白い雨が降り注ぐ
第91話 呪われし竜と「白い雨」。俺が玉座の間で目の当たりにしたこと。
「――――――――祈りの萌芽よ、目覚めよ、愚者を祓え!」
真っ暗闇の中に、突如として若い女性の掛け声が響いた。
同時に、上空から輝く刃と小柄な人影が降ってきて、闇を一閃、切り裂いた。
生じた間隙から闇が激しく気化していく。
ハスキィな女性の詠唱は、さらに強く重ねられた。
「――――――――私は、火蛇の主。
――――――――竜の子の守護者にして、その
――――――――私は…………力を求める!
――――――――我が主の願いを、紡がんがために!」
俺は羽衣越しに見えてきた、華奢な、しかし勇敢なその背中に、思わず溜息を吐いた。現れた女性は一瞬だけこちらを振り向くと、微かに目を細め、また正面へ向かって高らかに詠唱を投じた。
俺達の前には、まだ闇が津波の如くなだれかかってきていた。
「灼熱に焦がれよ。
無垢なる薪に焚かれ、
陽炎を躍らせ、
叫べ、
――――貫け!!!」
腰を低く、獣の如く落とした彼女の足元から、構えた刃の切っ先へ向かって、滑るように2匹の深紅の蛇が這っていく。女性はすみやかに剣を翻すと、頬の前にピタリと両手で添えた。
刹那、刃と蛇が高速で前へ突き出される。空気がわっと放散し、火蛇達が巨大な輪となって広がる。凄まじい熱気と光が俺と闇を圧倒した。
俺を包む羽衣が、沸騰したかの如く表面をばたつかせる。
俺は手に汗を握り、彼女の名を叫んだ。
「フレイア!」
紅玉色の瞳が、火蛇の炎を映して燦々と燃え盛っている。フレイアはもう一度、鋭く呪文を繰り返した。
「愚者よ、去れ!!!」
火蛇の発光と放熱がますます高まる。フレイアはぐっ、と腹に力を据えると、大胆な三日月を描いて剣を振り被り、短い呼吸と共に闇を一薙ぎした。
赤い閃光が天から地へ、闇を斜め一直線に断ち割る。
暗闇が壮絶な勢いで蒸発し、散じていった。俺の全身と舌に、火傷じみた痛みが走る。強い、アンモニア臭が鼻を突く。目が沁みる。竜の魔力が、リーザロットの羽衣を通り抜けて浸潤してきているのか。
俺は涙で滲んだ瞳を見開き、フレイアを見た。
フレイアは相変わらず、凛々しい背を向けて立っていた。黒い霧がいよいよ晴れ渡ってくると、目の前に大きな…………広間一杯を埋め尽くす、竜に似た醜い化物が立ちはだかっているのが見えてきた。
化物は醜く肥大しており、低い、呻き声じみた節をつけて長く鳴いた。鳴き声に合わせて、だぶついた皮がぶるると震える。
吐息から漂う刺激臭が、再び俺の目に涙を浮かばせる。ヤツから漏れ出てくる魔力が、じりじりと身体中の粘膜を焼くようだった。俺はたまらず咳き込んだ。
「ゲホッ! な、何だ…………? こいつ…………?」
フレイアは火蛇に素早く合図し、自身の周りを旋回するよう言った。蛇達が細い糸となり、ヒュンヒュンと球状に彼女を取り巻くと、真珠玉のような輝きを放つ薄いベールに彼女が包まれた。
フレイアはやや掠れた声で、振り向くことなく答えた。
「あれは呪われ竜です。「黒い魚」と呼ばれる、魔海の深みに潜む高位の魔物が、呪いにより受肉した姿を指します。…………なんて惨い姿なのでしょうか」
「の、呪われ?」
「正確には、呪術と魔術の融合した術です。霊体を特別な肉の檻に閉じ込めることで、存在を貶め、使役しているのです。あのように強大なものは、私も初めて見ましたが…………」
「は、はぁ」
俺はフレイアから伝わる並々ならぬ緊張に圧倒されて、口を噤んだ。彼女は真っ直ぐに剣を構えたまま、微動だにせず続けた。
「コウ様。ここは、私たちにお任せください。あの呪われ竜の生命線である魔力の大元は、琥珀様方が抑えてくださっています。術者の特定もやがて済むでしょう。今は、あの竜の攻撃にさえ気を付けていれば…………んっ」
フレイアはそこで一度、こらえきれずに咳き込み、それからまた苦しげに言葉を継いだ。
「ん…………申し訳、ありません。今しばらく…………ここでお待ちいただければと、思います」
「わ、わかったよ。…………でも」
俺は「俺も」と口を開きかけて、止めた。さすがに今は出しゃばる時ではない。フレイアのことは心配だけど、ここは彼女の言う通り、プロに任せよう。国一番の魔術師が勢揃いしているのだ。俺の出る幕じゃない。
俺はなるべく邪魔をしないよう見守るべく、いつでも動ける体勢を整えて、身体をかがめた。よく見てみると、呪われ竜を囲うようにして、玉座の間のあちこちに賢者たちが潜んでいた。
印を組みっぱなしにし、竜を囲む正三角形の魔法陣を睨み据えているツーちゃん。いつになく激しく輝く琥珀色の瞳が、事態の深刻さを如実に物語っていた。青白い魔法陣の他の頂点にはそれぞれ、魔術師会長とエレノアさんが立っている。
ヴェルグは祭壇の前で、ゆらゆらと扇を仰ぎながら、ほのかに金の瞳を揺らしていた。呪われ竜を眺めるその様子には余裕すら窺える。その隣では紅姫様が、父親である中央区領主を庇うようにして立っていた。剣こそ携えてはいないものの、その佇まいには一片の油断も感じられない。
リーザロットは総司教の傍にいた。深い蒼い眼差しで、魔法陣と、竜と、そして俺とを不安そうに見守っている。彼女から少し離れたところには、騎士団長・ヤドヴィガに守られた商会連合の代表がいた。見るからに腰を抜かしており、顔色から察するに、俺に負けないぐらい状況についていけてない様子だった。
そして…………一体、どうやって登ったものか。天井の飾りの出っ張りには、翠姫様が身を潜めていた。その横には真顔のスレーンの族長、さらに対岸の出っ張りには、顰めっ面の西方区の貴族が控えている。およそ4、50メートルはあろうかという高さだが、皆、足場の悪さを微塵も気にかけていないようだ。
次いで俺は、ヤドヴィガ団長の近くに転がっている、二つの黒い塊に目をやった。吹き飛んだ床の残骸だとばかり思っていたのだが、それにしては何だか妙な形と色だ。
目を凝らしてみて、俺はその正体に息を飲んだ。
それは、黒いヘドロにまみれて息絶えた、貴族たちの亡骸だった。誰なのかは判別がつかないが(そもそも、悪いけれどあまり覚えていない)、彼らが凄まじい苦しみの中で、のたうち回って逝ったということだけは、床や壁に残されている無数の手形や爪痕から明らかだった。
俺が何も言えずに蒼ざめていると、背後から低い声がかかった。
「ミナセ殿。…………そこを通していただきたい」
大きな影がヌッと俺に差し掛かる。振り仰ぐと、そこには輝かしい銀の毛並みを、いつもより高く激しく逆立てたオオカミ男の姿があった。
グラーゼイは問答無用で俺を押しのけて前へ出ると、黄金色の目を吊り上げ、フレイアに話しかけた。
「単独で突撃せよと、団長から命があったのか?」
フレイアは呪われ竜に意を注ぎながら、短く答えた。
「いいえ」
「お前は隊の要だ。自覚しなさい。…………竜の頭は、あといくつ残っている?」
「8つです。私が落としたのは、
「
「まだです」
「では、三手に分かれて探す。βの始末も、同時に」
「了解しました」
グラーゼイが重々しく、ロングソードを抜く。やや前傾になり、切っ先を足下の後方へ落とした静かな構えである。獲物を見据える四足獣そのものの表情からは、からりとした気焔が立ち昇っていた。
火蛇の熱も失せ、いつからか、雪に似た冷たい魔力が広間を覆うようになっていた。静かに揺れる魔法陣の青い光が、オーロラのように俺の胸をざわつかせる。
「白い雨」の二人から漂ってくる、清廉でありながらも苛烈な魔力が、縫うように、絡み合うように、呪われ竜のタールじみた魔力とせめぎ合っている。フレイアの瞳が時に暗く、禍々しいまでに冴える。グラーゼイの剥き出しの牙の間から漏れる吐息が、人と獣との綾目もつかぬほどに激しく乱れていた。誰もが、全神経を集中して仕掛ける機を窺っている。
呪い竜が深く息を吐くたびに吹き下ろされてくる、強烈な刺激臭。俺は羽衣をなるべく身体の近くへ招き寄せ、ローブの裾を口元にあてがった。すでに口の中がビリビリと痺れている。これ以上暴露されれば、魔力が正確に判別できなくなってしまう。
役立たずとはいえ、万が一の時には「扉」の力で手助けしたい。
張り詰めた緊張が、静けさをより強張ったものにしていく。呪われ竜のじっとりとした苦い魔力の重みによって、肺が少しずつ泥で詰まっていく感じがした。賢者たちは騎士団に任せきっているのか、動く気配が無い。
ふいに、誰かがポン、と俺の肩を叩いた。
「コウ様。どうかお気を楽に。「扉」の力は、まだ必要ありません」
見れば、隣に鎧姿のキツネ男が…………クラウスが立っていた。いつもの軽薄そうな余裕はぐっと影を潜め、凛とした横顔である。彼の赤褐色の毛も、ザワザワと神経質に逆立っていた。
「ずいぶん大きいな…………」
クラウスはそう呟くと、俺越しに、後方の扉から入ってきた他の4人の精鋭隊騎士(皆、勇壮な獣の姿だった)に、強く呼びかけた。
「灯台の陣! ツェーナとブラッツは、俺の補助を!」
聞くが早いか、クラウスを除いた精鋭隊員全てが瞬く間に散じた。クラウスは抜き身の剣を額の前へ十字に立てると、目を瞑り、詠唱を始めた。
冷たいが雄々しく響く、緩やかな律の呪文。呪い竜の頭上に、空色の小さな光がいくつも灯った。
――――…………光が増えるにつれて、徐々に周囲が暗く、夜のような広い闇に覆われていく。呪い竜の姿すら次第に覚束なくなっていった。見えるのはポツポツと浮かんだ、空色の星だけ。床すら闇に霞み、掻き消されていくうちに、俺は自分が夜空に浮かんでいるような錯覚を覚えた。
クラウスはなおも詠唱を続ける。耳を澄ませば、他の誰かの声と唱和して聞こえてくる。
まるでレクイエムのような響きだった。これもあやとり語なのか。唱え方が人それぞれで全然違うから、自信が持てない。
クラウスは薄っすらと輝く、白い光に包まれていた。間近にいると、彼の魔力が肌に沁みて伝ってくる。あの乱闘騒ぎの時にも感じた、サラサラとした雨のような感触。フレイアの温かみとも、グラーゼイのカッカとした熱とも違う、微かな冷たさ。
空色の星が、サラサラとした霧雨となって流れ出した。白く、青く、細かな雫の一粒一粒が、小さな妖精のように、気ままに遠くへ泳いでいく。
風がほんのりと吹き始めた。声の一つが調子を変えている。クラウスは器用に、丁寧にその流れへ言葉をのせていった。
やがて、ひんやりとした青白い霧が暗闇に満ち渡る。呪われ竜の影がその内から、うっすらと浮かび上がってきた。
俺は唖然として呪われ竜の姿を仰いだ。竜は今や、多数の頭を持った巨大な蛇へと変わっていた。8つの頭はチラホラと陰影を濃くしたり、薄くしたりしながら、何かを探すように蠢いている。頭の無い、ぐったりと項垂れた首は、さっきフレイアが倒したものだろうか。
辺りはすっかり冷え込んで、吐く息も真っ白になった。
「…………コウ様、お願いがございます」
剣を下ろしながら、クラウスが囁いた。俺はこくこくと頷き返し、答えた。
「な、何?」
「いずれ合図を送ります。その時に、コウ様が大宮司様から受け取られた「呪い」を、扉の力で開放して頂きたいのです」
言われて俺は、今更ながら頭上の扉に注意を向けた。
そう言えば、あまりに目まぐるしく色んなことが起こるものだから、大宮司の魔力と共に感じたこの不穏な扉のことを、すっかり失念していた。ツーちゃんの反応も淡泊だったし、とりあえずは無害そうだったので放置していたのだが…………。
「え? ちょっと待て。今、「呪い」って言った?」
「詳しい話は後で。引き受けてくださいますか?」
俺は再度、扉に意識を束ねた。ややしょっぱい、砂に似たザラリとした感触が舌につく。最早、素朴とも言える魔力であった。
俺はぐっと、拳を握り締めた。
「わかった、やる。合図は、くればわかる感じ?」
「はい。その時に見合った者から、意識を介して行います。…………ご協力、感謝します」
クラウスはふっと微笑んだ(そう見えた)かと思うと、一転して険しい口調で叫んだ。
「――――精鋭隊、かかれ!!!」
途端に、津波に叩き付けられたように、膨大な魔力が一気に場に流れ込んできた。俺は胸の内が大量の蒸気で炙られるような、どぎつい感覚を味わった。
みるみるうちに喉が渇いていく。肺から空気が全て叩き出されるようだった。驚愕のあまり見開きっぱなしの目に、四方八方から呪われ竜めがけて飛びかかかる、たくさんの刃のきらめきが映り込んだ。
グラーゼイの怒声が、雷鳴の如く轟く。
「全ての首を落とせ!!! 引かば、死ぬぞ!!!」
急に、タールじみた魔力がこちらに迫ってきた。俺が恐怖を覚えるより先に、ぐんと巨大な蛇の頭のようなものが間近に現れる。血のような、真っ赤な目を光らせて――――…………!
俺が悲鳴を上げる直前、真っ白な銀の一閃が竜の首元を横一文字に斬り裂いた。
クラウスが眼前に立ちはだかっていた。
「――――ッ!!!」
俺は言葉もなく、身を強張らせる。
剣を振り抜いたクラウスが、間髪入れず地を強く蹴った。竜の頭は逆上し、俺ごと薙ぎ払うように大きく首を振るう。クラウスは身体をぐんと回し、剣を振り被った。
クラウスの刃と、竜の頭が衝突する。白と黒の光の飛沫が飛び散り、クラウスが押される。衝撃を抑えきれずに、膝を地につきかける。
「クラウス! 大丈夫か!?」
クラウスが何事かを呟く。
と、急に宙に現れた鋭利な氷柱が竜の首を深く貫いた。クラウスは竜が怯んだ拍子に剣を払うと、もう一度、今度は怒鳴るような声で詠唱した。およそ彼らしくない、真冬の嵐のような苛烈さだった。
無数の氷柱が滝となって、竜に降る。
竜は首を反り、鼓膜をつんざく高音と、腹を震わす低音とを同時に孕んだ、奇妙な悲鳴を上げた。
真っ赤に迸る目と、高く伸びた二股の舌、溢れ出した刺激臭に、俺の全身が粟立った。
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