第176話 水先人の追憶。俺が色無き海を漂うこと。(後半)
――――――――…………夢だったのだろうか…………。
気付けば俺は、不思議な景色を眺めていた。
ナタリー…………いや、ナタリーではない。ジェンナと同じ、彼女と同じ魂を共有する誰かが、茜差す小高い丘の小さな祭壇の前に跪いていた。
祭壇には古くて素朴な鳥の像が飾られていた。背後から差す夕陽を浴びて雄々しく翼を広げているその姿は、今はもうすっかり色褪せて、みすぼらしい。
神鳥の円らな琥珀の瞳が、飾られた野花越しにじっと女性を見下ろしている。威厳と慕わしさが同居している、どこかありふれた感じのする像だった。
女性は黙ってひたすらに祈りを捧げていた。
見ているうちに彼女の想いがじんわりと、フィルムを現像するみたいに俺に映り込んでくる。
一つの時代の終わりを見届けた人の、染み入るような情緒だった。
もう永遠に巡り合えない人々への追憶。
残された記憶への愛着。
どこまでも続く鮮烈な空の美しさ。
…………虚しさ。
厚く濃くたなびく灰色の雲と、苛烈に燃える紅の陽とのコントラストが凄まじかった。強い風が雲を押し流し、丘に落ちる長い影達を一層際立たせている。
全てが溶け合わずに、それでも同じ時の中で精一杯に息づいている。
女性は誰にともなく、掠れた声で語った。
「…………もうすぐ陽が落ちます。
…………女神様、これでよろしかったのでしょうか?」
風の音がする。
枯れた草原の葉が、乾いたさざめきを立てた。
それは紛れもなく、女神の返事だった。
素っ気なくも、澄んでいる。この世の儚いもののほとんどがそうであるように、その声は俺達の最も柔らかい場所を撫でて、やがて何処とも知れぬ彼方へと去っていった。
女性は見送るように、ポツリポツリと言葉を続けた。
「貴女は白く生まれ変わるのだと、人々が口にしております。
…………私にはわかりません。本当にあれは正しい選択だったのでしょうか?
人々の魂が導きの光を望み、貴女は彼の者をお産みになった。そして貴女はただ灰だけを残し、この地を去られた…………。
貴女が忘れ去られていくのは、私には耐えられません。そんなことは、間違っています。
貴女はまだいらっしゃるのでしょう? 誰に知られずとも、巫女である私にはわかります。貴女のお傍で永らく魂を捧げてきた私の内には、未だ貴女の灯が残っております。
…………残っております!」
駄々をこねるような、強く拙い口調。
俺には明け透けに彼女の心情が伝わってきた。
彼女の信じようとしている温もりは、かつて在ったものの名残に過ぎない。彼女の女神は、風と共に去ったのだ。
女性は唇を噛み締め、くしゃりと豊かな茶色の髪を掻き上げた。
ナタリーと生き写しの翠玉色の瞳が、零れそうに潤んでいる。時々、ナタリーも同じ目をする。堪らず「感情」を爆発させる時に。
彼女は深く息を吐いて茜空を見上げ、虚脱した表情で呟いた。
「もし…………人々の言う通り、貴女も私達の魂の投射に過ぎなかったのだとしたら…………?
私は…………今まで…………何を、信じて…………?」
幻の灯がフワリと消える。
あっけない終焉。
彼女の不信は白い光に裁かれ、彼女は未来永劫続く虚無の底へと封じ込められた。
…………。
――――――――…………歌が聞こえる。
前に、道端で子供達が口ずさんでいたのを聞いた時に、フレイアが俺に教えてくれた歌だった。
サンラインの古い童謡で、三寵姫を称える歌だと。
♪…………かわいい 3にんの お姫さま
♪りゅうの 王さまの
たいせつな お姫さま…………
レヴィの鳴き声が暗闇に微かに響いた。
だが俺は、再び目の前に広がった景色にすっかり気を取られていた。
次に俺の前に現れたのは、翠の主だった。
相変わらずのボサボサヘアに、つぎはぎだらけの汚らしいシャツとスカート。長過ぎる前髪に隠れたニキビ面は、よく見ればそれなりの美人であるにも関わらず、およそマトモに手入れされたことのない肌のせいで、誰が見ても台無しというレベルにまで貶められている。
賢人会で俺が出会った彼女本人なのか、それとも彼女と魂を共有する別人なのかはわからないが、いずれにせよ俺が見る限り、彼女達に違いは一切無かった。
翠の主は紡ノ宮の中と思しき真っ白な沐浴場で、足首だけを霊泉に浸けて、独り童謡を歌っていた。
もっさりとした外見に反して、歌声は天使のように伸びやかである。
少女のようなあどけなさと母親のような慈愛が、綺麗に溶け合って奏でられている。彼女は足をちゃぷちゃぷと揺らしながら、心から楽しそうに歌っていた。
♪あかの 姫さまと
あおの 姫さまと
みどりの 姫さま
♪いとしい わたしたちの お姫さま…………
…………自画自賛?
そんなことを考えていたら、ふいに彼女が歌い止め、誰かに語り掛けるように話し始めた。
「…………。
…………思ったんですけどね、やっぱり3人もお姫様がいるって欲張り過ぎじゃないですか?
ねぇ、王サマ?」
翠の主は中空に無邪気な微笑みを向け、言い継いだ。
「一度、どうしてそんな浮気性なのって、エレノア姐さんに聞いてみたことがあるんです。
そしたら、呆れた答えが返ってきて」
俺は自分も泉の端に座って、彼女の話に耳を傾けていた。
俺が足を揺らすと、水面も揺れる。
翠の主は気付いているのかいないのか、淡々と話を続けていった。
「それはね、「皆のことが好きだから」って。
…………私、正直「好き」ってよくわかんない感情なんですけど、それでも何となく「それは馬鹿にされてる」って、わかりますよ。
だって、そんな誰にでも「好き」なんて言っていたら、最終的に誰でもいい! って感じになっちゃいませんか?
っていうか、現にほとんどそうなってるでしょう? ねぇ、王サマ?
…………いえね、私だって一応、貴方と共力場を編んだオヒメサマですから、貴方が本当に言いたい事はわかってます。…………貴方の愛情はこの世界に息づく、ありとあらゆる魂に向けられている。だけど貴方は直接に愛することができない。貴方を創った魂の呪いが、貴方をそうさせないから。全てを赦す混沌は、その始まりからして貴方から切り離されているから」
俺が上げた足から、ちゃぷん、と雫が垂れる。
翠の主ははたと俺を見つめて――――年古りた桜の幹のような、濃い茶色の瞳だった――――それからまた宙を仰いだ。
「…………けど、けどですよ? どうせ代表を決めるなら、やっぱり1人でよくないですか? どうして3人なんです? 一体、何が基準なんです?
魔力の強さでないのは、わかります。それならば紅と蒼はともかく、私などが選ばれるはずはありませんもの…………」
俺は彼女に倣って、半球形の天窓を見つめた。晴れた空から強い光が差している。
そう言えば、リーザロットも同じことで悩み、苦しんでいた。
はたして答えのあることなのか、どうか。
翠の主は一旦足を泉に深く沈めると、微かに目を細めて問いを重ねた。
「答え…………。
貴方を本気で愛せる子…………ですよね?」
水の中で、ユラユラと細く白い足が揺れる。いたずらに波立った水面が、俺にぶつかって小さな飛沫を立てている。
翠の主はそのまま、つらつらと続けた。
「目に見えない者を愛する。それはある種の天性なのだと、昔「勇者」さんが言っていました。私にはその才があるとも。
…………私が王サマを見つめる時、王サマもまた私を見つめている。
貴方はきっと、私達をさえ赦せない。それでも、貴方は赦される。炎のような情熱に中てられて。大海原と星空の揺り籠に抱かれて。大樹の木陰を吹き抜ける風に微睡んで。貴方はそうしてやっと、自由になれる」
翠の主はゆったりと身を起こし、数歩歩んで全身を泉に浸けた。
濡れたショールが水面に大きく広がって、水底に美しいレースの影を躍らせる。
彼女は片腕を空へ伸ばし、優しく言った。
「…………王サマ? 見えますか?」
俺は彼女の腕にクッキリと彫り込まれた、色鮮やかな海獣の刺青に見惚れていた。
ナタリーの腕に刻まれているのと全く同じ、一目で心を奪われる紋様。
「…………レヴィ」
思わず零れた呟きに被さって、翠の主が言った。
「愛とか、好きとか、ちっともわからないけれど。寂しいっていうのは、よくわかります。
私はあまりに遠くへ流れてきてしまった。パパも、ママも、もうすぐ会えるけれど、私にとってはもう遠い人。
この刺青の子も、「勇者」さんと一緒に戦でどこかへ消えてしまった。今はどこを泳いでいるのだろう…………。
…………王サマ。私には、貴方しかいないのにな。
納得いきません。でも、わかる。
人恋しいのは、堪らないです」
――――Oooo-o-n…………
すぐ近くで、大いなる海獣の嘆きが轟く。
俺は振り返り、背後に広がっていた広大な闇と相対した。
向き直るともう、翠の主も紡ノ宮も失せている。ただ莫大な闇だけが眼前に横たわっていた。
「…………レヴィ。いるのか?」
俺の問いかけに、翠の主の愛らしくも涼やかな歌声が重なった。
♪りゅうの 王さまの 雨がふる
しろい お空と くろい海 にびいろの森
♪あかの 姫さまは もえている
あおの 姫さまは ゆれている
みどりの 姫さまは ねむってる
♪りゅうの 王さまの 雨がふる
しろい お空と くろい海 にびいろの森…………
――――――――…………それから俺は、また別の景色へと流された。
だがそれはもう、到底景色とは呼べないものだった。
およそ人の言葉では表しきれない、陰惨な暴力の嵐。
引き千切られた血と肉から醸し出される、独特の饐えた匂い。
無理矢理に絞り出された吐瀉物と溢れた排泄物の入り混じった水溜りが、暗い路地をじっとりと浸していく。
むせ返るような熱気の立ち昇る真夏の夜。
下卑た笑い声。獣の咆哮。怒声。狂暴な炎の揺らめき。
凶行は終わりなく続いた。
肉の焼ける匂いと音が身体から離れない。
傷口に刷り込まれた砂鉄のザラついた感触が脳の神経を引き裂いていく。
ぽかんと丸く上がった満月は吹き荒ぶ赤と黒にまみれて、打ち捨てられた紙切れのように薄っぺらく、弱々しく瞳に映っていた。
脳裏に何度も繰り返しよぎるのは笑顔。
ヒマワリのような、あどけない笑顔。
手を伸ばして撫で回したくなるその少女は、翠玉色の明るい瞳を瞬かせ、元気に白い日差しの向こうへと駆けていく。
「――――お父さん!」
答えたい。
渇いた咽喉から掠れた空気が漏れる。
焼け爛れた咽喉と、砕かれた歯と顎が、この世のものとは思えない虚しい音を立てる。
…………。
――――――――…………やがて朝の日差しが、路地に鋭く差し込んできた。
ひどく汚い、ドブ臭い街の一画だった。
辻に捨てられた遺骸にネズミと蠅が群がっている。
悪臭をたっぷりと孕んだ海風が、早朝の街を舐めるように吹き抜けていった。
火傷と打撲で奇妙に膨れ上がった男の遺骸には、辛うじてまだ四肢らしきものが残っていた。あちこちの関節が捩じれ、指は一本残らず斬り落とされ、下半身はとりわけ凄惨に潰されていたが、腕に彫られた海獣の刺青だけはしっかりと残されていた。
鳥や獣が食い散らかした臓腑が、辺りの壁にへばりついて乾いている。
集まってきていた人々の一人が耐え兼ねて嘔吐すると、次いで何人もが朝食を道路に戻した。
野次馬の女性の遠慮の無い叫び声が、ひどく耳に障る。
遺骸にぴったりと寄り添っている少女の小さな背中には、幾筋もの好奇の視線が注がれていた。
彼女の左腕には、遺骸と同じ鮮やかな刺青がある。
そのうちに自警団で見た覚えのある男(待機所の入り口でクラウスと言い争っていたヤツだ)が息せき切って駆けてきた。
男は乱暴に群衆を押しのけて遺骸の前へ出、一瞬だけたじろいだ後、じっと微動だにせず遺骸を見つめている少女の肩を支えた。
振り返った少女の瞳は場違いに鮮やかで爛々としていた。
激しい怒りと深い悲しみ、絶望、そして混乱と興奮とが一気に噴出した眼差しを真っ向から浴びて、男も俺も言葉を失くした。
見間違えようも無い、翠玉色の瞳。ただの女の子の、真っ直ぐな眼差し。
ナタリーは瞬き一つでその瞳を壮絶に濁らせ、激しい憎しみを声に滲ませた。
「すぐに、「私」を、殺して」
震える声が、俺の胸を深く抉った。
「要らない。魂なんか、要らない!
「私」が濁りきる前に、早く殺して!
…………「無色の魂」で、全部染め上げて!!!」
暗転。
潮香の混じった腐臭だけが微かに残って、立ち消えていく。
――――――――…………。
――――――――…………そして俺は、再び海原の底で目覚めた。
すぐ近くに、大きなものが寄り添ってくる。
見ると、レヴィが頬を寄せていた。
レヴィはほのかな虹色の光を纏い、悲しそうに歌っていた。
――――ppp-n-ppp-n……
――――rrr-rrr……
――――tu-tu-tu-n-tu-tu-tu……
俺はレヴィの頬に触れ、歌声に今さっき見た景色を重ねた。
あれは…………水先人の魂に刻まれた記憶だろうか。
長い歴史を見つめながら、それを言葉にする術を持たない。
悠久の孤独と空白が、彼女達の因果。
だけどそこには、確かに心が息づいていた。決して拭えない痛みの記憶と共に…………。
俺はぐっと腕に力を込め、レヴィに語り掛けた。
「…………行こう。もう君の主に辛い思いはさせない」
レヴィがゆったりと尾ヒレを流して身を捻り、俺を背へ乗せる。
俺はミナセ・コウとして彼にがっしり腕を絡ませ、掛け声をかけた。
「さぁ、ナタリーのもとへ!
母だか呪いだか巫女だか何だか知らないが、痛いのなんか糞くらえだ!!!」
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