【幕間の物語⑥ とある獣の小休止】
スレーン山脈、某所にて。
鬱蒼と茂る暗い森の中。青年が一人。
簡素な革の鎧に、同じく質素な拵えのショートソードを携えている。抜き身の刃を伝う血は目が覚める程に赤く、まだ温かい。
青年の足下には、身体の随所を切り刻まれた鹿に似た魔物の屍がぐったりと横たわっていた。
青年 「師匠。そろそろ出てきてください。…………もうこの魔物では相手になりません。これ以上は哀れなだけです。食べるわけでもなし」
青年が樹々の合間へ呼びかけると、どこからともなく少女が姿を現した。
少女は紅玉色の瞳を冷たく細め、青年の側へ寄って魔物を見下ろした。
少女 「敵に対する過剰な感傷は悪癖です。直ちにお捨てください。如何なる時も平常心を保つよう常日頃から心掛けることが肝要です。
食用でなくとも、これは貴方にとって必要な犠牲でした」
青年 「そうであったと信じていますが。…………次も、こいつが蘇るのを待ちますか?」
少女 「いえ、その子はもう十分です。あとは、私が」
言いながら少女がスラリとレイピアを抜く。
青年が小さく肩を竦めるのを、構えかけた少女が見咎める。
青年は少女が何か口を開くより先に、ショートソードを納めて話した。
青年 「師匠。お言葉ですが、最早コウ無しで戦ってもあまり意味が無いと思います。貴女と俺ではあまりに技量が違い過ぎますし、それこそ負け癖か、甘え癖か、いずれ妙な癖がついてしまいそうだ」
少女 「ヤガミ様。貴方はまだご自身を判断する段階にはありませんと、何度申し上げたら聞き入れてくださるのです?
貴方には見通しの甘い所が多々おありです。稽古の要は私ではなく、貴方自身にございます。癖がついてしまわれるとすれば、それはヤガミ様の心持ちが弱くあられるからです。気概をお忘れになっては、例えどのような修行を行おうとも無意味ということを、改めてご理解願います」
青年 「…………わかりましたよ。段々貴女が肉のついたタリスカさんに見えてくる。
けれど、せめて少し休んでからにしませんか? 申し訳ありませんが、今の貴女は平常心から離れているように見受けられます。
さっき、上の空だったでしょう。呼んでも反応しなかった」
少女 「…………見損なわないでください。私の心配は不要です。
もっとも、ヤガミ様がもう一歩も動けぬと仰るのでしたら休憩にいたしますが」
青年 「そうですか。それなら、師匠。俺はもうヘトヘトです」
青年が両手を軽く挙げ、少女の方へ見せびらかす。
その手は潰れたマメですっかり赤く滲み、痛々しい。
少女は溜息を吐き、もう一度魔物の屍を見やって言った。
少女 「先程、この魔物ではもう相手にならないと仰いましたが、貴方の戦い方にはまだまだ無駄がございます。
長く苦しませたくないとお考えなのでしたら、なるべく一撃で屠るよう努めてください」
青年 「わかりました。
でも、今は稽古より休むのに専念しましょう。お気づきでないでしょうが、ひどい顔色ですよ」
少女 「どうでもよいことでしょう」
青年 「八つ当たりの相手は御免です」
言い終わりに、青年が短く魔物の亡骸に祈りを捧げる。
気脈に張られた「根」を絶たぬ限り、幾度でも蘇る植物じみた魔物であったが、青年はどうしても枝を手折るのに慣れなかった。
少女は青年の様子を横目に見つつ、黙って背を向ける。
二人は血だまりを闇に残し、森を去った。
小さな滝の裏の洞窟で、青年と少女が二人。
流れ落ちる水の音だけがほの暗い洞内に響き、互いに交わす言葉は無い。
つと頬に垂れ落ちた雫を拭い、青年は少女に呼びかけた。
青年 「師匠」
少女 「もうよろしいのですか?」
青年 「はい。けれど、行く前に少しお伺いしたいことが」
少女が青年をちらりと仰ぐ。
その瞳は深紅に揺れながら、白い飛沫に霞んでいる。
対する青年の灰青色の瞳は凪いだ湖面の如く静かで、どこか不透明だった。
青年 「師匠は、人を殺すことを躊躇いますか?」
少女 「…………戦のお話ですか?」
青年 「生きること、時にはそれ自体が戦です。それが「必要」であると判断した時、貴女は相手が誰であっても、手に掛けますか?」
少女 「…………「必要」とは、そうせざるを得ないという意味です。
何をお聞きになりたいのでしょうか? 私は蒼姫様のようには察し良くはありません。どうぞ繕わずにお話しください」
青年 「…………貴女はコウを殺せますか?」
少女 「…………」
微かに目を瞠らせた少女の手が、レイピアの柄をそっと握りしめる。
青年はじっとりと血の乾かない手のひらを、半ば反射的にショートソードに添えた。
凍てついた少女の紅い眼差しに、底知れぬ闇の底を見た。
青年 「…………そうすぐに殺気立たないでくれませんか?」
少女 「変事には考えるより先に動くよう、訓練されております」
青年 「…………」
少女は眼差しを微動だにさせない。
青年は深呼吸し、ゆっくりと己の剣から手を離した。
青年 「決して喧嘩が売りたいわけではありません。そんなの自殺と同じです。
俺はただ、貴女に尋ねたい。貴方の剣は、コウにすら届くのか」
少女 「聞いてどうするのです? ただの趣味だと言うなら、極めて悪趣味ですよ」
青年 「自覚しています。
…………どうなんですか?」
少女は口を引き結んで答えず、青年をきつく睨み返している。
滝の飛沫で濡れた岩場が、黒く滑らかに、あたかも息づくように光っていた。
少女 「まずお聞かせください。なぜそのようなことをお尋ねになるのでしょうか?
返答次第では、剣でもって答えに代えさせていただきますが」
青年 「コウが人質に取られることを想定してです。
コウ本人にはいまいち自覚が無いようですが、アイツの力は使い方次第では、どんな戦況もアッサリひっくり返してしまう凄まじい代物です。
共力場を編んでわかった。あれは、まっとうな力じゃない。完全に盤上の外の力だ」
少女の目に映る青年は、あくまで落ち着いていた。
彼女は彼を小憎らしい以上に、不可思議に思う。
人でないものの相手はそれなりに経験してきたが、彼からは魔物や精霊、異人、いずれが纏うのとも異なる、異質な気配が漂っていた。
ただの青年に過ぎないとわかっていても、どうしてか踏み込みきれない。
青年は滔々と流れる水流に負けぬ、よく通る声で話した。
青年 「もう一人の俺に、アイツはきっと抗えない。
あの日の血は、まだ乾いていないんです。決して褪せることのない痛みが、アイツの戦う理由でもあると俺は思う。
もしコウがジューダム王に取り込まれたとしたら、俺達は決断しなければなりません。
だから、貴女に聞きたかった。
アイツを…………伝承の「勇者」ではなく、ミナセ・コウを…………最も思っている、貴女に」
滝の音が轟々と空気を震わす。
少女 「…………私は」
消え入りそうな少女の呟きは、青年の耳に辛うじて届いた。
少女 「…………私は、獣です」
青年 「…………」
少女 「人の如く振る舞えるのは、飼い慣らされているから。
本性を表すのは、断じて許されぬことです」
少女がレイピアを己の首筋…………よく見れば、獣の咬み跡に似た、真新しい傷が微かに赤く残っていた…………に添える。
青年の動揺を抑えるように、少女は淡々と言葉を継いだ。
少女 「生まれ持った性質ゆえか、それとも、私の中に巣食う魔物ゆえかはわかりません。ですが、それが私の性分です。
この魂は解き放たれれば、燃ゆる限り世界に仇なすでしょう。
私は剣に殉ずる以外に、こうした己を律する術を知りません。
ヤガミ様には、あるいは少し、おわかりになるのでしょうか…………?」
青年 「剣を下ろしてください、師匠」
少女 「…………コウ様のいらっしゃらない世界。そんなこと、私は考えたこともございませんでした。
あの方はいつだって私の心の中におりました。あの幼い日から…………ずっと…………。
再びコウ様と巡り合って、私の世界は一変しました。「失う」ということを…………覚えてしまった。
獣は、知ってはならぬことなのに」
青年 「師匠!」
少女の刃が真っ白い首筋に触れる。
青年は駆け出し、少女の腕を掴もうとした。
その拍子に、少女の剣が素早く翻る。
青年が立ち止まった時には、その喉元にレイピアの切っ先が突き付けられていた。
青年 「師匠…………」
鮮やかな紅玉色が、磨かれた刃にくっきりと映っている。
戸惑う青年に、少女は眼差しと対照的な柔らかな笑みを向けた。
少女 「…………ほら、申し上げた通りでしょう? 貴方には、まだ改善の余地が多くございます」
青年 「師匠。それは、さすがに…………」
少女 「自戒なさってください、ヤガミ様。戦に「でも」も「だって」もございません。
さぁ、稽古の続きにいたしましょう。
それとも、まだお休みが足りませんか?」
青年 「…………。いや…………」
少女 「これ以上お聞きになりたければ、剣でお尋ねください。逃げも隠れもいたしません」
青年 「…………」
少女 「お返事をくださいませんか?」
少女の切っ先が青年の首をツツとなぞる。
白い飛沫が激しく散っている。
青年は息を吐き、両手を挙げた。
青年「…………わかりました。
ご返答、感謝します」
少女 「今日の稽古は覚悟なさってください」
青年 「半殺しコースですか?」
少女 「是非もありませんが、明日の決闘に障りますし、何よりコウ様にご心配をおかけします。その半分ぐらいにいたしましょう」
少女が剣を納めるのに合わせて、青年が再び大きく溜息を吐く。
少女の後を追って洞穴を出ると、白い日差しが眩しかった。
青年 「そう言えば、タリスカさんはどこへ行ったんでしょうか? いつの間にかいませんでしたが」
少女 「お師匠様は黒矢蜂の動向を探っておられます。何か痕跡を掴まれたのでしょう」
青年 「痕跡…………」
少女 「ヤガミ様には時期尚早のお話です。
今の貴方には、一にも二にも稽古です」
少女は開けた水辺に青年を呼びつけると、何かを振り切るように涼やかに抜刀した。
青年もまたショートソードを抜きながら、静かに祈りを空へ捧げた。
獣の幸福を祈るのは、彼の性分であった。
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