第251話 紅玉色の叫び。竜の俺が乙女を抱くこと。

 たとえ屈強な竜の姿になったとしても、あらゆる抵抗は精鋭隊のエース相手にほぼ無意味であると知り、俺はすっかりしょげ返っていた。


 図らずもだいぶ気分が落ち着いてきて、今ならもう普通に喋れそうなのだが、気持ちがついて行かなかった。

 好きな女の子に家畜扱いされて喜ぶ趣味は、どうやら俺には無いらしい。


 フレイアは開いている竜房の中でなるべく広く綺麗な場所を見繕ってくると、俺をそこへ導いた。


「コウ様、こちらへ」


 もうどうにでもなれという気持ちで、俺は柵の上げられた竜房へとのしのし入って行く。


「フーッ」


 座って大きく一息つくと、床に敷かれた藁がはらはらと舞い飛んだ。あんまりこんなことは言いたくないのだが、程良く柔らかく温かく清潔で、ぶっちゃけかなり良い感じだった。

 どこかで嗅いだ甘い良い香りが小屋に充満している。

 ここなら安眠できそうだと、安心していいやらよくないやら。


 フレイアは柵の向こうから俺の様子を眺めて、満足そうに言った。


「気に入って頂けたようで何よりです。…………今、お水をお持ちしますね」


 ひらりと背を向けて、フレイアが小走りで去っていく。

 出会ったばかりの頃、お人形みたいなサイズだったあの子もあんな風にパタパタと走っていたなと思い出して、何だか微笑ましかった。

 彼女はいつだって俺のために一生懸命でいてくれる。


 やがてフレイアが戻ってきて、俺の前に水のたっぷりと入った桶を置いた。

 人としての尊厳がどうのこうのと一瞬考えたが、俺は潔く桶から水を飲んだ。前にもこんなことがあった気がする。

 何にせよ、フレイアが俺のために持ってきてくれたのだ。そんな些細なことで、彼女を悲しませたくはない。ただでさえ、この頃は辛い思いをさせてばかりなのだから。


「…………コウ様、美味しいですか?」


 竜の姿だからか、普段よりもフレイアが親しげだった。邪の芽や依代のことでこじれていたけれど、今なら少しぐらい、前みたいに仲良くできるだろうか。

 俺は首をもたげて、彼女のすぐ側へ顔を近付けた。


「…………あ」


 わずかに頬を赤くして、フレイアが俯く。

 俺は人の言葉で答えた。


「ありがとう。サッパリしたよ」

「…………はい」


 上目遣いで、小声で呟く。

 深く鮮やかな紅玉色の瞳は頼りなく揺れて、長くは目を合わせないように努めていた。

 彼女はどうにかこうにか話題を引っ張り出すようにして、また話した。


「あ、あのっ…………コウ様、お腹は空いてはいらっしゃいませんか? よろしければ何か…………」

「いや、大丈夫。竜が普段何食べてるか知らないけど大丈夫。今は…………君と、話がしたいな」

「…………」


 フレイアが口を閉じてさらに赤くなる。

 ほんのわずかの間なのに、みるみる耳まで染まっていくから面白い。

 彼女の頬に、俺はそっと自分の頬を寄せた。


「…………っ」

「よかったら、君もこっちに来てほしい。一緒に座ろう」

「で、ですが…………」

「無理にとは言わないよ」


 そう。嫌だと言うなら、もうどうしようもない。

 こんな姿とはいえ、俺は俺のままだ。一度振られたのに未練がましい真似をしているのには違いない。


 フレイアは銀色の長い睫毛を伏せ、それから一度目を瞑り、おもむろに柵をくぐってこちらへ歩んできた。

 ためらいがちに胸の前で組まれた両手が、到底剣など握ったこともない、ただの女の子みたいに弱々しい。

 か細い声は、柔らかだった。


「…………お隣、よろしいでしょうか?」

「うん」


 横向きに座る俺の腹にちょっぴり背を預けて、フレイアが藁の上に腰を下ろす。

 彼女の気配が身体の真ん中からじんわりと広がって、何だか俺まで顔が火照るような気がした。


「…………」

「…………」


 ちょっとだけ、目を合わせる。

 フレイアは組んだ指先を弄びながら、目を逸らしたり合わせたりしつつ話した。


「ヤガミ様は…………」

「ん?」

「コウ様の、古くからのお友達、なのですよね?」

「ああ」


 フレイアはやや間をおいてから、続けた。


「ヤガミ様は…………あらゆることに才がおありです。お師匠様から命を賜って、不肖ながらこの私がご指導を承っているのですが…………時折、スッとこちらの背筋が伸ばされるような瞬間がございます」

「へぇ。君が言う程なのか」

「恐らく、無意識のうちに魔力場に幾度も触れられてきたのだと思います。それでなければ、あれ程の適性は俄かには考えられません。コウ様にもそのような所があおりであることも考えますと、もしかしたら、お二人の生育環境に何か共通して力場への順応性を高めるものがあったのかもしれません」

「うーん…………。そうは言っても、実際に俺とヤガミは同じ世界に育ったわけじゃないからなぁ。どうなんだろう?」

「アカネ様のお力によって創り変えられたとはいえ、オースタンの気脈にほとんど変動はなかったとコハク様は仰っておりました。ですから新しい世界、古い世界に関わらず、お二人が共に長く過ごされた場所が関係しているのだと、私は考えております」

「長く過ごした場所…………。それこそ、君も一緒に行った俺の実家のあたりだろうけど」

「セイシュウを匿わせて頂いたあの里山は、確かに気脈に恵まれておりました。あの土地でお二人が遊んでいらっしゃったなら、納得できます」

「ただの神社と山だよ。何もない所で…………」

「ですが、そこで」


 ふいに、ぱっちりと目が合う。

 フレイアは逸らさずに、懐かしそうに愛おしそうに細めた。


「私は、コウ様と…………運命の君と、初めてお会いしました」


 喉の奥がぐっと熱くなって、俺は微かに身悶えした。

 フレイアの瞳が蝋燭みたいに危うくチラついて、目が離せない。

 紅玉色は深く惑わしく、一途に俺を見つめていた。


「コウ様」


 呟きは、独り言のようでもあった。

 彼女は俺の腹のもっと奥へと身を沈め、言い継いだ。


「フレイアは…………悪い子です」


 藁のこすれる音が聞こえる。

 静かな厩舎に響くのは、彼女の寂しそうな声だけだった。


「ずっと…………嫉妬しています。…………アオイ様に。…………ヤガミ様に」


 フレイアはポツポツと、言葉をこぼしていった。


「コウ様のお力になられる方が沢山いらっしゃるのは、とても喜ばしいことのはずですのに、ともするとひどく乱暴な気持ちになるのです。意味も無く張り合おうとしてみたり、態度が冷たくなってしまったりして…………嫌になります。

 フレイアが一番近くでコウ様をお守りするはずでしたのに…………どうして、このような…………」


 言葉が途切れ、しばし沈黙が続く。

 真っ赤な頬が白い肌に、痛ましいぐらい冴えている。白銀の髪がサラサラと揺れて目元を隠してしまう。

 俺が声を掛けようとしたその時、フレイアが再び口を開いた。


「邪の芽のせいではありません。それは、フレイアがよくわかっております。これは…………どこまでも、フレイア自身のせいです。私が未熟で、愚かで、我が儘なので、こうなるのです」

「そんなことないよ」

「いいえ」


 パッと顔を上げた時の彼女の眼差しは、まさに子供のそれだった。

 彼女自らが言う通りの、ありのままの姿だった。


「コウ様、ごめんなさい」


 泣きそうな顔で言われて、俺は堪らず彼女を内側に抱き寄せた。身をぴったりとくっつけたフレイアの体温が鱗越しに伝わってくる。

 フレイアは、いつもだったらまず見せてくれない素直さで、そのまま顔を埋めた。

 こもった声が肌に響いた。


「ごめんなさい…………コウ様」

「謝らないでいい。君は悪くない。…………当然の気持ちだから」

「ですが」

「悪くないよ。…………大切に思ってくれて、ありがとう」

「…………」


 コウ様、と呼んでくれたような気もするけれど、確かじゃない。俺に縋るフレイアは小さくて、儚げだった。

 首を伸ばして鼻先で頬をこすると、おずおず目を上げてくれた。


「…………」

「…………」


 いじらしい目つきが何を訴えているのか、ちょっと図り難い。涙ぐんだ瞳は深紅の輝きを宝石の如く散らしている。

 もう一度、頬ずりしてみる。

 フレイアはくすぐったそうに少し笑って、自分からも頬を寄せた。


「コウ様、これではまるで本物の竜みたいです」

「竜になるのも悪くない」

「ふふ」


 本当にくすぐったいのか、フレイアが身体を動かす。

 逃がさないよう、抱き締めるみたいに尾で彼女を抑え込む。

 フレイアは抵抗せず、笑いながら身を任せていた。


「コウ様、困ります」

「困らせてる」

「ひどいです」


 フレイアの屈託のない笑顔が嬉しい。

 俺の中の邪の芽が疼かないのは、時間の問題なのかな。

 それとも、俺達がどちらも、ここまでだってわかっているからか。


「…………」


 ふとからかうのを止めて、フレイアを見つめてみる。髪と襟が乱れているけれど、あんまり気にしていないみたいだ。相変わらず顔が赤い。真っ白な首筋との対比が鮮やかで綺麗だった。

 フレイアは不思議そうに俺を見返していた。瞳の色がチラチラと和やかに燃えている。


「コウ様?」


 フレイアが俺を間近に覗き込む。

 あんまりに無防備に晒されたうなじが眩しくて、俺は再び頬を寄せて目を瞑った。


「…………フレイア、好きだよ」

「…………」


 フレイアの身体がやや強張る。

 胸に添えられていた手が窮屈そうに動いた。


「…………コウ様、いけません。私達は…………」


 俺を避けようとするその腕に力はこもっていなかった。どころか、むしろ縋っているようにさえ感じられる。

 俺は彼女をさらに強く抱き締め、話した。


「ずっとこうしたかった。…………君と二人きりになりたかった」

「…………コウ様、だめ…………です」


 尾で触れる彼女の身体はひどくか細かった。小ぢんまりとして柔らかくて、本気で抱き締めたら、多分簡単に折れてしまう。

 優しく背を撫でると、あえかな声がこぼれた。


「ん…………」


 いけないとは、わかっている。

 喉の奥で、何かが荒っぽく蠢いていた。気を許せば、俺はたちまちこの子を汚してしまうだろう。こんなに俺を信じきっているこの子を、きっと瞬きするより、あっけなく。

 俺は真っ赤になっている彼女の耳元に囁きかけた。


「フレイア。俺、蒼の主の依代にはならないよ。…………絶対に」


 フレイアが微かに首を横に振っている。それはいけないと言いたいらしい。

 首筋を軽く…………本当にほんの少しだけ、甘く…………噛むと、ピクリと動きが止まった。


「っ…………コウ様」


 フレイアが身をよじる。

 シャツの襟がずれて、まだ薄っすらと傷跡の残る白い肩が露わになった。

 俺を守るために、ジューダムの騎士と戦った時に負った傷だ。

 傷跡を鼻先でなぞると、フレイアはまたピクリと肩を縮めた。


「っ…………! やめ、て…………くだ、さい…………っ」

「くすぐったい?」

「…………っ、違っ…………違い、ます…………」


 フレイアの小さな吐息がすぐ傍で聞こえる。

 彼女は弱々しい声で、訴えてきた。


「貴方に触れられると…………思い出して…………しまうのです…………! あの…………軟膏の…………こと…………」


 乱れた息が俺の鱗を湿らせていく。聞いてもう少し意地悪をしたくなったが、止めておいた。

 というか、これ以上続けていると俺の方が本気で自分を見失いそうだ。

 俺は傷跡から顔を離して、伝えた。


「…………わかった。ごめん」

「…………いえ」


 ふるふると首を振るフレイアは、まだ心落ち着かないようだった。

 今にも湯気の噴き出そうな顔が、俺の胸の内へこもるみたいに俯いたきりだ。

 俺は彼女の背を撫で、もう一度伝えた。


「フレイア、俺を信じてほしい。…………俺は何があっても、君と一緒にいる。共力場は編めなくても、こうして触れ合えるだけで満足なんだ」

「…………」


 でも、と、震えながらフレイアが言う。

 彼女はすぐには続けず、しばらく何か噛み締めるようにしてから、堰を切った。


「でも…………フレイアは、満たされません…………!」


 紅玉色の瞳が、俺を悲しそうに見上げた。


「フレイアは、我慢できません! コウ様がよろしくても、フレイアは…………こうしてコウ様のお優しさに甘えてばかりでは、不安で、不安で、不安で…………どうしようもありません!

 コウ様のことは信じております! どの世界の誰よりも、何よりも…………。貴方が共にいてくださると仰るのなら、きっと時空の果ての果ての果てまでだって手を握っていてくださるのでしょう。

 だからこそ、フレイアは…………」


 落ち着いてと口を挟むも、大きく首を振られるばかり。

 フレイアは紅玉色の瞳からポロポロと涙をこぼして、話し続けた。


「フレイアは、貴方に甘えっきりになってしまっては、いられないのです。アオイ様のように、ヤガミ様のように、蒼姫様のように、私も貴方の近くで…………貴方に私を捧げたい。この身と剣だけでは、私はもう満足できないのです!」

「フレイア…………」

「気にするなと、貴方は仰るでしょう。ですが…………そのようなことは不可能です! フレイアにはもう…………こんなに遠い所は、耐えられません!」


 悲痛な叫びに、俺は言葉を詰まらせた。

 フレイアは俺の胸に顔を埋め、掠れた言葉を繋げた。


「ですから、せめて…………サンラインのためならばと、諦めたかったのに…………コウ様は…………ひどいです…………」

「ひどい…………?」

「ひどい」

「…………。けど、俺は…………」

「何も仰らないでください! コウ様は…………意地悪です」

「…………」


 俺はただ彼女の背を撫で続けるよりなかった。

 フレイアは小刻みに震えていた。

 俺を掴む手にかなり力がこもっているのを、きっと全く自覚していない。


 俺は少しだけ彼女を強く抱いて、呼びかけた。


「フレイア」

「嫌です」

「まだ何も言っていない」

「嫌です。まだ、ここにいたい…………」

「…………」


 溜息がこぼれそうになるのを我慢した。

 代わりに口で襟を挟んで、乱れを直してやる。

 フレイアは微かに泣きじゃくりながら、


「ごめんなさい」


 と呟いた。


 俺は何も言わずに彼女を抱き締めたまま、泣き止むのを待った。

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