第41話 くるみ割り人形とリーザロットのお茶会。俺が3人のお姫様の話を聞くこと。
「…………どこかで、お会いしたことがあったかしら?」
リーザロットは長い睫毛のかかった瞳で俺を見つめ、呟いた。俺は面喰らいつつも、トレンデの娼館でのことを語った。
「トレンデの、廃墟の部屋で話したことがあります。その、君…………じゃなくて、あなたが、箱の中に捕らわれていて、それで」
「ああ」
リーザロットは得心が言ったように優雅に頷くと、にっこりと笑って続けた。
「それはきっと私の霊体の欠片だわ。この間、潜航術を使った際にどこかに落としてきてしまったの。魔海に潜る時には広域に霊体を拡散させるから、時々一部が回収できなくなって、残留してしまうことがあるのよ。…………そう、トレンデにいたのね」
俺は目を白黒とさせて相手の女性が話す姿を眺めていた。
彼女は、俺がトレンデで出会った女性とよく似ていたけれど、遥かに健康的な顔色をしていた。
あの時に見せた弱々しさや、言葉にならない悲しみの影のようなものは、今の彼女からは少しも感じられなかった。目の前の女性は、そういった感傷は朝のうちに、顔を洗うのと一緒に綺麗に洗い流してきてしまったらしく、清潔な高貴さをしゃんと着こなして、磨かれた銀細工のごとく、凛としていた。
リーザロットは俺の戸惑いを見て取ったのか、話を付け加えた。
「ごめんなさいね。そういうわけで、せっかくお話ししていただいたのですけれど、私はあなたのことを覚えていないの。ただ、その魂の欠片は紛れもなく私自身です。彼女に代わって…………いえ、彼女本人として、お礼を言わせてください。あの子を救ってくれて、ありがとう」
「いや…………いえ、救った、っていうか」
俺は何と答えるべきかわからないまま、まごついて口を噤んだ。横からグラーゼイが俺を睨み付けてきていたが、フレイアの方はきょとんとした顔で、俺と主とのやり取りを静かに見守っていた。
やがてフレイアとリーザロットは目線を交わすと、まるで友人同士みたいに親しげに話し始めた。
「ねぇ、フレイア」
「はい」
「あなたの指輪はどうだった? きちんと聞こえたかしら?」
「はい、全く問題ありませんでした」
「そう。聞こえ過ぎる、ということもなかったかしらね?」
「はい」
ちらりとだけフレイアが俺を見る。俺はフレイアの右の人差し指についた指輪を見て、そう言えば、俺の言葉は本来彼女には通じないのだったと思い出した。
ついでに俺は、グラーゼイの手にも目をやった。骨張った彼の指にも、フレイアのものと同じ
「そしたら、このままのレシピで作っていくことにするわね。…………オースタンの方」
呼ばれて俺は、改めてリーザロットの方を振り返った。
リーザロットは俺に、迷子の子供に聞くのと同じ調子で尋ねた。
「実は、まだあなたの名前を伺っていないの。何というのか、教えてくださらない?」
「あっ。俺は、ミナセ・コウって言います。コウと呼んでください」
俺の答えにリーザロットは、
「コウ君?」
と、いたずらっぽく笑って応じると、細い肩を小さく震わせた。
「かわいい呼び方ね。何だか、新しい友達ができたみたい。これからよろしくお願いしますね、コウ君」
「はい…………」
俺はまた例によってどう反応していいやらわからず、ちょっと微笑み返して見せた。リーザロットの仕草はいちいち女神みたいだったので、どうしても照れが拭えなかった。
俺は彼女に、もう一度名前を確認した。
「ところで、俺はあなたのことを何と呼べばいいでしょうか?」
「そうね」
リーザロットは大きな瞳をぱちりと瞬かせると、ふっと両手を胸の前で合わせて言った。
「では、リズと呼んでください。そしたらすぐに、あなたから呼ばれたとわかりますから」
「え? わかりました。えっと、リズ様?」
俺の言葉に、リーザロットは左右に首を振り、柔らかく、しかし重みのある口調で言い添えた。
「「様」はいりません。リズ。それだけで」
「お言葉ですが、それは流石にいかがかと存じます」
急に、グラーゼイが会話に口を挟んできた。リーザロットははたと彼を見つめると、整った細い眉をほんのちょっぴりとだけ寄せた。
「そんなことありませんよ、グラーゼイ。サンラインの、他の方が私をどう呼ぶべきかはともかく、彼が私のことをどう呼ぶかは、私が決めても良いはずです」
「しかし規律が乱れます。無位の者が、蒼姫様の名を軽々しく口にすることは許されません。お考え直しください」
俺はグラーゼイの顔を見たが、彼は俺の方を向かなかった。オオカミ男は切れ味の鋭い金色の目でもって、じっと主君を睨み据えていた。リーザロットはしばらく悩んでいた風であったが、ついには根負けして、肩をすくめた。
「わかったわ、グラーゼイ。あなたの言う通りにします。…………そうね。物事をあまりいたずらに掻き乱すものでは、ないわね」
リーザロットは俺の方へ向き直ると、陰った眼差しを投げかけて続けた。
「コウ君、ごめんなさいね。私のことは、人前では「蒼姫様」とでも呼んでください。もし呼び辛ければ、名前に敬称を付けるのでも良いと思います」
「…………わかりました」
俺は神妙に頷きつつも、「人前では」という条件について密かに考えを巡らしていた。もし彼女と二人きりになれる時があれば、先に言われた通り「リズ」と呼んでもいいということなのだろうか。いずれにせよ、これではグラーゼイ的に本質的には解決したとは言えないだろう。
案の定、見やったところのオオカミ男の形相は穏やかではなかった。フレイアが不安げに場を見渡す中、俺は最早、何にも気づかないふりでリーザロットの話の続きを待った。
リーザロットはアンニュイな動作で傍らの机に肘をつくと、ツーちゃんがよくやるように、ツイと片手を滑らかに翻して、何かに合図を送った。
するとドアの外から、クッションと椅子とテーブルを持ったくるみ割り人形が3体、のこのこと歩いて現れ、俺たちの後ろにパッパと座席を組み立てて去って行った。
「どうぞ座ってください。気付かなくて、申し訳なかったわ」
リーザロットに勧められて、俺たちはそれぞれ椅子に腰かけた。
それから人形たちに、ティーカップとポットを持ってこさせた。彼らもまた役目が終わるなりそそくさと去って行ったが、ポットを持った一体(心なしか、他よりも上等そうな服を着ていた)だけは、場に残って俺の後ろに控えていた。
「いつもは魔法陣の邪魔になるから、片付けさせているのだけれど」
彼女は人形に、この上なく丁寧にお茶を注がせながら、こんな風に続けた。
「今日は長い話になりそうですから、用意してみました。お茶は今日のために、スレーン高地から取り寄せてきたの」
お茶の香りは紅茶に似て、甘く、華やかだった。
マナー上好ましくないのは知っていたが、俺は他の誰より先に紅茶に手を付けた。香りを嗅いだ途端に、どうしても喉の渇きに耐えられなくなったのだった。
上品だけど不思議とどこか懐かしい、スミレの花に似た香につい誘われた。
「おいしい」
思わず俺が声を漏らすと、リーザロットは素直に喜び、グラーゼイはわかりやすく渋面を作った。フレイアは相変わらず、ぽかんと俺の顔を見つめていた。
「フレイア、どうかした?」
「いいえ」
フレイアはすらりと伸びた背の上の、小さな頭をわずかに振った。
「コウ様は、いつも美味しそうにものを召し上がりますね」
「そう?」
俺はフレイアの微笑みを見て、気恥ずかしくなってもう一口お茶を飲んだ。カップはあっという間に空になってしまい、傍に控えていた人形によって、すぐさま二杯目が注がれた。
グラーゼイがフレイアに、
「はしたないぞ」
と小声で叱っていたが、どういう意味なのか俺には図りかねた。はしたないのは俺であって、彼女ではない。どちらかと言えば、この場で部下をしかることの方がはしたない気もする。
主人のリーザロットはと言えば、周囲で展開するあらゆることには少しも興味を示さず、さっくりと本題に入っていった。
「それでは、コウ君をサンラインに招いた訳をお話ししますね。かなり込み入った話になりますが、お茶はたくさん用意してありますし、お茶請けもありますから、どうか寛いで聞いてください。…………フレイアも、グラーゼイも、折角の機会なのですから、遠慮せずにちゃんと飲んでくださいね。
――――さて。
とりあえずは、国内の話から始めさせていただきます。
トレンデでのことで、もうある程度はお察しかと思いますけれど…………私、「蒼の主」ことリーザロットには現在、サンライン国内において、敵対している相手がいます。ヴェルグツァートハトーという強力な魔導師と、その後援を受けている三寵姫の一人、「紅の主」・イザベラがそれです。時空の扉を巡って交戦中の敵国、ジューダムとの交渉で、私たちは意見を異にしています。
ヴェルグとはもう出会ったと琥珀から伺っていますが、三寵姫や、「紅の主」についてはご存知かしら?」
「いや、実はあまり」
俺はわざと曖昧に答えた。当のリーザロットや口うるさいオオカミの手前、全く知らないと言うのは何となく気が引けた。俺の悪い癖だ。
リーザロットはゆったりとティーカップを口に運ぶと、「そうですか」と呟いた後に、再び静々と語り始めた。
「三寵姫というのは、サンラインにおける人柱です。
…………なんて言ったら、グラーゼイもフレイアも怒るかしらね? けれど事実、三寵姫は国の柱となって世界を支えるべく選ばれた存在なの。
私たちを選出したのは「玉座の主」、あるいは「裁きの主」と呼ばれるこの国の王です。コウ君には、いっそ「神」と呼び表した方がわかりやすいでしょう。とにかく、そのお方に仕える巫女のような者が、三寵姫と呼ばれます。
白羽の矢さえ立てば、誰にでも務まる大層な役目です」
リーザロットはそこで初めて、自嘲的な笑みを口元に浮かべた。俺は一瞬ぎょっとしたが、その仄暗い笑みはたちまちのうちに、彼女の白く清らかな顔立ちの内に淡雪のごとく溶けていった。
瞬きの後には、また元の気品ある健やかな微笑が湛えられている。
彼女は何事も無かったかのように、淡々と話を継いだ。
「「蒼の主」、「紅の主」、「翠の主」。三寵姫のそれぞれの役割は魔術的なドグマによって分かれているのですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。あるいは、どこかで琥珀を捕まえて聞いてみても面白いかもしれません。おそらく喜んで話してくれることでしょう。…………三日ぐらい。
三寵姫は、「紡式」と呼ばれる祭において選ばれます。開催は常に玉座の主の声によって決まるため、数十年、あるいは数百年の単位で間が空くのが普通です。しかし、近年はその傾向によらず、3年前、10年前、そして12年前にこの祭が行われました。「蒼」の私は3年前に、「紅」のイザベラは10年前に役目に就きました」
リーザロットは一拍置き、伏し目がちに続けた。
「このように頻繁に祭が行われたことは、歴史上一度もありません。過去伝承に例がないために、国の魔術師は皆、解釈に戸惑っています。同じ内容が見出せるとすれば、未来伝承の中にですが…………。この話にはまた後で触れます。
先程、私は三寵姫は国の柱だと述べました。これはものの例えではありません。三寵姫は実際に、国の魔力体系における根幹的役割を果たしています。三寵姫の魔力が、国全体の魔力の在り方に影響を与えるのです。若く、未熟な者が務めれば、その分だけサンライン全体の力が弱まるということです」
俺は紅茶を飲みつつ、それでは、最初に言っていた「誰にでも務まる役目」という内容と矛盾するではないかと考えていた。その点を聞いてみるかと口を開きかけた時、リーザロットが一瞬だけ見せた暗い笑みを思い出して、俺はまた紅茶を口に含んだ。…………直感が、今は触れない方が良いと囁いていた。
リーザロットは目敏くも俺の挙動に気付いたようであったものの、同じだけ機敏な気遣いによって流してくれた。彼女は小さく一息つくと、話を再開した。
「特に、「蒼の主」の役は他の役と比べて不安定で、祭ごとに代替わりしています。むしろ近年の祭は「蒼」の不在が原因で、催されていると言うべきでしょう。
魂として仕える以上は、肉体が滅んでも役目は継続するはずなのですけれど、「蒼」は魔海を司るというその役割からして、魂ごと完全に力に飲まれ、消滅してしまうケースがあるのです。私の先代、先々代は、そうして消えていきました」
俺はリーザロットが投げた視線につられて、窓の外を見やった。そこには萌える木々の葉に切り取られた青空が漠然と広がっており、地味な茶色の小鳥だけがその世界で唯一、せわしなく動いていた。
色とりどりの家が立ち並ぶ街並みが、リーザロットの背後にある窓からよく見えた。彼女は街を背に、長い黒髪を流れるような所作で掻き上げた。
「つまり、今のサンラインでは、未熟な姫のために、魔力の土台自体が崩れてしまっているというわけなの。それもかつてない程に、立て直せる見込みもなく、です。
…………そこに、時空の扉が開いて、逆流が起こったの」
リーザロットは場を見回し、そこで言葉を切った。
俺は話の間中、人形のように顔色を変えないフレイアと、険しい顔をしたきり、岩のようになってしまったグラーゼイとを見比べて、また紅茶を一口飲んだ。なくなりそうになった時にはすでに、人形がポットを片手にスタンバイしていた。彼は今や、俺の専属の執事だった。俺は彼が新たなお茶(不思議なことに、いつまで経っても温かいままだった)を注いでくれるのを行儀よく待った。
そんな折、ふいに部屋の戸が開き、小さな焼き菓子の載った皿を携えた人形が入って来た。リーザロットは彼らを見ると、ふっと溜息を吐いて言った。
「続きは、休憩してからにしましょうか。コウ君も、そろそろ別のものが飲みたい頃よね?」
リーザロットが俺に微笑みかける。俺はいつもの照れ笑いを浮かべ、
「お願いします」
と返した。
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