第175話 水先人の追憶。俺が色無き海を漂うこと。(前半)

 ――――――――…………シンとして冷たい海。

 さっきまであんなに激しく渦巻いていた潮流は、一体どこへ消えてしまったのだろう。

 海原は今は水晶のように澄んで、壮麗とすら言える程に深く、重たく落ち着いていた。


 水面から差す光が不気味な色をしている。

 黒。灰。青。白。

 滲みながら、すすり泣くようなリズムで揺れている。


(あれは何だ? あれも、あの男の仕業なのか?)


 疑念を抱きつつ、俺はシラスじみた半透明な小魚になって、スルスルと滑らかに濃紺の中を泳いでいった。

 形を取るのは危険だが、何者でもない状態でいられる程、今の俺は成熟していない。タリスカみたいに、それこそが我だと、いつでも誰にでも言えるようなものを、俺は持っていない。

 いつか手に入れられたらとは思うけれど、それはまだ遠い夢だ。


 俺は注意深く外洋をさまよった。

 遮るものの何も無い海は、魚の形をしていてさえ恐ろしかった。

 むしろ、魚だからこそ怖いのかもしれない。もっと大きな魚や獣のいることを身に染みて知っているから、隠れる場所も群れる仲間もないことが怖くて堪らない。


 そう、大きくて強大な獣。

 クジラのような…………。


(…………レヴィ、どこにいるんだろう?)


 俺はもう一度歌おうかと考えたが、下手に力場を刺激しては最初の二の舞になると思い留まった。

 何か、他の手を探したい。


 俺は迷いながら、考えながら、暗い海の深みへと進んでいった。


 

 ――――――――…………海はひたすらに静かだった。


 耳鳴りすらしない、夢の中でだって経験したことのない真っ暗闇。すでに水面からは遠く離れて、あの気味の悪い光も届かなくなっていた。


 膨大な闇の圧力に身が竦む。この闇が「魔海」へと続いている…………空と宇宙の境目みたいなものなのだろう…………俺の魂の奥深くから、そんな囁きが聞こえた。


 ナタリーは俺のことをすっかり信頼しきっているらしい。

 誰と共力場を編んでも、今までこんな場所にまで来られたことはなかった。無意識の段階で互いにブレーキが掛かるはずのところを、いつの間にか俺達は突き抜けてきてしまっている。


 …………本当に、信頼しているから?

 それとも…………ナタリーが「無色の魂カラーレス」だから?


 何となく、後者だと心によぎった。こんなに魂の深いところに浸り込んでいるにも関わらず、この静けさ。がらんどうという言葉がこうも似合う場所を俺は知らない。

 フレイアの抱える漫然とした空虚とは違う、ただ穿たれただけの巨大な穴ぼこ。そこには本当に何も無く、生まれることもない…………。


(ナタリーには、感情が無い?)


 俺は暗闇の中でちまちまとヒレを動かしながら(こうしていると、昔飼っていたネオンテトラを思い出す)、つい今しがた自分が考えたことに驚愕した。

 彼女に感情が無いなんて、そんなことあり得ないのに。

 どうしてそんなことを? 


(…………)


 だが、暗闇はどこまで行っても暗闇だった。


 何の歌も聞こえなければ、どんな温度も流れも感じない。次第に水の抵抗すら覚束なくなっていく。

 俺は宇宙を漂う孤独なネオンテトラとなって、レヴィを探して回った。お腹に一本、キリッと鮮やかに走る青いラインは、本当は特殊な細胞で光を反射しているものだそうだけど…………まぁ俺はテトラじゃなくてトカゲ…………じゃなくて、人間だし。


 不安やら心配やらで今にもどうにかなりそうな気持ちを、青いネオンに託してチラチラと放つ。

 それはいつもより細かく途切れた歌となって、闇に響いた。


 ――――p-p-p-p------p-p-p-n---……

 ――――r-r-r---n------r-r-r---n……

 ――――tu---tu---tu------n……


 そうしているうちに、闇の奥から人の声のようなものが返ってきた。

 柔らかな女性の声で、まるで楽器でも奏でるように気持ち良く歌っていた。



 ――――♪かわいい 3にんの お姫さま…………



 俺は耳を澄ませ、彼女の歌に集中した。



 ――――…………♪りゅうの 王さまの

 たいせつな お姫さま


 あかの 姫さまと

 あおの 姫さまと

 みどりの 姫さま


 いとしい わたしたちの お姫さま


 りゅうの 王さまの 雨がふる

 しろい お空と くろい海 にびいろの森


 あかの 姫さまは もえている

 あおの 姫さまは ゆれている

 みどりの 姫さまは ねむってる


 りゅうの 王さまの 雨がふる

 しろい お空と くろい海 にびいろの森


 りゅうの 王さまの

 たいせつな 3にんの お姫さま


 いとしい わたしたちの お姫さま

 かわいい 3にんの お姫さま…………



 一瞬、小麦色の優雅な手が脳裏に翻る。


「ここへ、おいで」。


 確かにそう囁かれた。


 …………ジェンナ?

 いや、彼女よりももっと強い力を持った何かだ。

 怖い感じこそしないものの、ヒレが竦む。


 …………全身の震えが抑えられない。

 太母の護手の罠ではないと、感じる。

 正体がわからないものに身を寄せるのは危険な賭けだ。それでもう何度も死にかけている。邪の芽みたいに、相手が偽の姿を装っている可能性だってある。声だけで信じるのは、あまりに愚かだ。


(…………でも)


 俺は流転の王の夢の中で出会ったジェンナが、去り際に話していたことを思い返した。


「――――…………例え作られた魂と生きる彼女であっても、魔海の底には彼女の真の魂…………根源の光が灯っているのだと、どうか忘れずにお伝えください…………」


 …………根源の光。

 今、目の前にしている存在が、そうだとしたら?

 呼ばれている今なら、俺は応えるだけで容易く辿り着けるだろう。彼女に助けを求めれば、レヴィを呼ぶことだってできるかもしれない。


 女性の歌声が少しずつ、揺らぎながら遠退いていく。

 俺は身体をうんと強く前へ推し進め、決心した。


「――――待ってくれ!」


 キラリと光った俺の腹のネオンが、赤く色を変える。

 と同時に、眩い虹色の光が一条、闇を裂いてこちらへ放たれた。


 俺は光の中へ勢いよく飛び込み、大きく息を吸った。

 一瞬だけ身体が鱗に覆われ、それからすぐに柔く脆い人の形に戻る。

 懐かしい肉体の感覚を拳を作って確かめ、俺は叫んだ。


「教えてくれ、水先人パイロット

 レヴィはどこにいる!? 

 ナタリーの心は、そこにあるんだろう!?」


 暗闇が優しい虹色で覆われ、俺はたちまち温かい流れに包まれた。大きな掌の中にくるまれたみたいな、不安と安心とがせめぎ合う。

 ふっと急に凄まじい眠気が襲ってくる。そんな場合じゃないだなんて思うより前に、俺は意識は薄らいでいった。

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