第177話 貫け、魂の檻。俺が天翔けるネオンテトラとなること。
レヴィの背に掴まった俺の身体が、虹色の砂となってサラサラと流れていく。
ぐんぐんと水面へ向かって彼が泳いでいく中、俺は崩壊していく自分を見つめながら、不思議なくらい落ち着いていた。
完全に砕けた俺は付かず離れず、獣の身体を包む光となって濃紺の海を照らしていた。
染まらず、抗わず。こんな在り方があるだなんて、今まで考えもしなかった。
レヴィの魔力が俺の全身を満たしている。
扉の気配はそこかしこに感じられるが、どういうわけだか触れて開くことはできなかった。
(…………何でだろう?)
考えてみて真っ先に思いついたのは、ナタリーのことだった。
ナタリーの力がなければ、レヴィの本当の力は引き出せないのだ。
俺が早速光を揺らがせて合図を送ると、返事はすぐに返ってきた。
(ミナセさん! どこまで行っちゃったのかと思ったよ!!)
彼女の疲労と息遣いがぞわりと海を震わせる。水面から差してくるあの不気味な光は、相変わらず不穏な足取りのダンスを踊っていた。
俺が力を貸してほしいと伝えると、ナタリーは一瞬沈黙し、次いでハッと苦しそうに息を吐いてから答えた。
(ごめっ…………、今、ちょっとヤバかった! 少しっ…………、もう少しだけ、待ってねっ! 今っ、どうにかっ…………隙、作るからっ!!)
ナタリーの戦う様子がパッと頭に閃く。
能面女の4本の腕は、いつの間にか2本のみとなっていた。残りの2本はあらぬ方向に捻られて、だらりと垂れている。
蜘蛛男の方は依然、健在であった。
ぐわんとうねる蜘蛛男の長い腕が繰り出す、薄黒の盾の一撃は決して侮れない。
それは床や壁をザリザリと豪快に削りながら、躊躇いなくナタリーの足や首を狙って放たれた。ナタリーは盾を避けながら、能面女の乱撃を寸でのところで捌き、すかさず打ち込んでいく。
隙を作るというが、到底そんな瞬間が訪れる気配は無かった。
俺は少し迷い、レヴィに呼びかけた。
(レヴィ!)
白黒模様の雄大なクジラが、入り乱れる光の中で神妙に身体を捻る。神々しいその姿に、俺は息を飲んだ。
彼の力は間違いなく、呪いを破る。
いや、もしかしたら、それ以上の…………。
俺は確信を新たにし、彼に言った。
(ナタリーを手伝いに行ってくる。彼女の扉を開く)
俺は獣の賢そうな黒い瞳を見つめ、さらに言葉を付け足した。
(ああ、わかってるよ。そんなことをしたら、「無色の魂」に余計な色がつく。そしたら君も、今のままではいられない)
レヴィが頷くかわりに、微かに目を細める。
サン・ツイードから出る前に、ツーちゃんが言っていた話だ。
魂獣使いは、パートナーの魂獣に合わせて魂の色を厳しく調整しなければならない。とりわけレヴィのような強い魂獣と共に生きるためには、己の霊体を「無色の魂」に入れ替えてでも魂の無垢を守る必要がある。
魂獣は蓄積された人の祈りや恨み、憧れなどから生まれる「呪的存在」なのだという。だから彼らは、主の抱く想いによって…………「例えそれがほんの、髪の毛程の些細なものであったとしてもだ」…………記憶の中の琥珀色の瞳が、キッと俺を睨みつけて言い加える…………「予想だにしない影響を被りうる」。
あの時、紡ノ宮で総司教から聞いた「黒い魚」の話が頭によぎった。
レヴィがそのような存在に貶められてしまうのではと、一抹の不安はある。
トレンデで出会った喰魂魚。魔海の底から生まれてくるという「黒い魚」。そしてレヴィ。皆、よく似ている。難しい理屈はわからないが、確かにそうだと感じる。
だが俺は、レヴィに思い切って強く訴えた。
(…………大丈夫。今日は、俺がいる。だから…………信じて)
レヴィが大きく身体を揺らし、細く長く鳴く。
心に迫る、高く澄んだ調子だった。
――――行ってこい。
そう言われている。
俺は「ありがとう」と答え、レヴィから離れてシラスの形に戻り、ナタリーの力場に…………海の色そのものに集中した。
ナタリーの扉を探そう。
俺の力じゃ、今の彼女の身体に直接触れることはできない。割って入って助けてあげられたら最高に格好良いけれど、実際やったら惨殺死体がまた一つ増えるだけだ。
俺は剣士じゃない。扉の魔術師だ。
俺のやり方で、助けよう。
――――――――…………水面から差し込む、気味の悪い光。
黒。灰。青。白。
明らかにさっきまでよりも激しく、禍々しくきらめいていた。
濃紺色の寝静まったような海に、俺は唯一人浮かんでいる。
――――Oooo-n……
レヴィの声が遠巻きに響く。
俺は心だけで微笑み返し、わずかに残っている潮流を辿った。
いつだって、力の流れる方に扉はある。それが俺にとって良いものであれ悪いものであれ、向かって行かないことには何も変えられない。
俺は上空から降り注ぐサーチライトのような不穏な光を注意深くやり過ごしながら、ゆっくりと流れに沿って進んでいった。
初めに潜った時よりも、海の広さや深さがよく感じられる。ちょっと冷め過ぎているんじゃないかってぐらい、冷静でいられた。本当によく見えている時って、こういう状態なのかもしれない。
…………小さな泡だけが時々立ち昇る、どこまでも深閑とした海。
俺はふと、ナタリーのアクセサリーがかき鳴らす勇ましいリズムのことを思った。何の脈絡も無く思いついたことだが、考えてみれば悪くない。彼女を鼓舞するには、あれはうってつけの旋律ではないか。
今は聞こえないあのリズムを、どうにかして内側から響かせることが出来れば…………。
俺はゆるく八の字に辺りを旋回しながら悩んだ。
何か利用できるものはないか。
よく見てみよう。
よーく…………。
プカリとどこかから泡が昇っていく。
おぞましい光を身一杯に浴びながらも、どれも水面に至って呆気無く柔和な波紋に変わっていく。
丸く放たれた波紋は水面を柔らかく滑って重なり、静かにリズムを刻んでいる。
どこからやって来た泡なのだろう?
俺は下方を覗き込んだ。
暗くてよく見えないが、海のそこかしこから間を置かずに昇ってきている。
俺は力場から館に意識を寄せ、ナタリーの戦いに注目した。
彼女が能面女へと拳を振り、蜘蛛男へ回し蹴りを放つ度に、シャンシャンと景気良く鳴るアクセサリーの音と波紋の綴るリズムとは、丁度裏拍を取るように調和していた。
ナタリーが心配そうな目線をこちらへ送っている。
俺は静かに親指を立て、再び濃紺の海へとダイブした。
――――…………水面に描かれる小気味良い波の輪の舞踏は、穏やかだ。
それこそ今の今まで気付かなかったぐらいだから、本当に微かなのだった。少し海が荒れて波が立てば、あっという間に掻き消されてしまうだろう。
俺はじっと心を凪がせ、泡の湧いて出てくる源を探りに行った。
怪しい光のカーテンをくぐる様にして避けつつ、深く深く潜っていく。
大空洞へ。
胸に浮かぶ畏れを、大切に抱きつつ。
泡はポツポツと続けて生まれ、たまにじらすように途切れた。
俺は辛抱強く出所を追って、次第に姿をシラスからネオンテトラに変化させていった。(どうでもいいけど、ネオンテトラって淡水魚だ。本当にどうでもいいけど…………)
…………そうしているうちに、いよいよ水面からの光が届かなくなった。
星も無い宇宙の大穴に放りだされたような、底の抜けの真っ暗闇。
人間として生きてきた者なら、当然恐怖を抱く。
腹の青いラインが勇気を奮い立たせる。ナタリーの魂は、このどこかに必ず在る。俺はそれを知っている。不安になる必要なんて無い。
やがて囁き声が聞こえ始めた。
溌剌としていながらも上品な、聞きよい女性の声だった。
――――様…………。
――――勇者様…………。
つい振り返りたくなるような、温かく慕わしい調子。
声は優しく言い継いだ。
――――どこへ行かれるのです? 勇者様。
――――あんまり奥へ向かわれますと、危険ですよ。
――――これは、敵の罠です。
――――早くお止めにならないと、戻ってこられなくなりますよ?
薄いベールを目深に被った、ジェンナそっくりの女性が俺の近くに寄り添ってくる。
俺は彼女の方を振り向きたい衝動を堪え、泡を追い続けた。
これも、根源の光の呼び声か?
しかし…………。
俺の困惑をいち早く察してか、声は矢継ぎ早に語っていった。
――――ええ、そうです。
――――私は、根源より至りし者、古の水先人の一人。
――――勇者様に一刻も早く馴染んで頂きたく、貴方の記憶の中からこの姿をお借りしております。
――――自ら死地に踏み込んで行こうとなさる貴方を、どうして黙って見ていられましょう?
――――ご存知でしょう? 今代の水先人であるナタリーは、貴方を深く慕っているのですよ…………。
褐色の美しい手が俺に触れかかる。
俺は反射的にその手の指の間をすり抜け、さらに闇の深みへと進んでいった。
正体不明の寒気が全身に走る。
(俺は…………何を恐れている?)
無視していても、女性はしつこく纏わりついてきた。
――――ああ…………どうか怖がらないでください。
――――強過ぎる光が人を怯えさせるのは、宿命ですけれど。
――――どうか、私を信じてください。
――――触れあえば、きっと分かり合えるはずです。
女性がもう一度腕を伸ばしてくる。
俺はスルリと避けて、小さな尾ヒレを一杯に動かして逃げた。
ダメだ。どうしても嫌な予感がする。
女性は苛立つ様子もなく、スッと静かに俺に並んで言葉を繋げていった。
――――勇者様…………。お聞きになってくださいまし。
――――この力場を侵しております「太母の護手」の男は、非常に狡猾な男です。
――――あの者にはただ己と、己の信ずる「母」があるのみなのです。
――――「母」のため…………人を陥れる必要があるとなったならば、彼は全くの正邪の区別無く、それを成し遂げるでしょう。
――――傲慢で潔癖な…………揺ぎ無き世界。
――――それが、彼の世界です。
俺は黙々と泡のやって来る先を辿っていった。
段々と噴き出す勢いが強くなってきている。
源まで、きっともうすぐだ。
懸命に泳ぐ俺の傍らで、女はなおも話し続けていた。
――――あの男は、蒼の剣鬼に確かに斬られました。
――――ですが、あの男にとって死とは即ち「母」への回帰に他なりません。
――――彼にとっては、死は尊ぶべき原体験なのです。
――――…………あの男は幾度とない死を通して、呪いの力場への適応を高めてきました…………。
――――幾星霜もの時を、彼は力場に魂を捧げて「生きてきた」…………。
――――彼の思念は最早、「彼」という呪いです。
――――それは何代にもわたって同じ志を持つ者に継がれ、「彼」はついに力場そのものとなったのです…………。
横目に見える女性が、興奮に肩を震わせる。
泡の噴出する先が、ようやく見えてきた。俺は一層全身に力を込めて泳ぎ、泡の勢いに抗った。
(…………速く!)
女が微笑を浮かべていた。
彼女はおもむろに纏っていたベール剥ぎ、水中に広げた。
俺は慌てて身を捻ったが、その時にはすでに、フワリと舞った紗の布地が俺を囲うように威圧的に翻っていた。
(――――しまった!)
――――ですからね、勇者様…………。
女の声が急にくぐもって低くなる。
俺はもっと速く、もっと速くと懸命にヒレを動かし、足掻いた。
青いラインが、キラリと闇の底を照らし出す。
水底から溢れた泡が、光を反射する。
――――逃げられないんですよ、貴方は。
「太母の護手」の男の声が頭蓋に反響した。
俺は身を捨てる覚悟で人の形に戻り――――布から編み出された途方もない数の腕が、全身に絡み付いた――――思いきり泡の源に手を伸ばした。
(開け――――…………っ!!!)
闇の底の裂け目に、大きな亀裂が入る。
地震のような激しい振動が闇を震わせた。
亀裂からドッと溢れた泡が、たちまち俺を白く包む。
俺を絡め取っていた腕がことごとく引き剥がされた。
――――! なっ、何だと!?
男が動揺し、俺から離れる。
俺は泡の勢いに押され、息ができなかった。身体がみるみるうちに水面へ向かって押し上げられていく。浮上するにつれて、全身と肺に鋭い痛みが走った。
堪らず咳き込んだ際に生まれた泡が、他の泡に紛れて水面へ昇っていく。
苦しくて、脳が真っ白になる。
猛烈な勢いで迸る泡は、海原中に充満して力場を沸騰させていた。
さながら、カーニバルじみた景色だった。
男は大祝祭の最中、早口でまくし立てていた。
――――なんという…………なんという、忌々しき穢れ!
――――だが…………私は死を乗り越え、「母」と一つとなる!
――――完全なる回帰の時は近い!
――――あと少し…………っ、歌う御使いの力さえあれば…………このような、穢れになど…………!
俺は水面を突き破って大海を飛び出し、ナタリーに叫んだ。
「ナタリー!!! 今だ!!! 決めろ!!!」
ナタリーは翠玉色の瞳をきらめかせ、瞬時に目の前の能面女の顔面に流星の拳を叩き込んだ。
女の頭部が粉々に砕け散った刹那、彼女は息次ぐ暇も無く宙返りし、着地ざまにぐんと腰を落とした。
突撃してくる蜘蛛男を正面に見据えた彼女は、鋭い掛け声と共に蹴り…………否、閃光瞬く「斬撃」を放った。
「ヤァァァ――――――――ッ!!!」
彼女の左足が薄黒の盾を斬り裂き、さらには蜘蛛男の喉笛から顎までをバックリと一直線に割る。
噴き出した夥しい血が、崩れ落ちる男を真っ赤に染めた。
「…………勝負、あり!」
ナタリーは肩で息をしながら、光り輝くスマイルで俺を見て親指を立てた。
「レヴィも、もういるッスよ!」
ハッとして俺が仰ぐと、そこでは虹色の光を纏ったクジラが威厳ある巨体を窮屈そうに畝らせていた。
部屋を包んでいた暗闇も、青白い火の玉も、最早彼の悠然とした光に押しやられて見る影もない。
タリスカは最後に残った幻霊もどきを斬り終え、俺と同じようにレヴィへ目をやっていた。
レヴィは余ったわずかな闇の力場にも止めを刺すべく、大らかで高らかな鳴き声を轟かせた。
――――O-Oo-Ooo-o-n…………
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