第23話 小さな剣士の戦い。俺が貯水池の深くへ潜ること。

 バシャァン!!!


 盛大に飛沫の立つ音と同時に、俺の全身に冷たい水の感触が染み渡った。伏せた耳の端から尻尾の先、水かきに至るまで、あますところなく水の重さが纏わりついてくる。

 俺は浮遊感を感じた。乾いていた気持ちがこの上なく満たされていく。

 貯水池は底の見えぬ程に深かった。


 水中なのに、やけに視界がくっきりとしていた。いつの間にか目に透明な膜がかかっている。瞬膜ってやつだろうか。ゴーグルよりも遥かに広い、遮るもののない視野は、浮き上がる細かな泡の一粒一粒すらも詳らかに捉えた。暗さも全く気にならない。


 俺は試しに手足を平泳ぎみたいに掻いて水を蹴ってみた。自分でも信じられないようなスピードが出て、俺は慌てて背中にいるはずのフレイアを気にかけた。


(大丈夫ですよ)


 俺の不安を察してか、フレイアの声は落ち着いて柔らかだった。

 俺は限界まで首を捻って彼女に目を向けた。彼女はシャボン玉のような球状のベールに包まれて無事だった。うっすらと光を放つ玉は真珠に似ていて神秘的である。時折球面を素早く走る橙色の細いリングが、中のフレイアの精悍な顔つきを明るく照らし出した。


(わぁ、すごい。それも魔法? 息はできるの?)


 俺は緩やかに泳ぎながら尋ねた。フレイアは普段通りに唇を動かして答えていたが、俺とフレイアはもっぱら頭の中で意思を交わし続けていた。


(いつまでもというわけではありませんが、5分は保ちます)

(そうなんだ。俺の方はもう少し平気かも。全っ然苦しくない。息継ぎは必要そうだけど、むしろ外より動きやすいぐらい。で、これからどうする?)


 俺が聞くと、フレイアは頭上を仰いだ。


(まずは下から一人、機会を見て強襲します。そうしましたら、コウ様は私には構わず、なるべく銀騎士から距離を取って岸辺へ向かってください。少し大きな魔法を使いますので、離れていてください)

(わかった。フレイアはどうするの?)

(その場に合わせて決めます)

(…………うん)


 俺はそこはかとない不安を覚えたが、きっと何か考えがあるのだと、彼女を信じることにした。


 それにしても、この池はただの貯水池と呼ぶにはあまりに深く、途方もなく広がり過ぎていた。

 ぞっとするほど透明に澄んだ、暗く冷え込んだ世界。透き通った濃紺の内に、美しい白い魚がたくさん住んでいた。彼らは群れになって、どこかからどこかへと静かに過ぎ去って行く。たまに、ずっと奥深くに岩影じみた巨大な魚影が見えたが、その姿をハッキリと確かめることはできなかった。


(――――――――行きます!)


 凛々しく響いたフレイアの言葉に応じ、俺は急浮上した。途中で擦れ違った白魚の群れが、怯えて俺を避けていく。

 俺はあっという間に水面に辿り着き、その勢いのまま飛び上がった。

 気付いた時には目の膜が晴れて、空に滲む鮮やかな夕日が瞳に映っていた。


「プハッ!!!! ――――…………ッ、ゴボッ!!!」


 俺は息継ぎに失敗して、腹を抱えてひっくり返った。同時に、背からフレイアが飛び出していく。無様な水音が立つ。


 池へ落ちた俺は水面越しに、驚き怯む銀騎士を見た。フレイアは見えない。俺はただちに身を躍らせ、再び水面へ出て大きく息を吸い込んだ。


 銀騎士が槍をぶん回し、黒々とした刃が空を切る。

 空中のフレイアが紙一重で身を捻って刃を躱し、軽業師の如く軽快に相手の肩に手をついた。

 彼女は身を翻すと、逆立ちのまま横薙ぎに騎士の首に剣を走らせた。かろうじて致命傷を避けた銀騎士の脛を、着地した彼女がさらに斬りつける。

 フレイアは槍を振り回す銀騎士の周りを二度、三度と飛んで翻弄し、ふいにピタリと構えた。


 銀騎士が決死の勢いで、大振りに突く。

 フレイアは軽やかに切っ先を飛び越え、相手の槍の柄を駆け登ると、一太刀で相手の首を刎ねた。


 銀騎士の首は惚れ惚れとするぐらい美しい放物線を描いて、トポン、とあっけなく池に沈んだ。


 俺は一部始終を眺めた後、ハッと我に返って急いで岸辺に向かって泳ぎ出した。他の銀騎士たちがぞくぞくと、俺に向かって集結してきていた。


 堪らず俺は、肺一杯に空気を満たした後、ドボンと頭から水に突っ込んだ。

 波立つ水面が、外から差す茜色の明かりを万華鏡みたいに揺らめかせていた。俺は全速力で潜った。ぞわっと白魚の大群が猛進する俺を避けて割れたかと思うと、その後から、大きな黒い魚が追ってきた。俺と黒い魚は互いに右に避けて高速で擦れ違った。


 水がどんどん重たくなっていく。俺はとにかく深く深く潜った。

 後方で、何か重量のあるものが放たれた。見れば銀騎士たちの持っていた槍が水を貫き、銛となって俺を狙っていた。

 槍の一本が俺の尻尾のすぐ脇を掠め、真っ直ぐに水底へ落ちていく。

 槍は次々と鋭く降ってきた。まるで鋼鉄の雨である。


 俺は水を蹴りに蹴って加速し、無我夢中で追撃から逃れた。

 一瞬、遠くから地鳴りのような音が響いてきた気がしたが、必死で潜るうちに、そんな音には一切気を掛けていられなくなっていった。

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