第174話 ある剣士の幻。俺が渦巻く思念の力場で覚悟すること。

 …………フラッシュを焚かれたみたいな鋭い瞬きが、突如脳裏をよぎった。

今まで感じていたはずの苦痛が嘘みたいに晴れて、ついさっきまで必死で願っていたことがまるで他人事のように遠く、他愛も無く感じられる。

 唐突に肩の荷が全てほどけて落ちて、俺はどんな言葉も感情も編み出せなかった。


(ついに、俺達死んだのか?)


 タカシの戦々恐々とした問いに、俺は無意識に「いや」と短く答えた。

死んだにしては、ハッキリ「見え」過ぎていたから。


 ぼんやりと霞む意識と無意識の狭間に、どこかで見たような偉丈夫が立っていた。使い古した傷だらけの甲冑に、血と泥とが色濃くこびりついた漆黒のマントを羽織っている。その両手には粗野で武骨な曲刀。剥き出しの刃が冷たく蒼白い光を放っている。


俺を振り返った顔には、彼の挑んできた尋常でない戦の歴史が無数に刻まれていた。とりわけ額に走る落雷の跡に似た傷跡は、見ているこちらの背筋まで凍らせる迫力だった。


険しく乾いているが、妖艶な色味を帯びた褐色の肌。どこか切ない炎を湛えた燕の羽の色の瞳。強い覚悟と、そして到底隠し得ない戦への飽くなき飢えが、その眼差しに根深く、荒々しく、傲慢なまでに美しく宿っていた。


(――――タリスカ…………?)


 思わず口走った時にはもう、剣士の姿は幻と消えていた。

 残ったのはただ空虚な昏い力場だけで、俺の意識はそこに独りきり、忘れ去られたかの如く取り残されていた。


 タカシの動揺が直ちに俺にも映される。

俺はたちまちまたあの誘惑に駆られ、慌てて叫んだ。


(タリスカ! 助けて!!)


俺に答えて、彼の低く重々しい声が力場に響いた。


(…………勇者。呪術の力場は、初めてではなかろう)


 俺は喜びと安堵で、ほとんど泣きながら返した。


(そうだけど、あの時はツーちゃんが一緒で、何かよくわからないけど、力場の「想い」を見えるようにしてくれて、それで何かこう、何とかなったんだ! 俺だけじゃどうにもできない!)

(…………)


 骸骨の無表情が目に浮かぶ。

 タリスカは一拍置いた後、静かにこう言った。


(勇者、改めて心得よ。呪術の力場とは即ち、思念の力場也。ツヴェルグの教えが如何なるものであったかは知らぬが、本来この力場には形も言の葉も存在せぬ。純然たる思念の流域は、それらの鏡像として生ずる。不可分なれど、決してそのものではない)

(それは、何となくわかるけれど…………でも、そしたら、俺はどうしたらいいんですか?)


 ふいに骸の騎士の二刀が鮮やかに脳裏に閃く。

 俺は斬りつけられたと確信し、縮こまった。一呼吸遅れてタカシが震える。俺はタカシの乱れた呼吸を追って知って、ようやく己の無事に息を吐いた。


 形なんて無いのに、俺はまさにその瞬間、自分を失ったと感じた。思うより考えるより速く、死神の剣が「俺」を裂いた。

 タリスカは慰めるとも諭すともなく、淡々と語っていった。


(勇者よ。斬るとは、思念の業に他ならぬ。斬るべきものは魂にこそ映ると、ただ胸に刻め。…………真の剣は形を斬るのではない。名を斬るのでもない。研ぎ澄まされた魂によってのみ見極め得る、彼方の魂を断つ)


 タリスカは少し間を開け、それからあの幻の眼差しを彷彿とさせる、雄々しくも傲然とした調子で続けた。


(…………無論、容易い業ではない。私も未だ、遥かな玉座への途上にある。

されど勇者がこの力場を破るには、かような覚悟を以て成す他に道は無い。私とツヴェルグでは戦の仕方が異なる。同様に導くことは出来ぬ)


 俺は頭を抱え、半ば八つ当たり気味に言葉をぶつけた。


(でも、俺は剣なんか使えないよ! ナタリーみたいに喧嘩も強くもないし! 扉の力だって…………何も考えちゃいけない、何も見ちゃいけないってんじゃ使いようがないじゃないか!

 さっき助けてくれたみたいに、タリスカが全部斬ってくれるわけにはいかないの!?)


 その時、遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえた。哀切な、母がはぐれた子を探すような声である。

 俺は振り返りかけ、危うく意識を留めた。


 ダメだ。嫌な予感がする。

 ここは未だ敵の力場の中だ。迂闊に答えたら、またあの暴力的な思念の渦に囚われてしまう。


 そんな俺を見据えるタリスカの視線を確かに感じた。

 夜を映す氷面のような黒の瞳がひたと俺に向けられている。褐色の肌に意外に愛嬌のある皺を寄せ、微笑んでいるかに見えた。

だが、ふとした拍子にはもう、骸骨の彼がいつも通りの声音で話をしていた。


(勇者よ、ここは思念渦巻く場…………。形あるものは皆無。然るに、元よりこの場に武器ある者はおらぬ。

…………お前は自由だ。お前の天性がよく知るように。

何を見るも、想うも構わぬ。ただし惑うな。…………常に戦う者であれ)


 俺は気圧されて頷いた。

 タリスカの気配がふっと遠のく。俺は今度は彼を呼び留めず、腹を括って力場への挑戦を決めた。


 確かに、ここでなら俺は初めて皆と対等に戦えるのかもしれない。

 ここには正しいやり方なんてない。見えることや感じることに正解なんてないみたいに、想いはどんな風にだって飛んでいいんだ。

 本当に自由である限り、魂は砕けたりしない。


 痛みに縋って立ち上がる。構わない。

 苦しみの中で救いを求める。それでいい。

 けれど、俺は手を伸ばしながら拒絶する。

 想いの行先だけは、自分で決める。


 俺は遠くからしつこく呼びかけてくる声に、思い切って大声で応えた。


「――――――――ここだ!! 俺は、ここにいる!!」


途端に禍々しい思念が――――それは「母」を名乗るには、あまりに粗末な欲望の塊だったが――――飢えた海鳥の群れとなって集ってきた。

俺は全身を啄む愛情だが暴力だかにゾクゾクと怖気立ちながら、さらに叫んだ。


「――――――――まだだ!! こんな偽物、俺の求めたものじゃない!!」


 天をつんざくような怪鳥共の絶叫が、力場を震わせる。

 怒り?

 憎しみ?

 悲しみ? 

 力場に幾つもの細かなほつれが生じ始める。今まで渾然一体となっていた力場が、あっという間に破け、麻の如く乱れた。


「――――ふん!」


 俺は自分とヤツら、「太母の護手」共との両方にほくそ笑んだ。


 …………「偽物」め。

さっきは助かりたい一心で見境無く縋ってしまったが、一旦落ち着いてみれば、こんなものに心を捧げる気にはさらさらなれない。


 結局のところ、今回の呪いの正体は俺の弱さだったんだ。

 一度暴いてしまえば、なんてちゃちな作りの力場だったのだろうとわかる。前にヴェルグに引きずり込まれた本物の呪いの力場と比べれば、ほとんど子供騙しみたいなものだ。

わざと縋りやすい痛みを与えて、罠に誘い込む。単純極まりないコケオドシ。

俺は怒りに任せ、最後に怒鳴りつけた。


「――――「本物」はこんなもんじゃなかった!!! 俺はお前らと違ってマジで見たことがあるんだよ!!!」


 思念の流れがいよいよ決壊し、洪水となって溢れ出た。

 流石は思念の力場。煽り耐性ゼロだ。

 

 俺は選り取り見取りの扉の中から、とりわけ開きやすい扉…………俺へ滝となって真っ直ぐに落ちてくる、最もわかりやすい思念の流れに手をかざした。


 俺もすぐ卑屈な考え方をしがちだから、身に染みてよく知っている。この「嫉妬」ってやつは、本当に簡単に自分に返ってきてしまう。

 俺は意識を静め、ほんのちょっとだけ彼らの感情の矛先を変えた。


(――――紛い物の「母」。

――――誰よりそれを知っているのは…………?)


誰より信じているなら、騙りの痛みに耐えきれるはずは無い。

 いくら祈ろうと、縋ろうと、決してまみえることのできない不安に耐え切れはしない。


俺は次々とハラワタをぶちまけて散じていく海鳥の絶叫に、力場の終焉を見た。

 流れがどんどん弱まり、霧が晴れるように館の景色が目の前に戻ってくる。

 俺は真っ暗なホールに浮かぶ青白い火の玉にぼんやりと照らされた、狼狽え逃げ惑う護手の一団を鋭く睨み、叫んだ。


「タリスカ! 今だ!!」


 言うが早いか、死神の剣が舞い散る花弁の如く鮮やかに護手達を斬り捨てた。

 炎と血飛沫を浴びて妖しく頭蓋骨を闇に浮かび上がらせた彼は、俺を見て不敵に笑った。


「良い判断であった、勇者。修行は終いだ。水先人の娘の下へ、急ぎ潜れ」


 タリスカが目線を正面階段の麓へと送る。

 そこではナタリーが、未だ能面女と蜘蛛男を相手に奮戦していた。互いに息が上がり、動きにキレがなくなっている。

 タリスカは俺を振り返り、厳かに言った。


「あの娘と力場を編み、一刻も早く魂獣を探し出せ。信徒の呪いは消えたが、男の呪いは未だ継続している。ゆめ気を抜くな。斬るべきものは魂にこそ映る。

…………私は奴の魔術が生む魔を斬らねばならぬ。奴の魔術は死者を触媒とし、力を増幅させる。次は、お前への助力は間に合わぬかもしれぬ。

…………行け、勇者よ」


 魔術…………?


 問い返す暇も無く、タリスカを巻いてあの幻霊もどきが大量に現れる。今さっき彼が斬り捨てた護手達の恨みに歪んだ顔が、その中に幾つも混じっていた。


 俺は漆黒の嵐が吹き荒れるのを横目に、階段の下まで駆けた。


「ナタリー!」


 ナタリーが鮮やかな回し蹴りを女の頬に決めたついでに、闘気漲る翠玉色の眼差しをこちらへ投げかける。

 彼女は上気した頬を一瞬、さらに赤らめると、声に出して元気に言った。


「遅いよ、ミナセさんっ! 早くしないとっ、全員っ、倒しちゃうんだからっ!!」


 息切れが言葉尻を途切れさせる。なんて雑なカラ元気だろう。もたつく彼女の足下を、危うく蜘蛛男の薄黒の盾が掠めた。

 俺は負けじと明るく笑って、腹の痛みを堪えて大声で言い返した。


「すぐ行くよ!! こんなヤツら、楽勝だ!!」


 咳き込んだ血を拭い、深呼吸。

 俺は濃紺色の暗い海に、今一度飛び込んだ。

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