じ難い魔力を、ビリビリと感じた。

 落ちる直前の雷のようだ


 魔力とは裏腹に、抑制の効いた、淡々とした声が空に響いた。


「…………話が違うんじゃないですか? シスイの頭領」


 シスイは3本目の矢を番えながら、同じく体温の感じられない冷静な調子で答えた。


「いや、違わない。俺はあくまで里を守るために戦っている。…………今のコウさんは何にもまして危険な存在だ」

「殺す気か?」

「…………竜の急所は熟知している」


 俺へ矢尻を向け、シスイは続けた。


「俺の矢を弾くとはな。竜を落とすための、特別製だったのだが」

「死ぬ思いで鍛えた甲斐があったよ」


 話す間に、白竜はゆっくりと霧を纏って、再び上空へと昇りつつあった。彼の咆哮によって嘘のように空が晴れ渡っていく。俺が呼び寄せた暗黒は瞬く間に青の彼方へと追いやられ、大地に涼やかな風がなびきだした。


 白竜は大きく身体を伸ばして、アオイ山めがけて真っ直ぐに泳いでいく。真っ赤な眼差しが見つめるものの正体は一体何なのか…………。


 シスイが矢を放った。

 俺が咄嗟に避けようとするのを、ヤガミの凄まじい力が引き止める。


「――――ッ!?」


 強張る間に、ヤガミは再び見事に矢を弾き飛ばしていた。

 刃の腹でわずかに軌道を逸らせたらしい。


 シスイ、ヤガミ、両者とも眉一つ動かさない。

 強く赤い風が谷間を渦巻きながら吹き抜けていく。森の不穏なさざめきに、獣の遠吠えが重なった。

 吐かれたヤガミの言葉はやはり冷ややかだった。


「師匠の剣の方が速い」


 シスイはどこか愉快そうに口の端を歪め、己の竜に合図をかけた。


「なら、これはどうだ?」


 フウガが羽ばたき、舞い上がる。

 半分身を捻らせた彼女の挑戦的な瞳が、雲間から差す光の中でギラリと輝いた。

 間髪入れず放たれた次なる矢に、俺は身を浮かせた。

 つもりだった。


「――――俺に従え、コウ」


 ヤガミの声が稲妻となって共力場に落ちる。

 見えている景色がひび割れて軋む。俺がボロ切れにした気脈の網の端が、焼け焦げ痙攣し、悲鳴を上げて縮み上がった。

 視界に痛みと砂嵐が駆け巡る。


 身体が太く短い鎖で引かれたように、乱暴に動いた。

 首の横スレスレを矢がすり抜けていく。

 ヤガミは巧みに手綱を操り、俺をシスイとは真反対の方角へと向かわせた。野生の緋王竜の群生地がこの先にある。


「距離を取る!」


 乱暴に言い渡される。


 逆鱗がまたふつふつと煮え滾ってきた。あっという間に血が沸騰する。ギラギラと気脈が光り始め、獣の絶叫が鼓膜を震わせる。色とりどりの風が狂った踊り子となって降り乱れている。


 俺は大声で吠えた。

 溶岩で焼かれたみたいに咽喉が爛れていた。


「――――テメェ!!! 勝手に何しやがる!? 何様のつもりだ!?」


 ヤガミは暴れんとする俺を凄まじい腕力と魔力で制し、ごく静かに返してきた。


「黙れ。欲しいなら取り返せばいい」

「んだと…………!?」


 言われた通り力づくで制御を奪い、山肌ギリギリへ寄せていく。

 歯を食いしばり、共力場を乱した。

 扉は己の内にも外にも存在する。

 干渉は容易い。


 ――――…………挽肉を捏ね回すみたいに、臓腑をかき混ぜる。

 不快な感覚は当然、自分自身にも生々しく伝わってくる。吐き気を催しながら、俺は共力場を荒らし続けた。

 早くヤガミが力場から離脱してくれればいい。あるいは背から転がり落ちて、本当にスレーンの地に内臓をぶちまけてくれたって構わない。


 血の雨が陰惨に共力場へ降り注ぐ。

 金属の刺々しい味が、俺の苛立ちをさらに募らせた。


 ヤガミは抵抗していた。山肌ですりおろされる寸前のところで、辛うじて堪えている。

 歯ぎしりなぞしやがって。

 俺は背骨を鋸で引き、腸に爪を突き立てた。


 呻き声が漏れる。

 だが油断はならない。

 ヤガミの魔力は独特だ。夜半の霧みたいに音も無く忍び寄ってきて、いつの間にか思考を、意思を、魂を、完全に侵してしまう。

 味という味はしない。あくまで肉体に宿った「微弱な」魔力に過ぎないからか。


 ヤガミは咳き込み、荒っぽく袖で口元を拭った。

 灰青色の水面にぼんやりと空が映り込んでいる。彼の閑寂とした力場は、扉の引き起こす混乱を少しずつ鎮めていた。ひたひたと絶えず滴る雨が、大きな水溜りをみるみる作っていく。それはやがて果てなく広がる暗い水面となる。

 俺が掻き乱す力場の濁りは水底の砂と沈み、血は泥と混じって洗い流されていく。


 雨雫が水面を躍らせる。

 俺は水底からそれを見つめている。

 丸い波紋の綾なす秩序が、混乱を忘れさせる…………――――。


「――――…………リズだな?」


 問いかけに、ヤガミの力場は一切乱れなかった。

 彼は何事もなかったかの如く息を落ち着かせ、すげなく命じた。


「黙って飛べ」

「ふっ…………ざけんな!! この卑怯者がッ!! そんなクソくだらねぇ借り物の力で俺を縛る気かッ!!

 とっとと失せろ、このクズが!! お前は今の俺には敵わない…………例え誰の、何の力があろうとも…………絶対に…………絶対に、絶対にだッ!!!」


 俺は震え、さらに叫した。


「離しやがれ!!! クソが!!! クソが!!! クソが!!! ただの人間のくせにッッッ!!!」

「チッ、くだらねぇ」


 血痰と共に吐き捨てられたヤガミの言葉は、乾ききっていた。

 彼は俺の首を万力で締めつけ、呟いた。


「甘ったれてんじゃねぇぞ…………!」


 俺は眼前の気脈をありったけ引き絞り、咆哮を上げた。

 大風と地震が辺りの景色を一変させる。岩が砕け、森が枯れ、気脈が唸り逆巻く。

 複雑に入り組んだ地形を、俺達は死に物狂いで抜けていく。

 緋王竜達の巣食う崖が眼前に迫ってきていた。


 今、獣達は最高潮にいきり立っていた。

 気脈をズタボロの細切れにされ、数多の泉を容赦無く踏みにじられ、命の危機に瀕した狂暴な野生の竜達が、俺達をどのように歓迎するか。


 ヤガミはまたも共力場の支配へと手を伸ばしつつあった。

 止まない雨音に反吐が出る。

 リーザロットの助力かと踏んだが、彼女の気配は一向に感じ取れなかった。まさか本当にコイツだけの力だってのか?


 灰青色の眼差しが長い鎖となって、ギリギリと俺を締め付けている。

 不安に似た焦りが、咽喉元までせり上がってきた。


「…………コウ、聞け」


 灰色の水面をスレーンの風が長く撫で、青い湿り気を孕む。

 気脈は風に導かれ、細い糸となってまた大地を織りなしていく。

 ヤガミは言葉を俺の頭の髄へ抉り込んできた。


「俺に負けたくねぇなら、俺の期待に応えてみせろ。…………お前の力を証明しろ」


 全身の血がドッと沸き立つ。

 壊れるかと思った。

 無数のヤスデが身体中に放たれたみたいに、わさわさと神経が覆われ、激しい動悸に意識も肉体も強奪される。


 砂嵐が脳裏に吹き荒ぶ。

 俺の咆哮はそのまま、スレーンの大地にも同じものを巻き起こした。

 地響き、地割れ。

 鈍色の風。

 獣の、竜の、森の、泉の、絶叫。


 俺は夢中で声を迸らせた。



「――――テメェ!!! 何様のつもりだっつってんだよ!!!!!」



 どこかの気脈が弾け飛ぶ。

 俺の痛みと痺れを映し出すように、どこからともなく吹き寄せてきた巨大な暗雲が空を蝕み、火の粉をばらまき始めた。


 崖沿いの洞穴に巣食う緋王竜達が一層喧しく騒ぎ出し、鼓膜を痛めつける。

 飛び立ち、がむしゃらに向かってくる。

 次々と。


「うっせぇ!!! 寄ってくんじゃねぇ!!! お前らなぞ知るか!!! お前らの魂の色なんざ、少ッッッしも知りたくねぇ!!!!」


 俺は目の前に広がる気脈を手あたり次第に掻きむしり、唸りを上げた。

 火の粉が狂暴に舞い、誰彼構わずに鱗を焼く。


 火の粉を浴びた気脈が、大地が、轟々と燃え盛る。

 緋王竜達は宙でもんどりうち、白目を剥いて火達磨になった。

 耳を聾する金切り声。


 泣くんじゃねぇ…………喚くんじゃねぇ…………クソが!!!


 俺はヤガミを心底憎んでいた。


「テメェはいつも俺を見下してやがるんだ!!!」


 一度決壊したら、とめどなかった。


「どうせ何にもできねぇと思ってんだろ!? 他のヤツらと同じように!! 何でも言うことを聞く間抜け野郎だと思ってんだ!!

 取るに足らねぇ…………つまんねぇ…………つまんねぇって、テメェはいつだってそんなツラして驕っていやがる!!

 俺に刺された時から、テメェは何ッッッにも変わっちゃいねぇんだ!!

 クソガキだ!! ただの…………!! 思い上がった、何もできない…………ッ!!

 何度だって、何度だって、刺されりゃいいんだ!!!!!」


 火を引きながら、一匹の緋王竜が立ち向かってくる。

 喉笛を噛み千切ろうとしたところを、ヤガミの手が寸でで引き留める。

 俺はヤガミの支配を力づくで振り切り、向う見ずにも再び突っ込んできたその緋王竜の腹を、爪で大きく引き裂いた。


 溢れる臓腑。

 血飛沫。

 俺は擦れ違いざまにもう一体、小柄な竜を噛み裂いた。


 血の味。

 ぬるりと。


 黒い泉が肺を満たして揺れる。

 鋭い痛みに俺は悲鳴を上げた。


「不愉快なんだよ!!! テメェの全てが!!! そのツラ、その目、その自信…………何もかもが…………ッ!!!

 俺はテメェの奴隷じゃねぇ!!! テメェは王様なんかじゃねぇ!!!」


 ヤガミの目を狙って、飛来してきた緋王竜が鋭く爪を突き立てる。

 紙一重で、剣で爪先をいなした。

 次いで襲撃してきた大型の竜――――間違いなく、藍佳竜であった――――が露わになったヤガミの背を切り裂く。

 一体いつから群れに混じっていたのだろう。山一つ隔てた巣にいるはずの野生の藍佳竜達が、気付けば大挙してこちらへ押し寄せてきていた。


 ヤガミの身体から伝ってくる血が重くじんわりと匂い立つ。

 俺の逆鱗が煽られ、また砂嵐と泉が湧く。


 俺は身体を捻りながら周囲から気脈を引きずり出し、そのまま旋風となって目障りな竜共を蹴散らした。

 限界まで捩じった翼にギリギリ風がついてくる。

 やがて耐え切れず剥がれる。

 真っ逆さまに下へ。剥がれ落ちる。

 誰も追いつけない。

 爪に牙に未だ快く残る感触。

 恍惚としてしまう。


 ヤガミを地面に叩き付けるべく羽を広げ身を返しかけた時、甲高い女の声が耳を引っ掻いた。



「――――――――コウ様!!!!!」



 フレイアだ。

 俺は姿勢を直し、森の上空スレスレを飛ぶ。


 フレイアのややハスキィな、痛ましく滲む叫び声は、今の俺には文字通り耳障りだった。


「コウ様! 一体どうなさったのです!? 今、ヤガミ様を…………!」


 彼女は俺と並走しながら、煩わしく喚き続ける。

 俺は苛立っていた。

 不協和音めいた不快なさざ波が頭に寄せてくる。奇妙な逆鱗の高ぶりが、不規則に気脈を霞ませた。


 俺がヤガミを殺そうとした?

 …………だからどうした?

 そもそもお前に何がわかる?


 フレイアはいきなりピタリと口を噤むと、しばし尋常でない面持ちで俺を見つめ、別人みたいな呟いた。


「…………邪の芽か」


 言葉が切れるや否や、目にも留まらぬ速度でレイピアが引き抜かれる。と同時に刃上を滑り伸びた2匹の火蛇が、降り注ぐ火の粉を焼き尽くして眩く白熱する。


 俺目掛けて逆袈裟に振り抜かれた刃を、ヤガミがかろうじて打ち止めた。

 ヤガミは背中の傷からたっぷりと血を溢れさせ、息を上がらせた。


「し…………師匠っ、…………待って、ください…………っ!」


 フレイアは容赦無くそのまま間合いを詰め、彼をきつく睨み据えた。


「お退きください、ヤガミ様。退かなければ、貴方ごと斬ります」

「ちが…………う…………っ」

「こうなっては決闘どころではありません! 一刻も早くコウ様を鎮めなくては…………! まだ完全には乗っ取られていないはずです! 早く!! 早くしなければ!!!」

「…………っ、違う…………師匠!」


 ヤガミの声が上擦った。

 聞いたことのない声だった。


「師匠!! コイツは邪の芽じゃない!! コウだ!! コウが戦っているんだ!!!」


 紅玉色の瞳にサッと動揺が走る。


 その時、凄まじい爆風が大地を駆け抜けた。

 俺とフレイアの緋王竜が煽られ、逆方向に跳ね上げられる。


「…………っ、白竜か!」


 ヤガミの視線がアオイ山の麓でとぐろを巻く白竜へと伸びる。

 逆鱗が凍てつきひりつき、全身が痺れた。

 舞っていた火の粉がことごとく塵となり、雲間から光の柱が高圧的に幾筋も漏れ出てくる。空が輝きながら苛烈な青を取り戻す。

 威圧的に晴れ渡った空の下、爆発するように各地から泉が湧き出した。次いで気脈が蔦となって繁茂し始める。


 一瞬にして、時の止まったような恐ろしい空白が俺とヤガミの共力場を塗り潰した。


 雨もない。

 怒りもない。

 何も見えない…………!



「コウ様!!! ヤガミ様!!!」



 フレイアの声が時を取り戻す。

 俺は即座に周囲の気脈の蔦を引き摺り寄せた。


 ――――――――…………竜共の命の綱。驚く程に根深く大地に割り入っている。

 触ると奴ら一匹一匹の心音が手に取るようにわかる。

 黒い泉の流れが俺にも雪崩れ込み、奴らの興奮を俺にも響かせる。


 共鳴している。

 俺も竜。

 混沌の風が吹き荒れる。


 ヤガミの力場から解放されたおかげで、ようやく本来の研ぎ澄まされた感覚が戻ってきた。

 気脈を捩じり上げ、うざったい竜共をまとめて薙ぎ払う。

 悲鳴とそのこだまが黒い泉を砂っぽくザラつかせる。


 獣共の遠吠えが空を震わす。

 森がさんざめく。

 彼らは神に救いを求めない。

 祈りなぞない。

 ないが、ヤツらは人より余程、それの近くにいる。


 白竜が応えた。

 再び凄まじい衝撃波が襲いくる。

 わずかに残っていた火の粉が完全に消滅し、空はいよいよ燦然と輝く。


 風が針となる。

 翼が裂かれた。

 急落。


「――――――――コウ様ァ!!!!!」


 フレイアの絶叫が山を渡る。


 地面間近で、俺は目一杯翼を広げた。フゥと一息吹きかければ、気脈はチカチカと息を吹き返す。

 破れた翼を、蘇った風が柔らかく運んだ。


 雨粒がポタリと、俺の頬を打つ。

 灰青色の霧が脳裏にうっすら滲む。

 逆鱗に怒りが灯った、その直後。


 鋭い風切り音が耳元を滑った。


 仰ぐと、シスイが矢を構えていた。

 いつの間に?

 次なる矢が放たれる。


 鮮やかな炎の花が眼前に咲いた。

 シスイの矢が跡形も無く燃え尽きていく。

 花より出でた火蛇は、すぐさま俺の首を取り巻いた。


「私が…………!! コウ様は、私が!!!」


 フレイアが剣を伸ばし、荒々しく紅玉色の瞳を猛らせている。

 陽光を背負うシスイの眼差しは暗い。


 ヤガミの鎖が、俺の逆鱗を太く貫いた。


「師匠…………シスイの頭領…………!」


 逆鱗から深々と食い込み、胸がギリギリと押し潰される。

 力場にくすんだ水がみるみる満ちていく。

 全身が痛い。

 不協和音が神経を殴りつける。

 ヤガミが手綱を強く強く鬼の如く握り締め、声を振り絞った。


「上等だ!!! 二人まとめて来い!!!」


 首の周りの火蛇がわずかに輪を崩す。

 ヤガミは彼に…………火蛇に、一切ためらわず命じた。


「お前達もついてこい!!! ミナセ・コウがどういうヤツか、教えてやる!!!」


 フレイアが何か叫ぶ。

 しかし火蛇はすでに、ヤガミの剣へと身を投じていた。

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