第9話 優しいフレイア。俺が時空の要を探しに出発すること。
青い光のカーテンが、ゆらゆらと俺の全身に覆い被さっていた。靴下とズボンの間からのぞく素肌の上を、透明で小さな生き物がピョンピョンと跳ね回っている、そんな感じもする。
俺は意識を取り戻してからも、しばらく草が風に揺れるのをぼうっと眺めていた。
俺の頭にはいつの間にか枕が敷かれていた。動物の毛で織られた毛布が丸められたもののようで、少し固くて、ゴワゴワした触り心地だった。
「お目覚めになりましたか?」
俺は声がした方向へ振り向き、返事した。
「ああ、おはよう」
枕元のフレイアは俺の声を聞いて安堵の笑みを浮かべると、両腕で抱えていた甕を俺の方へ差し出してきた。
「水を汲んで参りました。よろしければ、ぜひ召し上がってください。こんな姿なので、少しずつしかご用意できなくて心苦しいのですが…………」
「いや、ありがとう」
半身を起こした俺は、彼女から小さなコップ一杯分の甕を受け取ると、たちまちそれを飲み干してしまった。水音を聞いたら急に、ひどく喉が渇いているということに気付いたのだった。
飲みながらふと、これは本当に飲んでも平気なものだったかと不安になったが、それでも渇きによる衝動の方が遥かに強かった。
水は井戸水のように冷えていた。
「プハッ! あー、うまい!」
俺はビールのCMよろしく傍らにドンと甕を置くと、口元を拭って再び礼を言った。言わずにはいられなかった。
「ありがとう、フレイア」
フレイアは照れて肩をすくめ、
「おかわりはいりますか?」
と、嬉しそうに告げた。
俺が「欲しい」と答えると、彼女はすぐに甕をこちらへ持ってきてくれた。気がきくと言うよりも、どちらかといえば、じっとしていることに耐えられないといった焦りが、彼女を突き動かしている風だった。
俺は渡されるすべてを飲み切って、そこでやっと人心地ついた。この甕や枕がどこからやってきたのかという疑問は、どうせ魔法か何かだろうという線で勝手に落ち着いた。
「ふぅ」
溜息をつく俺に、フレイアが尋ねた。
「お怪我の具合はいかがですか?」
「怪我?」
「頭の、突風で飛ばされた岩がぶつかったところの怪我です」
「ああ」
俺は言われて初めて手を後頭部へと持って行った。
そこには思いの外しっかりとした包帯が巻いてあり、だが、もうきっちり血は止まっているようで、液体が染み出ている嫌な感触は無かった。
「大丈夫みたい」
俺の答えに、フレイアは両手を口元で組んで言った。
「良かった。随分と出血なさっていたので心配でしたが…………。痛みはありませんか?」
「ああ。ちょっと不思議なくらい何も感じない」
言いながら傷の辺りを撫でる俺へ向け、フレイアはわずかに声のトーンを落として呟いた。
「本当に良かった。コウ様に何かあっては、私はもう生きていけません」
「生きてって」
俺は彼女の言葉に苦笑しつつ言葉を継いだ。
「それは、ちょっと大袈裟過ぎない?」
「いいえ!」
相手の強い調子に思わず俺は怯んだ。フレイアは両手を組んだまま目を険しくし、勢いよく捲し立てた。
「コウ様は、サンラインにとっても、私の主にとっても、本当に本当に大事な方なのです。大袈裟などということは全くありません。私はもっと反省しなければいけません。術の失敗によって、コウ様の体調を崩させたのみならず、安易にお傍を離れたばかりに、このような痛ましいお怪我までさせてしまい…………」
フレイアの瞳がじんわりと曇っていく、俺はそんな表情の暗転をいち早く察し、慌ててフォローを差し挟んだ。
「いやっ、それは、君のせいじゃないって」
「ですが」
「違う。本当に違うって。俺はただ」
言いかけて俺は、失神前に見た景色を思い出して言葉を飲んだ。
「ただ…………」
行き詰った言葉の続きを待つ、無垢な紅玉色の瞳が、じっと俺を貫いていた。俺はたじろぎながらも、どうにか末尾を濁した。
「ただ、俺が、その、油断していただけだったんだ」
「油断、ですか?」
「うん、不注意だった。別に、何かに気を取られていたってわけじゃないんだけど、なぜかぼうっとしちゃっててさ…………」
俺はわざとらしく能天気に口元を緩ませた。みっともない気分ではあったが、少女のパンツに気を取られていたなんて、口が裂けても言えなかった。
フレイアは少しの間、不安げに俺を仰いでいたが、やがて肩の力を抜いて、組んでいた手を解いた。
「わかりました。コウ様はやはり、お優しい方ですね」
「いや、優しいっていうか。ていうかその、本当に怪我は君のせいじゃないし、もう謝らないでいいよ」
俺の言葉に、フレイアはどことなく安らいだ調子で微笑んで何も言わなかった。
「ああ、それと」
俺は沈黙に耐え兼ね、なるべく早く話題を変えるため、あの小さな魔導師について尋ねた。
「ツーちゃん、じゃなくて、ツヴェルグ…………ああ、ダメだ、思い出せない」
「コウ様、まさか記憶が?」
「あっ、そういうのじゃない。大丈夫、心配要らない」
俺は青ざめかけるフレイアをなだめて、聞き方を改めた。
「俺の傍に、子供がいなかった? 赤いワンピースを着た、8、9歳ぐらいの女の子がいたはずなんだけど」
「女の子ですか?」
「うん。やたら偉そうな口をきく、大人びた子」
フレイアは本当に思いあたりがないのか、俯いて眉を寄せ考え込んでいた。俺はその様子を見、次いで質問した。
「えっと、じゃあ、この傷の治療は君がしてくれたわけだ?」
フレイアは俺の方を見やると、それに対してはあっさり返答した。
「いいえ。私は看病を頼まれただけです。それも、水を用意したぐらいで」
「えっ? じゃあ治療は誰が?」
「それは琥珀様がなさいました。あの、琥珀様とご一緒ではなかったのですか?」
「んん? 琥珀様?」
困惑する俺に、フレイアは落ち着いた調子で語った。
「はい。真の姿をお目にかかったことは私もないのですが…………琥珀様はよく、四足獣か鳥、もしくは高齢の女性の姿をお借りになって顕現なさいます。大変お力のある魔導師様です」
「ううむ」
俺は腕を組んで訝しみつつ、さらに問いを重ねた。
「その人、本名は?」
「
「なるほど」
俺は大方、その琥珀様がツーちゃんのことなのだろうと予測した。どうもフレイアらには別の姿を見せているようだが、「琥珀」という名前には、どこか彼女のイメージと通じるものがあった。それに、思い返してみれば、意識を失う前に、温かい光がほんのりと頭に当たっていた気もする。
俺は一旦話を切り上げることにして、腕組みを解いた。
「うん、わかった。ありがとう。まぁ、とりあえずはいいや」
「よろしいですか? もし気になるようでしたら、その少女を探しに行って参りますが」
「いや、大丈夫。多分、そのうちまた会えると思うから。それよりも、フレイア」
「はい」
「目的のものは見つかったかい?」
「あっ、はい」
フレイアは俺の問いにすっと品よく背筋を伸ばすと、自信ありげに答えた。
「目星はつけてきました。これから取りに行くところです」
「そっか。どんなものなの?」
「この地域に生息する、
俺は扉を抜けてきた直後に見た空の風景を思い浮かべつつ、のんきに言った。
「へぇ、竜の鱗か。…………わかった。どこら辺に落ちているんだろう? どんなものか教えてよ。ずっとお世話になりっぱなしだったし、俺も手伝いたい」
「いえ、お気持ちはありがたいのですが」
そう言って苦笑するフレイアに、俺は黙って首を傾げてみせた。彼女はやや上目使いに俺を見返し、慎ましげに続けた。
「今回は、黒蛾竜の鱗の中でも特に得難い喉元の鱗が必要なのです。自然に剥がれ落ちることは、まずありえませんので、直接取りに参ります」
「えっ、直接? どういうこと?」
問いに対し、フレイアは躊躇うことなく答えた。
「乗り付けて、切り取ります」
俺は唖然として、目の前の小さな少女を見つめた。身長およそ40センチの人間が、巨大な竜の背に乗って、何をするって?
俺にはフレイアが責務に追い詰められて、無謀なことを目論んでいるとしか思えなかった。表面上は落ち着きを取り繕っているようだが、内心では、どんなに混乱した心持ちなのだろうか。
俺は堪らず、いつもの癖を出した。というより申し出る他に、男としての選択肢は無かった。
「俺もついて行くよ」
「ええっ?」
驚きと戸惑いの色がフレイアの顔に露わになった。俺は彼女が「ですが」という決まりきった台詞を口にするより前に、言葉を続けた。
「二人で行った方がやりやすいこともあると思うんだ。さっきも言ったけれど、俺も何か君の手伝いがしたいし」
「それは、そうかもしれませんが…………」
「じゃあ、決まりだ」
俺は半ば強引に話を終わらせると、すっくと立ち上がった。足元のフレイアに案内してくれと頼むと、彼女は俺の予想通り「はい」と弱々しく返事をした。
立場を利用するみたいな形で悪いかなとは思ったが、こうでもしない限り、彼女は永遠に俺の世話を焼き続けるだろう。まだ会って間もない関係ではあるものの、俺にはフレイアの抱え込みやすい気質がくっきりと理解できた。
一方で俺は、自分がか弱い運動不足のニートであることは、綺麗さっぱり忘れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます