第260話 神のみぞ知る世界。俺が扉の力の本気を見せてやること。

 白竜の咆哮が轟いた。

 それは単なる獣の叫びではなかった。

 大蛇は空そのものを、壮絶に震わせた。


 獣から樹々、大地、水底の石の一欠片に至るまで、この地に息づく全てが、帝王の叫びに呼応し、湧き躍る。


 俺の上下の牙は空を噛み、虚しく音を立てた。

 血眼になって上空を振り仰ぐと、白竜はすでに悠然とその身を捻らせ、谷底へなだれこんで渦巻く風の流れに、自ら飲み込まれていった。


 猛然と滑っていく白竜を追走する。

 全速力で追うも、距離は一向に縮まらない。

 雲を切り、たなびかせて走るその姿はまさに「竜」。まさしく「神」なのだと、強く身に染みた。


 咆哮の残滓が未だに大気を震わしている。

 逆鱗が熱い。

 血が沸々と煮え滾っている。

 大地から漲ってくる力が、俺の翼をさらに荒々しく、雄々しく、はためかせた。



「グォォオオオォォォオォ――――――――――――ッッッ!!!!!」



 俺の叫びに応じ、この地の獣達が次々と吠え声を返す。

 狼か、熊か、鹿か、鷲か。いずれにも似ており、いずれとも異なっている。未だ見ぬ獣の遠吠えは遥かな空を渡った。



「オ――――――――オォ――――オオォォォ――――――――――――!!!!!」

「キィ――――――――イィ――――――――ィ――――――――!!!!!」

「アァ――――――――オォ――――――――ォ――――――――ゥ!!!!!」



 スレーンの空は祭りと化していた。


 きらめく気脈の網が地形を鮮やかに浮かび上がらせる。

 風はことごとく色づいていた。

 空が、大地が、獣が、森が、踊っている。

 黒く透明な泉がどこかで滾々と湧いていた。

 この地を太古から潤している、深い深い深いところから湧く泉。

 永久に枯れることなき、魂の大源泉。


 切り立った崖の合間を、俺はナイフのように翼を立てて高速ですり抜けた。

 急な機動にヤガミの短い呻き声が聞こえたが、たちまち風に吸い込まれていった。


 手綱にテンションを感じないのは、どうやら彼が何とか俺の機動についてきているかららしいが、少し振り向いてみると、氷柱の如く研ぎ澄まされた灰青色の瞳と目が合った。

 表情は無い。

 だが、それだけに得も言われぬ凄みがある。乱れた栗色の髪に眼差しが一瞬、隠れる。

 俺は彼を意識の外へやり、白竜を追った。


 白竜が逃げる。

 いや、誘っている。

 狩るか、狩られるかだけの透き通った関係。


 白竜の纏う虹色の霧が俄かに輝きを増し、凝集し始めた。



 ――――くるか!



 予感が悦楽じみて身体を駆ける。

 俺は咄嗟に翼をプロペラのように捩じらせた。

 身体がねじの表面をなぞるみたいに、激しく回転しだす。


 あやまたず、幾筋もの虹色の光の矢が俺へ放たれた。流れ星に似ている。

 風が俺の翼を乱暴に押し出す。引き摺る。

 俺は風に翻弄される木の葉のように、スレスレで矢を躱した。

 すかさず羽ばたく。速度で、風を強引に切り裂く。


 今なら追いつける!


 ヤガミは今度は声を漏らさなかった。

 歯を噛みしめ、しぶとくしがみついている。

 ったく、いっそさっさと落としてやろうか…………!


 共力場を通してヤガミから伝わってくる気配は、相変わらず凍てついていた。

 刻一刻と、彼の感情がわからなくなっていく。薄暗い水面と夜空の境が覚束なくなるように。


 白竜は正面の山裾を大きく旋回してこちらへと向かってきた。

 風が味方している。

 速い。


 獣達がいよいよけたたましく叫びを響かせる。

 世界が気脈の揺動で歪んでい見える。


 竜の目で見る景色は、その一瞬一瞬が、見惚れる程に美しい。

 それはこの地の魂が紡いできたありとあらゆる旋律を、遥か遠い時の彼方まで見渡せるからで、俺自身もまた、その歌の一つであるからだった。


 獣の歌唱。

 風の舞踊。

 森のコーラス。


 地の底から轟く、低い呻吟。

 澄んだ泉の流れる囁き。


 気脈は波打ち、豊かに膨らみ、生きている。


 白竜が物凄い勢いで襲いくる。

 避けられない。


 衝突の寸前、俺はただの人間のミナセ・コウであったなら到底捉えられなかったであろう扉の気配を嗅ぎ取った。

 否、「見た」。


 扉。

 ああ。

 これが扉か…………!



「――――――――…………いいじゃねぇか!」



 己の声とは思えなかった。

 邪悪な声の主は俺に寄り添い、また俺の内へゆるりと溶けた。


 逆鱗がわななく。

 俺は眼前に広がる、空と大地と命が織りなす精緻なレースに恍惚とした。

 俺は高笑いし――――未だかつて経験したことのない、黒い歓喜が血管の隅々を駆け抜けた――――そのレースの最も密な、最も美麗な部分に、爪を突き立てた。


 初めて、ヤガミの力場に大きな動揺が走った。

 そら恐ろしい素早さですぐに均されたが、俺は彼の恐怖を嘲笑った。


 ハッ、何が王の器か!

 所詮、お前も無力な人間じゃないか!


 獣達の、山脈の、繁る樹々の悲鳴が空をつんざく。

 泉がゴボゴボとみっともなく溢れ出す。大地を真っ黒に満たす。

 ブチブチと命の千切れていく快感が爪先から骨の髄へと速やかに伝播した。



「へ、へ、へ!!! いいじゃねぇか…………いいじゃねぇかッ!!!」



 ボロ切れとなったレースを振り回し、風を煽る。

 白竜は横殴りの無茶苦茶な風に吹き飛ばされ、岩壁に叩き付けられた。

 砂煙が濛々と真っ白いご尊体を覆う。

 へっ、いいじゃねぇか。


 獣達の悲鳴に、時空が震えている。

 サン・ツイードまでも、テッサロスタまでも、オースタンまでだって届け!

 どこまでも響け!

 果てしなく怯えろ!


 青空がみるみるうちに焼け爛れ、黒い虚空が覗く。

 雲が黒ずんでドロドロと濁っていく。

 黒い空間から、半透明の白い液体が滴り出した。

 血の湿っぽい匂いが辺りに立ち込めていく。


 逆鱗がおぞましく鳴いている。

 身体を巡る血液が賑やかに浮かれ騒ぎ、命を裂かれた獣達の悲鳴と悶絶、怒りと調和して快感の波を打つ。

 空が暗黒に浸食されていく。

 風はどぶの中をさらったように重かった。



「グォァアァァァァアアアァ――――――――――――ッッッ!!!!!」



 俺の咆哮に耐え切れず、いくつかの山が崩れた。崩壊の歌がこだまする。

 瓦解する大地の強烈な悲鳴の中、白竜がゆっくりと身をもたげた。

 もう一度叫ぶと、白濁した雨は雹へと変わり、激しく大地を打った。


 虹色の霧が白竜を取り巻き、落ち着きのない狂暴な輝きを発する。

 鱗にひりついた痛みを覚えたが、俺は笑い飛ばした。

 いいぞ。

 全身から血が噴き出しそうだ。


 俺は羽ばたき、白竜へと迫った。

 虹色の霧に近付くと、いよいよ身体が悲鳴を上げる。


「いいじゃねぇか!!!!!」


 鱗がボロボロと剥がれ落ちていく。エメラルド色のきらめきが暗澹たる空を彩る。

 雹に打たれた傷から流れ出た血を引いて一目散に飛ぶ。

 逆鱗が熱く、強く拍動する。

 霧ごと神を裂くべく爪を振り上げた時、1本の矢…………槍が俺の肩を掠った。


 槍のきた方を見やると、シスイがいた。

 彼の魔術矢か。


 黒い瞳には強い覚悟がこもっていた。

 清々しく鮮やかな彼の緋王竜・フウガは、天変地異にも動じず、じっと静かな視線をこちらへ向けている。乗り手への絶対の信頼を感じさせる、穏やかな魔力の充実がひたひたと伝わってきた。

 フウガの背上のシスイは、弓弦を引き絞って俺の逆鱗を狙っていた。


「コウさん。悪いが、ここまでだ」


 よく通る声と共に矢が放たれる。

 たちまち太く鋭い槍へと変わる。

 俺は見切って避け、そのままシスイへと突進した。

 アレを先にやろう。


 フウガがヒラリと翻り、その隙にシスイが新たな矢を番える。

 あの曲芸が一番の魔術だ、などと感心する間はない。

 俺目掛けて、矢尻が光った。


 うなりを上げて矢が飛ぶ。

 俺は扉を掴んだ。

 風が乱暴に舞う。

 無我夢中でのことだったが、矢は大きく軌道を上へ滑らせた。


 血がドッと騒ぐ。

 刹那だけ、邪悪が凍てつく。

 鮮血の匂いが鼻腔を突いた。

 共力場に太く鋭い痛みが――――肉の裂ける痛みが、確かに響いた。



「―――――――ヤガミ!!!!!」



 叫びたかった。

 邪悪は許さなかった。


 手綱に微かな力を感じながら、俺はまた暗闇に取り込まれた。

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