第77話 戦う魂の獣たち。俺が底無しの扉を開くこと。
――――…………リーザロットが印を組むと、足元の闇がフツフツと沸き立ち、宙に黒い小さなシャボン玉が大量に浮かび上がった。
それからリーザロットは一言、決然と詠唱し、黒と金の糸で織られた羽衣をスルリと身に纏った。羽衣の放つ妖しく艶やかな明かりが、シャボン玉を虹色に反射させる。リーザロットの横顔が冷たく、神々しく照らし出された。
蒼い瞳は今、真っ直ぐにリケを見据えている。
リーザロットの長い髪が、リケの方から吹く風に煽られてゆっくりと広がっていった。蒼の魔力と獣の魔力が混ざり合い、絡み合い、サリサリと摩擦を引き起こし、空気を凍てつかせていく。
いつからか、オーロラが天高く、不安そうに揺らいでいた。
無数のシャボン玉が一陣の風に押し上げられて、上空へぐんと吹き飛ばされる。同時にリケが牙を剥き、真正面からリーザロットに飛びかかっていった。
リーザロットはわずかに身を捌くと、羽衣を滑らかに翻して闇に溶けた。女神のような舞の後には、溜息に似た余韻だけが残る。
見惚れてはいられない。俺は即座に全意識を傾け、扉を探った。腐り果てた腕に気合を込めると、いっそ小気味良いぐらい豪快に、指が崩れていった。
辺りの魔力の微細な振動が、詳らかに胸に伝って来る。
たくさんの人間の…………うめき、叫び、嘆きが聞こえた。
さらに気を研ぎ澄ましていくと、怨霊の嘆きじみた魔術師たちの声が、そこら中から溢れ出てきた。
目を凝らすまでも無く、暗闇の中におぞましい景色が浮かび上がってくる。
魔術師達は…………正確には、かつて魔術師だった何かは、粘ついた怨嗟を絶え間なく吐きながら、苦しげにむせ返り、のろのろと闇の中を這いつくばっていた。お互いの魂がベトベトに溶けて絡み合い、抜け出せずにいるのだ。
醜い、黒い泥塊と成り果てた彼らは、この世の全てを己の怨嗟と嘆きで充填せんと、際限無き増大を続けていた。
俺は肉の滴り落ちる下半身を引きずり、さらに腕と意識を闇の深みへ伸ばしていった。
魔術師達の声を、もっと深く聞くために。
今にも千切れ飛びそうな、一際尖がった衝動が泥の中に垣間見えた。俺の知る言葉では語り得ない、狂暴な衝動。
強靭な針のイメージが脳裏にこびりつく。イメージはみるみる眼前に具現化し、長く鋭い、禍々しい1本の針となって泥の内から現出した。
針の先端は血でぬめって光っていた。時折、宙を舞うシャボン玉の眩い明かりを浴びて妖艶に閃く。尋常でなく塩っ辛い魔力が、俺の舌に撒き散らされた。
――――これだ!!!
俺は意識を一束に集め、魔術師の針に呼びかけた。
――――もっと!!!
――――もっと、鋭く!!!
願いに応じ、上空のシャボン玉が急激に膨れ上がる。魔術師たちの怨念の泥が、俄かに慌ただしく沸騰し始める。
意識の糸を細く、細く、ピアノ線みたいに研ぎ澄ましていく。
乗じて、針がキリキリと尖る。
塩辛い魔力がいよいよ舌を痺れさす。痛みが脳に活を入れる。
ピンと張り切った意識の糸が、鋭利な魔力の針先と、ゆっくり重なっていく。
(コウ君!!)
リーザロットの声が、ぐわんと頭に響いた。
「わかってる!」
俺は低く呟き、拳を思い切り握り砕いた。舌と頭が強烈に痺れ、腕の痛みが一気に快感に変わった。
針が打ち出され、上空の巨大なシャボン玉を一直線に貫く。
一つが割れると、シャボン玉は連鎖して、一斉に真っ赤な花火となって爆ぜた。
腹の底に響く轟音が空で弾ける。
火の雨が、千万の矢となってバラバラと降り注いだ。
闇が明々と、まだらに照らされる。
どこからともなく下りてきた羽衣がフワリと俺を包み込んだ。次の瞬間には、幾本もの火の矢が薄衣を突き抜け、俺の身体を容赦なく貫通していった。熱くも痛くも無かったが、異様に胸がざわめいた。
リケはこれでもかと大きく目を見開き、鋭い威嚇で矢を弾き散らしていた。その瞳は黄色と炎の赤とで入り乱れ、壮絶である。
リケの強烈な叫びが、闇をギリギリと震わせる。俺は残る力を振り絞って、頭をもたげた。
「まだ、だぜ…………!」
リケが怒りに満ちた眼差しをこちらへと投げる。
俺は蠢く魔術師たちの泥塊へ、声を放った。
「落ちろ!!!
…………堕ちろ!!!
――――――――「蒼の主」が、待ってる!!!」
扉が、闇の底にぽっかりと口を開ける。
俺たちは途端に、空っぽの宙に放り込まれたみたいに、どでかい穴へとあっけなく吸い込まれていった。
俺は糸の切れた人形のように脱力し、顔を引き攣らせた。
天から、莫大な量の泥塊…………まさに「混沌」そのものが落ちてくる。巨大な、恨みと欲望の化身にして、深き業の最果て。哀れな魂の群れ。
彼らは今や、歪みの魔物と同じように、ただ一つの目的に突き動かされていた。
――――来い!!!
俺は破裂寸前の心臓の高鳴りと共に、さらに強く呼びかけた。
落ちてくるリケの、心底驚愕した顔がくっきりと見える。目が真ん丸だ。手足を空しくばたつかせて落下するヤツは妙にコミカルで、滑稽だった。押し寄せてくる闇の大きさに比べて、俺も、リケも、あまりに小さい。
俺たちは果てしない闇の底へ、ぐんぐんと落ちていった。リケは背を丸くし、俺を包む羽衣は、嵐に裂かれたボロ布のように激しくばたついた。
――――……………魔術師たちの魂は、一様に「魔海」を欲していた。
彼らは魔海へ繋がる「蒼の主」を、ひたすらに希求し、黒い、長い腕を大蛇のようにうねらせ伸ばしてきた。
俺には、闇の底を求める彼らの途方もない欲求の圧力が全身で感じられた。今にもぺしゃんこになって潰れそうだ。
今となっては、扉を押し広げているのは、彼ら自身であった。俺は蛇の巣に放り込まれた生餌のように、彼らを誘き寄せているに過ぎない。
「…………リズ」
俺は独り言じみて、こぼした。
「本当に、いいのか? こんなものを、君の元へ…………」
答えの代わりか、黒く塗られていく意識の奥で、リーザロットの青い眼差しが残酷に美しく瞬いた。
その時、リケが凄まじい悲鳴を上げた。心臓にヒビの入りかねない、凄まじい叫声だった。
俺はハッとして、上空が猫の目の形にばっくりと切り裂かれるのを見た。
「!!! ――――しまった!!!」
巨大な瞳の奥に、扉があった。たくさんの足音が地響きを立てて近付いてくる。
黒々とした大きな瞳孔はさらにガバリと広がって、そこから爆発的に、夥しい数の細かな影を溢れさせた。
影は、数え切れない程の猫だった。
無機質な顔つきの小さな猛獣が、暗闇にどっと解き放たれる。不規則に瞬く何百もの緑の瞳は、それ全体が一個の「魔物」であるかのようだった。
リケに召喚された猫の群れは、けたたましい鳴き声と共に闇を荒らしにかかった。
猫たちは揃って、魔術師が伸ばした腕をズタズタに食い千切っていった。そのあまりの残忍さ、獰猛さを前に、魔術師の怒りは巣から落ちた雛鳥のごとく無力だった。
ある腕は堪らず分裂し、逃げ惑ったが、あえなく捕まって突っ転がされ、無惨に裂かれた。同じく逃げ出した他の多くの手も皆、惨めに弄ばれ、見る影もなくささら状に引き裂かれていった。
魔術師たちの混沌は、最早、哀れなネズミの群れでしかなかった。か弱い魂の残滓が、黒い飛沫となって俺の頬にバラバラと当たってきた。
俺は落ちながら、なおも伸びんとするも、猛烈に喰われていく黒い腕を眺めながら、自身の身体もまた、留めようもなく崩れていくのを自覚した。
瀕死の俺の元にも、猫たちが駆け寄って来る。ズラリと並んだ光る目が、冷酷に俺を見据えている。白い牙が、暗闇に光っていた。
俺はリズの名を呼んだ。
何度も、何度も。
まだ、死ねない。
死にたくない。
まだ、まだ……………………!!
猫が、最後の守り手である羽衣に爪をかけた。
布を裂く、鮮やかな音が宙に冴え渡る。
リズの叫ぶ声が遠く、響く。
俺は文字通り、手も足も出ない。
「もう、ダメか――――――――…………!!!」
ついに覚悟を決めかけた、その刹那、脇からすばしっこい何かが、勢い良く飛び出していった。
俺は散りかけた意識を大急ぎで掻き集め、その方へ集中した。緊張で肺が詰まり、脳が限界まで煮詰まる。悔し涙でぼやけたピントが、次第に、茶色い小さな背へと収束していった。
あれは――――…………。
「…………――――ポルコ!!!」
俺の歓喜に、溌剌とした吠え声が応えた。
「バウッ!!!」
ポルコは英雄然とした横顔を向け、さらにもう一度、雄々しく吠え立てた。彼はすかさず俺の周りに集る猫を蹴散らすと、それだけに留まらず、機敏極まる動きでそのうちの一匹を即座に仕留め、首筋に深く噛み付いた。
前脚で強引に相手を押さえ、獰猛に首を振る猟犬は、普段より一回りも二回りも逞しく、頼もしく見えた。
猫は断末魔の悲鳴を上げると、たちまち灰色の煙となって失せた。
怯え上がった残りの猫が、猛ダッシュで俺の傍から散っていく。ポルコは尻尾を力強く振り、低く、野太く唸った。
「よ、よくやった!!!」
すっかり舞い上がる俺の元に、次いで甲高い声が届いた。
「…………コウ君! 無事ですか!?」
「リズ!」
俺はすぐ隣に姿を現したリーザロットを見て、思わず泣きそうになった。
「ごめんなさい! 私、魔海との同調に精一杯で、手が回らなくて…………!!」
「いいよ! それより」
俺はあられもなく乱れたリーザロットの姿(彼女のドレスは胸から肩にかけて引き裂かれ、ひどい有様だった)に、つい一瞬言葉を失ってから、続けた。
「…………まだ、君の術は途中なんじゃないか? 君の瞳の扉も、開いてる」
「でも、コウ君…………」
「リズ、術を続けてよ。俺は、もう大丈夫」
「けれど、あなたの身体が、もう…………」
「リズ」
俺はリズの瞳の奥の深い海と、淡い桜色の唇を見つめた。滅茶苦茶に掻き乱された彼女の髪が数本、顔に枝垂れかかっていた。
「お願いだ。俺のことは、いい。君にしかできないことを、やって欲しい。そんなにひどい格好になるまで頑張ってもらって、さらに頼むなんて、死ぬ程、気が引けるんだけど。
でも! 戦いたい、このまま消えたくないって、俺も…………あの魔術師たちも、芯から願ってるんだ。この思いは、君がいなくちゃ、リケに届かない」
リーザロットは何かを言いかけて、ぐっと唇を噛んだ。俺はまだうっすらと痣の痕が残るリーザロットの頬を眺め、続けた。謝るぐらいなら、今はもっと、他にできることをすべきだ。
「悔しいけど、今の俺には「君を守る」とは言えない。けど俺は、君と一緒に戦い抜く。最後まで、君の力になる。
…………頼む! リケにぶつけてくれ。魔術師の魂も、俺の魂も、怒りも、嘆きも、良くわかんないムシャクシャも、全部だ。俺が君の力にして見せる。
あと一歩なんだ!!!」
蒼玉色がわずかに揺らぎ、瞬き、一層凛と澄み渡った。
俺は後は何も言わず、歯を食いしばった。その拍子にまぶたがホロリと崩れ、視界が霞んだ。
リーザロットはしゃがみ込み、そんな俺を優しく両手で抱くと、蒼を深く湛えた瞳の内に、ひたと俺を捉えた。
「わかりました、勇者様。…………「蒼の主」の務め、きっと果たします。あなたもどうか、お気をつけて」
「リズ、躊躇わないで。弱い君も、強い君も、ありったけ、全部叩きつけるんだ」
「はい」
リーザロットはゆっくり微笑むと、深く息をついてから、詠唱に入った。
強くしなやかな、濃い悲哀を宿した語り口。詠唱が乗ってくるにつれて、徐々に彼女の周りに透明な波の輪が現れ始めた。
リーザロットは瞼を落とすと、静かに暗闇の奥へと透き通っていった。彼女の魔力が花開くように場に広がり、しっとりとした蜜の甘さが俺に伝ってくる。
俺は魔術師たちの黒い腕に目をやった。食い荒らされ、情けないぐらいに弱弱しくなってはいたものの、魔海の深みに触れんとするその粘りは、かえって強まっているとさえ言えた。細く、だが執念深く、僅かずつ、伸び続けている。
俺は遠巻きに見張っている猫たちを睨み渡し、「チッ」と舌を鳴らしてポルコに合図した。
「行くぜ、ポルコ!」
ポルコは一瞬だけ俺の方へ視線を向けると、すぐに俺が見やった先の、猫たちの群れを目掛けて、一目散に駆け出した。
俺はその小さな、この場の何よりも生き生きとした背を一心に見つめながら、残る気力を一滴残らず絞って注いだ。
俺がポルコにしてやれること。それは、彼の「走りたい」という衝動を、熱し、燃え上がらせ、遂には火の玉と化すまで、加速させてやることだ。
「…………追え!!」
俺はポルコの目の前に次々と現れる、獣だけがくぐれる扉を、片っ端から叩き開けていった。
一つ扉をくぐる度に、ポルコはぐんと衝動と速度を増していった。
彼は次第に、「動物」から、獲物をひたすらに追い続ける「力」そのものへと、変貌を遂げていった。
純然たる魂が、ひた走りに走る。
ポルコは走った。走って、走って、無我夢中で、走った。
ポルコは散り散りになる猫たちを追って、大回りして駆けた。その身のこなしは雲の如く、風の如く。時折空を裂く吠え声が透明な槍となり、群れをけん制する。猫たちは追われる羊のように怯え、逃げ惑う。
加速するポルコの意識は、刃となるまでに研ぎ澄まされていた。
彼は、ボロ屑となった俺から、上空に蠢き続ける魔術師たち、そこへ集まる猫たち、闇に溶けて歌い続けるリーザロット、そして、それら全てを一望する、超然とした面持ちのリケに至るまでの一切を見通していた。
ポルコは今や、この場を支配する「魔力」と化していた。彼は力場に完全に溶け込み、確かな影響を与えている。俺は鳥肌が立つ思いで、彼を追い続けた。
やがて猫の追い払われた隙を突いて、魔術師たちの手がドロドロと伸び出てきた。
執念の泥は、一塊りに集まれば集まる程、劇的に重さと粘りを増した。魔術師たちは再び、闇の底の扉を押し広げつつあった。
俺は押し寄せてくる魔力の波濤に、身体の髄を震わせた。底無し沼に踏み込んだような不安と一緒くたになって、得も言われぬ高揚が身体を熱くさせる。火照り上がる身体へ、リーザロットの歌が月明かりみたいにひんやりと降り注ぐ…………。
(――――常闇の織姫に告ぐ。
――――祈祷の指を解き、針を掲げよ。
――――常闇に奉じ、
――――永久の床に置きし露を、織れ)
言葉は自ずから山彦となって、どこまでも遥かに、滔々と共鳴していった。
(――――籠の乙女たちよ、歌え。
――――星を恋い、月を恋い、
――――裁かれし、
――――在りし
泥が、ドロリと雫型を成す。
(――――結実の、月影の下。
――――蒼の落とし子を、依代に、
――――昏き苗床を、
――――嗚呼!!
――――紡げ!!!)
膨大な泥が、落ちる。
闇の底が恋人を迎え入れるように、どうと激烈に湧き起こる。
ポルコが吠える。
リケが鳴く。
俺は大勢の慟哭と、猫たちの甲高い悲鳴を一杯に浴びながら、闇の奥へ落ちていった。
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