第3話 時空の扉とめくるめく広がる異世界事情。俺が冒険の旅へと出発したこと。
「ああ、主よ。恵みの雨に感謝します」
溜息のような声でそうこぼしたのは俺じゃない。眼前の、可憐な男装の少女だった。
少女は人形のような、訂正、ちょっとした人形よりもずっと愛らしい、長く細やかな睫毛の目を伏し目がちにして、両手を胸の前で組んでいた。俺はその敬虔な様子をじっと見守り、彼女が祈り終わるのを辛抱強く待っていた。
少女はふと顔上げると、くっきりとした大きな目を少し細めて、こちらに微笑みかけてきた。薄く上気した頬にかかっているサラサラな灰白色の髪が、何だかとても清げだった。
「お初にお目にかかります。私の名はフレイア・エレシィ・ツイード。「
「あ、どうも」
俺は少女のしなやかなお辞儀と対照的に、慌ただしく頭を下げた。
「俺、
少女は「ミナセ・コウ」と小さく俺の名を繰り返すと、ぱちくりと目を瞬かせて言った。
「それでは、ミナセさまとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「あっ…………、いや、できればコウの方が良いんだけど」
「では、コウ様」
俺はぱっと開いたフレイアの笑顔に怯み、何も言わずに頷いた。
正直な話、女の子から下の名前で呼ばれるのなんてかなり久しぶりのことだったので(ちなみに俺の可愛い妹は、俺のことを「おい」とか「ねぇ」とか「アイツ」とか呼ぶ)、提案をした時にはすごく緊張したけれど、勇気を振り絞った甲斐あって、俺は酔っぱらったよりも遥かに心地良い、華やかな幸福感に包まれた。
それからフレイアは口元に手を添え、何事かを呟いた。俺の聞いたことのない言語だった。彼女の言葉を聞いた後には、するすると、あやとりの紐を擦り合わせる時に似た不思議な余韻が耳に残った。
「今、何て言ったの?」
俺が問うと、フレイアは真顔に戻って淡々と答えた。
「異界の魔力をこの世界に馴染ませるための呪文です。この世界では特に魔力が馴染み難く、詠唱が必要でした。私は本業の魔術師ではないので、完璧とまでは行かないでしょうが、それでもグレンズ・ドアを呼び出すためには、十分な効力があるかと思います」
「はぁ」
俺は急に溢れ出たファンタジーに思わず圧倒されつつも、あえて一歩踏み込んで尋ねてみた。
「つまり、君は魔法が使えるわけなんだ?」
相手は下唇をちょっと噛んで笑い、首を縦に振った。
「はい。あの…………未熟者ですが」
俺はふと窓が開けっ放しであったことに気付いた。だが、今更どうでもいいかという気もした。どうせ何もかも夢かも知れず、例えこの会話が外へ漏れ出ていたとしても、せいぜい隣室の妹が夢うつつに聞いているかもしれないぐらいであった。
俺は落ち着きなく跳ねる自分の心臓を素知らぬ顔でなだめすかし、質問を続けた。
「助けてほしいって言っていたけれど…………。具体的には、俺は何をすればいいの?」
聞くなりフレイアの顔にわかりやすい影が差した。丁度月が曇ったせいもあっただろう。彼女は一度目を瞑ると、再び深紅の眼を見開いて話を始めた。
「コウ様はもうお気づきかとは思いますが、私は、実はオースタン…………この世界の住人ではありません。私はグレンズ・ドア…………その、いわゆる時空の扉のことを、私たちは「グレンズ・ドア」と呼び習わしているのですが…………私はその扉を越えた先の、サンラインという国からやって来ました。
…………ところでコウ様は、時空の扉についてご存知でしょうか?」
聞きながらフレイアが小首を傾げた。俺は何だか全身がむず痒くなる奇妙な感覚を味わいつつ、答えた。
「何となく字面は想像できるけれど、初めて聞いたよ」
「時空の扉はどこにでもあるものです。この世界にも、サンラインにも、他のどの世界にも存在しています。
扉は不規則に開いたり閉じたりしながら、異世界同士を繋いでいます。ときに伝説として、あるいは民話として、その存在が他世界の断片と共に語り継がれていることも多いです。魔法についてコウ様がご存知であるのも、その影響の一端と言って良いでしょう。
扉は大抵、長くとも数年ほどで閉じて、違う領域へと移動していきます。
ですが、時折、この扉が開きっぱなしになって、世界が混ざり合ってしまうという事態が生じます。サンラインでは、アイラム侵食と呼ばれる現象なのですが…………」
「ああ…………、うん。それは大変だ」
俺は半ば上の空で相槌を打っていた。夢のくせに説明セリフが長過ぎると感じ始めていた。いくら美少女の口からとはいえ、RPGの設定を延々と話して聞かされるのは、ちょっと苦痛だ。俺は早く次の展開が見たい。早くしないと朝が来てしまう。だがフレイアは、俺の気を察することなく、滔々と喋り続けた。
「はい。実際、サンラインはアイラム侵食によって大変なことになってしまったのです」
「うん」
「扉が開かれたままになりますと、本来その世界で完結していたはずの力の循環が狂ってきてしまいます。
コウ様が暮らしていらっしゃるこのオースタンのように、魔力の影響が弱まっている土地であれば、これはそれ程問題ではありません。この世界は魔力以外の力によって頑強に支えられている「固い」世界です。容易には変化が起きません。影響が出るより先に、扉の向こうの世界の魔術師が修復を行うことがほとんどでしょう。
ところが、生活基盤のほとんどを魔力に頼っている「柔い」サンラインでは、そうはいきませんでした」
「ああ、ちょっと待って」
「はい?」
フレイアが頓狂な声を上げるのを耳にしながら、俺は片手を腰に当て、もう片方の手を額に当てて、首を振った。
「あのう、そう。話はもう大体了解できたと思う。つまり君の世界に何か問題があって、時空の扉…………グレンズ・ドアとやらが閉まらなくなって、その…………とても困っている。ここまでOK?」
「はい」
語る俺をフレイアがまん丸な瞳で仰ぎ見ていた。俺はさらに言葉を繋げた。
「よし、ではもっと話を詰めよう。君たちはその問題を早急に解決しなければならないが、中々うまく行かなくて…………とても困っている」
「はい。とても切迫しています。それで…………」
まだ話したそうなフレイアを制し、俺は話を切り出していった。やや強引だけど、こうでもしなければ、本当に説明だけで夜が明けてしまう気がした。
「そこで、君は助けを求めて俺の世界にやって来た」
「そうです。伝承では、オースタンの勇者が夜を終わらせる、と詠われております」
「そして君は、はるばる旅した末に、俺を「勇者」として選んでくれたというわけだ」
そこまで言うとフレイアはなぜか頬を赤く染め、小さく「はい」と返事した。
俺は彼女を真っ直ぐに見、高揚する気分に任せて、話を一気に進めた。
「なら、話は決まりだ。急いでいるんだろう? はやく俺を君の世界に連れて行ってくれ。本当に勇者かどうかは後で決めてくれればいい。俺、君の力になりたい」
対するフレイアの顔色は、もはや可哀想なぐらいだった。元の肌が白いだけに、彼女は赤くなるとやけに目立った。何よりぱっちりした目が涙で(何の涙だろう?)潤んで、ルビー色の蠱惑的だった瞳が、唐突に、ただの女の子の瞳みたいに感じられたのが新鮮かつ、凄まじい破壊力だった。俺は自分が何か悪いことでもしたような気になってそわそわした。そんなに恥ずかしいことを言った覚えは無いのだが。
「ふふっ」
フレイアがふと笑みをこぼす。俺もつられて、笑った。秋の冴えた月だけがひんやりと、俺達を見つめていた。
「わかりました。そこまで仰っていただきましたなら、私も覚悟を決めます。これ以上の言い訳はいたしません。出会いというものは古来、浮世の理では図りきれないもの。別れもまたそう。
では、始めましょう」
それから続いて放たれた、例のあやとりのようなフレイアの言葉に、
「ん?」
と思ったのも、束の間だった。
気付くと俺はいつの間にか、黄緑色に輝く、細い輪に囲われていた。
「う、うわぁ! 何だ、これ…………?!」
「お静かに!」
飛んできたフレイアの鋭い声に、俺は口を噤んだ。
さっきまではおとなしかったはずの風が急に荒れだした。光の輪を中心に渦巻く風はカーテンを激しくばたつかせ、棚から幾つかの玩具を床に落とした。
光はわずかな間にみるみる輝きを増していき、やがて眩いばかりに放射状に光を迸らせていった。
俺が耐え切れず目を瞑ろうとした時、フレイアが棚の上からジャンプして、俺の目の前に飛んできた。直後、俺の顔面に彼女のブーツのかかとが直撃した。
「うあっ!」
「失礼します!」
彼女は俺の額を踏んだ反動で身軽くもう一段跳ね上がると、ちょうど俯いたところの俺の後頭部に着地した。フレイアはそのまま、幾分低い調子で呟いた。
「ああ、思いのほか力を使ってしまいました。しかも、たまたま閉じかけの扉を選んでしまったようです。大分不安定です。これは…………酔いがひどいかもしれません」
「えっ、酔うの?」
フレイアは俺の問いには答えず、いよいよ明るさが極まる円の中心(俺の上)で、高らかに叫んだ。
「それでは、私に続いて唱えてください! 間違えましたら、時空の迷子です!」
『――――――――滴る雨』
「…………したたる、あめ」
『溶ける、溶ける、青』
「とけるとける、あお」
『焼けつく茜の袂へ』
「やけつくあかねの、たもとへ」
『今、通い路を』
「いま、かよいじを」
『穿て!』
「うがて!」
あの時、俺が「時空の迷子」の意味を知らなかったのは幸いだった。
扉の通過がかろうじて成功した後、俺はひどい
もっとも、眼前に広がる世界を前にして、そんな説明はごく些細なことであった。
扉を抜けて真っ先に俺が目にしたのは、クリスタルのような透明な葉が揺らぐ草原と、馬鹿みたいに広い晴天だった。
それと、竜だ。
高く澄んだ、どこまでも続いていくような異様な青の中を、大きな翼を持った黒い鱗の竜が悠々と泳いでいた。
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