俺の内なる獣と子供。信じたい夢。

「そこまでだ、「桃色天使」!!!」


 口をついて出る大見得。中にいた男女が目を真ん丸にして、乱入してきた俺達を見た。

 だが彼らの驚きもさながら、相対する俺達の驚愕も相当なものだった。

 俺の後ろで、姉さんがポツリとこぼした。


「テレサ…………。アンタ、何してるのよ?」


 部屋の真ん中で魔法陣を描いていた女の子が、ゆっくりと顔を上げた。綺麗に整っていたおかっぱ頭がぐしゃぐしゃに乱れ、険しかった眼差しがさらに鋭く、凶悪なまでに冴え渡っている。


 テレサの隣には男が二人、立っていた。一人は血の通わない陰気な顔つきで、いかにもサモワールの従業員といった風だった。

 そしてもう一人は、獣のような筋肉質な身体つきに、野蛮で不潔な面をしていた。

 見間違えようも無い。そいつは俺を牢にぶちこみやがった、自警団のバッファロー男だった。


「お前…………!!!」


 俺は声を詰まらせ、バッファロー男を睨んだ。あれだけ人を変態呼ばわりしておいて、この野郎!!


 ついで俺は、バッファロー男が持っていた袋の口からこぼれた、「霊液」らしき物体にも目を留めた。霊液は単一電池サイズの透明な小瓶に入っていて、赤い花びらのようなものを中に浮かべていた。ベッドの上にぶちまけられた、まだ湿った跡を見る限り、やや粘性の液と見える。一体何にどう使うのかな?


 ともあれ俺は姉さんに、早速犯人たちを捕縛するよう頼んだ。


「あの髭の男を、逃さないで! …………アイツが、「桃色天使」だ!」

 

 姉さんは聞くや否や「ヒュッ」と短く口笛を吹いた。


 するとたちまち、砂のようなものが彼女の足元からどうと湧き出し、部屋は瞬く間に散らばった砂粒で覆われた。


 砂粒はチリチリと激しく弾け、俺は堪らず目を細めた。肌に当たるとかなり痛い。

 同時に俺は息を飲んだ。


 砂嵐の中を、決死の形相のバッファロー男が雄叫びを上げ、こちらに向かって来ていた。なりふり構わない突進で、目が砂で真っ赤に燃え上がっている。振りかぶった二の腕の筋肉が隆々と盛り上がっていた。


「う、うわぁ――――!!!」


 俺は咄嗟に姉さんの袖を引いて、後ろへ逃げようとした。だが姉さんは怯まず、微動だにせず、かえって俺を盛大に突き飛ばした。


「ナメんじゃないよ、若造!!」

「ごめんなさい!!」


 と、俺はみっともなく後じさりしながら(きっとバッファロー男に向けて言ったのだろうが、自分が怒られたとしか思えなかった)、彼女の全身がカッと鮮烈に光り輝くのを見た。

 

 アドレナリンの過剰放出が見せる、一瞬のスローモーション。

 姉さんはおもむろに腰を落とすと、深い呼吸と共に拳を作った。流星の如き正拳突きが、じっくりと空を破る。

 熱を持った緑白色の光の尾が、彼女の拳から煌々と伸びた。


 輝く拳はバッファロー男のみぞおちに深く深くのめり込み、彼の身体をスポンジのようにぐにゃりと捻じ曲げた。


 時が戻る。

 衝撃波により、部屋の壁に豪快なヒビが入った。

 風によって豪快に吹き飛ばされる砂粒。

 俺や他の見物人は、その砂を顔一面に浴びながら、呆然と口と目を開けていた。


「…………かっ、は」


 吹き飛ばされたバッファロー男が、かろうじて苦悶の息を漏らした。

 ドッ、と大袈裟な音を立てて崩れ落ちた彼は、芋虫じみた動きでどうにか四つん這いになると、腹を押さえ嗚咽し、嘔吐した。

 姉さんは彼の方へ勇ましく歩み寄ると、トドメの言葉を叩き付けた。


「獣人化もせずに、みっともない!! 出直してきな、泥棒!!」


 姉さんは後ろで縮こまって震えているテレサと従業員の男を振り返ると、「ヒュッ」とまた涼やかな口笛を吹いた。


 合図と同時に、散らばっていた砂粒がテレサ達の周りに集まり、二人の足や腕を素早く固めていく。彼らが慌て出した時には、すでにその身体はすっかり砂に覆われて、顔だけを出すのみとなっていた。


「ちょっ、ヤダ、助けて!!!」


 甲高い声で叫ぶテレサに、姉さんはギュウと眉間を険しくした。


「ダメ!! アンタ、いつからこんなことしてたんだい? 最近、妙に転送の腕を上げてきていると思ったら…………。まったく! どうせサモワール以外でも、このコソ泥とつるんで、色々やらかしてたんだろう!?」

「イェービス姉さんには関係無い!! 放っといてよ!! 学費のためだけに生きて働いて生きて働いて、大して成果も無くて、馬鹿馬鹿しくて、やってらんないってのよ!! 大体、何の筋合いがあって私に文句言うわけ!?」

「馬鹿だね!! だったら、とっとと学院なんてやめたらいい!! 何の筋合いも何も、アンタに魔術の基礎を教えてやったのは誰だと思ってるんだい!?」

「私が使いたかったのは、姉さんの田舎くさい地味魔法なんかじゃない!! 騎士団みたいな、派手でキラキラしたのが良かったの!!」

「生意気言ってんじゃないよ!! 騎士団目指して、下着泥棒の片棒担いでるんじゃあ、世話も無い!!」


 俺は二人の言い合いを聞きながら、バッファロー男がよろりと立ち上がるのを横目に見た。


「――――姉さん!!」


 俺はバッファロー男の上半身が、本物のバッファローのように大きく、毛むくじゃらに変身するのを指差した。

 バッファロー男は完全なる獣面に変化するや否や、頭の巨大な角をブンと大胆に振りかざし、大地も引き裂かんばかりの凄まじい咆哮を上げた。


 バッファローの周囲の砂が急激に渦を巻き、たちまち大きな砂の塊を、いくつも、いくつもいくつも作り上げていく。それらはもはや岩石であった。

 岩は一層壮絶なバッファローの咆哮によって、爆発的に辺りに散った。


「お兄さん、伏せな!!」


 俺は姉さんに言われるまでも無く、すでに床にうつ伏せていた。情けないとか思う余裕は一切無い。


 岩石は四方の部屋の壁を粉砕し、隣接した部屋の壁まで一気にぶち抜いた。

 テレサの絶叫と、いつの間にか浴室から出てきていたカップルの絶叫とが重なって、超音波のような悲鳴が場に響き渡る。崩れ落ちてくる建物の破片が、俺のすぐ傍にザクザクと突き刺さった。たまらず俺も悲鳴を上げる。


 しかし、姉さんは動じない。

 彼女は口笛を吹き、新たなる砂を大量に湧かせた。莫大な量の砂が、津波のような音を立てて、崩壊しかけの壁を埋めていく。一方で床に散った砂は、働き蟻のごとく整然と凝集し、俺やテレサらを守る小さなドームを形成していった。


 素っ裸のカップルが、作られたドームの内側でなおも叫んでいる。

 残りの砂は姉さんの魔力が起こす風と、バッファローの咆哮との間で、乱れに乱れていた。まさに砂嵐である。

 ドームに守られているとはいえ、砂は容赦無く俺の顔を打ち据えてきた。俺はバッファローと同様に、目を真っ赤にして耐えた。


 こんな騒ぎになっているっていうのに、店は一体何をしているのだろう!? どうして誰も助けに来ないんだ!?


 俺は恨みがましく思いつつ、ドームからわずかに顔を出した。

 戦闘がこう着状態に陥っているのを見計らい、姉さんに話しかけた。


「姉さん!! 大丈夫!?」


 姉さんはチラと俺を見やると、険しい顔つきのまま言った。


「大したことない、と言いたい所だけど、このままじゃちょっとマズいわね。ちょっと煽りすぎちゃったかね。…………あんまり長引かせると、こっちが先に力尽きちゃいそうだ」

「何か手伝えることない?」

「そうさね」


 姉さんはちょっとばかり思案していたが、やがてまた俺を見返して言った。


「そしたら、お兄さん、少し身体を貸してもらえるかい?」

「へ? 身体?」

「「無色の魂カラーレス」って聞いたことある? 一応話しておくと、「無色の魂」ってのは、テッサロスタで作られる、人工の霊体のことなんだけど」

「はあ」

「それを空の肉体に入れれば、霊体不在の今のお兄さんでも、ちょっとした魔法が使えるようになるのよ」


 俺は砂塵まみれの顔をこすり、目を瞬かせた。


「それって、つまり、俺も戦うってこと!?」

「むしろ、お兄さんが戦うのよ!」

「でっ、でも! 俺、魔法の無い国から来たんだ! 使いこなせるわけ…………」

「魔法の無い国なんてないよ!」


 姉さんはぴしゃりと言い切ると、苦しそうに顔を歪めた。刻まれた皺が深まるにつれ、若々しさがぐんと失われていく。少しずつだが、バッファローの勢いが勝ちつつあるようだった。砂嵐の中心が移動し、バッファローを核に渦巻こうとしている。

 姉さんは相手を真っ直ぐに睨み付けながら、腹に力を込めて続けた。


「とにかく! やるの!? やらないの!? どっちなの!?」


 俺はあわあわと口を動かしつつ、動転したまま答えた。


「やっ、やる!! やってみる!!」

「よし、そうこなくっちゃ!!」


 姉さんは顔を皺くちゃにして笑うと、印を組んでいた手を解いて、新たな詠唱を始めた。遠く、地の底にまでだって届きそうな、高らかな魔海への呼び声に、俺は自分の身体が熱っぽく呼応するのを感じた。


 何かが、俺の内に沸々と宿り始める。

 温かなもの。ひんやりとした、雫のようなもの。

 たくさんの水泡がぽつりぽつりと混ざり合い、柔らかく、透き通り、少し悲しいぐらいにあっけなく、沁み通っていく。


 気付けば、青い果実を抱く小さなトカゲが目の前でじっと俺を見つめていた。

 トカゲ…………いや、竜の子供?

 見慣れない鱗の色と顔立ち、爪と牙に、ふとそんな考えがよぎった。

 つぶらな竜の黒い瞳は、何を訴えることもなく、ただ静かに映る世界を湛えている。まるで合わせ鏡のように、俺と竜との境目が交錯した。

 不思議な生き物はやがて、陽炎のように立ち消えた。


 ――――…………世界の半分が、色づいて見える…………?


「さぁ、魂が入ったよ! とっておきの暴れん坊を入れたからね!」


 姉さんの溌剌とした声が、やけに耳に響いた。頭がぼうっとする割に、辺りの景色が滅茶苦茶鮮やかに見える。…………いいや、視界自体は擦りガラス越しみたいにぼやけているのだが、それ以上に、命の放つ魔力が、ビリビリと全身に伝わってきた。


「魂の入った身体は、思う以上の力を発揮するわよ! …………お兄さんも、たまには良い子ちゃんなんか止めて、好きに暴れたらいい!!」


 全身を巡る血液が、まるで命を宿したみたいに力強くキックして、心臓を駆け抜けていった。酒やらジュースやらローチやらですっかり興奮しきった気分と合わさって、尋常ならざる活力が身の内に漲ってくる。


 続々と噴出する脳内麻薬が、身体のあちこちのリミッターを際限無く外していく。身体中の神経が暴れ出す、その寸前まで、エネルギーが迸った。

 堰を越えた衝動が雪崩となって、理性を押し潰していく。

 今すぐ走り出したい!

 叫び出したい!

 噛み付きたい!

 壊したい!

 誰でもいい、戦いたい!


 俺は、獣になっていた。

 獣。なんだろう。皮膚がエメラルドの鱗に覆われていく。


 …………竜?

 どうでもいい。


 次の瞬間、俺は鋭い爪に照明を反射させ、バッファローに飛び掛かっていっていた。

 テレサやカップルの絶叫を痺れるほど背中に浴びて、俺はバッファローと岩石の中へ、一目散に突っ込んでいった。


 バッファローは充血した目をこれでもかと見開き、岩石を俺に放った。

 飛び交う岩の弾幕を掻い潜り、俺は瞬時に彼の懐へ達する。


「――――――――何ッ!?」


 驚愕するバッファローの顔面に、俺は容赦無く爪を立てた。


 舞い上がった鮮血の飛沫が、さらに俺の脳を加速させる。怯え竦む相手の目の光が、さらにぐんと気分を駆り立てる。

 俺はもう一方の手を夢中かえって振り抜き、後ろへ退きかける相手の顔を、真一文字に布切れの如く引き裂いた。


 恐れか、怒りか、バッファローが野太い雄叫びを上げる。俺は本能の命ずるままに牙を剥いた。相手の柔らかい喉笛が弾ける、その音の予感が俺を支配していた。

 喉。喉。喉。

 それしか目に入らない。


 砂がみるみる凝集し、バッファローの手足を覆っていった。姉さんが支援してくれているのだ。

 だが同時に、バッファローの首筋を守るように、厚い岩石のマフラーが編まれつつもあった。バッファローの魔力が、姉さんの魔力に拮抗している。今なら、身体でわかる。


 血まみれ、砂まみれのバッファローが、悪魔じみた目つきで俺を睨んでいた。毛先から滴る血雫が汚らしく、禍々しく、雄々しい。

 彼の返り血を浴びた俺の面もきっと、きっと同じくらい醜いだろう。興奮する。


 俺は首が狙えぬと察するや、目標を彼の無防備な後ろ肩へと変えた。俺は急角度で横に跳ね、壁を思い切り蹴った。

 そのままバッファローを背中から押し倒す。すかさず大きく口を開く。牙をガブリと沈める。液体の噴き出る、皮が破ける焦がれていた音が脳に満ち溢れると、俺は堪らず首を左右に大きく振った。


「テメェ…………離し、やがれ!!」


 バッファローが俺を引き剥がそうと、暴れ、抗した。しかし俺は鋭い爪を深く深く相手の身体に食い込ませ、喰らい付き、立ち上る血の匂いに酔いしれていた。歓喜のあまり、舌はもうまともに働いていなかった。

 痺れも痛みも、全てが快感に変わっていく。


 バッファローが身をよじるのに合わせて、俺は何度も、何度も咬み直した。牙が肉を裂く度に、小気味の良い音がブチブチと鳴る。喉笛まで、動脈まで、何としてでも辿り着きたい。

 バッファローが俺の腹を肘で強く打つ。岩石が立て続けに横っ面を打つ。俺は血糊にぐっしょりと濡れながら、なおも牙と爪を立て続けた。


「お兄さん、やめな!! それ以上やったら、死んじまうよ!!」


 姉さんの悲鳴が聞こえた。聞こえただけだった。


 俺は、腕に更なる力を込めた。強引だが、一気に喉まで喰う!!


 テレサらの一際甲高い悲鳴が響いた。

 俺が首をうんと伸ばした、その直後、巨大な岩石が俺の後頭部を強かに打った。


「―――――――ッッッ!!!」

 

 俺は言葉にならない声を上げて前のめった。意識が一瞬、真っ白になる。

 バッファローがその隙を突いて、強烈な拳を左の下顎に叩き込んだ。


 俺は宙高く吹っ飛ばされながら、すぐさま猫のように着地姿勢を整えた。考えてのことでは無い。身体が独りでに動き、戦闘から気を離そうとしなかった。


 俺は意識が真っ白になったまま、四つ足で着地し、相手をギッと見据えた。垂れてくる血が目に沁み、瞬膜が反射的に一度閉じた。


「くっ…………どんだけラリッてやがる、コイツ。並の適応じゃねぇ」


 バッファローが忌々しげに吐き捨てた。俺は未だぼやける頭で、それでもじりじりと、辛抱強く相手の出方を窺っていた。


 姉さんが何かしきりに喋りかけてきていたが、今度こそは本格的に理解不能なノイズにしか聞こえなかった。

 目の前にあるのは、獲物。

 高揚しきった気分が、カッカと血を燃やす。

 瞬きの間すら、相手を睨み続ける。

 息をし続ける。

 動くために、

 狩るために、

 その為だけに。


 足元の砂が、磁石に挟まれた砂鉄のようにゾロゾロと動いていた。

 姉さんが操っているのか、あるいは、俺とバッファローとの間に流れる緊張が、自然と動かすのか。砂は楕円形の綺麗な渦模様を、ゆっくりと描いていく。


 俺は相手のわずかな呼吸の乱れを気取り、即座に床を蹴って前へ踊り出た。投げられた岩石が、丁度擦れ違いざまに床を破壊する。


 バッファローのつま先が、俺に向かって閃光のように蹴り上げられた。俺は極限の集中の中、見切って刹那だけその場に踏み留まり、そこから跳んで彼の側頭部に体当たりをかました。


 転がるバッファローを組み敷き、俺は牙を振りかぶる。喉笛へ、一直線に向かっていく。


 バッファローは雄叫びを上げ、俺を掴んで乱暴に身体を転がした。俺たちは一塊になって、ゴロゴロと雪崩れていく。

 砂が盛大に巻き上げられた。俺は苛立ちに駆られ、がむしゃらな噛み付きを繰り返した。皮膚を掠るばかりで、ちっとも血が出ない。いちいち抜けて牙に絡まる毛が、すごくうざい。

 俺は焦り、雑に攻撃を重ねた。

 もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。


「お兄さん!!! 落ち着いて!!!」


 姉さんの制止を無視し、俺は牙を立て続けた。だが次第に、バッファローが勢いを押し返してきた。


 バッファローは冷静に、からかうように俺の牙を躱していった。時折、角で反撃さえ叩き込んでくる。俺はその都度頭に血が上って、余計に躍起になった。


 考えるより先に、攻撃が出る。そうしないと、さらに苛々する。悔しさやら、憎しみやら、吐き気やらで、身体が爆発しそうになる。

 ほんの1秒だって、我慢できなかった。


「ハッ!! マヌーのクソ酒でハイになったガキが、ボロ出してきやがった!! 肥溜めがママに見えんのか、アア!?」


 俺は喋ることが煩わしく、唸り声だけで応じた。(そもそも意味がわかんねぇんだよ!!!)


「オイ、オイ、すっかり飲まれてやがんな、トカゲ野郎!

 ナタリーはどうした? 一緒じゃなかったのか? 振られたか? アレがいりゃあ俺も勝ち目が無かったが、腐れたババアと、そのペットのお前じゃ、いくらやっても無駄だぜ!?」


 俺は爪を振り上げた。しかし、勢いをつけようとして肩を大きく反ったその瞬間、バッファローが足を振って、上体をぐんと跳ね上げた。

 巨大な額が眼前に迫る。


「喰らえ、クソ野郎!!!」

「――――ッッッ!!!」


 俺は鼻先に派手に頭突きを打たれ、よろめいた。激痛が走り、視界が白黒に点滅する。


 バッファローは飛び上がって立ち上がると、荒々しく何事かを叫んだ。

 俺は定まらぬ足元で、かろうじて踏ん張ったが、やがて目に飛び込んできた光景を見て絶句した。


 砂で覆われていた壁がみるみる崩れていき、今までにない規模の岩塊を、数え切れぬ程に、急速に作り上げていた。


「ハハハァッ、やっと調子が出てきたぜ!! ババア、望み通り本気でぶっ殺してやらぁ!!」


「ごめん…………お兄さん!! ずっと、支えてきたんだけど…………もう、持たない…………!!」


 俺はいつの間にか、すっかり骨と皮だけの老婆と化した姉さんを目の当たりにして、ようやく正気を取り戻した。


 我に返ると、肌を覆っていた鱗が急にボロボロと剥がれ落ちていった。猛っていた心臓が風船のように萎み、血と一緒に、ドクドクと全身から力が抜けていった。

 俺は崩れ落ちる膝を、留めることができなかった。筋肉痛をも通り越して、身体が骨ごと、がらんどうになってしまったようだった。


「やめてよ!! 私たちまで巻き込む気!?」


 テレサの絶叫に、バッファローが淡泊に答えた。


「こうなったら、いっそ跡形も無くぶっ壊しちまった方がマシなんだよ!! そこのヘタレトカゲが、変態「桃色」で、俺は偶然居合わせた正義の自警団だ!! わかるだろ!? むしろ、お前らは死んでくれねぇと困るんだよ!!」

「な…………なんですってぇ!?」


 テレサの顔から血の気が一気に失せる。俺は息も絶え絶えの姉さんに、今一度、声を張って頼んだ。


「ね…………姉さん、お願いだ!! あと少しだけ、俺に、戦わせてくれ!!」


 姉さんは無言で印を組み、乾ききった唇を微かに震わせた。


「行きな」


 そう呟いたように見えた。彼女の深いグレーの瞳は、老いたとて決して枯れない瑞々しい輝きを秘めていた。

 俺は自分の周りに、砂がじっくりと渦巻いてくるのを感じ取った。


 ――――――――もっと、来い!!!


 俺は内に残った闘志を焚き付け、より多くの砂を呼ぼうとした。コウと一緒の時みたいに、魔力の扉がくっきりと感じられるわけでは無かったけれど、やってやる!! 絶対に引き寄せてやる!!


 オースタンでだって、サンラインでだって、何にもできない、しょうもない俺だが。26にもなって、いつまでもフラフラしていて、挙句の果てには妹にまで軽蔑されて、それでも何色にも染まれない俺だが。

 やると、決めたんだ!!


 俺はなけなしの力を振り絞り、全身に気合を込めた。自力でも、身体を熱くしてみせる。

 できるったら、できる。嘘も本当も、道理も不条理も、あるもんか。

 そんなので納得するほど、俺は大人じゃない。賢くもない!!


 破れかぶれの気迫に応じてか、少しずつバッファローの岩塊から、砂が呼び寄せられてきた。気持ちが昂っていくにつれて、鱗がまたプツプツと再生され始める。爪が、牙が、ギリリと尖っていく。


 …………俺には、信じたいことがある。


 コウはいるし、魔法はあるし、世界は自分が思うより、ずっと広いって、信じたい。お化けも神様も、きっとどこかにいると、目に見えなくたって、俺は心の底から信じている。

 そんな魂が今、魔法を呼ぶ。扉を開く、戦う力になる。

 だから、負けない。

 俺は、この夢だけは、絶対に貫き通す!


 俺は全身に砂の鎧を纏った。見れば姉さんだけでなく、テレサも俺に力を注いでくれていた。

 テレサは猫目を弱々しく吊り上がらせ、懸命に詠唱を続けていた。地下へ送ってもらった時と同じ、拙い彼女の白い光を浴びたら、俄然力が湧いてきた。扉が、すぐそこにある!


 バッファローの周りの砂が、微かに動きを淀ませた。

 バッファローが腹に力を溜める。

 俺はその瞬間、足に漲らせた力を弾丸のごとく解放した。


 同時に、憤怒も露わに、バッファローが俺めがけて一斉に岩塊を降らせる。

 俺は機敏に岩の雨を避け、バッファローの足元ギリギリを狙って、地面スレスレの低姿勢で突っ込んでいった。

 礫が、鎧を砕く。

 足が熱く燃える。

 地を蹴る。さらに加速する。


「させるか!!!」


 バッファローが短く詠唱し、自分の周囲に巨大な岩の壁をせり上がらせた。

 だが俺は止まらず、四脚になって壁に飛びついた。強靭な爪と脚力が、いとも容易く壁面を掴ませた。

 そのまま走る。視界が90度、ダイナミックに回る。

 

 バッファローが乱暴に詠唱を加える。壁にいくつもの棘が盛り上がった。瘤と呼んだ方が良い、無骨な岩の棘。

 俺は流れるように棘の合間を走り抜けていった。

 周囲の空間が高速で旋回する。

 俺はあっという間に、壁の頂点に昇り詰めた。


 見下ろせば、血走った眼。バッファローが呆然とこちらを見上げている。

 俺はその瞳に、喰い込ませんと牙を剥いた。

 濁った瞳の脆さが、そのまま岩の強度に伝染る。

 俺は壁が粉雪と壊れる直前、バッファローに飛び掛かった。


 尻餅をつく獣。俺はその上にのし掛かる。

 あんなに恋しかった喉の肉が、無防備にばっくり晒されていた。

 俺は生唾を飲む。

 快い波が、脳をさざめかす。

 俺は喉笛を引き裂く代わりに、一度、力の限り長く、わなないた。


 砂が豪快な煙を立て、俺達を中心に渦巻く。

 俺はバッファローの厚い肩を、無残な傷口を、これでもかと強く押さえていた。

 バッファローの角が猛然と俺の頬を打つ。砂の兜が粉々に砕ける。

 俺は傷口にじっくりと爪を埋め、丁寧に牙を立てた。理性と野性が、ギリギリでせめぎ合っている。俺はまだ獣じゃない。俺は俺を、コントロールできる。

 相手の角がモロに俺のこめかみを打った。だが俺は、食いしばり、一切口を離さなかった。


 バッファローの、ほとんど声にならない雄叫びが砂を凝集させようとする。

 俺は気合だけで、それに抗う。

 砂が乱れ飛ぶ。

 竜巻のように、高速で渦が成長していく。破壊された瓦礫が次々と飲み込まれて、渦は瞬く間に天井を貫いた。


 俺達の混沌を映すように、竜巻のエネルギーは止め処なく増幅していった。

 ついに部屋ごと巻き込まんとする、その瞬間、まばゆい光が恒星の如く、一挙に空間に溢れた。


「――――――――!?」


 俺は途端に、スゥと意識が遠退いていくのを感じた。砂が重力を忘れ、粉のように舞っていた。台風の 目を思わせる、魔力の空白が部屋を包む。

 バッファローの肩から、とろけるように力が抜けていった。


 光はすぐに収まった。

 後には、水を打ったような静寂だけが余韻となって残った。

 俺はいつしか周囲に舞っていた砂が、重たい泥の雨と化していることに気付いた。雨は浴びているとなぜか、不思議なくらい心が静まった。

 崩れた天井の奥に広がる、灰色の靄から、惜しみなく注がれる雨…………。


「これ、「裁きの雨」…………?」


 放心した表情でテレサがこぼした。

 姉さんの掠れた声が彼女に応じる。


「…………「裁きの雨」は、祈りへの手向け。裁きの主を信ずる道を往かんと、強く願う者に恵まれる、っていうけどね…………。

 …………初めて見た…………。

 何にせよ、教会への誓約がなくちゃ奇跡は起こせないって、嘘だったんだねぇ…………」


 泥の雨はたちまち深い沼を溜め、部屋と、俺達をじっとりとした沈黙に埋めていった。

 崩れた壁の向こうから、こっそり騒ぎを見守っていた他の客達が、おずおずとシーツを被って覗きにやって来た。


 俺はこれでもかと深く、長く、溜息を吐いた。身体を覆っていた鱗が、茶色い雨と一緒にごっそり剥がれ落ちていく。全身の力が抜けて、心の鎧が氷みたいに溶けた。


 やがて雨はゆっくりと止んでいった。


 俺はその後もしばらく、呆然と佇んでいた。


「…………。

 …………お兄さん」


 姉さんに肩をたたかれて、ようやく俺は彼女の方を振り返った。


「…………ごめん、姉さん。何だか…………大変なことになっちゃった」


 俺が申し訳無くて目を伏せると、姉さんは優しく返してきた。


「そうね。でも、よく頑張ったわ。「桃色」を捕まえて、テレサ達や私も助けてくれたんだもの。ホラ、裁きの主だって祝福しているわ!」

「祝福、なのかなぁ。…………そもそも俺が余計な事をしなかったら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」

「馬鹿言わないの! アンタは正しいことをしたよ。自信持ちな。格好良かったんだから!」


 俺は立ち上がろうとして、突如走った激痛に悶えた。全身の筋肉という筋肉が、一筋残らず断裂したかのようだった。俺はあえなくまた泥に手を付き、苦笑した。


「ハ…………ハハ。どうしよう、動ける気がしないや」


 姉さんはカラカラと陽気に笑うと、どこか懐かしむみたいな表情で言った。


「ま、そうだろうね。訓練も無しにあんだけ暴れりゃ、少なくとも3日は動けないだろうよ」

「3日じゃ済まない気がする」

「お兄さんはまだ若いからね。栄養取って、よく寝ていれば、そんなもんだよ」


 実は若いというほど若くもないのだがと内心でこぼしつつ、俺は自分の下で伸びているバッファローに目を向けた。


 バッファローはすっかり力を使い果たしたのか、今までの威勢が嘘だったかのようにおとなしく虚空を眺めていた。

 俺は余計なことかと思いながらも、彼に話しかけた。


「…………あのさ。何で、こんなことしたの?」


 獣人化の解けたバッファロー男は(それでもその髭は、夥しい泥と血にまみれていた)、やさぐれた調子で答えた。


「…………金がねぇんだよ。騎士様のお友達にはわかんねぇだろうが、金も、魔力も無いヤツには、ロクな場所じゃねぇんだよ、ここは」

「魔力、あったじゃん」

「クソみてぇなもんだろうが、あんなんは。…………所詮俺程度じゃ、ナタリーみてぇなガキ一人、どうにもできやしねぇ。いずれアイツのが出世するって、目に見えてやがる。この世は才能が全てだ。まともにやってられっかよ、クソが」

「…………。だからって、そんなに貧しいようにも見えなかったけど。金も、才能も」

「ほざけ。餓えてなけりゃ満たされてるって、本気で思ってんのか? どんな馬鹿野郎だ、吐き気がする、オェ、底抜け鍋でクソ酒と煮られろ。

 チッ…………ああ、クソ。テメェのつけた傷のせいで本当に吐きそうだ。痛ぇな…………。いくら雑魚とはいえ、3人も集まりゃ、な…………」

「…………人を騙したり、陥れたりしてでもしたいことって、何?」

「あ? 何の話してやがる?」

「仲間にまで、手をかけようとしたろう? 仲間を裏切って、他人に罪を着せて、そんなにまでして一体、何がしたいの? アンタ」

「バカが。決まってんだろ。金使うんだよ。うまいもん食って、高い酒を飲む。上等な宿に行って、女を買う。賭場に行く。何でもできるだろうが」

「それ、本当にしたいの?」


 バッファローは冷たい眼差しを俺に寄越すと、徹底した無表情で言った。


「お前、グゥブの下痢か、ローチの小便でも頭に詰めてんのか? 完全にイッてるぜ、その真顔。

 …………別に大して欲しくもねぇが、他に望むもんなんかねぇんだよ。今が楽しけりゃ、それでいい。それ以外の真理なんざ、全部トチ狂ったクソ魔術師共の、暇つぶしのゲロ以下の妄想だ。

 欲しいものなんざ、ハナっからねぇんだよ。どこの世界にもありゃねぇ。何も欲しくねぇんだよ。くだらねぇ、つまらねぇ、どこまで行っても、クソばかり。ガキにはわかんねぇだろうがな、俺は、そういうクソの煮詰まった地獄で、やりようを見つけてんだよ。

 魔力も、金も、あるところにゃ、腐る程うなってる。少しぐらい拝借したって構わねぇだろう。魂の根がどうの、魔海の苗床がどうのと、クソ屁理屈並べる以前に、この世で金と力がなきゃ、何の話にもなんねぇんだ!

 …………元々、平等じゃねぇんだからよ。それぐらい許されてもいいだろうが!」

「アンタ…………生きてて楽しくないだろ。自分でも、わかってんじゃん」

「ハッ、テメェはそうして童貞のまんま、ババアの膝枕でクソ酒しゃぶって、一生ママの夢でも見てろよ、クソが!!」


 俺は黙って相手を見つめ返した。バッファローは次第に苛立つ元気が湧いてきたと見え、勝手に開き直って怒鳴り始めた。


「っつぅか、騙したからって、何だってんだよ!! そもそも騙される馬鹿が悪いんだろうが!? 俺は、テレサ共より賢い!! だから頭使って生きてきただけだ!! 何か文句あんのか!?」

「あるよ」

「言ってみろ、このヒョロガリヘタレ野郎!! 〇×△!!」


 俺は飛び出たスラングにうんざりして、会話を打ち止めた。もうちょっと元気だったら、あと少しぐらい付き合ってやったかもしれないけれど、今はとてもそんな余裕は無い。


 要するに、僻んで自棄になった、ってだけの話だ。それ以上でもそれ以下でもない。それこそ宇宙の何よりもくだらない、何とやらのクソの糠漬け特盛りチャンプルーみたいな話だ。


 俺はバッファローの言う通り、心底ガキで、彼にはちっとも共感できない。何より、絶対に欲しいってわけでも無いのに、わざわざ余計に働くとか、ニートには常軌を逸しているとしか思えない。騙される方が悪い云々に至っては、低俗と断ずるより他にない。


 俺は一つ、欠伸をした。どうしてこう、物事をつまらなく考える大人が育ってしまうものか。才能なんかなくたって、いくらだって見えるものはあるっていうのにさ。

 せめて自分くらいは、信じてあげたらいいのにな。

 

 俺は今すぐに眠ってしまいたいのを堪え、誰かが連れてきてくれた、見るからに上等な着物を纏った従業員との対応に集中することにした。さてさて、何と申し開きしようかなぁ…………。

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