第43話 伝承に綴られた海と船。俺がこの世界でなすべきこと。

 未来伝承――――。


 俺がそれを読むことが出来るようになったのは、リーザロットが人差し指1本でサッとかけてくれた、魔法のおかげだった。

 彼女は長く白い指先で俺の額に印を描くと、


「忘れていたわ」


 と軽く謝ってから、俺にもう一度本を見るように促した。


 思えば、フレイアらの指輪も彼女が作ったと言っていた。であれば彼女にとって、こんな仕事は朝飯前といったところだったのだろう。改めて俺が本に目を落としてみると、そこには驚くべき「光景」が広がっていた。


 …………「光景」である。文字では、無い。

 いきなり紙面から溢れ出した奔流のような景色、感情、ざわめき、痛みに、俺はめまいを覚えた。


「ええっと…………」


 俺は自分が今どういう状態にあるのか、ある意味では、トレンデで竜になった時以上に混乱していた。


 ――――…………目の前、いや、頭に否応無く描き込まれた景色は、焼け爛れた海岸だった。


 燃え盛る火炎が洋上から、渦巻きながら空へ昇っていく。空は一面黒煙に埋もれ、どんよりと重く垂れこめていた。

 俺はいくつもの呻き声を耳にしながら、浜辺に立ちすくんでいた。


 真っ黒な海が足元に、にじり寄って来ていた。真夜中の黒い波は、ちゃぷちゃぷと小さな音を立てながら、巨大な津波の到来を少しずつ、少しずつ手を伸ばして、囁きかけていた。


 素足に食い込む、ガラスの破片にまみれた砂浜。


 遠くから喰魂魚の歌が聞こえてきた。考えられない程たくさんの声が和していて、途方もなく、美しい。


 大きな帆船が一艘、岸部に漂っていた。水面に引かれた軌跡が焔に照らされて、橙色にちらついている。

 デッキの上に灯る、ランタンの慎ましい明かりが、闇に慣れた目に眩かった。

 誰かが船縁から身を乗り出して、こちらを覗きこんでいる。


 俺は何故かその人に見つかりたくなかった。けれど同時に、その華奢な佇まいに、どうしようもなく惹かれていた。

 飛び出して行って、抱きしめたくなるような懐かしさと、すぐにでも海へ戻って行って欲しいという願望とが、コーヒーに溶かしたミルクのマーブル模様みたいにゆるく、渦巻きながら入り乱れていた。


 俺は何度も何度も名前を呼ばれていた。それが本当に俺の名前だったかはわからない。だがとにかく、自分が呼ばれていることだけはよくわかった。

 やがて船員たちが、わやわやと小舟の用意を始めると、騒がしさで急に胸がぎゅうと苦しくなった。


 黒い波が絶え間なく、切なげに寄せてくる。津波はまだ、来ない。

 風に乗って舞い散る火の粉がチリチリと、躊躇う俺の肌を焦れったげに焼いた。


 浜辺に跪く影――――それは紛れもなく、俺だったが――――は、ふいに「こちら」を心許なげに振り向くと、何か言いたそうに一度、瞬いた。


「――――…………ッ!!!」


 俺は我に返って、慌てて本から目を逸らした。たった一行で、もう限界だった。これ以上先の、二行目の風景へと進む勇気は、俺には無かった。


 止め処なく、艶めかしく状況が伝わってくるせいで、自分の立っているべき位置が本当にわからなくなってしまいそうだった。

 このお茶会にいる自分と、物語の中の自分とが分裂して、二度と一つに戻れなくなってしまうような恐怖を覚えた。


「これは…………その」


 俺は今しがた目にした景色と、感じた戸惑いとを表す言葉を探して口ごもった。混乱のあまり、一言も捕まえることができなかった。

 次ぐ言葉を待つリーザロットの視線が身にひりひりと染みた。いっそグラーゼイの刺々しい眼差しの方が、開き直れそうな分、よっぽど気楽だった。

 そうこうする内に、フレイアがすっと上体を伸ばして本を覆い隠し、落ち着きのある力強さで主人に申し出た。


「リーザロット様。突然申し訳ありません。お話の前に、私とコウ様のために少しお時間をいただけませんか?」

「何をするつもりだ?」


 主人より先に質問を投げた不躾な野郎を制して、リーザロットがフレイアに微笑んだ。


「珍しいわね。あなたが積極的に術を使いたがるなんて…………。もちろん、いいですよ。何か考えがあるのでしょう。グラーゼイ、任せてあげましょう?」

「しかし」

「グラーゼイ」


 笑顔ながらも眉を凛々しく吊り上げた主人に押されて、オオカミ男はわずかに耳を垂れて口を噤んだ。

 フレイアはすまなそうに二人に頭を下げると、俺に話し掛けた。


「コウ様、これから念話でお話ししてもよろしいでしょうか?」

(念話…………これです)


 俺はいきなり頭に響いてきたフレイアの声に、やや面食らった。いきなり切り替えられるとは、思ってもみなかった。


(あっ…………! うん、わかった。念話か。…………これ、まだ使えたんだね?)

(はい。これを使えば、意識の共有ができるようになります。私を介在にして、物語のイメージをコウ様にお伝えするつもりです)

(火蛇を操る時の君の詠唱が、俺にもわかったみたいな感じ?)

(そうです)


「おい、何を話している? せめて、同席している相手にも状況が伝わるよう、進捗を報告するのが礼儀ではないのか?」


 隣から響く怒声に辟易し、俺はフレイアに話を振った。


(大丈夫? グラーゼイさん、かなり怒っているみたいだけど)

(いつものことですから。どうかお気になさらず)


 フレイアは存外あっさり受け流すと、俺の顔を真っ直ぐに見ながら話を続けた。


(リーザロット様の術は、魔術に慣れない方には少々刺激が強過ぎるきらいがあります。私もかつて、同様の経験をしたことがあります)


 言いつつ、フレイアは俺の手をそっと取り、続けた。


「オイ、何をしているんだ!?」

「グラーゼイ、少し静かにしてください」

「しかし、蒼姫様! あのような破廉恥な真似を、人前で…………!」

「落ち着いてください。何も「サモワール」にいるわけではないのですから」


(ですから、ぜひコウ様のお手伝いをさせていただきたくて。差し出がましかったでしょうか?)

(ううん…………ありがとう)


 俺はフレイアの手に誘われて、もう一度本を眺めた。

 まだ傷痕の生々しいフレイアの手が紙面を撫でると、そこに描かれた言葉…………最早、絵と呼ぶべきなのかもしれないけれど…………の印象が、ぼんやりと薄れていった。


 火の粉の熱が、霧が晴れるように失せていき、辺りに満ちていた呻き声が、うんと遠ざかっていった。

 足元の痛みが遠のき、船縁から俺を呼ぶ誰かへと抱いた感情の澱だけが、少しばかり胸に残される。


 映像がぐっと単純になって、一気に楽になった。こうなってしまうと、ちょっと変わったイラストを見ているのとほとんど変わらない心地だ。これなら先へも辿っていけそうだった。


(どうですか?)


 フレイアがやや得意気に俺を見返した。俺は彼女の手をぐっと握り返し、感謝した。


(ああ、とっても助かったよ)

(意味は、取れそうですか?)

(うん。何だかやっと適切な距離が取れた感じ。ていうか…………君達は、いつもさっきみたいな文章を書いているの? あんなものを、文字を見る度にずっと経験していたら、頭がおかしくなってしまいそうだ)

(いいえ、そうでもありません)


「オイ! いつまでやっている!? これしきの内容を伝えるのに、どうしてそんなに時間がかかるのだ?」

「申し訳ありません、只今」


 フレイアは口早にグラーゼイに謝った後、また俺の方へ向き直った。


(この文字は「瞳の詩」と言います。日常生活で使用する文字とは別のもので、解読や記述には特殊な訓練が要ります。「瞳の詩」は読み手の力量次第で、情報量にかなりの差が生じます。リーザロット様を基準に感覚を同期なされば、大抵の方は苦痛をお感じになるでしょう)

(そうなのか。ちょっと安心した)

(本来であれば、私のような者がコウ様と意識を同期させていただくことは許されません。ですが、少しでもお役に立てればという思いを抑えておけませんでした)

(…………ありがとう)


 真顔で言われて、俺は思わず俯いた。彼女に他意が無いことはわかりきっていたけれど、あまりにストレートな物言いをされると、変な期待を抱いてしまいそうだ。

 フレイアは俺に問題が無いことを確認すると、リーザロットの方へ顔を向けた。


「お待たせいたしました、リーザロット様」

「もう十分に話せましたか?」

「はい」

「ごめんなさいね。加減はしたつもりでしたが…………。コウ君、もう気分は悪くありませんか?」


 俺は問いかけられて、こくりと頷いた。


「大丈夫です。手間取ってすみません。どうにもまだ、魔法って慣れなくて」

「謝ることはありません。こちらこそ、配慮が足りませんでした」

「いえ…………」


 言ってから俺は、綴られた文字を急いで読み進めていった。画集を手早く、丁寧に眺めていくような感覚である。


 そうしてやがて、フレイアの手が上に置かれた箇所にまでやってきた。フレイアは気付いていないのか、一向に手をどかさなかった。


(…………?)


 とは言え、気付かないというのは、こうして意識を繋いでいる以上は考えにくいことである。もしや、わざと? なんで?

 何にせよ俺は一旦、そこで物語を読み止めた。ちょうど主人公の男が、帆船からの艀に乗って漕ぎ出でたという場面だったが、その後は物語の結びというような感じで、そんなに重要そうでも無かったからだった。


 俺が粗方読み終えたのを認めると、リーザロットは本をひたと見つめて語り出した。


「…………黒い海は魔海を、巨大な船は国を象徴しているというのが定説です。旋風は「裁き」の顕現であり、炎は、ある種の魔力を特に指しているとされます。

 さらに深みを見つめると、海中に2つの大きな潮流があることがわかります。片方の潮は北から、もう一つは南から場に侵入してきています。混沌の漁場は「豊穣」の象徴。または、「闘争」の場ともなります。逆巻く焔が洋上にあることから、後者の解釈を押す声が強いです。

 さらに、海岸からは強い離岸流が認められます。2つの潮流と比べればささやかな流れというべきですが、こちらも注意が必要でしょう。水の流れはすべて、時空の扉による浸食現象を表わしています。何より」


 リーザロットはそこで、俺をじっと見つめて言い紡いだ。


「続く箇所に現れる「海辺の男性」。彼の出現に、この流れが大きく関わってくるのです。陸は異国――――それもとりわけ、魔力に侵されにくい「固い」世界を表しています。例えば、オースタンのような」


 俺は話を聞きながら、初めに自分が見た景色について話すべきかと悩んでいた。今となっては、あの時感じた景色は遠く捉え難く、意識の深みへとことん沈んでいってしまった感があったが、それでもまだ何か伝えられることがありそうな気がしてならなかった。

 何か、端折られてしまった大切なことがあるような。


 独り頭を抱える俺をよそに、リーザロットは淡々と話を続けていった。


「この段落は、解釈がとても難しい部分です。主観が何度も転じるので、解釈に幅が出てきてしまうの。

 「勇者」、「鍵」、「男」。いくつかの主語が出現しますが、文脈上、これらは皆同一人物を示しているものと推測できます。読み進めていきますと…………「大魚に跨る勇者」の到来と、その出現によってもたらされる、「新しき扉の鍵」の存在。そして、やがてすべての雲が晴れた後に、小舟で旅立つ「拡散する島の男」といった記述が続きます。

 これらの情報を統合し、なおかつ前後の節との調和から考えると、「勇者」はおそらくオースタンにおり、サンラインからの迎えを待っていると、解釈できるのです」


 俺はたった5行の詩を何度も繰り返し読みながら、リーザロットの解釈を再びなぞってみた。フレイアの手が隠していた部分も、一応はちゃんと手をどけてもらって読み終えた。(俺から手を離す時、フレイアがほんの少し名残惜しそうに見えたのは、多分俺の勘違いだろう。俺は彼女を意識し過ぎている)


 俺は満足いくまで読み込んだ後に、リーザロットに目を向けた。

 彼女は眉一つ動かずに、俺を見て言った。


「あなたがサンラインの夜を終わらせる「勇者」だと、私は信じています。――――そして、「新しい扉」、和平を成す「鍵」であるとも」


 俺は彼女の蒼い瞳に、ぐんと吸い込まれた。



 俺は半ば放心して、青いお茶を一口飲んだ。

 傍らのオオカミからじりじりと注がれる金色の視線も、フレイアの深紅色の優しさも、今は蒼い迫力の前に霞んでしまっていた。

 リーザロットは俺に、真っ直ぐに手を差し出した。


「コウ君…………いえ、「勇者」ミナセ・コウ様。

 蒼の主より、正式にお願い致します。私と、この国の平和を願う命のために、力を貸してくださいませんか? 命の保証はできませんが、それ相応のお礼を用意するつもりです」


 俺は白く、魅惑的なその手をしばらく見つめていた。

 お礼とやらことはひとまず置くとしても(事実、俺はあまり興味が湧かなかった)、見ず知らずの国の、読むこともできなかった伝承を理由に命を懸けるなんて、冷静に考えて正気の沙汰ではなかった。


 だが俺には、決して人様に立派だと誇れるわけでもない、たった26年の人生の中で、確かに学んでいたことがたった一つ、あった。


 それは、何かをするのに、本当は理由なんかいらない、ってことだ。


 結局のところ、自分がどこへ行きたいかを決めるのは、自分でしかない。そこには誰の思惑も入り込めない。誰も俺の本当の行方を決めてくれはしない。どんな理屈も、魂を動かしてはくれない。

 俺自身が、動かない限り。


 時々働いて、時々ニートして、世間体は最悪だけど、心は至って静かな生活の中で、俺は皮肉にも気付いてしまった。

 出掛ける手段も、開けるべき扉も、その気になればどこにだってある。俺は何だってできる。でも、やらないんだ、って。

 「何もできない」のは確かだけど、それ以上に、俺は「何もしてこなかった」。


 俺は、空っぽだった。何を心の中に埋めたらいいのかわからないまま、やたらに大人になってしまった。

 だけど、例え夢の中だったとしても、フレイアがやって来たあの晩、俺は初めて、自分が主人公になろうと、決めた。彼女の手を、自分の意志で取った。


 そりゃあ、道すがら後悔したこともあったけれど(主人公とは程遠いし)、その結果に不満があるかと聞かれれば、俺は即座にノーと答えられる。

 竜に乗って空を飛び、キノコでトリップしてみたり。

 黄金の獣に乗って、化け物を退治してみたり。

 果ては竜になって魔物の池に潜り、竜巻に吹っ飛ばされて。

 たった一歩部屋から出ただけで、世界は追いつけないぐらい、泣きたいぐらい、広かった。


 俺は…………まだ、夢の続きが見たかった。

 いつまでも。

 どこまでも。

 もう、空っぽには戻らない。


 俺は旅で汚れきった手を伸ばし、リーザロットと握手を交わした。

 緊張やら意気込みやらで固くなっている俺に、リーザロットは笑って言い添えた。


「ありがとう。…………やっぱり、あなたはとても優しくて、強い人なのね」



 フレイアと一緒に味わったリリシスの詩を、俺はどこかに書き残しておきたかった。しかし俺は、紙も鉛筆も持っていなかったので、仕方なく、おぼろげな文句だけを頭の中に繋ぎ留めておいた。


『幾千万の波を越え、最も紅き船が火の帯を引いて行く。

 悠久をたたえる海は深く、蒼く。魚たちはうねりの中を迷い、惑い、喰らい合う。

 焔立つ冥界より大魚が浮かび来て、星の嵐が大洋に降り注ぐ。

 熱き風の荒ぶ中、勇者は大魚に跨り。

 新しき扉の鍵は、夜を切裂く。

 大魚が常闇の眠りに就くと、拡散する島の男は雲の切れ間を目指して、小舟で漕ぎ出でる。


 ――――紅暗き安らぎの灯を、携えて。

 永久の祈りの糸を赤く、赤く…………紡いで』

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