第24話 フレイアと炎の蛇たち。俺が彼女の竜として、さらに躾かっていくこと。

(――――――――水鏡の心を司るものよ、目を覚ませ)


 フレイアの詠唱が聞こえてきた。

 俺は反射的に水面に目をやった。見渡してフレイアがそこにいるとわかった場所には、直径3メートル大の細い橙色の輪っかが浮かんでいた。中心にいるフレイアは騎士が乗っていたシャチの上にいるようであったが、そのシャチのだらりとした姿勢を見る限り、それはもう完全に息絶えているように見えた。


 輪は水面の揺れと同調した、せわしないリズムで縮んだり、広がったりしながら、徐々に輝きを鋭くしていった。水中に超音波じみた高い音が鳴り響く。俺は耳の奥にひどい痛みを感じた。


 俺は大急ぎで岸の方へと逃げた。背後から投げつけられてくる無数の槍の雨はなおも降り続けている。


 俺は上体を逸らせ、一度大きく尻尾を振って上昇へ転じた。今まではただ足掻くばかりで気付かなかったのだが、こうやって、手足は気をつけの姿勢のまま、尻尾と身体を波打たせて泳ぐ方が効率良い。背中のたてがみがヒレのように扱えることもわかってきた。ちょうど昔テレビで見たウミイグアナと同じ具合に、俺はぐんと機動性と速度を増し、一気に水面へと昇って行った。


 上昇する間も、詠唱はずっと続いていた。あやとり語ではなく、日本語で聞こえてくる。今はフレイアの意識と俺の意識が直接通じているために、そう聞こえてくるのかもしれない。

 詠唱はいつも聞いているフレイアの話し方よりも、幾分緊張した、ざらついた口調で綴られた。痺れるように辛くて痛い、今にも沸騰しそうな魔力だった。


(――――――――私は、火蛇かじゃの主)

(――――――――泡沫より生まれ出し身に魂を宿す)

(――――――――私は、力を求めず)

(――――――――ただ遠い記憶を探るのみ)


 超音波はいよいよ高く激しく、水面はもう手を伸ばせば届きそうな程に近付いてきていた。

 俺は今度はむせることなく、滑らかに動作で水から顔を出した。

 途端に、詠唱が確かな音として耳を貫いた。あやとり語である。だが俺には同時に、その意味が彼女の意識を介して理解できた。


「二匹、喰らい合う火蛇の円の内なるもの。

 禍々しき紛いものの銀。

 虚ろなる骸を覆う鉄錆を、

 その熱き針で、

 ――――射よ!」


 叫び、逃げ惑う騎士たちの周囲の水が突如として湧き上がった。

 俄かに沸騰し始めた水面の上を乗り越えて、円の中央部にいた、くすんだ鎧の騎士が声高に何か怒鳴った。その騎士は次いで口早に複雑な呪文を重ね、その身を黒く禍々しいオーラで包んだ。


 その直後、他の3体の銀騎士が、天を貫く勢いで噴出した間欠泉に吹き飛ばされた。

 次々と吹き上がる水柱の中で、黒いオーラを纏った騎士だけは頑として屹立し、攻撃に耐えていた。


 俺は目を見張って、騎士らがシャチごと宙高くに放られる様を眺めていた。彼らの姿と悲鳴はやがて迸る熱水に覆われ、あえなく消えていった。

 水柱から飛び散る飛沫は円の外の水面に落ちるなり、真っ白な蒸気を上げて辺りの空気を曇らせた。くすんだ鎧の騎士の姿も一気に霞んでいく。


 しばらくすると、間欠泉は息切れて収まっていった。

 蒸気が次第に晴れてくると、生き残った、くすんだ鎧の騎士が円の外へ滑っていく様子がぼんやりと見えた。

 一方で、巻き込まれた他の騎士の姿はどこにも見えず、水面には彼らが乗っていたシャチの水ぶくれた死骸だけがぽつぽつと残されていた。

 まだ微かに光を放つ円の中心に、フレイアが立ち尽くしている。

 俺はすぐに彼女を呼ばわった。


(フレイア!)


 返答はすぐには返って来なかった。俺は暗い映画のスクリーンに向かって叫んでいるような、虚しい気分になったが、諦めずにもう一度彼女の名を呼んだ。最後の騎士は円の外側で身構え、こちらの様子を窺っていた。


「…………。

 あっ、はい!」


 ようやく返事が返ってきて、俺は胸を撫で下ろした。


(良かった、聞こえた! 大丈夫?)

「コウ様。聞こえます。問題ありません」


 シャチの死体の上で振り返ったフレイアが、俺に向かって手を振った。その表情はさっぱりと明るく、さっきまでの詠唱の厳しさが嘘に思えた。


(そっちに行こうか?)

「お願いします」


 俺は彼女に応じて、早速覚えたての泳ぎ方で向かって行った。光る輪をくぐった際に少しだけ肌に温かさを感じ、何となくフレイアの魔力の感触というものを覚えた気がした。

 俺が近付いてくるのを見たフレイアは乗っていたシャチの背を蹴って、身軽く俺に飛び乗った。俺は彼女と共にゆっくりと円を離れた。

 銀騎士は円の向こう側で、じれったそうに行きつ戻りつしていた。


「! コウ様!」


 いきなりフレイアが声を上げた。


(どうしたの?)

「尻尾にお怪我をされています」

(ああ)

 俺は逃げる最中に敵の槍を掠ったことを思い出した。

(大したことないよ。それとも、案外見た目はひどい?)

「はい…………。あの、痛くはありませんか?」

(そう言えば、少しはね)


 俺は身体で輪を描くようして自分の尾を見やった。尻尾の先が思いのほか深く切れており、その傷から滲み出た血が長く水面に尾を引いていた。


(ま、平気さ)


 俺は適当に判断し、フレイアに次の指示を仰いだ。


「…………何よりまずは、残ったあの騎士を倒すべきでしょう」


 フレイアの喋り方には若干の焦りが感じられた。


「銀騎士は戦死した兵士の骸より作られた使い魔です。家族を残して死んだ兵士の遺灰を鎧に擦り込み、銀をメッキし、彼の魂を祝福することで生み出されます」

(祝福? 呪いの間違いじゃなくて?)

「いいえ、祝福です。本来彼らは使い魔ではなく、残された家族のための守護霊なのですから」

(それが、どうして俺たちを襲ってくるの?)

「魂は独立した存在ではなく、繋がった存在です。守護すべき者、それは銀騎士の魂と深い繋がりのある者のことですが、そうした者が邪悪な者によって穢された際、守護者の魂は相を裏へと転じるのです」

(そうなんだ…………)


 俺はえげつなさにげんなりしつつも、話の続きを促した。


(酷い話だと思うけれど、それが今の状況とどう関係するのか、ちょっと読めないな。まさか、穢された家族を仲間に呼ぶとか? まさかね)


 フレイアは言いながら振り返った俺の目を見つめ、こくりと一回頷いた。


「そうです。銀騎士は堕ちてなお、家族の傍にあろうとします。皮肉な話です。結びつきの強さゆえに、誰もが救われない」

(…………。まぁ、じゃあ、はやくカタを付けなくちゃいけないね。誰のためにも)


 俺は自分でもひどいことを口にしているなと思ったが、ドウズルの時と同じだと自分を強引に納得させた。もう深くは立ち入るまい。


(それで、いつしかける? 俺への気遣いはいらないよ。まだ元気だ。また最初の時みたいに、潜ってからやる?)

「いえ、もう奇襲は通用しないでしょう」


 フレイアは一拍置いた後に、立ち上がって静かに剣を抜き、構えた。彼女の剣はレイピアに似たもので、構えもまたそれっぽかった。左手は俺の手綱を握ったままである。

 フレイアは話を続けた。


「攻撃は、水面に残っている私の魔力を回収し終えてからにします。気まぐれで扱いにくい力なのですが…………。恥ずかしながら、銀騎士を相手に「火蛇」なしで挑む剣技は、今の小さな私にはありません。最初の魔法で全員仕留め切ってしまえれば、話が早かったのですけれど」

(…………そういえば「火蛇」って、詠唱の時にも言っていたよね。それが君の魔法の名前なの?)

「聞いていらしたのですか?」

(うん。意識を通して聞こえてきた)

「そうですか」


 フレイアは心持ちトーンを落として呟くと、それからは言い渋るでもなく、さらりと話した。


「そうです。あの二匹は私の魔力です。頼りになる力ですよ」


 俺は言い終わりに、彼女の瞳が深く赤く揺らめくのを見た。

 何か声をかけねばと思った時には、すでに彼女の周囲に、高速で回転する橙色の細い火の輪が二つ出現していた。

 輪の大きさは剣を構えた彼女を少し余裕を持って囲う程度であったが、その回転の勢いは俺が使っていた魔弾の比ではなかった。

 暗く、しかし美しく輝く紅玉色に魅入られていた俺は、


「コウ様」


と、呼びかけられて、ようやく正気に戻った。


(あっ、ごめん。何?)

「これから手綱を強く引くことがあるかと思います。無礼をお許しください」

(構わない。戦うんだね)

「はい。手綱を通して合図を送りたいと思います」

(OK)


 俺が答えるなり、フレイアは短く詠唱した。単語というよりも一つの音のような言葉で、すぐに手綱が緑色に光り始めた。


 ビリッ!!!

(!!!???)


 ふいに俺の身体に、電流じみた鋭い痛みが走った。


「コウ様、お願いいたします!」


 追ってフレイアの声が耳に響いた。

 この子はどうしていつもこう、と嘆く暇は無かった。銀騎士はその時にはもう、こちらへ向かって来ていた。

 俺は先の電流と共に頭の中へ流れて込んできたイメージに従って、全速力で前へ泳ぎ始めた。


 次の電流が鋭く走る。俺は左方へ旋回した。銀騎士の投げた槍が高速で飛んでくる。俺が怯むより先に、フレイアがすかさず剣で槍を払い退けた。ほんの少し軌道を逸らしただけの、一切無駄の無い動きである。俺は彼女の剣技の卓抜さに舌を巻いた。もし彼女がいなければ、俺は今ので間違いなく串刺しになっていただろう。


 フレイアは俺に、もっと相手へ近付くよう合図した。相手の槍はいくらでも生まれてくる。手の空いたタイミングが狙い目だと、彼女は言った。


 俺は急旋回し、相手の脇を突いた。加速すると蛇行が激しくなる。それでもフレイアはピクリとも姿勢を崩さなかった。

 銀騎士は俺を見ながら、同じく旋回を始めた。俺と彼は向かい合うようにして大きな円を描く。俺はさらに力強く尾を打った。切れた先が痛む。俺には音を上げる余裕さえ無かった。


「貫け!」


 フレイアの鋭い掛け声は、俺に向けられたものではなかった。


 彼女の声に即座に反応し、彼女の周りを回る火蛇の一匹が素早く彼女の剣に沿って滑り、矢のごとく敵へ向かった。

 火蛇が相手の兜の隙間へ、一直線に伸びる。

 騎士は身をわずかに横へ捌いた。


 銀騎士は避け様、手首を返して新たな槍を手に添えた。流れのまま、鮮やかな突きが繰り出される。

 俺は咄嗟に水面下へと逃れた。豪快な飛沫が高く宙に立つ。

 騎士の槍が俺を狙って放たれる。


 俺は水中で身体を思いきり捻り、旋回、加速した。水が重い。槍は俺の脇腹ギリギリを掠め落ちていった。

 フレイアはきっちり真珠玉で自らの姿を覆っていた。彼女の構えを見るに、今度も槍の軌道を逸らしてくれたのだろう。俺は彼女からの合図を待った。フレイアは水面を睨み、さらに潜るよう告げた。

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