魔術師たちの愚かな宴 <酒宴>

第74話 魔力の波濤と、溺れる者。俺が熱い決意を胸に秘めること。

 翠玉色の海が、乱れた。



 ――――…………突如として雪崩れ込んできた、紺碧の冷たい水流と、リケの放った漆黒の怒涛が、暴風雨に揉まれた大洋のごとくぶつかり合い、辺りの景色を一変させた。


 俺は押し寄せてきた波に打たれ、リーザロットの傍から一気に吹き飛ばされた。ナタリーもまた、一瞬にして押し流され、波の彼方へと姿を消した。


 ぐるぐると無様に回りながら離れていく俺に、別段驚いた風でもないリーザロットの視線がフイと向けられる。氷柱に貫かれたような痛みが心に走ったが、俺はそれでも彼女の魔力を見失わないよう、精一杯に努めた。


 狂気じみた勢いで渦巻く濁流に、天地も無くひたすらに煽られながら、俺は必死にリーザロットの魔力を探り続けた。集中すれば、ちゃんと彼女の冷たい力が伝わってくる。糸のようなか細さだが、確かにリーザロットは俺を気遣ってくれていた。彼女は俺が波間に迷わぬよう、弱く、だが絶え間なく、魔力のシグナルを送り続けていた。


 冷たい流れを全身で感じ、手繰っていく。


 リーザロットは多分、また少し自分の魔力に飲まれているだけなのだろう。俺は桜色の花びらの記憶を思い浮かべ、彼女を信じた。


 ――――Oooo……n……


 どこからか、レヴィの寂しげな声が届いた。レヴィの巨体が一瞬だけ、俺のすぐ近くを行き過ぎていく。彼はたちまち闇の奥へと消えていった。追っていくナタリーの姿が視界の端をよぎる。


 ナタリーは滑るように流れていった。俺は彼女の浴衣の袖が大胆に翻るのを見た。言い知れぬ不安が急激に胸を圧迫する。彼女のすぐ目の前に、大きな扉が開いていた。濃紺と漆黒のあわいに、ポカンと穴が開いている。


「ナタリー!」


 俺は咄嗟に叫んだが、声はすぐに泡と砕けた。

 ナタリーは振り返っただろうか?

 しかし、彼女は抗う間もなく、濃密な虚無へと飲み込まれていった。混沌とした魔力の荒波が、瞬く間に扉を覆い隠す。


 俺は追えない悔しさを歯噛みしつつ、ともかくはリーザロットとの合流を目指した。今は、ナタリーの強さを願うしかない。


 段々と、息苦しくなってきていた。透明な煙が肺をジリジリと埋めて膨張していっている。このままでは訳も分からないうちに、気付いたら死んでいたなんてことも十分にあり得る。

 扉は、ナタリーと擦れ違って以降、全く見つけられなかった。ポルコは呼んでも来ないし、俺は全力で混沌の中を足掻くより無かった。


 心を折らずに済んだのは、ひとえにリーザロットの魔力の糸のおかげだった。例えほんの少しずつでも、彼女の魔力が強く感じられる方へと進んでいく。


 黒と蒼の凶暴な海は、いつしか完全に混ざり合い、それ自体が生きた化け物のようにうねり狂う、混然たる何かと化していた。俺は暗黒の化け物の胎内を、毛虫みたいに這いつくばっている。


 全身に圧し掛かる水圧…………魔力の圧で、潰れそうだった。身体がどんどん重くなって、そのうち足掻くことさえできなくなりそうだった。己の存在が、肺から爪の先に至るまで、鉛でみっちりと埋め尽くされていくような圧迫感。


 …………非常にマズイ感じだった。こういう時には、必ず「アレ」が俺の内に燃え上がってくる。

 「アレ」…………あの「熾火」は、今も俺の内で燻り続けている。アイツは俺が扉の力に縋り、飲み込まれて己を失う瞬間をずっと見計らっているのだ。

 喉から手が出るほど、力が欲しい。

 そういう時に限ってアイツは鎌首をもたげる。


 俺は喘ぐように息をしながら、リーザロットの糸を辿り続けた。


 ――――まだ、平気だ。


 そう自分に言い聞かせながら、一心に闇の胎の中を這った。

 チリチリと胸の奥を焦がす火が、したたかに俺の堕落を待ち構えていた。意地の悪い囁きはまだ聞こえなかったけれど、炎が惑わしく揺れるイメージが、しつこく、しつこくしつこく意識に浮かんできた。


「クソッ、何だってんだよ!!!」


 俺は掠れ声で怒鳴った。


「俺が一体、何をしたって言うんだ!? どうしてお前は俺に付きまとう!? 鬱陶しいから別の所でやれよ、もう!!  俺もう26だぞ!? 中二病なら、魔法の力だけで十分だ!!

 大体、いくら言ったって無駄だからな!! こう見えて強情なんだぜ!! 絶対にやらないったら、やらないぞ!!

 お前なんかに、お前みたいな他力本願寄生虫ニート野郎なんかに、俺も、フレイアも、渡すもんかよ!! 悔しかったら、俺の目の前に出て来いよ!! この場で踏み潰してやる!!」


 自棄になってなりふり構わず騒いでいると、急にフッと、憑き物が落ちたみたいに身体が軽くなった。どこかから注ぎ込まれた温かい流れが、俺を急速に包み込んでいっていた。


「!?」


 俺は一瞬、熾火が本気にしたかと思い、思わず身を強張らせた。戸惑いと恐怖のあまり、悲鳴も失っていた俺の元に、柔らかな呟きがぽとりと落ちてきた。


(――――コウ君。良かった、元気そうね)

「…………リズ!」


 俺は歓喜で全身を震わした。白く優しい、ぼんぼりのような温かな力に守られながら、俺は大きく叫び返した。


「いるよ!! ここだ!!」


 俺は軽やかに身を躍らせて、今や灯台のごとく明らかとなったリーザロットの元へと駆けていった。

 リーザロットは、俺よりも一回り大きな明かりに包まれながら、長い髪とワンピースをゆったりと揺らして立っていた。彼女の微笑みを見ると、やっぱりホッとする。


 さすがに大魔術師は優雅なもんだと俺は感心したが、近付いていくにつれて、それはとんでもない誤解だと気付いた。


 俺はリーザロットの傍らに立つなり、目を剥いて問いかけた。


「リズ! その首の痣は!?」


 リーザロットの白く美しかった首筋には、斑点状の赤黒い痣がおびただしく広がっていた。痣は彼女の頬にまで及んでいて、特に目元にかかる辺りでは、火傷のように痛ましく、皮膚が爛れていた。

 リーザロットは困ったように笑い、答えた。


「見た目ほどは痛くないですよ」

「違う…………。どうしたの、って聞いているんだよ。顔が」

「リケの呪術を返す際に、少し飛び火してしまいました。…………やはり、リケはサモワールの魔術師たちの身体に、呪詛の種を仕込んでいたようです。本来リケへ向かうはずの恨みを、私に横流しされてしまいました。

 それでも、「呪い返し」は成功したと言えるでしょう。コウ君にも、ナタリーさんにも呪いが流れた気配はありませんし…………何も心配は要りません」


 リーザロットの静かな権幕に押され、俺は仕方なく口を噤んだ。俺はもっと彼女の身体について質したかったが、リーザロットはそれを敏感に察して、話を継いだ。


「コウ君。ごめんなさい、あまり時間がないの。

 先の波の攻防は、魔術師の戦いにおける前哨戦に過ぎません。己の魔力をどれだけ場に馴染ませることができるか、もしくは、相手の場にいかに自分の起点を組み込むかを目的として争っていたんです。コウ君とナタリーさんには、苦しい思いをさせてしまいましたが、おかげで何とか渡り合えました。…………ナタリーさんも、途中で少し不明瞭な流れに捕まったようですが、恐らくは致命的な事態にまでは陥っていないでしょう」


 俺は彼女の痣ばかりを見ていて、ちっとも話を聞いていなかった。心配要らないとは言うが、到底無視できないおぞましい怪我である。


「見ての通り劣勢ではありますが、出来うる限りの仕掛けは済ませました。3階の気脈を使ってガシューリン結界を張り、さらに、予想されるリケの術の起点に印を打っています。ここまで追い込めれば、問題は速度よりも深度ということになってきますが、コウ君の協力があれば…………。

 失礼。コウ君、聞いている?」


 俺は我に返って、はたとリーザロットの顔を見つめた。リーザロットは蒼い瞳を不安そうに瞬かせ、重ねて言った。


「コウ君、もしかして気分が悪い? 顔色が良くないみたい」


 俺は痣とは対照的に、真っ青に染まったリーザロットの肌色を見返して答えた。


「君ほどじゃないよ。それで…………俺は、どこで何をしたらいい? もう少し、具体的に言ってくれると助かるかも」


 リーザロットはそれでも俺の顔をまじまじと覗き込みつつ(どうしてこう、サンラインの女の子は自分のことを棚に上げがちなんだろう)、続けた。


「細かなことはその場次第ですが、大まかに言えば、コウ君には3階でリケを追い込み切った後に、扉の力を使って止めを刺して欲しいんです」

「俺が、リケを殺すってこと?」


 リーザロットは造作もなく首を縦に振った。


「扉を閉じるか、あるいは開放すべきか。コウ君の判断にかかっています」


 俺はリーザロットの迷いのない眼差しにあてられ、軽くめまいがした。


 ――――殺す? 俺が?


 改めて喉の奥で繰り返すと、自分の中の熾火が、機嫌良く火の粉を跳ね飛ばす音が聞こえた。


 …………やらねばなるまい。今更、何を躊躇っているんだ。

 ドウズルの時も、魔人クォグの時も、あの薬屋に対してだって、やって来たことだ。どうしてこの期に及んで、迷うことがある? やらなければリーザロットの身が危険に晒されるし、俺だって、死ぬかもしれない。ナタリーだって、無事とは限らない。


 でも。


 …………火の粉がヒラヒラと舞い、脳裏を掠めた。虚空へ煽られた火の粉は、何も言わずに静かに輝きを失っていく。

 ほのかな熱の余韻を感じながら、結局、俺は頷いた。


「わかった。やるよ」


 リーザロットはそれを聞き、ここへ来て最も悲しい表情を見せた。…………とても悲しい、笑顔だった。


「ありがとう、コウ君。あなたのことは、必ず守りますから」


 彼女は両手で俺の手を取り、祈るように自分の胸元に寄せた。

 柔らかな、沈み込むような感触と、温かな感情と一緒に、トロトロと止め処ない、甘ったるい蜜の魔力が伝わってくる。砂糖よりも沁みやすく、アルコールよりも優しく、熱い、誘惑的な蜜。ありのままの彼女に、今、初めて触れている気がする。


 …………俺は、彼女のために戦う。

 決して、殺すためにじゃなく。

 扉を開くのは、あくまでも「水無瀬孝」だと。

 俺は何度も、何度も自分に言い聞かせた。

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