第26話 魂を喰らう魚。俺が胃液に浸されたこと。

 ――――ppp-p-pppn……

 ――――rrr-n-rrr-n……

 ――――tu-tu-tu-n……


 妙な音がする。

 どうも空気があるようだと気付いたのは、音が水中と違って聞こえるとわかった時だった。


 辺りは相変わらずの真っ暗闇だった。いやに生臭く、脂ぎった臭気が一杯に立ち込めている。足元はくるぶし(?)程度の深さの生温かい液体で、とろりと満たされていた。

 背中にいたはずのフレイアは手綱だけを残し、どこかに消えてしまっていた。


 ――――ppp-n-ppp-n……

 ――――rrr-rrr……

 ――――tu-tu-tu-n-tu-tu-tu……


 俺は延々と響き渡る不可思議な音に耐え兼ねて、耳を塞ぎたくなったが、今の俺の前肢は耳にまで届かないことを知って改めて絶望した。

 俺はぶんぶんと頭と尻尾を振り、どうにかして音を振り切ろうと暴れた。何もしないでいると気が狂ってしまいそうだった。何度か叫んでもみたが、願い虚しく、音はいつまでもいつまでもいつまでも耳から離れなかった。


(フレイア!)


 俺は縋る気持ちで彼女の名を呼んだ。

 彼女からの返事が返ってきたのは、ほんの数秒後のことだったけれど、俺にはその数秒間が途方もなく長く感じられた。


「はい、ここにいます」


 俺は声が聞こえてきた方を急いで見、そこに灯っている橙色の明かりを目にして、芯から温まる気分になった。

 俺はいそいそ、のしのしと四肢を動かし、腕にらせん状の明かりを巻きつけて立っているフレイアの方へと近寄って行った。


(ここは一体どうなっているんだ?)


 フレイアは俺の頭を優しく撫でつつ、にっこり微笑んで、とんでもないことを口にした。


「ここは喰魂魚しょくこんぎょのお腹の中です。消化はすでに始まっていますが、概ね順調です」


 何が、どう、順調なのか。

 俺のそんな疑問は爬虫類顔のうちにもしっかりと表れていたようで、フレイアは言葉を付け加えた。


「喰魂魚は、肉体は一個の生き物のように見えますが、実は多くの魂の集合体なのです。多種類の魔力をその霊体に内包する存在で、あらゆる世界の水底に生息し、その水域に存在する魂獣を見境なく喰らいながら生きています。あるいはこの魚自身も魂獣と呼べるのかもしれませんが、そこは専門家に伺ってみないとわかりません」


 その説明、今必要か? 俺は切迫した気分を胸に押し込め、とりあえずは神妙に頷いた。何だか足の裏がぬるぬるしてきているような気がして、実際は結構気が気ではなかった。

 フレイアは火蛇を巻きつけた右腕を掲げ、俺たちの少し上を照らした。


「このヒダが見えますか?」


 彼女は喰魂魚の、おそらく胃のヒダらしきものを指差した。俺は


(見えるよ)


と短く答え、彼女の語るに任せた。


「喰魂魚はここから魔力を摂取します。ですからここは、喰魂魚の魔力循環系へとても繋がりやすいんです。先程私の火蛇を一匹、魚の体内に潜り込ませましたので、やがて魚の身体全体の魔力をコントロール下に置けるようになると思います。火蛇はこうした存在にとって、劇薬のような役目を果たすのです」


 俺の足の裏は着実に溶け始めていた。しかしフレイアはそんなことにはまるきり気付かぬようで、スラスラと喋り通した。


「喰魂魚を操れるようになりましたら、急ぎ水面へと浮上します」


 少し残酷ですが、とフレイアは翳った表情で言い、続けた。


「その後は体内から、喰魂魚ごと銀騎士を斬ります。黒蛾竜の場合とは異なり、循環系に大きなダメージを負ったこの個体は間違いなく死ぬでしょう。コウ様に不快な思いをさせてしまうことを、予め深くお詫び申し上げます」

(いや、別に…………それは)


 俺は足元を馬のように落ち着きなく交互に浮かせながら、答えた。


(いいんだよ。仕方ないことだし、俺だって、何だって残酷なのが嫌だと言っているわけじゃない。俺は、ただ)


 俺は目の前のフレイアを上目使いに見やった。


(そういうのって、誰だってできればやりたくない仕事だろうからさ。君にばかりやらせるのは、ちょっと嫌かなって、思うだけで…………)


 俺はこんな時に、こんなことを言い出す自分に、心底げんなりした。

 言っておいて結局はやらせる面目の無さ以上に、いかにも誠実そうなふりをしていながら、自分が100パーセント本心を語っていないことを自覚していたからだ。

 確かに俺は、フレイアになるべく残酷なことをして欲しくない。だけどその理由は彼女を気遣ってのことではなく、俺が彼女に自分勝手な期待を押し付けているせいだった。


 魔法の世界ファンタジーなら、せめて全てうまくいって欲しい。俺は彼女というか、むしろ彼女が属する世界全てに対して、子供っぽい願望を押し付けようとしていた。嫌なことなんて起こらないと、頑なに思い込もうとしている。

 どうしてそんなことをするのか自分でも謎だった。そしてそんな弱さが、僅かでもフレイアに伝わってしまっていたということも、すごくいたたまれなかった。


 ――――ああ、勘弁してくれよ。


 ふいに頭に響いた友人の声と、今の俺の気分はぴったり重なった。

 友人は畳みかけるように、俺に囁きかけてきた。


 ――――コウ、違うだろう?

 ――――世界はそんなんじゃないし、俺たちも全然そんなんじゃない。

 ――――いい加減、強くなろうぜ。

 ――――くだらねぇじゃん…………全部。

 ――――それでいいんだよ、そんなもんなんだ…………。


 違う。俺は。


「きゃあっ!」


 その時、突如としてフレイアの悲鳴が響いた。俺ははたと彼女を見つめた。

 フレイアは口元に左手を添え、目をこれでもかと見開いて俺の足を見ていた。


「コウ様、ひどく消化が進んでいるではないですか!! どうしてもっと早く仰ってくださらなかったのですか!?」

(へ?)

「そんな、どうしたら…………」

(え? そんなにヤバいの?)


 おろおろとするフレイアに、俺はまだ形を十分に保っている足先を見やって聞いた。別に痛いわけでもないし、ある時点からはぬるぬる具合も変わらず、自分としては最早あまり焦りを感じていなかったので意外だった。


「いえ、いいえ。すぐに影響が出るというものではありません。ですが」

(ですが?)


 俺は彼女の口癖を繰り返し、フレイアの顔を見た。フレイアは眉根を寄せ、か細い声で続けた。


「その、コウ様の魂がこぼれてしまった状態なのです。修繕が必要なのですが、魚を殺してしまったら、それができなくなってしまうかもしれず、ですから、その、その…………」

(落ち着いて、フレイア。まず、魂がこぼれたらどうなるのか話してくれ)

「あっ、は、はい」


 俺はもう意味不明過ぎて、慌てる気にもならなかった。フレイアは目を瞑って一呼吸置くと、困り眉のまま切々と話し始めた。


「結論から言いますと、記憶が失われます」

(…………それで?)

「あまり大量に失われますと、人格自体が崩壊してしまう可能性が出てきてしまいます」

(うん…………。じゃあ、君の見立てだと、今の俺は人格を失っていそうに見える?)

「いいえ。決してそんなことは」

(じゃあ、問題ないよ)

「そうでしょうか? ですが…………」

(そういうことにしておいて、今は敵に集中しよう。余程心配なら、後でツーちゃんにでも相談してみればいいよ。元々大したこと憶えてないし。

 それより、魔力のコントロールの方はどうなっているの?)


 俺は無理矢理に話を切り上げ、ヒダの方へ頭を向けた。

 フレイアは何を思案していたのか、しばらくぼうっとしていたが、やがて「ああ」と素っ頓狂な声を上げ、急にいつもの調子を取り戻した。


「はい、ええ、もう、すっかり問題無いようです。申し訳ありませんでした」

(よし、じゃあ早速やろう。銀騎士が家族の魂を呼びつける前に、カタを付けたいんだったよね?)

「はい」

(急ごう。何か嫌な予感がする)

「…………はい!」


 言いつつフレイアは俺の背にひらりと飛び乗ると、手綱を握って剣を抜き、刃を顔の前に立てて詠唱を始めた。

 彼女の少し掠れた声は辺りに響き渡る謎の音と響き合い、喰魂魚の腹の内をちょっとした音楽ホールに変えた。


 ――――ppn-ppn……

 ――――rr-n-rr-n……

 ――――tu-tu-n-tu-n…...


 フレイアと意識を共有しているせいなのか、俺にはなぜか魚の泳ぐ様子が綺麗にイメージできた。巨大な魚はヒレをゆっくりと大らかに振り、しなやかに身体をくねらせて水面へ昇っていった。動作は緩やかだが、凄まじい速さだ。


 喰魂魚の歌声が――――歌声だと気が付いたのは、いつからだったろう――――滔々と流れていく。

 フレイアの詠唱と重なって聞こえてくるからなのかもしれないけれど、歌と思って聞いてみると、声にはちゃんと意味があるような気がした。

 誰が歌っているのだろう?


「…………我を失った魂が、自ずから旋律を奏でているのです」


 つと、フレイアがこぼした。俺は自分の意識を彼女に伝えたつもりはなかったので驚き、つい彼女を振り返った。

 フレイアは光に揺れる水面へ向かいつつ、少し顔を赤くしながら続けた。


「コウ様はやっぱり、少し溶けていらっしゃいます」


 俺はどう答えればいいか悩み、ともかくも手綱を伝ってくる彼女からの合図に、全力で注意を傾けた。

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