第107話 見知らぬ地図と言葉。俺が「二人の蒼姫様」について聞くこと。
部屋に帰った後、一眠りした。
少し気が晴れて安心した途端に、急に眠気が押し寄せてきたのだ。俺はベッドに倒れ込むなり、毛布も掛けずに熟睡した。
そうして目覚めた時には、もうだいぶ外が暗くなっていた。
起き上がった俺はまず「ここはどこだ?」と訝しみ、それからすぐにここが異世界…………サンラインであると思い至った。ふとした拍子に、まだ自分があのオースタンの自室にいるような気がするから不思議だ。
…………オースタン。一度ぶっ壊れて、もう一回一から作り直された(?)とかいう、俺の故郷。今はどうなっているのだろう。今日もどこかで戦争していて、どこかで新しい命が産まれて、燦々と太陽が輝いて、深々と月明りが俺の部屋のベランダに降り注いでいるのだろうか。
俺は汗ばんだ服を着替えようとして、思いとどまった。どうせなら肉体と一緒に着替えた方が効率が良い。(っていうか、俺とタカシが別々に着替えた場合ってどうなるのだろう? どうやら食べた飯はそれぞれで消費されるようだが…………)
ともあれ、俺は首を捻って枕元のランプを覗き込んだ。そう言えばこれも、気付くといつも勝手に点いている。どうせ竈と同じように、どこかに魔法陣が仕込まれているのだろうが、果たしてどうしたものか。
悩んでいるうちに、ひとりでにランプに火が灯った。
「うぉっ!」
俺は思わずのけぞった。何が何だかサッパリわからないが、自動照明みたいなものなのか。
炎に照らし出された部屋がじんわりと明るくなり、次第に心に落ち着きが戻ってくる。俺はもしやと思い、浴室の方を覗きに行った。だが、さすがにこちらは自動で沸かされているわけではなく、冷たい床と浴槽、そして桶が、じっとりとした闇に沈んでいるばかりだった。
浴室から出てきた時、部屋の戸がノックされた。
「はぁい」
俺はフレイアかなと思い、気軽に部屋の戸を開けた。
が、部屋の前に立っていたのは、リーザロットのくるみ割り人形だった。
「あ…………どうも」
俺が反射的に挨拶すると、人形もぺこりと頭を下げた。
人形は急にカタカタと口を上下に動かしたかと思うと、一拍遅れて、ナレーションじみた角の取れた声で話し始めた。
「コウ様。お加減はいかがですか?」
「わっ、喋った!?」
「何か、ご不便はありませんか?」
「ご、ご不便? どういうこと?」
「何か、ご要望はありませんか? 何でもお持ちいたします。例えば、お腹は空いておりませんか?」
俺は驚きを飲み込んでから、答えた。
「いや…………ええっと、うん、そうだな。確かに、小腹は減ったかも。…………そしたら、何か軽くつまめるものが欲しいな。あと、できれば水も」
「承知しました。只今お持ちします。他には、何かございませんか? ちょっとした娯楽用品などもご用意できます」
「そうだなぁ…………」
俺はざっと部屋を見渡してから、人形に言った。
「うん。さすがにまだ眠くないし、何か欲しいな」
「どのようなものをお持ちしましょうか? 本、カード、フラッチェッカ等のゲームもございますが」
「フラッチェッカってどんなの?」
「盤上にて、自軍と敵軍に分かれ駒を取り合うゲームです。武人の嗜みとされ、広く楽しまれております」
「チェスみたいなものかな? いずれにせよ、二人用じゃなぁ…………」
フレイアと一緒にやろうかとも考えたが、やっぱり止めておくことにした。俺は、将棋だの碁だのいった知的遊戯に滅法弱い。フレイアは俺を馬鹿にしたりしないだろうが、もう慰められるのはこりごりだった。「コウ様は初めてでいらっしゃいますから…………」下がり眉の優しい笑顔がありありと目に浮かぶ。
俺はひとしきり悩んだ後、尋ねてみた。
「そうだ! じゃあ、サンラインの字を学べる本ってないかな? 子供用の教科書とか…………図鑑とかさ」
「初学者向けの、語学の教科書でございますか?」
「うん、それ! なるべく絵がいっぱい載っているヤツがいいんだけど」
「1冊だけございます」
「やった! じゃあ、それと…………あと、もしあれば地図が欲しいんだ」
「どこの地図でしょうか?」
「一つはサンライン全体の地図。それから、この市内の地図も」
「わかりました。探してみます」
「ありがとう」
俺は人形を見送り、頼んだものの到着を待った。その間、何となく意欲が湧いて来たので筋トレしてみたが、そう言えば霊体だったなと思うと、みるみる気持ちが萎えて止めてしまった。
軽食は、サンドイッチのようなものだった。ナタリーと一緒に食べたケバブによく似ていて、シンプルなパンの中に刻んだマヌー肉や野菜がたくさん入っていた。広場で食べたものよりソースが薄味で、その代わりにコショウ(っぽい香辛料)がピリッと行儀良くきいている。もしウィスキーと合わせるのなら、こっちの方が美味そうだ。
俺はサンドイッチを片手に、一緒に持ってきてもらったものを眺めた。
まずは、図鑑だ。
所々ページの取れかけた使い古された本で、明らかに子供向けだった。誰の本なのかはわからないものの、色んなページに残された手垢や落書きから、愛されて使われてきたことがよくわかった。
見ていると、妹が小さな頃に気に入っていた英語の絵本を思い出した。父親がイギリスかどこかで買ってきた、動物頭の人々がわちゃわちゃと楽しく暮らす街を描いた本で、わからないなりに何とか翻訳して、俺が読んでやったものだった。その甲斐があってか、今じゃアイツの方が俺より遥かに英語ができる。(…………ということにしておきたい)
俺は図鑑を汚さないよう気を付けてめくり、一通り見て回った。
「瞳の詩」とは違う、日常生活で普通に使われる文字達。これもどこかアルファベットっぽかった。ただ「瞳の詩」よりも、単純に音だけを表している雰囲気が強い。
俺はペラペラとページを送り、描かれている絵をしみじみと見つめた。チュンの実があるし、ワンダもいる。馬やキツネやオオカミもいれば、牛か豚みたいなものもいた。発音がわからないのであまり勉強にはならないが、こうして見ているだけでも結構愉快だった。時々、当たり前のように現れる武器やマジックアイテムが意味不明で、新鮮だ。
次に俺は、世界地図の方に目を移した。
こちらは図鑑とは異なり、真新しいものだった。よもや俺のために、わざわざ広げてくれたのだろうか。決して縮尺の正しい地図ではなさそうだったけど(こちらも子供向けかな?)、全体像はよく掴めた。
この館があるサン・ツイード市を中心に、東西南北に貴族の領地が大きく広がっている。北部には険しい山岳地帯があり、南部には海が広がっていた。北の一際大きな山から湧き出て、サン・ツイードを貫き海へと注ぐ大河は、きっとサモワールからも見えた「セレヌ川」だろう。河口に巨大な三角州を作っているのが特徴的だ。
地図の端の方…………人が住んでいるらしき土地以外は、全て深緑色の森として描かれている。
俺は各地に誇張して描かれた名所や名物(地形や、穀物や動物等)を見渡して、まだ見ぬ世界の景色に思いを馳せた。到底観光なんてできるような状況ではないけれど、夢見るぐらいは構うまい。オースタンの、日本の中すら十分に旅したことは無いが、いつかこの世界も、まだ知らない世界も、風の向くままどこまでも旅してみたいものだ。
俺はサンドイッチの最後の一口を頬張り、最後にサン・ツイード市内の地図に目を落とした。
こちらは全く飾り気のない、正真正銘大人の地図であった。この館の所在地と思しき場所に、赤い印がポツリとつけられている。
市内を十字に走る大通りが目立った。覚えている道の具合からして、東へ向かう道路が紡ノ宮に続く道だろう。セレヌ川を渡る橋が良い目印になる。すると、この十字路から少し南にいった所が精鋭隊の宿舎と教会になって…………。
俺は知っている建物や道の位置関係を粗方把握して、満足した。これでどうなるというわけでは無いが、少し頭の中が整理された。後は、文字の読み方を覚えられれば最高なのだが。
と、そんなことを考えていたら、またしてもノックが聞こえた。俺はどうせ人形だろうとパンツ姿のまま(楽なので、待っている間に脱いでしまった)返事もせずに扉を開いた。
「あっ…………! こ、こんばんは、コウ様…………!」
「いっ!? フ、フレイア!?」
「お、お召し変え中に申し訳ありません!! 出直して参ります!!」
「いっ、いや、ごめん! すぐ着替えてくるから、ちょっと待ってて!!」
俺は大慌てで部屋に戻った。急いでズボンを履き直した俺は、真っ赤な天使の眼差しに、どうにか取り繕った笑みを向けた。
「や、やぁ、フレイア。…………どうしたの、急に?」
フレイアはまだ動揺しているのか、少し早口になって答えた。
「あ、あの、ご様子をお伺いしたくて参りました。あっ…………、あれから、何もお変わりはございませんか?」
「あ、ああ。大丈夫、特に何も無いよ。君の方こそ、妙なことは無かった?」
「は、はい。コウ様に近付くような脅威は、今のところ見当たりません」
「そっか。…………ちゃんと、ご飯食べた?」
「はい、頂きました…………」
フレイアはそこで一旦深く息をしてから、また話を継いだ。
「その…………コウ様は、今は何をしておられたのでしょうか? もしお休みになっていらっしゃったのでしたら、夜分に押しかけてしまいすみません」
「ああ、いや、全然。まだそんなに遅くないだろうし…………。むしろ、来てくれて嬉しいよ」
フレイアがはにかんで頬を染める。見ていると俺までむずむずしてくる。(いやらしい意味では無い、断じて)
俺はフレイアに、自分がさっきまでしていたことを話そうと思った。でなければ、何か変な誤解を招くと思った。
「実は俺、本を読んでたんだ。…………と言っても、もちろん字は読めないから、子供みたいに図鑑の絵を眺めていただけなんだけどね」
「そうなのでしたか。素敵な時間の過ごされ方です」
「そんな風に言われると照れるけども…………。でも、そもそも発音がわからないし、本当にただ見ているだけだったよ。字ぐらいは覚えたかったんだけど、やっぱり難しそうだ」
フレイアは小首を傾げると、その紅玉色の瞳を可愛らしく瞬かせた。
「あの、コウ様。よろしければそのご本、フレイアにも拝見させて頂けないでしょうか?」
「え? ああ、もちろんいいよ。でも、どうして?」
「発音でしたら、私にもお手伝いができます。差し支えなければ、ここで一緒に一通り読み合わせしませんか?」
俺は彼女の提案に、つい黙り込んだ。
えっと…………それはつまり、俺の誤解がなければ。
「…………本、部屋の中、だけども…………」
「はい。お邪魔させて頂いてもよろしいですか?」
俺は胸の高鳴りと同時に、眩暈を覚えた。自室に女の子を招くなんて、しかもこんな夜中に、それも、女の子の方から…………!
「あ、あの、コウ様? ご迷惑でしたか?」
表情を曇らせるフレイアに、俺は急いで答えた。
「い! いや、全然そんなことはないよ! その…………ぜぜひ、お願いすりょ!」
噛んでしまった格好悪さを勢いでごまかすべく、俺はいそいそと室内へ戻っていった。幸い、見苦しいものはタカシも含めてどこにも無い。寝ているだけだったから、どこもかしこも清潔だ。
俺は図鑑をベッドからテーブルの上に移し、フレイアを呼んだ。
「じゃ、ここでやろっか。…………ああいや、ここで、お願いします」
「はい。では失礼します」
フレイアが静々と部屋に入って来る。ツーちゃんがスガズカと侵入してきた時には何とも思わなかったのだが、彼女がこうしてここにいると、途端に部屋の中が華やいで見えた。
フレイアは俺の隣に腰をかけると、早速本を覗き込んだ。柔らかそうな銀の髪が俺の顔に近付くと、石鹸のような爽やかな香りがした。
「ああ、やっぱりこのご本でしたか…………。懐かしいです」
「知ってるの?」
俺の問いに、フレイアは図鑑のページをめくりながら頷いた。
「私が十の頃、蒼姫様が私をお部屋に招いてくださった時に、一緒に拝見させて頂きました」
「へぇ。二人はそんな子供の頃から知り合いだったんだ。…………でもこれ、多分、もっと小さい子向けの本だろう? どんなことを話したんだい?」
俺はコップに水を汲み、フレイアと自分の前に置いた。この国の水は美味いので、ついつい余計に飲んでしまう。特に今みたいに、どぎまぎしている時には酒のように進む。
フレイアは図鑑に目を落としたまま、呟いた。
「…………魔術のお話でした」
「どんな魔術?」
「…………それは」
フレイアは少し目を細め、しばらく何かを考え込んでいた。
彼女はちょっとしてから、ゆっくりと顔を上げると、どこか寂しそうに俺の目を見た。
「…………コウ様は以前、「瞳の詩」を読むために、蒼姫様と共力場を編まれましたよね」
「ああ、うん。それで混乱して、君に助けてもらったんだ」
「あの時、かつて私も同じ経験をしたことがあるとお話したのを覚えていらっしゃいますか? …………それが、この本を読んでいた時のことだったのです」
「この本を?」
驚く俺に、フレイアは柔らかな口調で話した。
「その頃、私はまだお師匠様の元で修行中の身でした。蒼姫様は魔術を苦手としていた私に、親切にも手解きをしてくださったのです。力場の制御の仕方を…………いえ、蒼姫様はそうは仰っておられませんでした。姫様は、「一緒にお庭を作りましょう」と、まるでおままごとに誘うように、私に仰いました」
フレイアは水を一口飲み、また図鑑のページをめくった。彼女の優しい語り口のうちには、淡い哀しみのような色が滲んでいた。
「姫様は、どれでも好きなものを選んでねと、この図鑑を開いて微笑まれました。今から思えば、この絵を通して、共力場の起点とされたかったのでしょうね。「素敵なものがたくさんのお庭にしましょうね」と、仰っておりました。
ですが…………不甲斐無いことに、私はその時、この有り余るほどの文字と絵を前にして、何も選べませんでした。
緊張もしていましたが、それよりも…………欲しいものも、見たいものも、お師匠様と旅をしていた時には、それこそ頭からこぼれ落ちそうなぐらいに思い描いていたはずなのに、それが本当に目の前に現れると思った途端に…………急に、全てが他愛もない、木彫りの置物のように思えてしまって…………黙り込んでしまったんです。
…………姫様は、そんな私を見兼ねて、ご自身だけで作られたお庭に招待してくださいました。うまく心が巡らない日もあるわと私を慰め、姫様はみるみるうちに、蒼と紅の花が咲き乱れる美しい河岸へと私を連れ出されました」
フレイアは遠い幻を見るような目で、虚空を仰いだ。
「――――…………夜と夕の中間のような薄紫色の空に、月が二つ上がっておりました。一つは三日月で、一つは満月でした。絹によく似た星の川から流れ落ちる乳白色の滝が、そのまま澄んだ川になって花畑の中に流れておりました。
風に乗って、チュンの実の香りが漂ってきて、私は見たことも無い異国のドレス…………金の紗が幾重にも重なった、軽く柔らかいドレスでした…………に包まれていました。私の手を取ってくださっていたはずの姫様は、いつの間にか姿を消しておりました。
私は心細くなって、腰に下げていたはずの剣を必死で探しました。ですが、どこを探しても見当たりません。火蛇を呼んでも…………いくら呼んでも、秘密の名前を呼んでも、出て来ません。私は戸惑いのあまり、声も出せなくなってしまいました。
空が落ちてくるような不安が、私に纏わりついておりました。底無しの虚無の中に、ただ独り取り残されたような…………。
たまらず駆け出そうとした時、ふいに一匹の蝶が私の頬を掠め、淡雪のように溶けて姫様の姿に変わりました。姫様はとても思い詰めた顔をしていらして、慌てる私を強く抱き締めて仰いました。「怖がらないで、フレイア。「裁きの主」が、ちゃんと見守っているわ」と…………」
そこで言葉を切って、フレイアは弱々しい笑顔を俺に向けた。
「その後は、コウ様と同じです。一度にあまりに多くの景色を目の当たりにしたためか、すっかり混乱してしまって…………。急激に消耗して、姫様にもお師匠様にも、多大な迷惑をおかけしてしまいました。
目覚めた時には、治療をしてくださった琥珀様にもきつく叱られたものです。「なぜ助けを呼ばなかった」と」
俺は肩をすくめるフレイアに、何と声をかけようか迷った。
フレイアの、今でさえ自覚の無い危うさを垣間見た気がするけれど、どう表現して良いかわからなかった。
俺もツーちゃんと同じことを何度も、この短い付き合いの間にも何度も、思ってきた。それは俺が情けないからだとばかり思ってきたのだが…………そうとも限らないのかもしれない。
何だろう…………。何かが引っ掛かる。
彼女の不安の正体が、見えそうで見えない。
俺は悩んだ挙句、最も無難で、しょうもない言葉をかけた。
「それは…………大変だったね」
「大変だったのは、私以外の方です。私はただ、眠っていただけですので」
「でも、十歳だろう? 怖かったはずだ」
フレイアは頬を染めて睫毛を伏せる。俺はもう少し気の利いた言葉を探したが、結局見つけられなかった。
俺はひとまずは話題を逸らすべく、話を継いだ。
「…………ところで、俺の記憶違いでなければ、蒼姫様って3年前に役目に就いたばかりじゃなかったっけ? ってことは、君と会っていた時は、まだ彼女はお姫様じゃなかったんじゃない?」
フレイアは顔を上げると、静かに答えた。
「ああ、それは、事情があるのです。…………あの頃はコウ様の仰る通り、蒼姫様はまだ正式には蒼姫様ではなく、世を忍んで暮らしておられました。お師匠様はそんな蒼姫様のことをとても気にかけていらっしゃって、よく姫様のいる塔へ立ち寄られておりましたから、私もご一緒させて頂いていたのです」
「事情?」
「…………当時は、別の蒼姫様がいらっしゃいました。今の蒼姫様は、3年前に先代の姫様が亡くなるまで、その代役として過ごされていたのです」
「代役!? そんなものまで、裁きの主は選ぶの?」
俺が眉を顰めると、フレイアは黙って首を振った。
「詳しいことは、私からは申し上げられません」
「でも、リズのことだしなぁ…………。実は俺、蒼姫様のことは、ちょっと心配していてさ。…………良ければ、君に言える範囲で、その話を聞かせてくれないかな? あくまでも、彼女がもっと楽になれるように、ってつもりなんだけど」
「…………そうせがまれますと、断れませんが…………」
フレイアは険しい顔を作ると、「わかりました」と一度己に言い聞かせるように呟いてから、話を継いでくれた。
「コウ様には、どこからお話したらいいのかという感じなのですが…………。とりあえずは、蒼姫様がお二人になられた経緯からお話いたしましょう。
…………三寵姫の選定は、裁きの主の意志を受けた者が行う「定めの矢」という儀式によって行われます。ですが、先代の蒼姫様の時には、偶々その矢が宙で分かれて、二人の方が蒼姫様として選ばれたのです」
「えぇ? そんなこと、あり得るの?」
「「突如天を裂いた白き雷により、矢が分かたれた」と奉告には記されております」
「…………。本当なの、それ?」
「選定は紡ノ宮にて行われますので、私には何とも…………」
「…………。まぁ、それはともかくとしても、本当に二人が選ばれたのなら、二人共を立てれば良いのに。何でリズの方が影になったの? どうも妙な感じが拭えないんだけども」
フレイアは俺の問いに、声を沈めて遠慮がちに続けた。
「それは、先代の蒼姫様の「
また、先代の蒼姫様は学院出身の魔導師の中でも、特に傑出した才能をお持ちの方で、サンラインの国政にも関心が高くございました。
そんな事情から、身寄りなく、まだ幼い蒼姫様よりも、あの方がご適任となったのでしょう」
「それで、その姫様はどうして引退を?」
フレイアは溜息の後、悲しげに言葉を紡いだ。
「…………3年前、サンラインに「黒い魚」が襲来した際に、蒼姫様はお命と引き換えに、「黒い魚」を討伐なさいました」
ふと顔を上げたフレイアの思い詰めた眼差しを受けて、俺はつい怯んだ。彼女はそんな俺へと追い打ちをかけるように、急に声を強くした。
「…………いえ! 申し訳ございません、コウ様。フレイアは偽りを申しました。
本当は…………「裁きの主」が、あの方を裁かれました。先代の姫様は「黒い魚」との戦いの最中に、主の加護を得られることなく命を落とされ…………姫様の「依代」を名乗っておられた西方区領主様も、重い罰を受けられたのです」
「それは、どういうこと…………? 何で、彼女達が「裁きの主」に?」
「お二人は、主を欺かれたのです。「蒼姫様」にまつわる真実に、ついて…………」
フレイアは深く俯き、沈黙の後に苦しげに呟いた。
「…………そうです。コウ様のご想像の通りです。…………これ以上は、どうかご容赦ください」
「だけど…………」
「コウ様、お願いします。…………フレイアは少し、恐ろしいのです」
俺は切実なフレイアの訴えに、仕方なく引き下がった。
「二人の蒼姫様」の関係が釈然としないのは確かだったが、嫌がっているフレイアをこれ以上追及することはできなかった。
「…………ごめんなさい」
フレイアは胸に手を組み、必死に祈りを捧げていた。
俺はとりあえず水を一口飲み、彼女と、自分が落ち着くのをしばし待った。
賢人会の時にも思ったけれど、どうしてこう偉い人ってのは、どいつもこいつも自分勝手なのだろう。自分達の神様すら騙そうとするなんて、とても信じがたい。
フレイアは手を解き、しばらくはきまり悪そうに俺を眺めていたが、ややしてからションボリとこぼした。
「コウ様。怒っていらっしゃいますか?」
「…………いや。ただ、ちょっと当惑してはいる。…………いずれにせよ、君が気にすることじゃないよ」
「失礼いたしました…………」
俺はちょっと素っ気なかったかなと反省し、すぐに言い添えた。
「…………ごめん。言い方が悪かったかも。話してくれてありがとう。…………怒ってはいないけど、ちょっと感情的にはなっているみたいだ。色々な事情がごちゃまぜで、混乱している」
フレイアは小さな顔を上げると、いくらか力強く言った。
「コウ様は、お優しい方です。いつも蒼姫様のことや…………私のことまで、大切に気にかけてくださいます。…………貴方は、本当に素晴らしい方です。フレイアには、それだけが真実です」
俺は紅玉色の瞳を見つめた。何だか的外れだが、フレイアらしい言葉だった。彼女は俺の目を真っ直ぐに見ている。
そのままじっとしていると、フレイアの頬がジワリと紅潮していった。
俺はちょっとだけ彼女の方へ身を乗り出した。
「コ、コウ様?」
俺は手を伸ばし、彼女の口元に触れた。
「えっ!? えっ、あの…………!?」
「…………ソース、ついてる」
「!?!?」
俺は意外と気付かないものだなと思いつつ、恐らくは彼女の夕飯でもあっただろう、あのケバブサンドイッチのソースを指で取り去った。フレイアがいよいよ顔を真っ赤にして俺を見る。大きな目がさらに大きくなり、瞳の深紅は水彩のように滲んでいた。
俺はちゃんとフォローした。
「大丈夫だよ。俺も今まで全然気付かなかったし。たまにあることだよ」
「そ…………っ!!」
「そ?」
「そういう問題ではありません!!! コウ様、いくら何でもひどいです!!!」
意外な権幕に俺が呆然としていると、畳みかけるように別の声が掛かった。
「全くだ。四半世紀、恋人一人できぬわけだ」
聞き慣れた高圧的な声に、俺とフレイアは同時に扉の方を振り返った。見れば、疲れた顔のツーちゃんが、戸に寄りかかって億劫そうに腕を組んでいた。
「琥珀様! いつからいらしたのです?」
フレイアが口を拭いながら尋ねる。「もうついてないよ」と声を掛けようとすると、爆撃でも浴びせるような表情を向けられた。
ツーちゃんは無言で肩をすくめると、例によって、勝手にズカズカと俺のベッドの上にあがり込んだ。
「なに、今さっき着いたばかりだ。今後の連絡がてらに様子を見に来たのだが…………その調子であれば何も問題は無さそうだな。まったく…………こっちは散々であったというのに。…………オイ、私にもその不味い水を寄越せ。喉が渇いた」
「不味くないよ」
「人間共は美味い水を知らんのだ、まったく」
俺は自分のコップに水を注ぎ、ツーちゃんに手渡した。ツーちゃんはゴクゴクと真夏の小学生のようにそれを飲み切ると、無造作に空っぽのコップを俺に押しやり、おかわりを要求した。渋々渡してやると、彼女はそれも一息で飲み干した。
「ご苦労。…………さて、コウ。私は疲れておる。それもひどく疲れておるゆえ、手っ取り早く伝えるから、一度で聞け」
「はい、はい」
「返事は1回だ。次やったら、貴様の性別を変える」
「…………はい」
ツーちゃんは短いワンピースにも関わらず、ベッドの上で大きくあぐらをかくと、早速話し始めた。
「此度の襲撃で、五大貴族の頭のうち3人までが死んだ。これは言うまでもなく、由々しき事態だ。すぐに報せを各々の国元へ送ったが、届くまでにはまだ数日かかろう。いずれ当主の死が知れれば、領内は相当に荒れる。国力を削ぐには十分な成果よ、全く。
…………とりわけ、東は修羅場だ。貴様らはタリスカと共に処刑の場にいたという話ゆえ、もう承知だろうが、あの東の領主は敵国・ジューダムと通じておったばかりでなく、「太母の護手」の教徒であった。むしろ教徒であったがために、ジューダムに通じたと見るべきだろう。
東のスリング家、及びそのお膝元であるテッサロスタが、今、どのような状況にあるのか。彼の地に潜伏させている魔導師に問い合わせを送ってはみたが…………そもそもこの襲撃を予知できなかったことからして、話が聞ける望みは薄い。ヤツももう始末されているかもしれん…………」
ツーちゃんはまさに苦虫を噛み潰したような顔で、話し続けた。
「この戦、「護手」共が関わっているとなると、かなり厄介だ。奴らのなりふり構わぬ術式と、ジューダムの巨大力場の魔術は非常に相性が良い。サンライン国内のしがらみもほぐれぬというのに、事態は悪化の一途だ。遮るもの無き下り坂だ。最悪へ向かって、着々と歩みを進めておる。
無論、奉告祭は無期延期だ。「裁きの主」も、この有様を見てわからぬかというもの。いずれ何らかの奉告は行われようが…………良くも悪くも、何もかも終わってからの方が、遥かにシンプルな奉告となるだろう。その時まで奉告する人間が残っておればの話だがな」
赤いワンピースの少女はその容貌に似つかわしくなく、ギロリと俺とフレイアを睨み渡し、怨嗟のごとき溜息を吐いた。
「ともかく、だ…………。そんなわけで、今、判断できることは何も無い。一切無い。賢者共は阿呆のように狼狽え、国は指導者を完全に失っておる。戦況を把握するための情報も、現段階では圧倒的に不足しておる。性急な決断は下せぬ」
「…………差し当たっては、様子見ってこと?」
「少なくとも1週間は情報収集に専念する。ああ、腹立たしい。完全に先手を取られた」
俺の問いに、ツーちゃんが苦しそうに唸った。フレイアの方を見てみると、彼女も大魔導師と同様に眉間一杯に皺を寄せていた。
「勇者」に何か出来ることはないかと、もう考える気にもなれなかった。どうすれば歯車が止まるのか、全体を見ようとすればする程、その大きさと複雑さに途方に暮れてしまう。「和平」なんて、もうほぼ終わった夢なんじゃないか?
俺は二人につられて難しい顔をし、首を捻った。
と、ふいにツーちゃんがベッドの上に広がっている地図に目を留めた。
「ム、これは何だ? コウ」
「地図だよ」
「馬鹿、見ればわかる。何のためにこんなものがあるかと聞いておる」
「少しは地理を勉強しようかと思って」
「そっちのリズの図鑑は?」
「こっちは文字。フレイアに発音を教わろうとしてたんだ」
「なるほど。貴様にしては殊勝な心掛けだ。…………賢いワンダだ。撫でてやろうか」
「…………結構です」
俺は首の後ろに手をやり、背もたれに寄りかかった。
ツーちゃんは少し考える風な様子を見せ、幾分明るい調子に戻って言った。
「よし。ならば、向学心あるワンダのために教師を見つけてきてやろう。1週間、マヌーかグゥブの如く館で食っちゃ寝しておるよりかは、ずっと生産的だ。誤差の範囲だが、最悪が少しマシになる」
「教師は、できれば俺、フレイアと…………」
「フレイアは暇ではない。精鋭隊員にも死傷者が出ておる。そやつは貴様が思うよりも遥かに貴重な戦力なのだ」
俺は縋る思いでフレイアを見た。だが彼女はすまなさそうに肩を縮め、寂しさを瞳に湛えて瞬きをしただけだった。(いや、普通に対応に困っているだけだろうけど)
ツーちゃんは琥珀色の眼差しを真っ直ぐに俺へ向け、言い継いだ。
「さぁ…………今夜はこれで終いだ。教師のことは明日以降、追って連絡する。先にも言ったが、私は非常に疲れておる。質問は受け付けん。何かあるなら、他を当てにせよ。
今後の行動は、いずれ情報が纏まり次第、関係者を集めて話す」
ツーちゃんはフレイアを見、付け足した。
「貴様も、早く控えの間に戻れ。いくら相手が非力なアンポンタンとは言え、こんなところにいつまでもいたら、いつ立場を笠に着て不快な目に遭わされるかわからぬぞ」
「そんなことしないって! ってか、「あんぽんたん」って何!?」
「竜の男は手が早いと言うしな…………」
「言いがかりだよ!」
俺が怒鳴り返すと、ツーちゃんはフレイアの手を引いて、さっさと外へ出て行った。フレイアは去り際に、
「おやすみなさい」
と急いで言い残し、丁寧に扉を閉めていった。
あっけなく部屋に残された俺は、結局一文字も進まなかった図鑑を前に、ガックリと項垂れた。
あーあ…………絶好のチャンスだったのになぁ…………。
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