第76話 魔術師達の網と海。俺がリーザロットのためにできること。
「そう言えばさ」
過激な景色にも段々と慣れてきて、ようやく俺はリーザロットに尋ねることができた。
「元々さ、俺とナタリーは下着泥棒…………「桃色天使」っていう、なんかこっ恥ずかしい名前の変態を捕まえようと思って、3階まで来たんだけどさ」
そう話す間にも、俺の頭上をヘドロじみた男女の塊が過ぎ去っていく。
「こんな場所で、下着も何もない気がするんだけど。「桃色」は一体、何を盗もうとしていたんだろうね?」
リーザロットはちょっとだけ首を傾げると、なぜか申し訳なさそうに声と眉を下げて答えた。
「それなのだけど…………やっぱり、出発前に言っておいてあげた方が良かったかなと思っていたの」
彼女は俺を見、それとなく俺の乱れた襟を整えた。
「多分ね、それは「器の棟」の話でしょう。タカシ君が連れて行かれた方の建物のことです。あちらでは、物質的な交流が重視されていますので…………。今朝、コウ君からお話を伺った時に、もしかして犯行現場はそちらなのではないかしらと、不安ではあったのです」
「ちょ、ちょっと待って」
俺はリーザロットを遮り、額に湧いた汗を拭った。
「じゃあ、俺達はずっと、見当違いな捜査をしていたってこと? いや、それよりも、タカシが、どこで何をしているって?」
リーザロットは肩を縮め、労わりの眼差しを俺に送った。
「残念ながら、探す場所が誤っていた可能性は、高いかと。ナタリーさんも、あまりサモワールの仕組みについてはご存じないようでしたし、仕方のないことですね。…………タカシ君は」
リーザロットは、俺の背後に忍び寄ってきた何かをそっと片手で払い、続けた。
「きっと、平和に楽しんでいるのではないかしら。こっちの騒ぎも、あっちにまでは飛び火しないでしょうし」
違う、そうじゃなくて。
俺は俺の、純潔を憂いているんだ!
なんて、クソくだらない心配を口に出せるわけも無く、俺は静かに言葉を継いだ。
「そっか。なら…………俺は、こっちに集中できるんだな」
「そうですね。それに、あるいはタカシ君も、案外ちゃんと捜査しているかもしれませんよ」
仕事を? アイツが?
俺は頭によぎる疑問を封殺し、最大限、好意的に返事した。
「せいぜい、飲み過ぎていないことを祈るよ…………」
白い霧は徐々に、灰色に濁っていった。見える景色は変わらなかったものの、俺は薄曇りの空の中を、あてどなくさまよっている気分になってきた。
――――…………辺りがちょっとずつ暗く、寂しくなってきているのは、誰の趣味のせいなのか。俺はリーザロットの手に連れられて、いつしか、延々と続く迷路みたいな灰色の壁の合間を歩いていた。
壁は次第に高く、険しくなっていっていた。
あるいは俺達の方が小さくなっていっているのかもしれなかったが、魔法の世界では、どちらでもそう変わらないことだろう。
この世界では、いつだって境界はあやふやだ。一つ扉を開ければ、そこは異世界。流れるみたいに、移り変わる。
俺は半歩前を歩く、リーザロットの横顔に目をやった。
とても美しい顔立ちなのに、痣のせいで胸が痛む。いや、むしろ痛ましいからこそ、こんなにも美しく見えるのか。俺まで変態になってきたようでは始末に負えない。
俺達は淡々と迷路を進んでいった。
迷路だから進んでいるのか、戻っているのか、本当はわからない。同じところをぐるぐる回っているだけかもしれない。
それでも俺達は歩き続ける。
俺はリーザロットの艶やかな黒髪がサラサラと揺れる様を眺めていた。
触れてみたいけど、そんなことをしたら途端に壊れてしまいそうな、雨上がりの蜘蛛の巣のような繊細な緊張が彼女を包んでいる。
今に限らず、どんな時でも、彼女は薄いベールを纏って、外界から自分を守ろうとしている気がする。人が彼女を怖がっているというより、彼女が人を怖がっているんじゃないか。
リーザロットはもう、前だけを見つめていた。こうしていると、どことなくフレイアに似ている。
「リズ」
俺がおずおず呼ぶと、彼女は青白く張り詰めた顔を、ふっと緩ませた。
「なあに、コウ君?」
「あのさ、これが終わったら、一緒に」
そこまで話しかけて、突如俺は息を詰まらせた。
熾火がふいに勢いを盛り返し、激しく燃え上がったのだ。
直後、強い雨の音が一瞬だけ、耳の奥を走り抜けた。台風じみた強い風の余韻が頭に残っている。
毒々しい洗剤の甘さが、一気に喉元にこみ上げてきた。
俺の瞳は、リーザロットの背後へ忍び寄ってきているリケを映していた。いざ飛びかからんと、姿勢を低くしている――――…………。
「リズ!」
咄嗟に俺はそう叫んで、彼女を押し倒した。リーザロットの長い髪が、宙にふわりと広がって流れる。
飛びかかって来たリケは俺の背を掠って向かい側に着地し、すぐさま身を翻して、再び飛びかかってきた。
鋭利な爪と牙が、闇に白く閃く。
俺は覚悟し、リーザロットを全身で庇った。
同時に、首筋から背にかけて、激痛が走った。
「――――――――ッ!!!」
俺は一瞬、呼吸を忘れた。
皮膚の裂けていく奇妙な音と共に、熱い、痺れるような痛みが稲妻となって迸る。追って、骨にまで抉り込むような鈍い刺激が、全身に放散した。
痛みに悶える意識に、すかさず熾火が囁きかける。
――――呪術か。
――――塞がねば、すぐに爛れよう。
――――焼いてやろうか。
「黙れ!」
俺はかろうじて吐息を漏らし歯を食いしばって、蒼ざめているリーザロットに怒鳴った。
「逃げろ!!」
豹変した俺に驚いてか、リーザロットの表情が一層凍り付いた。
だが、間を置かず、俺の身体はあちこちから、ぐずぐずと腐り始めた。皮膚が赤黒く変色し、凄まじい悪臭を発する。肉が土塊のごとく剥がれ落ちていった。
びちゃびちゃと惨めな音を立てて潰れていく己の身体を目の当たりにし、俺はさすがに恐怖で顔を引き攣らせた。リーザロットの蒼い深い瞳は、そんな俺をじっと映していた。かすかに潤んでいる。俺は未だ痛みの残る身体を必死でよじったが、余計に身体が崩れるだけだった。
リーザロットは硬直したまま、なおも震えたまま起き上がりもしなかった。俺は荒々しく彼女のドレスを掴み、もう一度叫んだ。
「逃げろ!!!」
叫ぶと、頬がごっそり削げ落ちた。
俺達を包んでいた霧が、急速に消退していく。壁が、遠方から盛大に崩壊しつつあった。四方八方から暗闇が押し寄せてくる。凄まじい数の断末魔が聞こえてきた。
闇の上に、おびただしい量の血塗られた手形が次々と押されていく。おぞましいほどの勢いで、手形は俺達を包囲していった。
リケは暗闇の深奥に潜み、黄色い目を妖しく、錐の如く光らしていた。
悲鳴がどんどん重なっていく。手形が無数に広がる。
飄々と語るリケの声が、それでも、否が応でも頭に響いてきた。
「共力場でガシューリンを編むとは、恐れ入った。確かに、リケだけを追い出す網としては、素晴らしいアイディアでしたニャ。人間の網戸、くぐれないのは猫だけ。…………リケの術の起点になる水場も、よくよーく抑えていた。霧と水場、とても相性が良い。すごく良い。例え無関係の人を、黙って危険に晒しても、やるだけの価値があった。
…………でもニャ、詰めが甘いナ。
姫様は、自分が一番の水場、魔海の寄る辺だってこと、忘れちゃったニャ? 海はとっても大きな力。世界中の、皆が使う、水場。…………使わない手はニャイでしょう」
熾火が火の粉を散らす。
俺はリケを睨み、それから、がむしゃらに、リーザロットの瞳の奥の扉に手を伸ばした。
俺はかろうじて形の残った両腕で、リーザロットの肩を掴み、全身全霊をかけて気持ちをぶつけた。シルクのドレスが俺の汚泥で無惨に汚れる。
――――良いぞ。
――――蒼の力を、奪え。
俺は熾火の焚き付けを無視し、リーザロットに見入った。
彼女の扉は固く閉ざされていた。いつもはあんなに自然に開いている彼女の扉が、びくともしなかった。
…………これでは、魔法を使えない?
「リズ!! 聞いてくれ!!」
俺は力の限り、彼女を呼ばわった。
破れた喉から血がこぼれる。
「まだ何とかなる!! 扉を、開けてくれ!!」
リーザロットが苦しそうに、あえかに口を開いた。頬から首にかけての火傷じみた痣が、いよいよ赤黒く、血も滲む程に激しく燃え上がっていた。
「これ…………もしかして、この痣のせいか!?」
俺は向けられた眼差しから、彼女が扉を開きたくとも開けないのだと、ようやく察した。この呪いの痣が、彼女を縛っているのだ。
――――他に、扉は?
俺は焦りを飲み込み、考えた。一瞬だって、集中すれば十分な時間になる。落ち着け、必ず、見つかる。
そして例によって、俺はまたやけくそな手段に出た。
「ごめん、リズ。許して」
「!! やっ…………!!」
リーザロットがかすかに声を漏らし、首を捻ろうとした。だが、俺は構わずに、彼女の首元に口づけをした。
柔らかな肌の感触と一緒になって、彼女に紛れ込んだ「呪い」が、俺に伝ってくるのがわかった。流れてくる呪いの勢いに逆らって、俺は自分を沈み込ませるように、より強くリーザロットの肩に頭を埋めた。
赤黒く燃える呪いが、空っぽの俺の中に、滔々と流れ込んでくる。俺は自分の首元が、彼女のそれと同じように赤黒く爛れていくのを感じた。
肌がひりつき、神経という神経が絶叫する。すごく痛い。
俺は彼女を抱く腕に、つい力を込めた。
華奢なリーザロットの腰が、重なるように俺の身体に寄り添う。嫌がる彼女を俺が離さないせいなんだけれど、次第にリーザロットは抵抗しなくなっていった。
少しずつ彼女から溢れ出してくる、甘い蜜の魔力。俺は今は、嬉しくて彼女を離さない。
やった、うまくいった。
俺の痣が熱っぽく濃くなるにつれて、リーザロットの痣はみるみる静まっていった。少し顔を離して見てみると、リーザロットの頬はもう、ほとんど元の綺麗な薄桃色に戻っていた。ちょっとだけ痕は残ってしまったけれど、瞳の中の扉は、もうちゃんと開いていた。
腐れて爛れて、恐らくは、おぞましいゾンビと成り果てた俺を見つめて、リーザロットはその美しい蒼を、ゆっくりと滲ませた。
「ひどい、コウ君。何てことをするの」
…………。
…………好きになっちゃうよ」
俺は頼もしいリーザロットの微笑みに、笑顔だけで返した。何だかどっと疲れが出て、気を抜くと、文字通り全身が崩れ落ちてしまいそうだった。
自分の外側に扉が見つからないのなら、あるいは内側にと抜け道を探してみたけれど、それがうまく当たった。
呪いがすんなり俺の扉を通して流れてくれて、本当に良かった。熾火の野郎が地団太踏んで猛っているのがわかる。「ざまあみろ」と、笑い飛ばしてやりたかった。お前のおかげで思いついたんだ、って。
とは言え、はしゃぐにはまだ早い。
リーザロットはこれから、いよいよリケを追い込むための魔法を発動させる。そして俺は、そのトドメを引き受けている。
――――さぁ、気張れよ、ニート!!!
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