第1章
ニート・イン・ワンダーランド
第2話 深く惑わしい、紅玉色の瞳。鮮やかな月の夜に、俺が主人公となること。
季節は秋。
開け放したカーテンの向こう、窓の外には、余計な形容詞をつけることすらおこがましい見事な月が昇っていた。
こんな宵にはぜひ一句、芭蕉か蕪村ばりに名句でも捻り出したくなるところだが、あいにく俺にはそういった粋な才というものが全く備わっていなかった。
俺にできることと言えば、せいぜい味わうことだけだった。食事も音楽も絵画も文芸も、もっと言えば、映画やアニメやゲームまで、とにかくこの世で創作物と呼ばれるものなら俺は何でも食って咀嚼し続けてきた。それが俺の生きがいだった。
何も創らず、ひたすらに吸収し続けて、ついに26年。この世で消費者ほど必要とされている存在がいないことを考えれば、俺は庶民にしては、この資本主義社会にかなり貢献してきた方だった。
俺は誇り高き現代の有閑貴族。実家暮らしの独身フリーター、今はニート。いわゆる、古今東西どこにでもいる「甲斐性無し」ってヤツだった。
彼女は欲しいけど、未だ出会いに恵まれず、友達はいないことは無いが、親友ってヤツには巡り合えていない。
たまにそんな自分を変えたくなっては、今夜のように、こうして物思いに耽ってベッドの上でぼんやりと座っている。
やけに月の明るい夜だった。
俺は秋の感傷がてらに自分の半生を考察しながら、見慣れた自分の部屋に対し、何かしっくりこないものを感じていた。
何だろう?
母は基本的に俺の部屋の掃除は俺に任せていたし、父は滅多に帰ってこないし、優秀かつ聡明な妹はニートとフリーターを繰り返す俺を透明人間とみなして、この部屋は存在しないものとして扱っている。だから、誰かが俺の勝手に入って物をいじるはずはないのだが…………。
まぁどうせ、眠れない夜の暇つぶしである。俺は違和感の正体を探ろうとして、部屋の隅々に視線を巡らせた。
風が雲を吹き流し、薄く月を翳らせていく。窓際のカーテンが軽やかに、慎ましくはためいていた。
ややあって月明かりの戻った頃、ふいに、棚の上で何かが動く気配がした。俺は反射的にその方向を見やった。せいぜいゴキブリか何かだろうと、その瞬間には思っていた。
だが、そこには信じられないものが二つ、妖しく輝いていた。
「なっ…………!」
俺は思わず声を詰まらせた。
それは、深く深く吸い込まれるような、
俺はすぐに、それが人形のものではないということを悟った。
棚の上の、立ち並んだフィギュアの中の「彼女」は、ほっそりとした身体つきと、それに似つかわしくない中世風の男装と、装飾された鞘に入った細い剣を携えて、俺を見返していた。
俺はただ茫然と、体長約18センチのその少女を眺めていた。
彼女は顔つきからして、十八、九ぐらいだろうと思われた。両隣に並んでいる、ゲーセンで取ってきたマンガのヒロインと同じぐらいに足が長く、その上よく見れば、女優顔負けの恐ろしく整った顔立ちをしていた。剣の柄に添えられた白くすらりとした指は、月光に照らされて、神々しくすらある。
ひたひたと冷たく流れる沈黙の中、少女は険しい表情のまま、俺を警戒し続けていた。
「…………。え…………、っと」
俺はしばらくの後、ようやく言葉を発した。
「誰、かな?」
俺は尋ねながら、夢かもしれないという思いを捨てきれずにいた。いつの間に眠ってしまったのかは定かでないが、そう考える方がずっと「現実的」であるように思われた。
いずれにせよ、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。俺は逡巡の末に立ち上がり、おそるおそる少女の方へと近付いていった。
近くまで来て改めてその顔を覗きこんでみると、やはり彼女の目は宝石に似て、惚れ惚れするほど美しかった。
もしこの世に魔法というものがあったなら、もはやこの色自体が魔性の魅力を宿しているとすら言いたくなるような、狂おしい深紅。
「きれいな瞳だ…………」
俺は思いがけずそんなことを口走っていた。
俺の呟きを聞いてか、少女は一歩大きく後ずさって、細く小さな眉を寄せた。剣を抜くべきか悩んでいるのが、何となく伝わってきた。
「あぁ、いや! 大丈夫だよ!」
俺は何が大丈夫なんだと思いながら、慌てて大きく一歩引き下がり、両手のひらを前に広げ、なるべくやんわりと声を掛けた。
「いや、いきなりキモいこと言ってごめん。でも俺、ちゃんと現実と妄想はわきまえているつもりなんだ。だから絶対に手は出さない。大丈夫。怖くないよ」
そもそも言葉が通じるものかどうか。
ともかくも俺は、黙って相手の反応を待つことにした。夢なら夢で、できるだけ長く楽しまなければ損でもある。
相手はやがて、おずおずと柄から手を下ろした。俺はそれを見てほっとしたが、同時に、そもそもあんな小っぽけな剣で、彼女が一体何を企てていたのかとも考えた。小人が巨人を倒す物語は珍しくないが、実際に巨人の立場に立ってみると、やはり無謀であるように思われてならない。
少女は上目使いに俺を見つつ、小ぶりな唇を少し開かせた。どうやら何か喋ったようだった。
「え? ごめん、聞こえなかった」
俺は近寄ろうとし、ふと思い至って一旦停止した。
「あっ…………。そっち、行ってもいい?」
少女はこくんと頷くと、ひらひらとしなやかな手で手招きをした。俺は言葉が通じていたことがわかって、いよいよ胸を高鳴らせて、彼女の前までふらふらと歩んでいった。
少女は俺を見上げ、先よりもはっきりとした声で、こう言った。
「あなたが、運命の君」
彼女は微かに掠れた、それでいて風のように響く声で続けた。
「ずっと、探しておりました。どうか、私たちをお助けください」
宵は深く、夢はさらに甘く広がる。
案外ハスキィな少女の声に意表を突かれつつ、俺は我ながら不器用な、ちょっと引き攣った笑みを浮かべて、答えた。
「ああ、いいとも。困った人は放って置けない性分でね」
ずっと言ってみたかった台詞。
永遠の読者だった俺が、作り手にもなれなかった俺が、主人公になれるという。例え夢であったとしても。
イエス以外の答えがあるわけはなかった。
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