第117話 修行、疾走、闘争。俺が全力で逃げ回ること。

「この廊下を渡りきれ、勇者。私は先にて待つ」


 そう言ってタリスカが指し示したのは、例によって、全く果ての見えない長い長い廊下だった。廊下の両側には人魂じみた灯が点々と浮かんでおり、足下の埃っぽいカーペットには、未だ意味のわからない魔術的な模様がびっしりと描き込まれていた。

 俺は以前見たのと全く変わらぬ不気味な光景に、改めてぶるりと身を震わせた。


「つまり…………今回は、何が出ても手助けは無しってことですね?」

「然り。タカシと共に、独力で抜けてみせよ」

「もし…………もし万が一、途中で力尽きちゃったら? 死ぬんですか?」

「…………それでも、魔道は続く」


 俺はあえてそれ以上は尋ねなかった。彼の姿を見ていれば、何となく意味は想像できる。

 俺はタカシと顔を見合わせ、言った。


「…………わかりました。何とか、辿り着きます」

「急いだほうが良かろう」


 タリスカが下顎骨を上げて静かに呟く。俺はやにわに嫌な予感がして、背後を振り返った。

 奥の暗がりには未だ深々とした暗がりがとっぷりとたゆたったままである。だが何か、確実にヤバイ予感がする。俺は目を凝らして…………いや、舌を凝らして魔力の気配を探った。何となくだが、うっすらと冷たい感じが漂ってくる。

 俺の視線をなぞり、タカシが話した。


「どうした、コウ? 何かいるのか?」

「――――コワイ!!」


 タカシの頭の上で、唐突にトカゲが叫ぶ。タリスカはバサリと漆黒のマントを翻すと、俺に背を向けた。


「走れ、勇者。…………その身と心が、まったき調和を成すまで」


 言うや否や、タリスカは地を蹴り、瞬く間に闇の奥へと姿を消した。

 残された俺達は身を寄せ合い、今やハッキリと感じられるようになってきた…………いや、最早目にも明らかになってきた脅威に、ガクガクと身を震わせた。


 ――――…………大きな、青黒い巨人の腕が、にじり寄ってきていた。

 頭は闇に霞んでいたが、2本の逞しい腕がしっかりとこの目に見える。巨人は着実にこちらへ這ってきていた。

 腕はじりじりと伸び、カーペットをぐしゃりと乱暴に掴んでは、またもう片方を大きく、じれったく伸ばす。歩みは鈍いが、一掻きが凄まじく大きい。

 腕が床に落ちる度、弱い地震のような振動が伝ってきた。

 振動は巨人が近づいてくるにつれ、徐々に強まっていく。


「ど、どうすんだよコウ? あれ…………」


 俺が答えられるわけもない。

 とにかく俺はさらに魔力を探ってみた。

 1時間噛み続けたミントガムのような無機質な噛みごたえ…………そうとしか言い表しようのない抵抗を感じた。グニグニと定まらない魔力の波が、消化できない異物となって舌の上に粘り付いてくる。嫌な苦みはないし、耐え難い痛みも無いけれど、それだけに、扉に繋がる取っ掛かりも掴めそうになかった。


「――――ニゲロ!!」


 トカゲは、叫んだ時にはすでに俺達の前を猛スピードで駆け出していた。俺とタカシは追って、弾かれたように走り出す。

 いよいよ振動が激しくなってきた。


「そ、そんなに速く走らなくても、大丈夫だって!!」


 俺は自分より少し前を行くタカシに呼びかけた。

 揺れる地面と、巨人が掴む度に引きずり込まれるカーペットのせいで、非常に走り難い。

何より、こんなに全力で飛ばしてはすぐにバテてしまう。


「で、でも! 俺の身にもなれよ!! 俺はお前と違って、魔法だの、扉の力だのは使えないんだ!!」

「俺が一緒にいるんだから、いいだろう!?」

「信用できないって!! それなら今、アレを何とかしてくれよ!!」


 俺は振り返り、追ってくる巨人を見やった。

 心なしか、さっきよりもペースを上げてきている。ミントガムに加えて、コショウのような辛みも伝わってきた。

 ズゥン、と床が激しく揺れる。コショウとミントが舌の上で思い切り混ざり合い、俺は思わず顔を歪ませた。気持ち悪いというか、こうなると最早物理的なダメージだ。

 俺は足をもつれさせながら、タカシに言った。


「わかった! もうしばらくはこのまま逃げよう! でも、でも…………、お願いだから、もう少しゆっくり走ってくれ! 俺達は26歳のニートなんだ! 自分の体力と運動神経を思い出してくれ!」

「――――ヒンジャク!!」


 トカゲが遥か先の闇の中で嘆く中、俺達は全力で走り続けた。

 あがる息も、痛む足も、得体の知れない恐怖の前には、敵わない。



 ――――…………走る。

 とにかく走り続ける。


「――――ガンバレ!」


 遠方からトカゲの微かな声援を受け、俺達は走る。


 もう止めたくなる。別に死んだっていいんじゃないかとか、とんでもないことを本気で思う。地球だって一度木っ端微塵になったらしいし、俺がいなくなるぐらい、実は世界にとってかすり傷なのではと本気で考えた。

 大体、「死ぬ」って何だ? 

 いいや、どちらかと言えば、「生きている」ってことの方がわからなくなってきた。


 この世界サンラインに浸り込んでいけばいく程、色んな境目が曖昧になっていくようだった。空想と現実が次々と混ざり合ううちに、俺はいつの間にか、人間でもお化けでもない、何かになってしまうんじゃないか。


 タカシは今、何を考えているのだろう。俺と同じことだろうか。

 考えてみれば、俺とタカシの違いなんてほとんど無い気がする。

 顔も同じ。喋ることも、考えることも大体同じ。同じ二人が対話しているだけ。あたかも鏡の向こう側とこちら側であるかのように、俺達は同じものを見つめ、重なり合っている。

 俺達は、一人なのだ。


 ――――…………どこまでも終わらない廊下。

 いつまでも変わらない景色。

 壁とカーペットのペイズリー模様はぐにゃりと歪みだし、人魂の明かりは暗く濁り始める。

 巨人は絶え間無く地震を振り撒きながら、じわじわと距離を詰めてきていた。

 強まり続けるスパイシーな魔力に、俺の味覚はすっかり麻痺している。


 執拗に骨と肉を痛めつける、煩わしい疲労感。酷使された肺の悲鳴が、息をするごとに心臓に突き刺さる。

 喉が渇く。

 耳鳴りがする。

 もう、限界だった。


「くっ…………」


 俺は倒れ込むように膝をついた。

 あがった息を整えようにも、乱れ過ぎてうまくいかない。額から汗が滝となって流れ落ち、カーペットの上に丸い染みを幾つも作る。

 巨人の魔力がビリビリと口中の粘膜を蝕み、吐き気がこみ上げてきた。


 ズゥン、と床が盛大に跳ね上がり、俺はバランスを崩して手を床についた。

 恐ろしい勢いでカーペットが後ろへと引きずり込まれていく。俺は抗おうとしたものの力が入らず、ついに倒れ込んだ。


 衝撃がひどい眩暈となって襲いくる。とても起き上がれそうになかった。このまま眠ってしまえたらどんなに楽だろうか。

 巨人が無慈悲に迫ってくる。

 一歩一歩、着々と力を強めながら近づいてくる。

 今となっては、ヤツの吐息の熱すら肌で感じることができた。泥臭い、生々しい匂いが鼻腔を刺す。


 俺はどうにか…………どうにか身体をねじ上げ、巨人と向き合った。

 何とかして、扉の力に頼らざるを得ない。ニートの骸骨男なんて洒落にならないし、しかもそれが、体力が無くてへばった結果だなんて、フレイアやリーザロットに会わせる顔がない。


 舌は痺れきって、全く使い物にならなかった。頭の中が脳味噌ごと攪拌かくはんされたかのように、秩序なく渦巻いている。

 こんな混乱は今までにも時々あったことだが、今日は特に情けなく感じられて、泣きそうだった。


(泣くな。――――まずは、深呼吸だ)


 頭の片隅にポトンと言葉が落ちてくる。俺は言われた通り、深く呼吸した。


(そのまま、今している呼吸にだけ集中するんだ)


 俺は目を瞑り、ひとまずは思考を凪がせることに注力した。

 声は淡々と俺を導いていった。


(いいぞ、コウ。焦る必要は無い。まだ時間は無いことも無い。うまく俺を…………お前の身体をコントロールするんだ)

(…………わかった)


 俺は何も考えないで呼吸を続けた。

 荒波の及ばない意識の深い所まで潜っていくと、自然と気持ちも鎮まっていく。

 声は続けて俺に語り掛けてきた。


(よし、よし。良い調子だ)

(――――俺の内に一つ、扉がある?)

(よく気付いた。じゃあ、それを使おう)

(OK。でも、どうやって? 俺自身の魔力場をいくらならしても、俺は全く魔術は使えないんだから、無意味だ。何かと共力場を編まなくちゃ…………)

(コウ。初めてこの館に来て、扉の力を使った時の事を覚えているか?)

(覚えている。タリスカと君を探しに来た時だ。でも、あの時は無我夢中で、っていうか、何も知らなくて、ロクに考えてなかった…………)

(俺が思うにな、コウ。コウはあの時も、無意識に何かと力場を編んだはずなんだ。だから、それをもう一度再現できればいいと思うんだけど…………)

(…………妥当な判断だな。全く俺らしくないや。一応ちゃんと考えて生きていたんだな)

(お前が一番知っているだろう、それは)


 俺はゆっくりと目を開き、巨人と相対した。

 未だ恐ろしいが、一度冷静になったおかげで、大分恐怖心は収まった。相方に感謝しなくちゃならない。


 闇の中に、巨大な黄色い目が二つ、禍々しく光っているのが見えた。俺はその瞳に真っ直ぐ見入った。

 ミントやコショウの強烈な痺れに加え、煙草のような苦みも染みてくる。むせるようなヤツの吐息の生臭さが、疲労した神経に堪えた。


 巨人の瞳が柔らかく、絶え間なく変動し続ける魔力に連動して、鋭くなったり、ぼやけたりしている。

 あの瞳の奥に扉があるかと睨んだが、どうもハズレのようだ。ヤツの魔力は、人がガムを噛むときみたいに規則的に揺らいでいるに過ぎない。偏りのないものに、扉は生じないのだろう。


 俺はさらに、集中する領域を広く取った。

 目に見える全てのものに、隈なく緊張を張り巡らす。


(――――なぁ、コウ。あの時はどうしていた? 何を考えていた?)


 相方の囁きに誘われ、俺は記憶を辿り始めた。

 あの時、タリスカは廊下に現れた化け物を斬り、俺はその化け物を消し去るために、死霊が溢れかえるおぞましい扉を開けた。

 どこの扉を開いたんだ…………?


(そう言えば…………)


 化け物が現れる直前に、館の景色が変わっていた。左右の壁を彩るペイズリー模様が段々とその形を無秩序に崩して、果ては呪詛のように醜くなって、人魂に似た灯が暗く、音も無く揺らぎ始めたのだった。


(そうだ! 今、見ている館の景色と、全く一緒になっていた!)

「――――館だ! この館自体が、力場になっているんだ! 俺達はもう、この館と共力場を編んでいる!」


 俺達は同時に閃いた。

 巨人はあと一掻きで俺に届く距離にまで迫っていたが、それだけあれば十分だ。


 巨人の不快な吐息が俺に吹き下ろされる。

 俺は頬を引き攣らせ、扉を探るために神経を研がせた。


 間近に見て初めて気づいたが、巨人はすでにひどく弱っていた。刀傷があちこちにあるだけでなく、大きな鞭で打ち据えられたような、痛ましい痣が全身に付いていた。

 呼吸の度に喘鳴が漏れる。異様に蒼黒い肌も、ひどい息も、病気か呪いによるものなのではと頭によぎった。


(可哀想…………?)


 俺は刹那、躊躇う。

 しかし、巨人の黄色い無機質な瞳は、到底意思疎通が図れる類の色はしていなかった。彼は、放っておけば間違いなく俺を踏み潰すだろう。

 巨人が高々と腕を振り上げる。

 振り下ろされれば、俺は死ぬ。


 俺は唇を噛み、魂に映り込む扉に気を束ねた。


(――――やるぜ)


 俺は巨人を見据えた。恨みは無いが、これも何かの縁だ。


 ――――…………初めて開いた扉と同じ感覚が身体に満ちた。

 どこかから、巨大な海鳴りの音が響いてくる。

 地の底から湧き起こってくるような、無数の亡霊の声。

 どす黒い穢れた水が身体に浸潤してくると、全身の神経がどうしようもなく激しく痺れ上がった。


 チェーンソーじみた容赦無い振動が空気を無惨に引き千切っていく。

 巨人の喘ぎが一層激しく、痛切に胸に刺さってきた。

 ツンとすえた嫌な肉の匂いと、ミントとコショウが鮮烈に入り混じって、俺は思わず息を飲んだ。

 開きっぱなしの目が爛れるように痛む。


(――――…………来い!)

 

 俺の願いに応じ、強い風が扉から一気に吹き荒んだ。

 死霊の絶叫がつむじ風となって、巨人に纏わりつく。

 巨人は身体を捻り、抵抗を見せた。床が激しく揺さぶられ、カーペットがぐしゃぐしゃに乱される。俺は必死で床にしがみついていた。


「(――――…………行け!!)」


 死霊達が、俺までも乱暴に撫で回す。

 雪嵐にも似た無慈悲な愛撫。ともすれば喉の奥にまで彼らの指先が入り込んでくる。こらえきれずに嗚咽が漏れる。

 だが、俺は目を瞑らなかった。見届けねば、きっと俺は後悔する。何が巨人を葬るのか、どこへ葬るのかを、きちんと見つめるんだ。何かを手にかける以上、それだけは見失えない。


 亡霊達はやがて俺を離し、巨人を黒く濃く絡め取り、廊下の奥へと攫っていった。

 扉はその後を追い、ゆっくりと重く、音も無く、闇ごと引きずり込むようにして閉じていく。

 禍々しい風の後には、微かな塵だけが舞い散る。


 …………俺は長々と息を吐き、ようやく目を閉じた。


(つ、疲れた…………)


 身体からの呼びかけに、俺はガックリと項垂れて同意した。


「ああ、疲れたな…………」


 だがまだ、立ってタリスカの所まで行かなくてはならない。この先にまだ何か出るのかは謎だが、いずれにせよ、ここで諦めては戦った意味が無い。

 俺が重い身体を持ち上げ、一歩踏み出した時だった。

 頭上に、ユラリと大きな影が掛かった。


「…………見事だ、勇者。融合も無事に済んだようだな」


 俺は急に現れたタリスカに仰天し、顔を振り上げた。

 そして、言われて初めて俺は自分がタカシとの融合を果たしていることに思い至った。そう言えば、何が何だかのうちに、俺はタカシと溶け合って戦っていたようだった。


「あれ…………? どうして?」


 戸惑う俺に、タリスカが教えた。


「夢中の内に掴んだのだ。泥中にこそ、真なるものが潜む。あと5往復も走り込めば、確実に己が力となろう」

「今のを…………5往復…………!?」


 血の気を失う俺の言葉を覆い、彼は続けた。


「だが、生憎今夜の修行は終いだ。早く夕食にせよと、先ほど姫から小言があった」


 俺は胸を撫で下ろすと同時に、全身から力が抜けていくのを感じた。

 あれだけ威勢良く「お願いします!」なんて言った手前、自分から口にするわけにはいかなかったので、本当に救われた気分だ。

 タリスカはそんな俺を見て何を勘違いしたのか、短く笑みを漏らした。


「フッ、そう落胆するな。姫はまだ幼く、力への渇望を知らぬ故、お前を過剰に案ずる。…………だが勇者よ、私には覚えがある。居ても立っても居られぬ、練達への熱情…………」


 そんなことより、俺はコーラが飲みたい。

 例えどんな代物であっても、コーラはコーラである。糖分と炭酸への欲求は、狂おしい程に俺のアドレナリンを刺激していた。


(ああ、冷やしておいてくれって、言っておけば良かったなぁ…………)


 よぎる思いは、きっとタカシの呟きに相違ない。俺が呆けていると、いつの間にかタリスカの肩に這い登っていた小さな生き物が、大きく声を張った。


「――――シゲキテキ!」


 タリスカは何がそんなに気に入ったのか、カラカラと笑った。

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