第262話 影の溜まる場所。ヤガミの告白。俺が試練を掻い潜ること。

 シスイの矢が風を切る。


「燃やせ!」


 火蛇はヤガミの命に応じ、それを真っ向から焼き落した。

 怒り狂ったフレイアが猛追してくる。

 シスイはフワリと高度を上げると、カモメのように柔らかに身を傾けて距離を取った。すぐに姿が小さくなる。今度は何を企んでいる?


 再び、白竜の咆哮が大地を駆け巡った。

 獣たちが一斉に奮起し、遠吠えを返す。

 アオイ山の麓にとぐろを巻く忌々しい大蛇は、自らの周囲にダイヤモンドに似た宝石を浮かばせていた。


 陽光がダイヤをギラリときらめかせる。

 瞬間、俺達の上空で巨大な白い花火が炸裂した。

 雨となって降り注ぐ光に、俺は絶叫した。

 マグネシウムじみた閃光が脳と目をズタズタに焼く。エメラルド色の俺の鱗はみるみる爛れて、見る影もないヘドロへと変わっていった。


 矢の予感が通り過ぎる。

 一拍遅れて、本当に矢が俺とヤガミの間を掠めてすり抜けていった。


 わざとか?

 何の意味がある?

 ともかくも、俺は正気をわずか取り戻した。


「火蛇! 結界だ!」


 ヤガミの合図を待たずして、火蛇が輪になって俺の周りを高速回転し始める。

 橙色の美しいリングは、続いて放たれた矢も花火もまとめて業火の内に葬った。


 火蛇の一匹が、ヤガミの剣の刃を取り巻いて赤く炎をくゆらせる。つぶらな瞳が時々、見慣れぬ主をチラリと盗み見ている。火蛇を操るのは容易なことではない。これは火蛇が、あくまで己の意志でやっているのだろう。


 ヤガミと俺はフレイアとシスイの両方から追われながら、白竜の下へと突き進んでいった。


 ヤガミは何も言わない。ただ時折、後ろや上空を振り返って警戒を続けている。

 コイツの異様なほどの魔術の上達には、本当に何の仕掛けもないのだろうか?

 そんなことを解き明かしたところでどうにもならないのはわかっているのだが…………納得がいかない。


 …………違う。

 俺は。


 逆鱗がジリジリと疼いた。

 砂嵐がまた意識に薄っすらと掛かり始める。

 感じる痛みこそ軽度だが、言い知れぬ不安が胸の内に掻きたてられた。


 少しずつ心臓にこびりついて募っていく砂の山。

 崩されるのが怖い。

 今にも誰かに蹴り飛ばされて粉々になってしまうと、胸が張り裂けそうだった。


 嘲笑われたくない。

 所詮こんなもんだったとバレたくない。

 もし何も無いと知られたら、俺には何が残る?


 手綱と共力場を通してヤガミの存在をひしひしと感じる。

 彼の力場は鏡の如く凪いでいる。

 睨み付けることも、縛り付けることも何故かしてこない。

 灰青色の湖に波は立たない。


 怯えている自分を隠せていないのは、ちゃんとわかっていた。

 共力場を編むというのは、そういうことなのだ。

 釣り合わない心はそのまま醜く混じり合い、力場全体を弱らせる。

 そういう足手まといの相方を殺すことは簡単だ。さっきまで争っていたみたいに、コイツをコントロールしてやると、強い心で力場を支配すればいいだけだ。

 今の俺相手なら造作もない。

 …………はずなのに。


 ヤガミが何かに目を留め、そちらへ身を寄せる。

 彼と俺は岩壁の隙間にバックリと開いた洞窟の中へと滑り込んでいった。

 竜の目にはよくわかった。気脈が絶えず一方向へ流れている。この洞窟は山向こうへと続いているだろう。

 そう言えばジンもそんなことを話していた気がする。


 アオイ山へ向かうには、確かに近道になりそうだ。

 だが、非常に複雑な流れだ。魔物の気配も濃い。今の俺に無事に辿れるだろうか…………?


 ヤガミが火蛇に言いつけ、明かりを灯らせる。

 松明のように燃える剣と橙色に光る輪が、暗い内部をひっそりと照らした。

 地獄にまで至るのではないかと思える深い亀裂が、あちこちに走っている。槍の先に似た鍾乳洞が上からも下からも生えているのが奇妙だった。

 影の中をザワザワと何かが蠢いている。


 ヤガミは恐れることなく、ホバリングもロクにできない狭い洞内を飛んでいった。

 決して素早いペースではないが、速度の安定した確実な飛行。らしくない緊張が爛れた鱗に染みた。


 …………俺はどうしてしまったのだろう。

 今までが幻だったみたいに、ひどく気が滅入っていた。

 まだ飛んでいるのが不思議でしょうがない。力尽きた紙飛行機みたいに、今にもポトリと落ちてしまいそう。


 ヤガミが許してくれないから、仕方なく飛んでいる。

 とはいえ、何か強制されているわけではない。彼は単に、凄まじく集中している。俺はそれに引き摺られている。


 藍佳竜に切り裂かれた背中の傷は深いはずだが(実際、血が失われていく冷え冷えとした感覚は絶えず伝わってきていた)、いつまで放っておく気なのだろう。

 俺より先にお前が落ちるぞ。


 悪意満々に研ぎ澄まされた尖った岩がさらに洞内を過酷に狭める。

 岩の端を避けきれず、翼が短く裂かれた。

 思わず強張った爪の先を、魔物か虫か、何かぬめった生物が嘲るようにくすぐる。


 洞内の気脈の流れは、時に耳を聾する程に荒ぶり、時に微か滴るように細々と、途切れることなく続いていた。

 感じられるからといって、辿り切れる保証はない。

 道はどんどん複雑さを増していく。自分が昇っているのか降りているのかもわからなくなる。


 火蛇の明かりが息づくみたいに揺れている。

 フレイアの分身とも言うべき彼らは今、何を感じているのかな。

 全然違う何かが見えているのかな。


「…………同じさ」


 ふいに響いたヤガミの声は、何でか少しぶっきらぼうで、少年じみていた。

 彼は声を潜めて続けた。


「全然違う生き物だが、同じだ。同じものを見て、同じ世界を生きている」


 切り立った岩壁が幾層にも連なって屹立していた。

 翼をほとんど垂直にして抜け、ある場所では限界まで身を捻り、どうにかやり過ごした。十分に羽ばたけるスペースは滅多にない。しかし、速度を落とせば闇の底へ墜落してしまう。


 かろうじて息継ぎする時間が続く。

 チラリと見えた岩の合間を、大きく平べったい何かが這って消えた。


「…………俺にはわからなかった。…………ずっと」


 わずかばかり落ち着いた頃に、ヤガミが再び語り出す。

 俺は飛行をすっかり預けられたことを知った。

 丁寧に翼を、尾を、手足を繰り、闇の中を滑っていく。

 ヤガミはたまに頭を屈め、器用に俺に合わせていた。


「どいつもこいつも自分だけの世界に閉じ籠って生きていると思っていた。世界はそういうものなんだと、あまりに話が通じないものだから、殴りつける以外に「他人」に触れる術なんざあり得ないと思っていた。

 …………そう信じたがっていた。不可解で不愉快で、少しもうまくいかない俺の世界と同じ場所で誰もが生きているとは、到底認められなかった。

 弱くても卑怯でもヘラヘラいつも笑って済ませられる。誰にも、本当にそんなことができるわけがない。俺はそういう自分が許せなかった。許せるヤツなんて…………ましてやそれを他者に望むヤツらなんて…………同じ世界の生き物であっていいはずがなかった」


 俺は集中していた。

 まるでさっきまでのヤガミの緊張をそっくり引き継いだみたいに、フルに神経を使って道を辿った。


 ヤガミの話はきちんと聞こえている。

 聞こえている…………というか、感じ取れている。


 ヤガミはやはり少しばかり乱暴で、話しにくそうだった。


「ただ、そんな中でお前だけは「他人」じゃなかった。どんなに違って見えたとしても、お前だけは同じ世界を生きていると、俺は訳も無く信じきっていた。…………きっと、それだけの時間を一緒に過ごしてきたんだろうな。今ほど破天荒じゃないが、あの頃もたくさん旅をしていた。短くも長い旅。お前が勇者で…………俺が魔王だったか? この歳になってもっとくだらない羽目に陥るとは、夢にも思わなかったけどな。

 …………わかっているよ。本当にお前が一緒にいたのは、霊体の俺だろ。だが、俺からすれば変わらない。俺はよく覚えている。俺はお前といた。お前といると、本当に色んなことを思い出す。些末な違いは多々あれど、ジューダムの王と俺は同じ存在の一面だと…………息苦しいぐらいに、鏡写しだと、感じる」


 火蛇が赤く燃えている。

 段々と飛び方が掴めてくる。一寸先の闇を、何かが俺に教えてくれるようだった。

 無論そんなことはなく、俺が注意深く気脈を見ているに過ぎない。

 闇の中に生きる者達が、何の感情も込めずに俺達を見守っていた。

 彼らの織りなすささやかな黒のレースを、俺はそっと掻い潜り、暗闇を縫い進む。


 ヤガミはしばらく黙っていて、それからまた話し始めた。


「…………だが、俺は…………徐々に、そういうお前が怖くなった。「同じ」はずの眼差しが、いつしか俺を追い詰めていった。

 「他人」なら、ぶっ飛ばして終わりだった。二度と近寄らせないよう、二度と俺の世界に踏み込む気がなくなるようにして、忘れる。それでよかった。どれだけ拳が痛もうとも、そんなことは生きることのオマケでしかなかった。

 けど、お前からだけは逃れようがなかった。暴れても無駄だと、自分でよくわかっていた。

 …………お前に憐れまれるのが嫌だったのか、それは実は今もよくわからない。確かにそれもひどく気に入らなかったが、それは全く本質じゃなかったとも言い切れる。お前は真実俺を憐れんだかもしれないが、それだけで終わらせはしなかったはずだ。

 お前は…………俺と「同じ」世界で、何か別のものを見続けていた。…………熱心に。たとえ理解不能でも、目を逸らさずに。

 その真っ当さが、苦痛だった。そうできない自分と、だからと言ってどこへも行き場のない自分が、憎かった。…………お前が憎いのだと、感情は時に履き違えもした。愚かしい己に、殺意すら湧いた」


 狭い格子戸のような岩窟を淡々とくぐる。複雑怪奇な岩穴の連続は、やがて地下に大きく穿たれた天然の水道へと繋がった。

 黒く透明な水が滔々と眼下を流れている。涼しい風を微かに感じる。飛沫を浴びながら、流れに沿って闇のさらに奥深くへと下っていく。

 行き止まりではないとわかっていても、底知れない深淵に身震いがした。


 天井付近を蝙蝠に似た何かが飛び交っているが、正体は一向に知れなかった。たまに正面をよぎっても、なぜか影しか映らない。

 ヤガミは俺が先を見やすいようにと、身を伏せて剣を掲げてくれていた。


「…………結局のところ、お前は「他人」だった」


 彼の口調は穏やかだった。


「腹の傷が思い知らせてくれた。俺達は同じ世界で同じものを見ていた。だが、見え方まで同じではなかった。

 当たり前のことだな。ようやくわかったんだ。やっと…………何もかも、なくしてから。

 皆、それぞれ違ったんだ。見える世界も、生きる世界も、信じるものも、信じたいものも…………。全部、魂が映すものの現れだった。誰も彼も等しく生きている。そして各々の世界を織り上げている。

 自他の境界なんて元から曖昧なものだった。皆、同じだった。そして違っていた」


 俺は背を逸らせ、剣山の如く伸びた鍾乳洞の群れを避け、慎重に上昇に転じた。

 なだらかで歪な上り坂を、曲がりくねって進んでいく。

 小人を模った影が岩肌にチラチラと映っている。ヤガミが初めてその方へ目を向けようとしたのに気付き、俺は止めた。

 彼らは影の住人。ここは影だけの世界。

 俺達もまた、郷の習いに従って沈黙するべきなのだ。


 ヤガミが小さく肩を竦める。

 彼は一息吐き、言葉を継いだ。


「お前が言っていたんだか、師匠が言っていたんだか覚えていないけど、本当にこの世界は魔術に満ちているな。何はなくとも、あるだけでありったけ魔法だ。

 …………扉の力は、お前には似合いだと俺は思うよ。…………お前は何だってその目に映せる。良い根性してる。

 どんなひっでぇ型破りでも、お前はお前の世界を思いきり編めばいい。

 臆することなんて何もない。世界の主はお前だ。

 …………挑んでいけよ、勇者」


 難所を越えると、風の勢いが俄かに強まった。逆鱗に爽やかな力が吹き込まれる。健全な魔力の温かな充実が、身体に心地良く響き渡った。

 岩の隙間から光が一条、強く差している。


「もうすぐか」


 ヤガミが手綱を握り締め、共力場に灰青色の波紋を広げる。

 白い日差しへ向かっていく中、俺は一言、黙って彼に伝えた。

 ヤガミは微笑し、何も言わない。


 …………ああ、毒は闇に洗われた。



 地上へ飛び出ると、すぐ目の前に峻険なアオイ山がそびえていた。

 麓に座す白竜は俺達を認めると、おもむろにとぐろを解いて山頂へと昇っていく。


 俺はヤガミに合図し、思いきり翼を羽ばたかせた。


「行くぜ!」

「ああ!」


 これで、決着だ――――――――…………!

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