第8話 □と○で繋がる世界。俺がツーちゃんのスカートによって、真っ白となること。
「「時空の扉」は」
ツーちゃんは中空に指で大きく正方形を描きつつ言った。
「記録図上では、このような記号で表わされる。注意して見れば、どこにでも存在する形だ。人工の形も、自然に出来た形もある。孤立を現す三角を少し変形させると、案外簡単に出現する。
貴様の世界にも、おそらく同じ形を示す印があったであろう。フレイアはそれを要に、時空の扉を開いたはずだ」
ツーちゃんが描いた正方形からは、同じ形の白いボードのようなものがぼんやりと浮き出してきていた。体育座りの俺は口笛を吹いて驚きを表した。
「すごい! 何も無い所から、何か出てきた!」
「なんと知性の欠片も無い感想か。…………これは、見た目より複雑な魔術だ。オースタンでは集合的無意識などとも言う、ある種の普遍的な共力場を捉え…………」
「ねぇ、他にはどんな魔術があるの?」
「話を逸らすな。…………そもそも貴様、そんなに興味があるのか?」
ツーちゃんの問いに、俺はこくこくと頷いて見せた。
「あるよ、そりゃあ。初めて見たんだもん」
ツーちゃんはフン、と溜息だか鼻息だかを吐くと、やや意地悪な微笑を浮かべて言った。
「わかった。ならば後で存分に思い知らせてやろう。体験こそが魔道の事始めと言うからな。
…………話を戻すが、フレイアは魔術の起点となる、この形を探しに出掛けたのだ。見たところ近隣には存在しないようであるから、苦戦しているのかもしれんな。まあ、どこかしらでは必ず見つかる故、案ずることはない。
ただ、要の強靭さはそのまま扉の強靭さに繋がる。今回の失敗は、貴様の世界の印が脆弱であったために起こったのであろう。であるからして…………」
「ツーちゃん、一つ質問いい?」
俺は小さく手を挙げてツーちゃんを見た。彼女は渋い顔をしつつも、無言であごをクイと上げ、質問を促した。
「その話、長い?」
「長い。腹をくくれ」
俺は頷き、続けて尋ねた。
「で、その印ってさ、正方形なら何でもいいの? 適当に描いたら、ダメなわけ?」
「一つと言ったのに、数も数えられんとはな」
ツーちゃんは眉を顰めると、やれやれとばかりに首を振った。
「だが、まぁ、悪い質問ではないので教えてやろう。
…………まず、印とはいかなるものか。これは実際の所、貴様の言う通り、どんなものでも良い。何らかの鉱石を利用するのでも、自身で描くのでも良い。もっと言えば、究極的には、正方形を成していなくとも良い」
「どういうこと? かえって、もっとわからなくなったよ」
俺が少し大袈裟に頭を抱えてみせると、ツーちゃんはフン、と勢いよく鼻息を吐いた。
だが、俺の正直な疑問は意外にも相手の機嫌を損ねなかったらしく、彼女は赤いスカートをひらりと鮮やかに翻して、両手を広げ、強く明るいアクセントをつけて言った。
「そこが、魔術の面白いところなのだ!」
唐突な発言に白黒する俺に、彼女は意気揚々と語り継いだ。
「中々どうして、貴様は良い反応をする。素直さは愚かしくもあるが、やはり美徳だな」
「はあ…………?」
「ならば愚か者よ、よく聞け。貴様ほどの馬鹿であれば、いっそ役に立つかも知れぬ。
我らサンラインの魔術は、何よりイメージが大事だ。正確な形を描くことや、正確な定義の記述は強いイメージを喚起する。だが、真に力を持つ理を引き出す方法はそれだけに留まらぬ」
「…………はあ」
「森羅万象への飽くなき追求こそ、魔道の真髄である。趣味嗜好に多少の差異はあれど、この魅力に憑かれた者はいなかる世界にも存在し、その作法も技術も、世界の数と同じだけ存在するのだ。
つ・ま・り! イメージの作り方は無数にある。そのどれかを、自らの手で選び取るのが肝要なのだ」
俺は声にならない「はあ」を繰り返し、そっと口を挟んだ。
「んーと…………要は、正方形のイメージをどうにか引き出せるのであれば、何でも良いってこと? 例えば、クッキーからでも、消しゴムからでも、丸からでも、星からでも?」
「うむ。貴様が真にそう信ずるのであれば、それで構わん。
とにかく!
幼い少女に「少年」と呼び掛けられる26歳男の心境がいかばかりか、イメージできる人間は多くあるまい。
情けないでは表現しきれないし、かと言って、惨めというほどの心苦しさはない、むしろそういう自分がいたたまれなくて涙が出そうになる、そしてちょっぴり快感。そんな気分である。
なぜか満足気なツーちゃんに、俺はおずおずと問うた。
「えっと、じゃあ、フレイアは自分で印を描くことはできなかったのかな? 確かに、何の基準もないところで正方形を描くのは難しそうだけれど」
ツーちゃんは口元を曲げ答えた。
「できないことはなかろう。だが、一度作った扉を強固に繋ぎ留めるには、世界ごとの固有波形についての深い理解が要る。となれば、元から世界に根付いた印を使う方が遥かに簡単だし、確実だ。フレイアは良い判断をしておるぞ」
「ふぅん」
中途半端な理解のまま頷く俺に、ツーちゃんは少し声のトーンを上げて新たな質問を投げかけた。
「ところで貴様、「時空の逆流」については少しでも聞いておるか?」
「いえ、多分無いです」
口をついて出た敬語に俺は内心でうろたえた。しかし、対するツーちゃんはもはや呆れる素振りすら見せず、「では」と区切った後に、また滔々と説き始めた。
「「時空の逆流」は、貴様がいずれ受けるであろう使命を全うするのに、欠かすことのできぬ事象だ。感覚で良いから、概要を掴め」
「その話、長い?」
「…………次に同じことを聞いたら、貴様の口を縫い付ける」
「し、失礼しました」
俺は静かな威圧感に押され、おとなしく先生の話に耳を傾けた。
ツーちゃんはヒラリと透明な糸でも繰るように手のひらを返すと、話を続けた。
「さて、「時空の扉」が時折、継続的な解放状態に陥ることは知っているな?」
「うん。フレイアが言っていた。彼女の国でそれが起こって、他国が押し寄せてきてて大変なんだ、って」
「その通り。そのために貴様を連れて行くのだから、それぐらいは自覚していてもらわないと困るがな」
「…………」
ツーちゃんはフイと俺から目を逸らすと、ニヤリと笑って、再度小さな手を優雅にひらつかせた。なぜか嫌な予感がして俺が身構えていると、彼女は低い声で呼びかけてきた。
「オイ」
「な、何?」
「魔術を見せてやる」
俺が何か口にするより先に、彼女は短い詠唱と共に、たちまち俺を巨大なシャボン玉の中に捕らえた。どこからか急に出現したシャボン玉はユラユラと虹色に輝いて、ツーちゃんや外の景色を優しく緩く歪ませた。
「わっ…………!? な、何これ!?」
ツーちゃんはいたずらな笑顔を浮かべ、指を丸く回転させながら答えた。
「お望みの魔術体験だ。せいぜい楽しむがいい」
彼女が指を回す度、シャボン玉がスルスルと回転する。俺はハムスターのように中を転げまわった。
不思議な泡はそのうちフワリと宙に浮き上がり、恐怖で騒ぐ俺をよそに、のんびりと漂い始めた。
「ちょ、ちょっと!? 何の意味があるんだ、これ!?」
「…………講義を再開する。先に述べた「時空の逆流」だが、これは記録図だと、このような」
ツーちゃんの指が正方形のボード上を、各辺に接するように円形になぞっていく。やがてコンパスで描いたようなきれいな丸が、ぴったりと四角の中に納まった。
「印を、まず重ねる。今描き足したこの印はシンプルだが、非常に奥が深い。お前を包んでいる結界も、この印だけで構成した」
「これ、結界なの? っていうか、そのためだけにこれ作ったの?」
「試してみよう」
結構ですと断る暇も無く、ツーちゃんは先程よりもやや強い口調で何か唱えた。
その途端、コショウに似た黒い粒々が宙にワッと出現し、それらが一斉に爆ぜた。
「う、うわぁあっっ!!!」
俺が小さな花火じみた爆発に怯えて蹲ると、からかうようにシャボン玉の近くで爆発音が続いた。
「や、やめて!!!」
爆風がシャボン玉を大きく跳ね飛ばし、上空へと打ち上げる。俺がさらに叫んでいると、ツーちゃんが笑いながら大きな声で呼ばわった。
「どうだ、丈夫なものだろう! その結界が無ければ、貴様は木っ端微塵になっておったぞ! ちなみに今の爆発も、完全に円のイメージで成る! 円は、イメージと「実体」を、特に強く結びつける印なのだ!」
「いいから、早く降ろして!!」
ツーちゃんが愉快そうに、幼い手をくるくると回す。
俺は次第に地上へと降りていくシャボン玉の中で、3.141592…………と、取り留めもない円周率を経文のように唱えていた。
本当、余計なことを言うんじゃなかった。
俺が戻ってくるなり、ツーちゃんはパチンと指を弾いてシャボン玉を割った。彼女は安堵の溜息を吐く俺をしげしげと見つめ、言った。
「フム…………。貴様、まだ己の力のことを知らぬようだな」
「力? 何?」
「いずれ話そう。ともあれ、まずは「時空の逆流」だ。…………「時空の逆流」の印は、さっき記した印の中に、さらに「扉」を穿って完成する」
俺はツーちゃんがボードの円の中に、さらに正方形を描くのを眺めていた。新たな正方形は角を上にした、菱形と言われた時にイメージするような形だった。
「この新しい扉は、どこに繋がっていると思う?」
ツーちゃんの質問に、今度は何が来るかとビクビクしつつ、俺は首を横に振った。
「わからない…………。天国?」
「過去だ」
俺は口を開けたまま、ツーちゃんの事もなげな面持ちを見守っていた。ツーちゃんは涼しげな顔のまま、それって宇宙的にどうなってんの的な現象を、あっさりと砕いて聞かせた。
「この扉は、時空の扉が存在する土地の「過去」と繋がっている。オースタン出身の貴様には信じ難いことだろうが、世界によっては、時空が階層となって保存されているため、こうした事象が起こりうる。サンライン…………フレイアの暮らす国と、繋がった先のジューダムがまさにそんな世界だ」
「…………」
ツーちゃんは俺に構わず、どんどん話を進めていった。
「サンラインとジューダムの間に開いた扉は、常に両国を繋いでいると同時に、相手国の過去の階層とも繋がっている。幸い、この内側の扉の捻れのおかげで過去からの侵入はできないが、それでも、これが大問題だということはわかるな?
「時空の逆流」は、単なる世界同士の解放に留まらず、相手国を媒介に、本来なら不可能であるはずの階層間の移動をも可能にしてしまう。
こうなるともう、我ら魔導師にすら運命が読み切れぬ。早急な解決がなされない限り、二つの世界はやがて混沌に飲まれてしまうだろう」
「…………は、はあ。何か、とんでもないってことは、理解できたよ」
ツーちゃんは腕を組み、真剣な眼差しを俺に向けた。
「そうだ。滅多に起こらないことではあるものの、この
コイツを巡って、馬鹿で欲深な連中が、ゴミ溜めに集るハエのように次から次へと湧いてきよる。どいつもこいつも、無い知恵を絞って、肥溜めにもならないくだらないことばかり考えよって! 実に、誠に、まったくもって、馬鹿馬鹿しい!」
「はぁ」
俺は独り激昂するツーちゃんに掛ける言葉が見つからず、鎮火するのをしばらく待ってから、遠慮がちに尋ねた。
「あー…………それでその、俺の因果とやらは…………」
ツーちゃんは例のごとく、フンと鼻を鳴らすと、俺を睨みつけた。
「その話は、また今度だ」
「えっ?」
「気が変わった。私を塔に封じた元老院の阿呆どものことを思い出したら、非常に気分が悪くなった。またの機会だ」
「えぇっ、そんなぁ! こんなに我慢して聞いたのに!」
「貴様、下郎の分際でこれだけ私に骨を折らせておいて、口答えする気か? 後でと言ったら後でだ。聞き分けろ、ワン公!」
「ワン公? ワン公って犬のこと? ひどくない?」
「イヌ? 話の腰を折るな。別に約束を違えると言っているわけではない。次の機会を待てと言っておるだけだ」
ツーちゃんは力強い足取りで俺に歩み寄るなり、屈んで俺の鼻先まで顔を近づけた。
「よいか、ワン公! サンラインにいかなる問題が起こっているか、さらに知りたくば「蒼の主」に尋ねよ」
俺はほのかに華やいだ香りのするツーちゃんの髪の香を感じつつ、本当に馬鹿みたいに、聞こえた言葉を繰り返した。
「あおの、あるじ?」
「フレイアの主人で、
「さんちょうき…………ってことは、お姫様?」
その語の持つ現実離れした響きが、俺の頭の中に鈍くこだました。
「今はまだ、心の弱い娘だ」
呟いたツーちゃんの目は、今までになく情に満ちていた。俺は琥珀色に揺らぐ彼女の瞳を覗きこみながら、気付けばまた性懲りもないことを口にしていた。
「…………わかった」
「何が?」
「大丈夫だよ、心配しないで」
「ハァ?」
「その、お姫様のことだよ。他はともかく…………そのことだけは、俺、何とか頑張ってみる。だからツーちゃんも、そんなに心配しないで」
「ハッ。また何かを言い出すかと思えば…………。単純な結界にさえ怯えていた始末の貴様が、何を偉そうに」
言葉に添えられたツーちゃんの冷笑は、意外にも弱々しいものだった。
ツーちゃんは、それこそ真に子供だったならば絶対にしない、作り損なったコーヒーなんかよりもずっと苦々しい口調で、言葉を継いだ。
「馬鹿が弱者に寄って集って、挙句の果てに何も知らぬ阿呆を騙して祭り上げて、自分らはのうのうと安全な所で宴に興じておる。この卑怯さが貴様にわかるか? 憎らしいなんて生易しい気分では、見ておられんぞ」
「さあ…………。でも、俺は大丈夫だよ。どうにかするって」
「どうするというのだ? 何も知らないくせして」
「返す言葉もないけど。でも、何も知らないからこそ、何とかできることもある。俺、この件に関しては、どうも主人公のようだし。…………絶対に後悔させたりしないからさ。信じてよ」
「フン、詐欺師みたいなことを」
ツーちゃんは言ってから少し間を開けた後、少し口元を緩めた。それは一度目よりも幾分くだけた感じのする、柔らかな笑みだった。
「主人公だと? 訳の分からぬ大見得を切りおって。馬鹿もここまでくると、本当、「勇者」だな」
俺は答えの代わりに肩をすくめて笑った。自分でも意味不明だとは思ったが、口にしてしまうと胸がスッとした。
そうだ。俺はもう、扉を開けて旅に出たのだ。
とにもかくにも、前へ進むしかない。
やれることを、やっていこう。
――――コウ、お前が勇者だ!
ふいに懐かしい友人の言葉が耳の奥で響いた。そんな夢をマジで抱いていた幼い頃の記憶が、今になって心強く感じられるなんて不思議な気分だった。
俺はしみじみと無邪気な夢を味わいながら、またツーちゃんに声を掛けようとした。
が、その時だった。
突如として、木の幹ごと大きく揺さぶる、強烈な突風が辺りに吹き荒れた。
「――――!? う、うわぁっ!!」
俺は急に舞い上がった白砂に思わず目を瞑り、それからツーちゃんに向けて、かろうじて目を開けた。
「ツーちゃん、大丈…………ぬぅっ!!!!!!」
俺は図らずも網膜に焼きついてしまったその光景を、咄嗟に理性で処理することができなかった。
俺の意識は真っ白に染まっていた。控えめで小ぶりなレースが、血管が透けて見える白い太ももに沿って几帳面に伸びている、そんなことがつぶさに観察された。
下腹部を覆うささやかな隆起や、わずかに伝わってくる肌の熱気が、俺の脳細胞を完全にブーストさせて時を遅くした。
赤いスカートの下にこじんまりと存在する、小さなおへそ。幼いくびれ。きめ細やかな肌がするすると続く、その上は…………。
――――ガツン!
ふいに、俺の後頭部に固く大きな何かが当たった。
「!? おい! 大丈夫か、馬鹿者! 一体何をぼんやりとしていたのだ!?」
ツーちゃんの声が遠く霞んでいく中、俺は草原の中にあえなく突っ伏した。
まずい。何がぶつかったのかはわからないが、結構な大怪我を負ったようだ。
ツーちゃんが何かしきりに話し掛けていたことも、頭の後ろに温かい液体の流れと光を感じたことも、しばらくは意識に残っていたけれど、やがて速やかに、俺の世界は暗転していった。
風に煽られた草と小さな何かが俺の頬をかすっていて、最後までくすぐったかった。
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