第216話 最後の交渉。俺がヤガミの覚悟を託されること。

 あーちゃんがマヌーのシチューを気に入ってくれたのは幸いだった。

 これで今晩は、彼女の機嫌はまずまず上向き加減でもってくれるに違いない。

 あの子が食いしん坊で、本当に良かった!


 「勇者」の力は、魔法の国へやって来たばかりの高校生には、ちょっとえげつなさが過ぎる。

 俄かには信じ難い程のチート能力だし、しかも、すでに1回地球を壊して造り変えたことがあるだなんて、どうしてまともな神経で受け入れられるだろう?

 ショックのあまり「こんな世界なんてなくなってしまえ」と自棄を起こしたって、全然不思議じゃなかった。


 マヌーは裁きの主の片目を持つ聖獣だという古いお伽噺がサンラインにはあるそうだが、実際、ひとまず世界サンラインを救ったという点で聖獣には違いない。(なので教会の教え的には、あんまり食べちゃダメだよって話らしいけど…………フレイアもリーザロットもクラウスも、グラーゼイまでも、普通に食べているんだよなぁ)


 俺とヤガミは疲労の色が濃いあーちゃんと別れた後、一緒にリーザロットの書斎へと向かった。

 今後の諸々について、話し合うためだった。


「それで…………クラウス。君は巡回に行かなくていいのかい? 他の皆は、もう行っちゃったみたいだけど…………」


 俺がすぐ後ろからついてくるクラウスに問うと、彼はにこりともせず、冷ややかな眼差しで答えた。


「巡回役とお側役とが分かれているというだけのお話です。俺は…………失礼、私は蒼姫様及びコウ様の護衛を任されております」


 俺はわかった、と手を上げた。

 ダメだ。取り付く島がない。クラウスはヤガミと顔を合わせてからこの方、もうずっとこんな調子だ。

 ヤガミ本人はもう慣れたのか、むしろわざとからかっているんだか知らないが、ちっとも動じないのだけれど、俺の方はそろそろ参ってきた。


 俺は少し前を歩くリーザロットに、小声で囁きかけた。


「…………いいの? このままでさ…………」


 リーザロットは小さく肩を竦めると、困り眉で返した。


「良くありませんが、仕方ありません。…………当面はコウ君に仲を取り持ってもらうしかないみたいです」

「えぇ、そんなぁ…………」


 もう一度、2人の様子を交互に見やる。

 瞳孔を細く猫のように裂いたブロンドの騎士は(目だけキツネ化するなよ、怖いなぁ)、瞬きもせず栗色の髪の異邦人を睨んでいる。

 ヤガミは素知らぬ顔で、俺と並んでいるリーザロットに微笑みを向けると、臆面もなくこんなことを口にした。


「…………蒼姫様は、お美しい瞳をしてらっしゃいますね。見ていると、オースタンの海が懐かしくなる」


 クラウスの顔がいよいよ野獣に変わりかける。

 イケメン台無しな中途半端な変わり様に鳥肌を立てる俺の隣で、リーザロットは鮮やかに応じた。


「ありがとう。その言葉をそのまま、貴方にも。…………貴方の瞳には、なぜか吸い込まれるようだわ」


 クラウスがすっかりキツネの顔になる。あくまで冷静ぶっているつもりみたいだけど、顔を覆う赤毛は隠し切れずにザワザワと逆立っている。


 ヤガミとリーザロットが合わせた視線をすんなりとまた離す。

 お前ら、まさか遊んでるんじゃないだろうな…………。



 かくして、俺達は話し合いの席に着いた。

 例によって人形が甲斐甲斐しくお茶(また知らないハーブティーだ)を淹れてくれている間に、俺は尋ねた。


「そう言えば、グレンさんは? 夕食の時からいなかったけど」


 リーザロットは別の人形が持ってきた大量の書類にザクザクと目を通しつつ、入ったお茶に早速口を付けて答えた。


「グレンは研究に励んでいます。特に、対ジューダムを想定したサン・ツイード市外の障壁の改良は急務ですから、この頃は昼夜問わず、学院の魔術師に呼ばれて出掛けています。本当はリリシスの伝承や「勇者」様のお力の研究に集中させてあげたいのだけれど、琥珀がいない今、彼は実質、サンライン最高の魔術顧問の一人なのです」

「忙しいんだね…………。他に、誰か手を貸してくれそうな人はいないの? ほら、紡ノ宮の奉告祭で会ったあの偉そうな人達とか、上手く頼めばやってくれるかも」

「それをこれから相談しようと思っていたところなの。…………けれど、よければもう少しだけ待ってもらえませんか? 急ぎのお手紙が、ほら、こんなにたくさん」


 リーザロットが苦笑して、書類の山の前で両手を上げる。

 彼女の下になだれ込んできた手紙の数々が何を訴えているものなのか、俺には皆目見当がつかない。ただ、良い知らせでないことだけは、見た目の物々しさから明らかだった。


 一瞥しただけで投げ捨てたくなるような堅苦しい書面の上に、仰々しい署名や印がずらずらと並んでいる。

 今まさに俺が言った「偉そうな人達」からの手紙なのかもしれない。

 リーザロットは書類に目を通し終えると、小さく溜息を吐いて手元の紙に一筆走らせ、それと一緒に書類の束を人形へ突き返した。


「もういいの?」


 俺の問いに、リーザロットはまた肩を竦めた。


「込み入った案件が多かったので、後に回すことにしました。…………皆、テッサロスタの顛末をご存知ですからね。ご自分の家とご家族を守るために、最善を尽くそうとしているの。グレン達や「白い雨」の方がどれだけ頑張ってくれたとしても、安全は確実ではありません。誰もが自衛のため、できるだけ限りのことをしようとしています。私達と同じように。

 …………お待たせしてごめんなさい。始めましょう」


 リーザロットは瞬時に表情を晴れさせると、いつものように穏やかに話し始めた。


「今日は、ジューダム王との今後の対応について、コウ君とヤガミ君のお二人に意見を窺いたくてお呼びしました」


 クラウスがチラとリーザロットを見る。

 リーザロットは視線に視線を返しながらも、話を継いでいった。


「今朝もお話しましたが、ヴェルグ率いる「白い雨」本隊は、日々凄まじい勢いで戦力を増しています。地方から続々と兵士となる若者や魔術師を呼び寄せ、このままいけば、数だけであれば、ゆうにジューダム軍を上回る規模となるでしょう」


 ですが、と話は続く。

 リーザロットはびんからこぼれた髪を耳へ掻き上げ、渋面を作った。


「質の方は、そうはいきません。ジューダム軍は非常に練度の高い魔術師の集まりです。何倍と数を募ったところで、ようやく共力場が編める、どうにか印が組めるといった兵士ばかりでは、到底太刀打ちできません。むしろ、なまじ士気が高いぶん…………悲劇はより悲惨な形で顕現するに違いありません」


 桜色の綺麗な唇がきつく噛み締められる。

 クラウスは木立の合間に身を潜めるように、冷静にその横顔を眺めている。

 ヤガミが、口を開いた。


「しかし…………疑問です。そうした事情は、そのヴェルグという人も重々承知なのではありませんか? 自軍の被害があまりに甚大であれば、彼女の権威にも傷がつきます。一体どんなつもりなのでしょうか?」


 リーザロットが細く白い指を悩ましげに口元へ添える。

 彼女はわずかに俯き、こぼした。


「その犠牲を払ってなお、この戦の勝利で得られる利益は大きいということでしょう…………。争いの源である時空の扉では、アブノーマル・フローが発生しています。ジューダムの過去への介入は、彼女にとって決して小さくはない魅力でしょうけれど…………。あるいは…………」


 リーザロットはそこで口を噤むと、小さく首を振った。


「…………いえ、さすがに考え過ぎでしょう。

 いずれにせよ、ヴェルグが本格的に軍を動かせば、陣営を問わず多くの犠牲者が出ます。加えて、決戦の地はサン・ツイードの南方、セレヌ川の河口に広がるあのエズワースです。魔術の素養も無く、何ら自衛の手段も持たない貧しい市民が身を寄せ合っている彼の地で、ジューダム王とヴェルグの大規模魔術が衝突すれば、もたらされる被害はテッサロスタの比ではありません」


 考えるだけでゾッとする話だ。

 屍が積み重なれば積み重なるだけ、ジューダムの魔術も、ヴェルグの魔術も、歯止めがきかなくなっていく。身をもって知っている。


 あの渦中に、万が一あーちゃんが飲み込まれたら?

 俺は彼女自身のことも、世界のことも守りきれる自信が無い。

 あの地獄のような景色を目の当たりにした後で、彼女が世界の再生を祈ってくれるだなんて、どうして思えるだろう。


 リーザロットは俺とヤガミに深く澄んだ蒼玉の眼差しを向け、言い紡いだ。


「そこで私は、最後の交渉に全てを賭けることに決めました。決戦の直前、ジューダム王に直接、和平を申し込みます」


 馬鹿げている。

 クラウスの黄色い獣の目がそう言いたげに冷ややかに光る。赤褐色の毛は相変わらず穏やかでなく逆立ち、耳はピンと張って少しも垂れない。

 ヤガミは顔色を変えない。動じたら負けだとでも思っているのか? それとも、何か腹積もりがあるのか?

 俺は堪えきれずに、口を挟んだ。


「無茶だよ。アイツは、誰の言うことも聞かない。俺のことすら…………攻撃してきたんだ。

 …………そもそも、どうやって近付くって言うんだよ?」


 リーザロットは俺を見て、淡々と語った。


「タリスカがついてきてくれます。それに、エズワースの歪穴ワームホールのことは、私は誰より詳しく知っているの。あれだけ強大な魔力の持ち主です。居場所を探り当てること自体は、造作もありません」

「でも」


 俺はヤガミの灰青色の瞳に目をやった。

 同じ瞳。

 だけど、決定的に違う。

 あの突き刺されるような感情が、水銀の息の詰まるような重さが、ここには無い。


 赤い血の記憶がポタポタと蘇る。

 …………アイツはあの日、あの時、どんな目をしていた?


 今のアイツは、あの日のアイツと同じだ。どんな言葉も感情も力任せに叩き伏せてしまう。


 あの日から俺はずっと…………それが当たり前に思えるぐらい、ずっと見つめてきた。

 あの日の血の色。

 カッターの刃が照り返す、鈍い夕陽の輝き。

 掌に伝わる、あの生ぬるい、ぬめった感触。

 …………逆光の奥に沈んだ、悲鳴のような、嗚咽のような、滲んだ灰青色。


 俺は錆びついていた。

 今だって、まともな刃からは程遠い。

 夕陽は未だ遥か遠く。

 そして守れないものだらけ。


 だけど、だからこそ、アイツに立ち向かわないといけない。

 これ以上、このままでいちゃいけないんだ。

 俺も、アイツも。


「…………でも」


 俺は続ける言葉が見つけられず、項垂れた。

 どんなに意気込んでも、今、アイツに伝える手段が無い。

 俺にはそれを成すだけの力が無い。


 ヤガミは黙り込む俺をしばらく見守っていたが、やがて何も続ける気がないとみると、代わって話を切り出した。


「俺を連れて行ってください。正直、説得が上手くいくとは思えませんし、人質としての価値も無いでしょう。これまで俺の存在に全く気付いていなかったとは考えにくいですからね。…………ただ、動揺させることはできるかと」

「動揺?」


 首を傾げるリーザロットに、ヤガミは頷いた。


「こっちへ来てから、彼の気配…………彼の存在がひしひしと感じられます。そこのキツネ君が言う通り、あるいは、その気になれば互いに呼び合うことだって可能なのかもと思える程に」


 クラウスが耳をピクリと動かし、ヤガミを睨みつける。俺とグラーゼイもあんな具合だったのだろうかと思うと、何とも言えず居たたまれなくなる。

 ヤガミはリーザロットに、落ち着いた調子で話し続けた。


「彼にとって俺は不必要な存在でしょう。とは言え、気には障るはずです。彼と俺の感覚はどこまでも重なっていながら、海と空の境目のように決して交わらない。彼は水面から透けて見える俺を、いつになく疎ましく感じています」


 話すヤガミの表情には、およそ自分のことを語っているとは思えない淡泊さがあった。まるで自分の頭の中を自ら開いて見せているかのように冷静で、そこには妙な、彼一流の説得力があった。


 ただの青ではない、くすんでいるのに澄んでいる。己を洋上の空になぞらえた彼の例えは、言われてみればしっくりくる。

 ヤガミはその瞳で、俺を見た。


「俺は無力です。ですが、コウの助けがあれば、あるいは水面の向こうまで光を届けられるかもしれません」

「へ?」


 ヤガミの言葉は、ともすると置いてけぼりになりそうな俺を、やや強引に引っ張っていくみたいに続けられた。


「コウの魔術…………「扉の力」でしたっけ? 因果の力場を使って、人の魔力を操作するっていう…………。それを使えば、少なくとも一時的には、俺とジューダムの王は融合が可能だと思うんです」

「おい、そんな、いきなり………」


 口を挟みかけた俺を、リーザロットが遮った。


「ええ、十分に可能でしょう。すぐに弾き出されるとは予想されますが、頑なな心を揺らがせるには有効な手です」


 俺は閉口し、肩を竦めた。

 そんなことをしたら、アイツは余計心を閉ざすだけな気がするんだけど。

 ヤガミは次いで話を進めていった。


「今以外の生き方。…………そのイメージが本格的に発芽するには、大変な時間が掛かるでしょう。だけど、変化の兆しを匂わすことぐらいはできます。それも、彼が俺を厭う分だけ、鮮やかに」


 ヤガミの視線が一瞬、クラウスへと向かう。

 何が言いたい、とキツネの細目が火花を散らして問う。

 ヤガミはリーザロットへ瞳を向け直し、話を結んだ。


「繰り返しますが、正直に言って和平の要求が通るとは思いません。動揺させただけ、無駄に強い怒りを買って終わることも大いにあり得ます。…………それでも、一縷の望みとはなる。そう信じています」


 ヤガミが俺を振り返る。

 俺はお茶を飲みきり、答えた。


「…………任せるよ」


 ヤガミが微かな安堵を眼差しに湛える。

 リーザロットは「わかりました」と一度頷くと、一座を見渡してまとめた。


「それでは、コウ君とヤガミ君に、一緒に交渉へ行って頂きます。…………二人共、ありがとう」


 クラウスは押し黙ったまま、じっと腕を組んで決定を聞いている。

 リーザロットは人形に新たなお茶を注ぐよう指示し、話を継いだ。


「そうしましたら、この計画のために協力して頂ける方について、もう少し相談に乗ってもらえますか?

 最後の交渉、と言えば多少聞こえは良いですが、正確に表現すれば、決死覚悟の単騎駆けとも言うべき暴挙です。

 いかにエズワースの歪穴について熟知していても、それでもなおジューダムの警備、そしてヴェルグの監視網を抜けることは容易ではありません。

 脱出用の竜の手配を始めとして、防護障壁の展開や解除、必要な魔具の手配などで、誰かの手を借りねばまず成し遂げられません。

 今、この国で私が頼りにできる方は多くありません。ですから、2人にもどうか力を貸していただきたいのです」


 俺とヤガミが当然だと応じる傍らで、クラウスは特に何を眺めるでもなく、窓の外の夜空へ顔を向けていた。

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