第4話 私の不可思議な家族について。そして、その不審な脱走と過去と笑顔のこと。
ボソボソ声が聞こえるぐらいまでなら我慢できた。
どうせアイツのことだから、変な映画でも見て、独り寂しく画面に向かって何か呟いているのだろうと思ったから。妹としては実に嘆かわしいことだけれど、兄の行動としてそれはごくいつも通りの行動だったから。
だが、この深夜にガサゴソ、ゴトゴトと大掃除でもしているかのような物音を立てられるのには、さすがに頭にきた。
私は予備校のクラス分けテストを終えたばかりで本当に疲れていた。トップクラスに居続けるには、それなりに努力が必要なのはもちろんのこと、ストレスを溜めない生活を送る、すなわち質の良い睡眠をとることが、何より大事だと言うのに! あのニートには、どうも社会人ならば当たり前に持っているはずの隣人への気遣いというものがわからないようだ。家族だからといって、あんまり甘えられては困る。
まったく、昔は本当にまともだったのに。
私は老人のような小言を喉の奥で吐き捨て、ベッドから降りて冷たい床に足をつけた。
ふと見上げた先に、兄妹で映っている昔の写真が見える。それは随分と昔に、お母さんが大掃除のついでに飾っていったものだった。別にすっかり忘れていたというわけでもなかったけれど、長い間そこで風景と同化していたがために、かえって真っ向から目にするのは久しぶりに感じた。
朗らかな笑顔の兄と、その後ろで兄の服を掴んで縮こまっている幼い私。その胸元には懐かしい小学校の名札が下がっており、そこには兄が書いてくれた綺麗なひらがなで、「みなせ あかね」と文字が書かれていた。(アイツは昔から、あんな風に柔らかで気持ちの良い字を書いた)
私はあどけない自分達の姿をつくづく眺めながら、どうしてこの時の私が、こんなに怯えていたのかと疑問に思った。なぜか、全く思い出すことができない。元々人見知りをする
そもそも、この写真は誰が撮ったんだっけ?
私はしばらく考えて、諦めた。朝になってお母さんに聞けば済む話だ。
私は椅子に掛けてあったガウンを羽織り、部屋を出て兄の部屋の前へと歩いて行った。いつもは平然と通り過ぎていくべき水無瀬家の恥部であったが、今日はここにこそ、用があった。
私はノックしようとして、何と呼びかけるべきか悩んだ。
お兄ちゃん。
兄さん。
兄貴。
兄者。
どれかと言えばお兄ちゃんだが、何だか妙に馴れ馴れしいような気がして困った。いっそ、「おい」とか「ねぇ」だけで済ませてしまおうか。
私は結局、「ねぇ」を選択した。
「ねぇ、起きている?」
呼びかけに返事はなかった。暗い廊下にジィンと広がる寒気と静寂に、私はまさかアイツが自分だけ先に寝たのでは、と危惧した。
湧き上がる怒りに任せて、私は先よりも乱暴にノックした。
「ちょっと、いるんでしょう? 返事ぐらいしなさいよ!」
今度もやはり応答はなかった。
私は思いきりドアを蹴りたい衝動に駆られたが、階下で寝ている母を起こしてしまっては文句を言う義理がなくなってしまう。私は耐えて、より強い調子で訴えた。よほど寝起きの悪い人間でなければ気付くはずだった。
「ねぇ、さっきうるさかったんだけど! 迷惑だったんだけど! 何してるの?」
声は確実に届いているはずであったが、返事はなかった。
私は途方に暮れて腕を組み、オレンジ色の常夜灯の下で悩んだ。
もう止めにしようか?
しかし、それも癪に障る。私までアイツの横暴に耐えては、妹としての威厳に関わってくる。
アイツは、本当はまともな奴なのだ。真性のクズなわけでも、重い病気を患っているわけでもない。時々妙に押しに弱いことはあるが、自分の頭がまったく使えない馬鹿ではない。寝起きだって、私の知る限りではそんなに悪くなかった。だから、アイツが私を無視するはずはないのだ。
私は写真の中のアイツの笑顔を思い出していた。昔はいつだって傍にあった、見ているだけで肩の力が抜けるような笑顔。笑顔どころか、この頃は直接顔を見る機会さえ、滅多に無くなっていたけれど。
アイツも、そう、私と同じまっとうな高校生だったはずなんだ。面倒だとかなんとか言いながらも、当たり前みたいに学校に通っていた。中学の時は、友達だって家に連れてきていた。
それがどうしてこんな、アルバイトばっかりして、フラフラと過ごすようになってしまったんだろう。
そう言えば、最近牛丼屋を辞めてからは、姿すら見ていないし。
私はそこまで考えて、ノックの手を止めた。
私はアイツを見ていない。それなら…………まだ本当に病んでいないって、どうして私にわかる?
「…………。そんなまさか、ね」
私は声を潜め、脳裏をよぎった想像に眉を
だが、まさかとは思う反面、思いついてしまうと急に重く不安がのしかかってきた。
「…………やだ。やめてよね」
私はおそるおそるドアをノックした。握った拳が震えているのが、自分でもよくわかった。
「…………返事してよ。ねぇってば」
こんな消え入りそうな声では聞こえるものも聞こえない。私はどうやら返事が来ないのを予期していて、わざとやっているらしかった。
今、本当に自分がすべきことはわかっていた。それは当然ながら、ドアを開けて部屋の中へ入ることだった。中を自分の目で見て、兄の所在を確かめるのだ。でも、たったそれだけのことだというのに、私にはその勇気がどうしても出せなかった。
万が一、予想通りの結果が待っていたら私はどうすればいいだろう。私は取り返しのつかない未来に進むことが恐かった。そして同時に、私は現在の兄の部屋を、いや、兄自体を直視したくないと感じていた。
私はしばし俯いて思案した。色んな考えがその間に浮かんだが、逡巡の末、私は決意して声を張った。
「ねぇ、入るよ?」
言いながら私はドアノブを回した。手のひらから伝わる冷たさが、ぞくりと私の背を伝った。
「ちょっと…………、いい加減に返事ぐらい…………」
言いかけて私は思わず口を噤んだ。目の前の景色に虚を突かれたからだった。
真っ先に目に飛び込んできたのは月だった。鮮やかで鳥肌が立つような、見事な月。そしてその額縁となっている、ベランダへ通ずる窓と、風に大きく膨らむカーテン。
散らばった人形や本の中心には、正円形の光る跡があった。途切れがちなその跡は緑色にちらつきながら仄かに揺らめいていたが、まもなく風に煽られて、粉となって吹き消えていった。
私は身を切る寒さに震え、呆然と立ち竦んでいた。
「何よ、これ…………?」
かろうじてこぼれた言葉に答えをくれる者は、もちろんどこにもいない。部屋の中には空虚な、枯れ木じみた静寂が残されているのみだった。
私は夢遊病の気分で部屋の中へと足を運んだ。外気に晒されていた床は、裸足には少し酷だった。
改めて見てみれば、兄の部屋はごく普通の部屋だった。確かにオタク的なグッズはそこここに散見されるが、むしろ私には、それらがまるで無造作にその辺に並べられているだけに見えることの方が気になった。
こんなにたくさんの物で埋め尽くされているというのに、ちっとも色が無い。 何だか昔博物館で見たジオラマによく似ていた。
私はそろそろと人形の並ぶ棚の近くへと進んでいった。その周辺が特に激しく荒れていたからだ。
そうして私は、転がった女の子の人形たち(みんな可愛らしかったが、どの子もすごくスカートが短かった)の間を覗き込み、悲鳴を上げた。
「きゃあっ!」
私は叫びながら脊髄反射で後退り、尻もちをついた。
棚の奥には、ゴキブリの死骸…………それもかなり巨大な個体の惨殺死体が、転がっていたのだった。
私は胸の鼓動に息を詰まらせながらも、今しがた目にしたものを己でも信じられずにいた。
喉に込み上げてくる不快感に顔を歪ませつつ、よせばいいのに、私は立ち上がって再びそれを観察しに行った。死骸は不気味であるのと同じだけ、見過ごすことが難しい代物だった。
一体、何がどうなっているというのか。
死骸は、炎で炙られたかのように黒く焼け爛れていた。そして、およそ自然現象とは考え難いほどに精密に、真っ直ぐに、体全体が切り裂かれていた。
私は悲鳴を聞いて階下から駆けつけてくる母の気配を感じながら、ふと明るい夜空に目を泳がせた。
兄がついに…………「ついに」と、確かに感じた…………家から消えてしまったということが、どうしても信じきれなかった。
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