第25話 水面の結界と、水底に潜むものたち。俺が小魚の気分を思い知ること。

 俺は尾で水を打ち、さらに打った。

 槍はその間も容赦なく降ってきた。フレイアはそれらをいちいち擦り払い俺を守ってくれた。

 俺はハミを噛みしめてとにかく潜り続けた。追撃の勢いは徐々に弱まっていき、やがてひっそりと静まった。


 深い水底の静寂と、耳の痛むような水の重さは、かえって俺の意識をぐんと鮮明にさせた。緊張が余計な考え事を頭の外へ追いやってくれる。俺はそこで初めて、水中の景色を落ち着いて見る余裕を持った。


 俺は水底の方に蹲っているドス黒い、巨大な何かに目をやった。最初は岩か何かかと思ったけれど、それはどうやら生き物のようだった。じっとしているのだが、時々蠢く。たまに聞こえてくる地鳴りのような音は、どうもあれが動く時に生じるらしかった。海水に似たしょっぱい魔力を少しだけ感じる。


 切り立った岩場には、直径1メートルはあるだろうマリモがたくさん転がっていた。俺の見間違いでなければ、彼らにはアンコウのような小さな目が付いていた。マリモは俺たちを興味深げに見つめていたが、俺に気付かれたとみるや、たちまち身を屈めて目を伏せてしまった。そうなるともう完全にただのマリモであり、彼らは藻の先をゆらゆらと水流に揺らすばかりだった。


 俺はフレイアに尋ねた。


(大丈夫? 息苦しくない?)


 フレイアは俺の問いに、凛とした態度で答えた。


(いえ、問題ありません)

(…………。少し浅いところに移動したいな。俺が苦しいや)


 俺は彼女からの返事を待たずに、滑らかに上昇した。水底の生き物の動きが心なしか活発になり始めたのが気がかりであったのと、フレイアの口調に、確かに強張ったものがあったからだった。


(コウ様、どうか私にはお気遣いなく。本当に平気です)

(気なんて使っていないよ)


 俺は素知らぬふりで応じ、適当なところで改めて姿勢を安定させた。

 具体的に何をどうやっているかは自分でも明らかではなかったが(走り方を事細かに説明できないのと同じである)、ある程度のホバリングは体勢の調整で可能だった。


(面目ありません)


 背中のフレイアがしょんぼりとこぼした。それでもその言い方には幾分の柔らかさがあった。やはり深いところよりかは大分喋りやすくなったようだ。俺は自分が間違ったことをしたわけではなかったと安心した。ちょっと彼女の面目を潰したかもしれないが、とりあえずはよしとしよう。


 俺は首を捻って、フレイアの顔を見た。


(この後はどうする? やっぱり水面下から攻撃する?)


 であれば、俺はそれ相応の気合を入れる必要があった。

 馬鹿馬鹿しいと笑われるかもだが、ただ突っ込んでいくだけにしても、俺にはかなりの集中と度胸が要った。ツーちゃんに釘を刺された上で、あえて知ったかぶるけれど、魔法では強固な自分のイメージが大事なのだ。少し意識が逸れると、すぐに泳ぎ方がよくわからなくなってしまう。その場で考えている暇はないのだ。

 フレイアは俺を見返し、答えた。


(残念ながら、相手はもうかなり警戒しています。ガシューリン結界…………とは、初歩的な結界の一つなのですが、それが騎士の周囲に、水面下も含めて厳重に張り巡らされています。火蛇の助けを借りても、今の私の剣が届く範囲での攻撃は不可能でしょう)


 フレイアは険しい顔で水面を仰ぎ、さらに言葉を継いだ。


(ガシューリンは比較的単純な結界です。時間さえかければ私にも解けるのですが…………)

(息が保たなそうだ、と)

(はい。やはりここは一度距離を取って浮上し、タイミングを見て、再度しかける他ないでしょう)

(ふむ)


 俺は頷く傍らで、つと奥の方で泳ぎ回っている白魚の群れを見、思いついたことを口にした。


(そうだ。フレイア、あれはどうだろう?)

(あれ、とは?)


 当然ながら不可解そうな表情のフレイアに、俺は無責任にも作戦を提案した。完全に門外漢なので、いっそ気が楽だった。


(あの魚みたいに、群れに隠れてこちらの位置をわからなくさせる魔法ってないかな? もしくは、別の大きな魚とかに、姿や魔力を変えてみせる的なものでも良いと思うんだけど。…………スイミー的な)


 フレイアはぱちくりと瞬きした後に、やや目を大きく見開くと、剣を肩に担ぎ、考え込むようにしてまた水面を見つめた。


(「スイミー」がいかなる魔術なのか、私は存じ上げないのですが…………コウ様、それは素晴らしいアイディアです)

(そうかな)


 俺は照れ隠しで、あえて何のこともない口調を装った。フレイアは俺に少し上昇するよう告げつつ、続けた。


(実のところ、変化術も分身術も私の手には余ります。ですが、何かに身を紛らわすのが目的であれば、必ずしも術を使う必要はありません)


 俺は少し明るみの増した水中で手足を広げ、ふわりと浮力をコントロールして静止した。フレイアは未だ鋭い眼差しを上へ向けていた。


(ガシューリン結界は、その世界の気脈から直接魔力を引き出して網を張ります。それ故、私が放つような異世界由来の魔力は大きさに関わらず、そこで濾し分けられ、防がれます。シンプルな分強力な結界ですが、その大雑把な仕組みのせいで、この結界には大きな欠点があるんです)


 俺はフレイアの話を聞きながら、遠くから大きなものが泳いでくる気配を鱗に当たる水の流れで感じ取った。


(ガシューリンは力の源となるその世界の魔力、この場合はトレンデの魔力に対し、ほとんど無力なのです。つまり、トレンデ由来のものであれば、何であれ網を透過してしまうということです。ですので)


 俺は話すフレイアの息が少し上がってきているのを察すると同時に、迫りくるものの正体を知った。

 おびただしい数の白魚が、ぶわっと俺たちを渦巻いて高速で逃げ去って行く。その一団の中には、上層で白魚を追っていた黒い大きな魚も多く混ざっていた。白魚と黒魚は一定の距離を取りつつ、同じ方向へ飛ぶように逃げて行った。


 逃げ遅れた一匹の白魚が、健気に尾ヒレを振って弱々しく泳いでいく。そこへ新たにやってきた白魚の群れが合流し、最初の白魚の姿は見えなくなった。

 フレイアはいつの間にか剣を鞘に戻し、魚たちが逃げてきた方向を、落ち着いた目で見据えていた。


 大きな「影」が迫ってくる。

 冷たい闇を押し潰し、「それ」はやってきた。


 俺の心臓は一瞬、確実に止まった。


(――――――――サメ…………?)


 太古の海に生きていたという、大きな大きなサメ。小さい頃に水族館のオブジェで見て、震え上がった。

 サメの二重の歯は墨のように黒く、研ぎ澄まされたナイフのように鋭かった。

 ただし目の前の「それ」は、あのメガロドンよりも遥かに大きく、俺は今や自分が、一飲みにされつつあるのだと一目で理解できた。


(彼は魂獣をエサとします)


 フレイアの無粋な解説が耳に響いた直後、俺は真っ暗闇に包まれた。

 サメの口が城門のように固く、重たく閉ざされ、溢れてきた水の流れによって俺とフレイアはどうと喉の奥へと押し流された。

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