第215話 血まみれの休日と主の騎士達。私が世界の終わりに立ち会うこと。
…………あの子だ。
さっき私とぶつかった、「太母の護手」のあの子に違いない。
私はショールを商品棚に戻し、広場の方へ駆けた。
「「勇者」殿、お待ちください!!」
すぐ後ろからグラーゼイさんが追いかけてくる。
あっという間に捕まったが、その時にはもう私は路面にうずくまるあの子の姿を捕えていた。
人混みが私達を迎え入れるように割れていく。
人々は口々にグラーゼイさんへ何かを訴えかけていた。
子供はぐったりとして息を乱し、頭や口から血を流していた。
その目の前には、ガラの悪そうな3人組の男と、踊り子のように派手なドレスと宝石を身に着けた女が1人、実に不快そうに立っていた。
男達は決して賢そうではないものの、かなりガタイが良い。握られた拳には彼らのものではない血が、まだ赤鮮やかに飛び散っていた。
そのうちの一人、とりわけ肩幅の広い男が、震えている子供に怒鳴りつけた。
「テメェ! どうしてくれんだ、アァ!? このゾーケル様の女にふざけた真似しやがって! タダで済むと思ってんのか、コラァ!!」
私は思わず耳を塞いだ。
嫌だ。どうして言葉が伝わってくるんだろう? 頭に直接叩き込まれているみたいで、ひどく気分が悪い。
困惑の中、男の取り巻きがさらに怒声を重ねた。
「テメェらの変態教祖様は死んだんだろ!? なら、とっととサンラインから失せやがれ! テメェら、臭くてキメェんだよ! ったく、ちょっと目ぇ離すと盛りのついたワンダみてぇにボコボコボコボコ増えやがって! …………聞いてんのか、オラァ!!」
子供の消え入りそうな声が聞こえてくる。
謝っている。
何度も、何度も。
だが、男達は一向に耳を貸さなかった。
「謝って済む問題じゃねぇっつぅの!! テメェらの親は散々人殺して回って、ガキにはとりあえず頭下げときゃ大丈夫って教えてんのか? アホか!!」
男が子供の頭を爪先で蹴りつける。
毛深い小さな頭が石畳に叩き付けられ、細く痩せ細った手が力無く地面を掻く。
次いでもう一度、倒れた子のお腹を別の男が蹴り飛ばした。
か細い悲鳴と泣き声に、私は堪らなくなった。
「ちょっと…………止めないと!!」
飛び出そうとした私を、グラーゼイさんの太い腕が強く掴んだ。
「何で!?」
食ってかかる私に、彼は静かに言った。
「先に見かけた折には、他にも子供達がおりました。彼らが親を呼びに行っているとすれば、我々の介入はむしろ事態の悪化を招くこととなりましょう。…………いずれ本来の役目である自警団が到着するはずです。ここはしばし、ご辛抱を」
「でも、このままじゃあの子が」
男達の暴力はどんどんエスカレートしていっていた。
踊り子の女はつまらなそうに腕を組んで平然とその様子を見ている。足下を見れば、彼女の宝石のたくさんついた豪華な靴の片方が、誰かに踏まれたのか泥で汚れていた。
…………まさか、あんなことで怒っているの?
ガツンガツンと絶え間なく脳に叩き込まれてくる、悪意、悪意、悪意。
男達の感情はドス黒く渦巻きながら、より邪悪に粘ついていく。
身体中の神経をうぞうぞと這い回る、歪んだ愉悦。
集まっている人の中から、笑い声が聞こえる?
あちこちから沸々と湧いて出る興奮。
何もかも、もう言葉にすら聞こえない。
気味が悪い。
感情がとめどなく浸食してくる。
自然と腕に力がこもる。自分の殻を固めるみたいに。
男達が罵りながら子供をいたぶっている。
子供の涙は恐怖のせいだ。
悔しさはもうとっくに泡となって潰れている。
悲しみが赤い血をさらに赤くする。
泣けば泣く程に、男達の暴力はひどくなる。
女は助けを求める子供を汚物でも見たかのように一瞥すると、白けた顔で男に言った。
「ねぇ、ゾーケル。もう行こうよ。つまんない。それに私、あんまり異邦人見てると吐きそうになるんだよね」
ゾーケルと呼ばれた男が、広い肩を逸らして舌打ちした。
「チッ、仕方ねぇなぁ! なら最後に一発、サンライン人なめたらどうなるか、身体に刻んでやらぁ!」
男が腰の短剣を抜く。風体に似つかわしくない、優美な竜の紋章が柄に彫られた剣だ。
グラーゼイさんが微かに目を細める。
男はざわめく人々にこれ見よがしに剣をひけらかしつつ、子供の顔の周りで切っ先を泳がせた。
「おい、これが何かわかるか?」
子供の怯えた目が銀色の刃にじっとりと映り込む。
ゾーケルは嬉々として醜い笑みを浮かべ、大声で言った。
「「白い雨」の紋章だよ! サンラインが誇る由緒正しき教会騎士団・「白い雨」! 知らねぇわけねぇよなぁ?
この国で! 最も! 強く! 偉い! この国の民を守る、最高の剣だ!」
人々の間にどよめきが広がる。言葉はわからない。ただ、不穏な空気をひしひしと肌に感じる。動揺しているだけじゃない。もっと暗い、大きな感情の波がうねっている。
どうして?
どうして誰も止めないの?
私は精一杯の力で、グラーゼイさんに掴まれた腕を振りほどこうとした。
…………びくともしなかった。
「…………っ、離してください!! このまま見ているつもりなんですか!?」
「「勇者」殿」
「どうして誰も動かないの!? 貴方だって、どうしてなんですか!? あんなに皆に頼まれてたのに!! 同じ騎士団の人があんなことしてて、恥ずかしくないんですか!?」
グラーゼイさんが黙って私を見つめる。
彼は黄色く光る目を
「私が「太母の護手」を守れば、それは「白い雨」全体の方針と捉えられかねません。何より、貴女の身を危険に晒すわけには」
「こんなに皆が心配しているのに、方針も何もないでしょう!? あんなの許してたら、それこそ最低だ! 子供一人守れない国なんて…………」
騒ぐ私に、グラーゼイさんがさらに眉間を険しくする。
彼はあたかも剣を私の首筋へ滑らせるみたいに、静かに呟いた。
「…………市民の望みは、「太母の護手」の駆逐です。子供を捕らえろ。ヤツらをことごとく晒し台にのせろと」
ぐ、と、どぶ川の底から込み上げてきたような感情が胸と胃に圧し掛かる。
吐き気に、私は口を噤んだ。
冷や汗が流れる。
言葉にもならない無数の声が、急に耳元で沸き立ち始める。
燃え盛る復讐心。
狂暴で乱暴な蔑視。
終わりのない煩雑。
不愉快。
興奮。
ヒソヒソとヒソヒソとさざ波となって囁かれる、悦び。
男が断罪を叫んで、短剣を振り上げる。
女の口笛が囃し立てる。
高く昇った日を背負う男の影が、悲鳴を上げる子供の上に長く落ちかかる。
世界が輪郭を崩しつつある。
今にもバラバラになりそう。
グラーゼイさんの呼びかけが遠い。
…………遠く、
誰にも手の届かない遠くへ、
全てが遠退いていく――――…………。
――――――――…………稲妻より速く、何かが私を貫いて走った。
それは予感だった。
世界が変わる、一瞬前の。
…………変わる。
こんな気味の悪い世界は、見たくない。
いらない。
世界はこんなにも簡単に、
瞬き一つ、
いや、
それすらも必要無く…………、
「――――――――アカネ殿!!!!!」
突如耳元で轟いた落雷に、私は呼び起こされた。
その時にはすでに、グラーゼイさんは私から離れてゾーケルの腕を捻り上げていた。
余韻のように、会話が聞こえてくる。
「…………おい、私が誰かわかるか?」
「…………ッ!!!」
グラーゼイさんの声に、ゾーケルは完全に萎縮していた。
「せっ、精鋭隊の…………!!!」
ゾーケルを睨むグラーゼイさんの目つきには、凄みがある。もし視線で人を殺すことができるなら、もうゾーケルもゾーケルの取り巻き達も、10回は死んでいるだろう。
普段とは比べ物にならないその迫力に、私は集まっている市民と共に圧倒されていた。
「ゾーケルとか言ったか。どこの隊の所属だ?」
「…………う、あ」
蒼褪め、口がきけないでいる相手の腕を(グラーゼイさんの腕と比べると、すごく華奢に見える)、グラーゼイさんはさらに捩じり上げた。
「言え」
「ヒッ…………!」
手から零れ落ちて地面に転がった短剣を、グラーゼイさんの足が無慈悲に踏みつけた。
「騎士の刃は主の刃と心得ぬか。仮にも「白い雨」を名乗るなら、剣の重みを知れ。…………お前は誰で、何をしていた?」
この隙に忍び足で逃げようとしていた女と取り巻きを、グラーゼイさんは見逃さず一喝した。
「逃げるな!!」
腰を抜かしてその場に固まる取り巻きの後ろから、誰かの名前らしきものを何度も呼びながら、一人の細身の女性が駆けてきた。
全身を粗末な黒いローブで覆っている。野次馬をかき分けるうちに、彼女の被っていたフードが剥がれた。
毛深い肌の、子供と同じ山羊の目をした異邦人だった。
「ママぁ!」
子供が女性に手を伸ばす。
女性は跪いて血だらけの子供を強く抱き締め、頭を撫でた。何度も。何度も。
子供の泣き声が広場に響き渡る。
ゾーケルが、震える声で答えた。
「お、俺は…………第5隊の、ゾーケル・モルグズで…………あ、主の敵を…………き、清めようと、しただけで…………」
「断罪は主のみが為せる業だ。この不届き者め。…………して、貴様らは?」
金色の視線が取り巻き連中へと刺さる。
彼らは口々に答え、ゾーケルと同じく血の気を失くしていた。
グラーゼイさんは冷ややかに一同を見下ろし、厳かに言い渡した。
「貴様らの身柄は自警団へ引き渡す。余罪も含めて、彼らが調査する。…………ゾーケル・モルグズ。第5隊長には私が直接、伝達する」
「えっ!? そ、それはどうか…………」
「第5隊で、以前市街で禁術の使用を試みた者があったと聞いた。…………貴様だな」
「え…………!? …………でっ、ですが、あれは酔っていて…………」
「それ以上下らんことを抜かせば、私自ら貴様を主の御前に引き出す。貴様にほんの一片でも騎士の誇りが残っているなら、その穢れた口を直ちに閉じろ」
「…………」
ゾーケルは今や死体のような顔色をしている。何か上の空でブツブツと呟いていたが、声が小さ過ぎて聞き取れなかった。
そのうちに、他の「太母の護手」と思しき人々が大勢詰めかけてきた。民衆の間に怒号やら悲鳴やらが広がり、人だかりがさらに遠巻きになる。
「太母の護手」の集団は親子とグラーゼイさんとの間にぞろぞろと立ちはだかると、傍目にも背筋の寒くなる、怒りと恨みの煮えくり返った山羊や馬や猫の瞳を、一斉にグラーゼイさんとゾーケルへ向けた。
そのうちの一人、ほとんど直角に腰の曲がったつり目の老人が、しゃがれた声で話した。
「…………教会騎士団。我々はお前達を許さない。断じて」
グラーゼイさんは何も言わない。
人だかりの声だけが広場を満たしている。私にはもう、彼らの言葉はわからない。
乱れ飛ぶノイズの中、老人の話す言葉のみが糸のように細く、かろうじて届いた。
「だが…………ここでは争わぬ。赦しの時がいずれ来る。母様は必ずや、お見えになる」
グラーゼイさんの目が、微かに尖る。それでも彼は動かない。腕を捻られたままのゾーケルは息も絶え絶えといった面持ちで、脂汗にまみれていた。
「太母の護手」達は親子に何か声をかけ、踵を返して歩き始めた。
民衆からの野次をものともせず、寄り集まって歩いていく。
怒声がグラーゼイさんにも向かっている。だが彼が視線を向けると、それはピタリと止んだ。
子供を抱いた母親が立ち上がり、グラーゼイさんに小さく一礼してから一団の後ろをついていく。
民衆の誰かが叫ぶ。母親を責めているのか、グラーゼイさんを責めているのか、わからない。
「――――…………殺せ!」
最後に一言だけ誰かの声がカツンと頭に響いて、私は元通り、本当に何も聞こえなくなった。
ざわつきばかりの世界で、グラーゼイさんが私の元へ戻ってきて言った。
「お傍を離れて申し訳ございませんでした。何事もありませんでしたか?」
ふるふると首を振って返す。
申し訳無いも何も、そもそも私が首を突っ込もうとしたせいだ。
グラーゼイさんは無表情で私を見つめ、続けた。
「重ねて申し訳ございませんが、本日の外出はここまでとさせて頂きたく願います。また日を改めて参りましょう」
「…………はい」
当たり前だ。
こんな風になって、のうのうと買い物を続けられる方がどうかしている。
もうショールとか贅沢とか、遠い昔のことみたいだ。
グラーゼイさんは道の向こうからやってきた青年達にゾーケル達を任せると(恐らく彼らが「自警団」なのだろう)、私を連れて、きた道を引き返し始めた。
尋常でない注目を浴びながら、私は肩を落としてこっそりと謝った。
「あの…………ごめんなさい。私のせいで、こんなことに…………」
グラーゼイさんは淡々と答えた。
「お気になさらず」
一拍置いて、彼は言葉を繋げた。
「…………「勇者」殿は正しくございます。おかげで騎士の道を外さずに済みました。幼子ひとり守れぬ者が、どうして「白い雨」を名乗れましょう。
…………ですが、今後は力の発動にはくれぐれもお気を付けください。貴女が力を行使なされば、サンラインは…………」
「わかってる。というか…………よくわかりました。…………ごめんなさい」
「わかってくだされば、結構です」
私は項垂れ、館への道をとぼとぼと辿った。
…………わからない。
あんな気分には、もうなりたくない。
もう外なんか出ない。
やっぱり、私は何もしちゃダメだ。
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