第75話 魔術師・リーザロット。俺が愚か者の宴に惑うこと。

 ――――…………ゆらゆらと世界が揺れた。

 悪戯で揺り籠に放り込まれたハムスターが感じる不安はきっと、これとよく似ていることだろう。リーザロットの柔らかい蜜がたちまち俺をくるみ、振動から守ってくれた。


 続いて俺は、リケの魔力がバラバラと雨のように降ってくるのを感じ取った。


 ――――海の中で、雨?


 不思議ではあったが、俺の身にポツポツと絶え間なく叩き付けられる粒状の力の感覚は、まさに雨雫と呼ぶべきものだった。

 それはやがて本物の雨の光景となって、目の前に立ち現れる。

 魔力の海の中で、世界は常に流動的で、不確かで…………どこか美しい。


 いつしか俺とリーザロットは二人、黒い広大な大地の上に立って、降りしきる雨に打たれていた。俺達の周りだけが白々と明るい。雨に濡れたリーザロットの胸元が少しだけ透けていた。


 リーザロットは俺から手を離すと、両手を胸の前でゆるく組んで、何か呪文を唱えた。あやとりの糸をほんの一本、中指に引っ掛けた程度の簡単な呪文だったが、すぐに明かりが強まり、身体に当たる雨が霧雨程度に弱まった。

 リーザロットは俺の方を見て言った。


「リケの領域に入りました」

「えっと、どういうこと?」

「あまり濡れないうちに、早く上がりましょう」


 ぼうっとしていた俺は、ようやくまともに言葉を組み上げた。


「えっと、つまり、この雨はあんまり浴びない方がいいの? っていうか、そもそもどうやって上へ?」


 リーザロットは俺の問いに、表情を変えることなくスラスラと答えた。


「天候を模した術式は、即効性はありませんが浸潤性に優れます。長時間暴露されれば、それだけ深くリケに場を支配されてしまうでしょう。術の循環構造を逆手に取って切り抜けます。

 3階には現在、非常事態用の結界が張られていますが、それも同時に解きましょう」


 俺は真顔になり、頷いた。彼女が何を言っているのか、全く理解不能だったけれど、同時にここまでくると何が起こるのか楽しみにもなってきた。

 俺はとりあえず「うん」と、わかったような返事をし、リーザロットのやることを引き続き見守った。


 リーザロットはおもむろに詠唱を始めた。今度の詠唱は、先の呪文よりも遥かに本格的で、円状の波紋を描くようにして世界に滑らかに広がっていった。「瞳の詩」――――あの伝承の物語を綴った詩を思わせる、短くも縷々と紡がれるリズムに、俺は神経を研ぎ澄ませ、耳を傾けた。



 ――――…………風が吹き、雨が散り。

 やがて厚い雲の混沌が細く千切れ、気付けば、澄み渡った夜空にオーロラのような光が輝いていた。しなやかに揺れる光のカーテンは儚くも峻険で、仰いでいるだけで心が氷のように清く静まった。


 リーザロットは滔々と詠唱を続けていった。濡れた彼女のドレスが、詠唱と共に豊かに湧き上がってくる風に膨らんで、ふんわりと閉じる。寒々しいはずなのに、なぜか不思議と気持ちが良さそうだった。


 オーロラはリーザロットの声に合わせて、戸惑いがちに揺れていた。光の奥に透けて見える星空は、階下の幻で見たものよりもずっと鮮やかで、広大で、あたかも宇宙の真っ只中に放り込まれたかと錯覚するような、空恐ろしい深みを湛えていた。


 リーザロットの紡ぎ出す言葉は、自ずから音色を奏でた。

 彼女の歌にのって、星が瞬く。

 風が舞い上がる。

 オーロラが踊りだす。


 俺はいつしか、少女の姿をした大きな妖精が、オーロラのスカートを可憐に翻して舞っているのを見つめていた。

 ひらひらと、ゆらゆらと、妖精は軽やかなステップを踏んで、宇宙の奥へ、奥へと透き通っていく。

 彼女の起こした風を浴びて、さらに雲が散っていった。


 湧き起こる風を鼓舞するかのように、リーザロットが一際高く声を伸ばすと、オーロラの妖精は爆発的に瞬いた。

 リケのものとも、リーザロットのものとも違う、妖精の氷砂糖のような魔力が、さんざめく光となって降ってくる。

 妖精が微笑みながら光を抱くと、リケの濁った魔力が、攫われるように消えていった。


 星が降り始めた。

 妖精はもう見えない。

 いつの間にか俺達の足元には、星空を一杯に映した湖が広がっていた。途方もなく広がるその湖の真ん中に、俺とリーザロットはくるぶしまで浸かって立っていた。


 雪交じりの風がかすかに残っていた雲さえも連れ去っていく。

 はるか遠くに、走り去る猫の姿が見えた。


 残されたのは、晴れ渡った星空と、詠唱を終えたリーザロット。

 

 俺はパシャリと水音を立てて一歩、踏み出した。



「リズ!」


 リーザロットはホゥ、と一息吐くと、少し疲れた顔で俺を見やった。


「ひとまずは、無事に3階を閉鎖していた魔法陣を解くことができました。精霊の力を借りていましたね。こんな時でもなければ、もっと参考にできたのに。惜しいこと」

「リケは? さっき、向こうの方に走って行くのが見えたんだけど」

「コウ君はとても目が良いのね。

 確かに、気配を探る限りでは、リケは3階のどこかへ引いたようです。本当はもっと、彼の雨と、私の風と、この場の魔力で、激しい吹雪になると予想していたのだけど…………幸いというべきでしょうか。それとも…………」


 リーザロットは言いかけて、眉を寄せた。俺には相変わらず何が何だかサッパリだったが、とにかく切り抜けられたと知って、ホッとした。


 ナタリーと一緒に魔法陣を突破しようとした時には、3階にこんな形で到着することになるなんて思ってもみなかった。下着泥棒とか、今となってはもう本当に懐かしい平和な響きだった。自警団の牢すら愛おしい。

 リーザロットは颯爽と顔を上げると、再び胸の前で指を祈るように絡ませた。


「えっ、もう続けるの? ちょっとは休んだら」


 俺はリーザロットの蒼白な表情を覗き込み、堪らずに進言した。だがリーザロットは首を振って決然と断った。


「コウ君。ここからは、もっと大変になります。先程は、ナタリーさんに心配をかけないように「追い込む」という言い方をしましたが、本当は追われているのはこちら側なのです。

 リケは、私達を狩るつもりです。あなたを捕らえた上で、私の力を極限まで削ぐこと。それが彼の狙いです。追い詰められた獲物には、反撃するより他に活路を開く術はありません。それに、このぐらいで音を上げていたら、本当に三寵姫だなんて名乗れないわ」

「でも」


 俺は彼女の爛れた痣を見て、続けた。


「その痣、明らかにさっきよりひどくなってる。何だか嫌な予感がするんだ。無理はしない方が良いよ」

「しなくては、勝てません」


 俺は真っ直ぐな蒼玉の瞳に当てられて、たじろいだ。

 彼女の意志は固く、俺には止めるだけの力も、知恵も無かった。事実、俺は彼女を守れるほど強くない。休めだなんて言っても、聞いてもらえるわけがなかった。


「…………気をつけて」


 俺は弱弱しくこぼし、項垂れた。リーザロットは、気づかわしげな眼差しをちょっとだけ俺に向けてから、深呼吸をし、再び印を組み直した。俺は彼女の隣で、黙ってその痛ましい横顔を見つめていた。



 リーザロットの詠唱が遠く、厳かに響き始める…………。


 術がかかると、辺りはたちまちミルク色の霧に覆われた。まず夜空が消え、次に水平線が消えて、最後に足元の湖が見えなくなった。くるぶしに感じていた水の冷たさも、濃霧に紛れてスルリと失せてしまった。


 感じるのは、霧の湿気だけ。初めて俺が1階に踏み出した時と、同じ景色だった。俺はリーザロットの顔も覚束なくなった不安に耐えきれず、前後不覚のまま、とりあえず歩き出そうとした。


「あ! 待って、コウ君。焦らないで」


 しとやかなリーザロットの声に諭されて、危うく俺は足を止めた。一体どこへ行こうとしていたやら、自分でも不思議でしょうがなかった。


 リーザロットは俺のすぐ傍まで来て、印を解いて立っていた。一歩近づいてくれたおかげで、きちんと顔が見えるようになった。


「ごめんなさい。魔術に慣れていない方は、複雑な共力場に入ると迷子になってしまいがちなことを忘れていました。

 ここは、3階で遊んでいる人々の魔力を使って、私が編んだ共力場なの。はぐれないように、手を繋いでいましょう」


 俺はリーザロットの白くか細い手を取りながら、半ば照れ隠しで尋ねた。


「えと、キョウリキバ、って、何?」


 リーザロットは俺を連れて歩き出しつつ、説明してくれた。


「共力場というのは、複数の人の魔力によって編まれた共通の魔力場のことなの。このサモワール自体も巨大な共力場ですし、コウ君はすでに何度か、もっと小規模な共力場を経験しているはずです。

 …………例えば、一昨日あなたがフレイアと一緒に伝承を読めたのも、二人の間に共力場が作られていたためですし、ナタリーさんと2階に至る魔法陣を抜けた時も、無自覚に共力場を編んでいたのではないかしら?」


 俺は二人のことを思い起こしながら、考えをまとめた。


「うーん…………じゃあ、つまり、俺が誰かの扉を開いたりすると、その人と共通の魔力場ができる。そんな感じ?」

「はい、その通りです。コウ君はもう、そんなことも知っていたのね」

「いや、別に、大したことじゃないよ。えっと…………そっか。じゃあ、リズとも共力場、作ったことがあるんだね。あの、花びらのやつ」


 俺が言うと、リーザロットは声を弾ませて喜んだ。


「嬉しい! 覚えていてくれたのね」

「んん、忘れられないよ。というか、その…………そんなに、嬉しいの?」


 ちょっと勇気を出して聞いてみると、リーザロットはややはにかんだ風に答えた。


「私は、とても」


 俺はリーザロットの手を、わずかに強く握った。返す言葉が思いつかなかったから、せめてもと思ったんだけど、普通に答えるよりかえって恥ずかしかったかもしれない。



 それにしても――――…………3階の人々の世界というのは、凄まじいものだった。


 どう言葉にしていいやら。およそ俺の知っている感覚では、とても表現しきれない。少なくともオースタンにいた頃の俺では、到底夢で思い描くことさえしなかった景色ばかりが、白霧の内で繰り広げられていた。


 リーザロットは、術で大変だろうにも関わらず、終始心配そうに俺を見守ってくれていた。

 俺は、全く動揺を隠しきれていなかった。それだけ3階の人々の活動は奔放で、目まぐるしく、俺の理解を越えていた。すぐ下の階で人が大勢死んでいるだなんて、彼らは知らないのではなくて、関係無いと思っているのだ。


 精一杯具体的な描写を心掛けるのなら、ある鍵のかかった一部屋に、一組の男女がいて、そこに有るべき可能性の全てが、一つのキャンバスの中に無理矢理に押し込められたような、そんなグロテスクさだった。


 黒い肉と白い魂。赤い欲望と黄色い歓喜。どんな組み合わせでもいい。とにかく容赦無い、乱暴で、赤裸々な衝動のせめぎ合いが、パーティのようにそこら中で渦巻いていた。


 時にはその中心は獣であったり、幼子であったりすることもあった。彼らのまぐわいの有様は剥ぎ立ての生肉のように生臭く、熱を孕んでいる。残酷と愛撫が一緒くたになって、土砂降りのように降ってくる。


 先のリーザロットとリケの戦いが、そのまま快楽のぶつかり合いに転化したみたいだった。お互いを愛でるために、魂をこれでもかと衝突させ、強引に練り上げていく。


 何だかもう、文字通り、表現の限界に近かった。ここにいる誰もが、紛れもなく魔法使いだった。クラウスが愚痴っていたように、己の見たい世界を表現するためなら、自らの命すらも厭わない執念が、ここに集い、絡まり合っている。


 喜びも、悲しみも。

 未来も、過去も。

 ここでは何も語れない。

 ただただ、ひたすらにお互いを「感じている」のみ。


 水彩のような淡い思いも、油絵のようなギトギトの情念も、相手にわかるように変換する必要は、無い。そんな無粋は即座に粉々に噛み砕かれて、情欲の粘土に飲まれてしまうだろう。

 ここではただ、ぶつければいい。痛くても、怖くても、いずれ快楽に変わる。誰もがそんな状況を「愉しんでいる」。


 時々、無邪気で化け物じみた子供の眼差しが、俺を射抜いた。

 少年なのか、少女なのか、よくわからない。いずれにせよ、彼らが何を望んでいるのかは、足元に咲き乱れた赤紫色と青色の花がよく物語っていた。汚れた花びらが、少し腐って、たくさん、数え切れないほどに散らされている。


 俺は眩暈を覚えっぱなしだった。

 俺には彼らが何をしているのか、わかりそうで、ちっともわからなかった。きっと当人たちも、本当はよくわかっていないに違いない。

 ここに来るまでに知っていた…………否、知っていると思い込んでいた、人の感情の、形や色や言葉では片付かない全部が、一緒くたになって暴れていた。


 俺が狂気の渦に飲み込まれそうになる度、リーザロットが温かい蜜で守ってくれた。彼女は辟易する俺に、こうこぼした。


「サンラインではね、肉体の快楽よりも霊体の快楽の方を、より大切なものと考える人が多いの。肉体には限界があるけれど、霊体にはそれが無いから、って。だけど、そのせいでむしろ、何が本当に嬉しいことなのか、何が本当に愛するということなのか、よく考えないまま、ひたすら行為だけを過激化させる人がいるんです」


 俺はリーザロットを振り返り、思ったことをストレートに述べた。


「魔術師って、バカなの?」


 リーザロットははたと俺を見つめ返し、一拍置いて、弾けるように笑った。


「そう…………そうなの! 本当に、お馬鹿さんばかり。間違いないわ」


 俺たちは荒ぶる人の波の合間を歩いて、リケを探し続けた。

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