第9話 内紛

 梅雨の明けた或る晩、イナヒは纏向まきむく村落長オトシキの屋敷で密談した帰路にあった。梅雨時の激しい雨の弾く水音に揉み消されていた蛙の鳴声が、邪魔な背景音が消えた初夏の田圃一面で大合唱を演じている。

 のらりくらりと煮え切らない態度を続けるオトシキとの密談内容を苦々しく思い出し、イナヒは憮然として馬上に揺られていた。今宵ばかりは蛙の鳴声を耳障りに感じ、苛つきを募らせていた。

 神武天皇の暗殺事件以降、イナヒは夜の暗闇を独りで徘徊しなくなっている。イナヒの騎乗する軍馬の御供として3人の警邏けいら兵が徒歩で随行している。天皇空位の今、摂政として政事まつりごとを司る立場にあるので、警邏兵を伴うのは当然の事とも言えた。

 3人の警邏兵は出雲人ではなく、神武東征に従事した者の息子達、初瀬はせ村落出身者である。スセリ妃の息の掛かった出雲兵を薄気味悪く感じるイナヒは、頑迷にも初瀬村落出身者を遣い続けている。

 イスズ妃が橿原宮かしはらのみやに出雲兵を呼び込んで以来、従前の警邏兵には実家待機が命じられていた。謀反を防ぐ為に引き続き扶持ふちを支給していたので、彼らが経済的困窮に陥る事は無かったが、無聊ぶりょうを持て余していた。だから、イナヒが声を掛けると、喜んで馳せ参じるのだ。

 神武東征に従事した兵士は、戦い慣れていた事もあって、浪速なにわ集落に不意打ちを食らった時以外、大して損耗せずに和歌山から奈良盆地に攻め上った。800人程度の兵士が初瀬村落に土着し、それ以降は半農半軍の屯田兵制により潜在的な武力を維持してきた。

 ところが、神武東征から15年余りが過ぎ、世代交代も進んでいる。戦乱も絶え、必要性も薄れていた。その結果、神武天皇が暗殺された昨年の時点では、二世を中心に50人強が専属の警邏兵として仕えるのみとなっていた。

 弁韓人奴婢の子孫も含め、大半の子弟は武術に縁の無い農民として日々を過ごしている。自分は農民になるのだ、と子供達も思い込んでいる。

 これまでは引退した古参兵が警邏兵を相手に細々と武稽古を付けていたが、現役の警邏兵が初瀬村落に帰農しても、武術を仕込むべき子供の数が少ない。

 若い労働力が農作業に戻った事に年老いた両親は安堵の溜息を吐いたが、警邏兵の中には単調な農作業に嫌気する者も少なくなかった。その様な警邏兵は、イナヒが橿原宮を完全掌握し、出雲兵を追い出す事に期待していた。

 纏向村落から橿原宮に帰る途上。天香久山あまのかぐやま耳成山みみなしやまの中間を通り過ぎ、橿原宮まで残り700m余りに近付いた時であった。

 イナヒ達は庶民の通り慣れた太い畦道あぜみちを進んでいたのだが、三脚の上に鉄鍋を置いた灯台の篝火かがりびが前方に見えた。イナヒをかどわかそうとする物の怪が幻影を見せているのか?――と、4人は場違いな場所に立つ灯台に身構えた。

 平静を失わぬ軍馬に勇気付けられ、そろり、そろりと用心しながら歩みを進める。銅鐸どうたくの投光を左右に振り、周囲を警戒する。忙しない蛙の鳴声に全ての物音は掻き消され、視覚に頼って警戒するしか他にすべが無い。

 イナヒは手綱を引き、常歩なみあしよりも更に遅い足踏みに近い歩速に軍馬を抑え、刀剣のつかを両手で握り締めた警邏兵は道幅一杯に展開し、摺り足で近付いて行く。

 4人は灯台をあらため、妖魔の出現する気配の無い事に胸を撫で下ろした。

 ところが、灯台を放置して通り過ぎようとした時、前方から槍を両手に掲げた5人の雑兵が駆け寄ってきた。篝火の届かぬ先の田圃の畔の陰に身を潜ませていたようだった。

 等間隔に広がり、円陣を組んでイナヒ達の行く手を遮る雑兵ら。槍と思ったの先端には、真っ直ぐに尖った通常の穂先に加え、扇型をしたまさかりも装着されていた。同じ刃長の斧に比べて、根元がくびれている分だけ軽い。振り回す際の負荷を軽くできる。

 実際、雑兵らには刺突するつもりが無さそうだ。戦斧いくさおのの末端を左手で握り、右手を柄の中央に添えて、上段に構えている。鉞の重さを活かして振り下ろすつもりのようだった。

 対峙する警邏兵は刀剣を正面中段に構え直す。軸足の左踵を僅かに上げ、状況次第で前に攻め掛かる事も、後ろに飛び退ずさる事も出来る体勢を取る。相手の動きを牽制すべく突き出した剣先の向こうでは、雑兵らの双眸に怯えと緊張の浮かんでいる様が見て取れた。

 ――新兵か? 同じ武器で対決するならば、人数の不利を容易たやすく挽回できるだろう。だが、しかし。

 戦斧の射程は2m余り。刀剣の射程は1m足らず。明らかに不利だった。騎乗するイナヒにしても簡単には近付けない。鉞を振り回して軍馬に致命傷を与えられるのが必定だからだ。

 双方とも威圧と警戒の眼差しを相手に向けたまま、互いに間合いを詰め切れずにいた。緊迫した空気に興奮した軍馬だけがいななき、強く引かれた手綱に従い、右に左に足踏みしている。

 9人の男達が睨み合う中、雑兵らの組頭らしき中央の1人が、膠着状態に痺れを切らした。気合の奇声を上げ、力任せに戦斧を振り下ろした。手にした武器の射程に不慣れな者の一撃は、警邏兵の眼前をかすめただけで、地面に虚しく歯を立てた。

 鍛錬された警邏兵は一瞬の好機を見逃しはしない。攻撃された警邏兵は即座に反撃に移り、前屈みになった雑兵に斬り付けた。

 雑兵は戦斧の柄から両手を離し、る様にして刀剣の一振りを凌いだ。左右に構える雑兵が戦斧を中段に構え直し、穂先を突き出して警邏兵の第二撃を牽制する。両端の雑兵は上段に構えたまま、攻撃の意思を放っている。

 雑兵の組頭が手放した戦斧は、斜めに生えた小枝の如く、畦道の真ん中に取り残されている。武器を失った中央の雑兵は戦力から脱落している。指揮官の落伍した部隊が戦意を維持する事は、至難の技であった。まして、新兵となれば猶更である。

 左右に視線を彷徨わせた組頭は、「退け!」と号令するや否や、振り返って後ろに駆け出した。橿原宮を目指して一目散に退散した。臆病風に吹かれた体たらくに拍子抜けしたイナヒからは、男を深追いする気が失せた。

 反面、残りの4人は勇敢にも防御態勢を崩さなかった。イナヒ達に向けて戦斧を構えたまま、篝火の生む影が周囲の暗闇に溶け込む所まで後退あとずさり、そして踵を返して逃げて行った。組頭と比べると、遥かに肝の据わった雑兵と言う気がしないでもない。

彼奴あやつらは出雲の正規兵ではないな。恐らく、募兵に応じた浪速人だろう」

「しかし、籾米で雇われたに過ぎぬ浪速兵が、自発的に暗殺紛いの事をするとは思えません」

「そうだな。俺達に出雲兵が牙を剥いてきたと考えるべきだろうな・・・・・・」

「イナヒ様! 如何いかが致しますか? まま、橿原宮に戻るのは危険かと・・・・・・」

「トガマの言う通りだ。今夜は天香久宮に引き籠ろう。

 初瀬村落に行き、警邏兵を全て召集してくれるか? 天香久宮だけでなく、天香久山全体をも警護してもらいたい」

 初瀬村落は天香久山を取り囲むように広がっている。数少ない警邏兵で周囲800m程の天香久山を包囲せずとも、村人達の協力を得て要所々々に見張りを立てれば事は足りる。限られた警邏兵は屋敷の周辺に駐屯させ、四方の森に警戒の目を向けていれば、当面は次なる夜襲を防げるはずであった。

「承知しました。イナヒ様は馬にて天香久宮にお急ぎください。我らも馳せ参じますゆえ」

「頼んだぞ、トガマ。敵兵の残した戦斧を俺に渡せ。出雲兵の仕業を証明するあかしとする」


 翌日、イナヒは橿原宮のイスズ妃に使者を立てた。暗殺未遂を咎める為である。

 使者として遣わされたトガマの訴えにイスズ妃は戸惑いの表情を浮かべ、出雲兵を束ねるタケツチを呼んで真偽を質した。

「その様な命令は出しておりません。私がイスズ妃に無断で、その様な愚行に走るはずが無いでしょう?

 ただ実際、戦斧が幾つか盗まれております。何処かの誰かが、盗んだ戦斧を使って夜襲を働いたものと思われます」

「問題は、その“何処かの誰か”です。イナヒ様は浪速兵を疑っています。

 浪速兵が動いたとなれば、監督するタケツチ殿も責任を免れませんが・・・・・・?」

「失礼千万な事を抜かすな! 疑うならば、ご自身で浪速兵の全員を首実見すれば済む話であろう?

 トガマ殿は犯人の顔を覚えているのだろう?」

 売り言葉に買い言葉で、トガマは浪速兵の顔を検める事になった。残念ながら、見覚えのある顔は見当たらない。但し、実行犯の浪速兵を隠した可能性も捨て切れず、襲撃を否定する証明にもならない。

「イナヒ様からの要請です。ミケヌ様とキスミミ様の身柄を天香永宮にお移ししますが、異存はございませぬな?」

 トガマの問い掛けに、イスズ妃はミケヌの顔を見た。身に覚えの無い指弾に毒気を抜かれたイスズ妃は無表情である。判断をミケヌ本人に委ねようとする構えだった。

「トガマ殿。私は橿原宮に残ります。私まで天香久宮に移れば、皇族間のいさかいは決定的となりましょう。それは奈良集落に禍を招くことになります。兄上には、そう伝えてください」

 ミケヌが残留の意思を表明すると、イスズ妃は微かに安堵の表情を浮かべた。

「承知しました。ところで、キスミミ様は?」

 今度はミケヌがイスズ妃の顔を見た。イスズ妃の表情は能面の様な無表情に戻っている。

――あの女の子供が何処に行こうが、私には如何どうでも良い話だ。

 キスミミの処遇もまた、ミケヌに一任するつもりだった。

「連れて行きなさい」と一言、ミケヌは返答した。恋敵こいがたきの子供に対するイスズ妃の冷淡さに気付いたわけではなく、アイラ姫とキスミミの親子が一緒に暮らす事が有るべき姿だと思ったからだった。


 イナヒとアイラ姫、キスミミの3人は、真の家族と言う事実を隠したまま、暫くは仲睦ましい時間を過ごす事になった。但し、相変わらずアイラ姫は悄然としていたし、橿原宮との間には一触即発の緊張が漂う事になった。

 多勢に無勢。

 100人の出雲兵に加え、ほぼ同数の浪速兵を掻き集めた橿原宮の兵力は総数200人程度。対する天香久宮の兵力は50人規模に過ぎず、全く太刀たち打ち出来なかった。初瀬村落の引退した老兵を再招集するにしても、戦力としては大して期待できなかった。

 イナヒは悩むまでもなく決心し、駐在員のクズヒを呼んだ。邪馬台城に救援を乞う事にしたのだ。


 イナヒ暗殺未遂事件の少し前。大輪に咲いた紫陽花あじさいの薄青い花が長雨に濡れ、田圃のオタマジャクシに四肢が生え揃い始めた頃であった。

 スセリ妃の訃報に接したオモイカネは、卑弥呼とミカヅチの2人を前にして、出雲集落と奈良集落への対応方針を議論していた。

「スセリ妃には気の毒な事をしました。先代の卑弥呼様のお決めになった事とは言え、この様な結末を迎えるとは・・・・・・」

 卑弥呼の座に就く前にはタイヨと名乗っていた彼女は、同じ侍女として、スセリ妃と一緒に先代卑弥呼に仕えていた。スセリは面倒見が良く、後輩のタイヨに彼是あれこれと優しく教えてくれたものだった。アイラ姫も心優しい女性だった。

――邪馬台城と日向集落の大乱を治める為に還俗したのに、何故こうも2人は不幸な境遇に見舞われなければならないのだろう?

 卑弥呼は遣る瀬無かった。

「卑弥呼様。過去を振り返っても仕方ありません。重要なのは、今後の対応です」

「そうですね、オモイカネ。過ぎた事を悔やんでみても、詮無い事です」

「それで・・・・・・、オモイカネ殿。出雲か奈良に出兵するのですか?」

 思案顔でミカヅチが尋ねる。尋ねたくはないが、立場上、避けては通れない質問であった。

「いや、直ぐには。大義名分が無ければ、出兵も出来んからな。

 但し、準備を進めておくべきだろう。ミカヅチ殿。どの程度の兵なら割けるのか?」

 ミカヅチは腕組みをし、頭の中で算術を繰り返した。

 現在、邪馬台軍は2千余名の兵士を抱えている。主力は邪馬台城に駐屯しているが、対峙する狗奴くぬ集落の背後を囲むように、日向集落へと通じる高千穂宮殿の屯所とんしょに数百名、薩摩熊襲の地へと通じる八代の屯所に数百名を配置している。

 対する狗奴集落の布陣は定まっておらず、基本は熊本平野に留まっている。邪馬台城に独立戦争を仕掛けているので、玉名、大牟田を抜けて筑紫平野に攻め込む事が多いが、気が向けば日向集落や薩摩熊襲にちょっかいを掛ける事も偶にある。

 母国を捨てて狗奴集落に残留した挙句、狗奴人達を糾合した斯蘆しろ人兵士の中には、士官級の人間が居なかった。戦略的な動きを見せなかった点は、邪馬台城にとって幸運だった。反面、大局的な視点に乏しく、独立を勝ち取るまで諦めないと言う意固地な点は、邪馬台城にとって不運だった。

 分別の有る者が思慮を巡らすならば、邪馬台城が独立国として認めようが、否認しようが、大した問題ではない。そもそも邪馬台城は如何いかなる集落であろうとも、政治的支配下に置いていない。経済的繋がりをネットワーク化しているに過ぎない。その事に斯蘆人達の考えが至らなかった。

 だから、争う目的が判然としない中で、散発的な小競り合いが延々と続く状況に陥っている。

 業を煮やした邪馬台城は、事大じだい主義と言う韓半島の庶民性に鑑み、魏王朝の権威を借りて内紛を治めようと考えた。具体的には、ナントミと名乗る若者を楽浪郡に遣わしている。魏王朝の高官を招聘しょうへいする予定だったが、現時点では到着していない。

「奈良集落に駐屯する出雲兵は100人でしょうか? それとも200人でしょうか?」

「分からない。でも、最悪の事態を考えておくべきだろう」

「浪速人も兵士に加わっているんですよね? まあ、訓練の行き届かない雑兵だろうが・・・・・・」

 再び目を閉じ、ブツブツと念仏の様な呟きを吐き続けるミカヅチ。

「邪馬台軍が奈良集落に派兵できる兵数は300人ですね。

 それ以上の兵数は、狗奴集落との内紛が片付かない限り、割くのが難しいです」

 目を開けたミカヅチが宣告した。身を乗り出し加減に回答を待っていたオモイカネは、少しだけ肩を落とした。ミカヅチが出し渋ったとは思わないが、圧倒的な兵力差で敵に対峙するのが常道だとは、武術には素人のオモイカネでも知っている。

「大丈夫か?」

「大丈夫です。弓矢に秀でた騎馬兵を100騎、300人の中に編入します」

「出雲兵にも騎馬兵は居るだろう?」

「御心配無く。騎馬兵としての訓練は施していません。出雲兵に求められる資質は防御力です。機動性は不要ですから」

「だが、鍛錬を積まずとも、弓矢に長けた者は居るだろう?」

「弓矢の腕を狩猟で鍛えた者は居るでしょう。でも、疾走する馬上から矢を当てるのは至難の技ですよ」

「残り200人は?」

「槍と刀剣の双方を携えた歩兵です。騎馬兵だけで攻城戦を戦えませんから。

 まあ、タギシミミ殿から聞いた話では、橿原宮には邪馬台城の城門や城壁に相当する防御壁が有りませんから、騎馬兵だけで落城させられるかもしれませんがね」

「ところで、誰を大将に据える? 当然、ミカヅチ殿は出向けないだろう?」

「大将にはタギシミミを据えるしかないでしょう。彼の故郷なのですから」

「経験の浅い、と言うか、経験の無いタギシミミをか?」

「熟達したイノタチを副将として就けます」

「ウム。イノタチが指揮するなら安心だ。頼りにしているぞ」


 俺がイノタチ殿と共に、ミカヅチ様が編成した奈良派遣部隊の鍛錬を始めて一月ひとつき余りが過ぎた頃。蝉の鳴声が五月蠅く響き渡る季節が巡って来ていた。

 炎天下の城内で刀剣や槍を討ち合う稽古に励む兵士は、誰もが全身に滝の様な汗を流している。俺もイノタチ殿を相手に武稽古に余念が無かった。

 そんな俺達の脇を慌てた様子で通り過ぎる使者の姿が有った。クズヒ殿だった。

 城内での乗馬は禁じられているにもかかわらず、クズヒ殿は軍馬を走らせたまま、宮殿へと急いだ。俺とイノタチ殿は刀剣を握った腕を下げ、互いに顔を見合わせる。

「皆の者! 暫しの休憩とする」

 イノタチ殿は兵士達に号令を掛けると、俺の背中を押して宮殿へと向かった。

 宮殿正面に到着すると、イノタチ殿は「俺は此処に控えているから」と顎を振り、俺に大広間に行けと促した。俺は5段の上り框を踏み上がる。踊場で靴の巻紐を解き、素足になって大広間に足を踏み入れた。

 大広間の奥では卑弥呼様が正面扉を向いて座り、オモイカネ様が身体の右側を卑弥呼に向けて座っている。クズヒ殿は卑弥呼様の正面に座り、入口に立った俺には背中を向けている。5mほど離れた場所から見ても、クズヒ殿が肩で荒い息をしている様子が明らかだった。

 卑弥呼様の視線の動きで俺の入室に気付いたオモイカネ様が、俺に向かって手招きする。

「イナヒ殿が邪馬台城に援軍を要請した。これで大義名分が整う」

「それでは、出陣するのですか?」

「そう言う事だ。準備は出来ているな?」

 オモイカネ様の問いに、俺は力強く頷き、準備万端である事を知らせた。


 イネの茎の先に稲穂が膨らみ、朝方の短時間だけ目立たぬ花を開き始める頃。橿原宮の隣に水を湛えた深田池の水面では、1カ月余りも順繰りに咲かせていた蓮の花が最盛期の終焉を迎えようとしていた。

 邪馬台城からのタギシミミの率いる援軍に先立ち、蜻蛉返りして奈良集落に戻ったクズヒの口から、イナヒ達は援軍到来の吉報を受け取った。イナヒや警邏けいら兵に限らず、心細い思いをしていた初瀬村落の庶民は多いに沸いた。

 人の口に戸は立てられぬ。

 邪馬台城からの援軍到来の噂は、初瀬村落に留まらなかった。イナヒと同じ側に立つ纏向村落から両隣の宇陀村落や大和村落にも噂は広がり、燎原之火りょうげんのひの如き速さで口伝に流布していった。奈良盆地の東半分では、イナヒの勝利を確信する者で溢れた。

 奈良盆地の西側に広がる葛城村落も例外ではない。村落長の地位を名目的にイナヒが占め、地政学的な関係から実質的にイスズ妃の統制下に入っていた葛城村落も、旗色を鮮明にするタイミングを窺っていた。

 橿原宮にも援軍到来の噂が届くのは自然の成り行きだった。

 謁見広間に集まり、善後策を相談するイスズ妃とタケツチ。そして、ミケヌの3人。

 ミケヌは中立の立場を貫くつもりだったが、イスズ妃にはミケヌを頼る処があった。軍人として自分に仕えるタケツチの忠義心には全幅の信頼を置いていたが、タケツチの一歩下がった姿勢は、相談相手とするには物足りなさを感じさせるからだった。

「困りましたねえ。ミケヌよ。邪馬台城は何人の兵士を抱えているのです?」

「ざっと2千人」

 ミケヌは事実の一面だけを短く答えた。邪馬台城が狗奴集落との内紛に汲々としている事実には口をつぐんでいる。

「2千人の兵士の内、何人を奈良集落に向かわせるのか・・・・・・?

 2千人の全員を派兵する事はありません。彼らは狗奴集落を牽制しなければなりませんから」

 ミケヌは内心で舌打ちした。

――邪馬台城に出向していたタケツチならば、邪馬台城の最新情報に俺よりも通じていてしかるべきだな。

「ですが、一割程度なら軽く割けるでしょう。悪くすると、二割程度の兵力を割けるとミカヅチ様が判断なさっても不思議は無いでしょう」

「そうすると、200人から最悪400人の邪馬台兵が進軍して来ると言う事ですか・・・・・・」

 眉間に皺を寄せたイスズ妃はタケツチの反応を待っている。だが、タケツチは押し黙ったまま。

「タケツチよ。勝てますか?」

 痺れを切らせたイスズ妃がタケツチに返答を促す。

「出雲兵100人と浪速兵100人。合わせて200人。邪馬台軍には勝てんでしょう」

「出雲集落から残り100人の兵士を呼び寄せては如何どうです?」

「いや。残念ながら、間に合いません。

 あと片手の指ほどの日数で邪馬台軍は現れるでしょう。遅くとも両手の指ほどの日数の内には、必ず現れます。

 出雲集落に使者を立て、出雲兵の残りが順調に奈良集落に向かったとしても、その前に決着は付いているでしょう」

如何どうするのです?」

「我らが兵力は相手方に圧力を掛ける為の道具。睨み合う状況が崩れ、合戦となれば、大兵力を整えた側が勝つのは必定です。

 命じられれば戦いますが、最後は負け戦と心得てください」

 30歳代半ばのタケツチは老練な兵士である。悲壮或いは諦観の表情を浮かる事も無く、浮足立った雰囲気も漂わせない。平常心を保ち、冷静沈着な分析を淡々と繰り出している。

 悲観や落胆に沈鬱な表情を浮かべているのは、寧ろイスズ妃の方だった。

――ヌナカワミミに皇位を継がせる余地を失い、絶望しているのだろうな。

 権力闘争と距離を置いているミケヌは情勢を客観視している。イスズ妃に対して、同情や憐憫の情も抱かないし、侮蔑や嘲笑の気持ちも湧かない。

――イスズ妃が戦意を喪失してくれれば、事態は丸く治まる。奈良集落の内紛を未然に防ぐ事こそが大事だ。

 ミケヌは内心でホっとしており、微かに肩の力を抜いた。

――あとは、イスズ妃の背中を押し、全てを諦めさせるだけだ。ただ、タイミングを間違えば、自暴自棄に成り兼ねない。口を挟むタイミングを慎重に見定めなければ・・・・・・。

 イスズ妃の沈鬱な表情から強張こわばりが薄れ、達観と脱力の気配が徐々に広がる。落ち着きを取り戻した風に見えるイスズ妃に、ミケヌは「イスズ妃」と優しく語り掛けた。

 焦点の合っていなかった双眸をミケヌに向け直すイスズ妃。

「イナヒ兄さんに和睦を乞いましょう。私が仲介の労を取ります」

 イスズ妃は片眉をしかめ、怪訝な表情を一瞬だけ浮かべた。直ぐに表情を消し、ミケヌの言葉の続きを待っている。

「合戦に突入すれば、双方に犠牲が出ます。

 敗れたとなれば、イスズ妃の2人の息子、ヌナカワミミとヤイミミの生命も危ういでしょう。

 物事には引き際と言うものが有ります。思惑に拘泥していては、全てを失ってしまいます」

 イスズ妃は、猶も無表情でミケヌを見詰めていたが、目を伏せ、ハっと溜息を吐いた。肩の力を抜き、正座していた身体の緊張を解く。

「分かりました。ミケヌの言う通りにしましょう」

 イスズ妃の英断に、ミケヌは安心し、タケツチは唯々諾々と従う。

 

 イスズ妃は、謁見広間からミケヌとタケツチの2人が下がった後、再びタケツチだけを呼び戻した。


 翌日、ミケヌは橿原宮の使者として、天香久宮に立て籠もるイナヒを訪ねた。和議申し入れの露払いであった。

 恭順の意を表す為、ミケヌとタケツチの2人が天香久宮を改めて訪れる。

 本来は組織の長たるイスズ妃が出向くのが筋ではあるが、イスズ妃は女である。だから、イナヒとイスズ妃の手打ちの会談は橿原宮で行いたい。イナヒが橿原宮を訪れるより先に、負けを認めた側が勝者の元を訪れる事は必要不可欠な儀式。だからこそ、代表代行としてタケツチが訪問してくるのだ。

 ミケヌの言伝ことづてを聞いたイナヒは、一も二もなく同意した。手打ちの段取りに双方が合意すれば、実行を躊躇う障害は全く無い。

 ミケヌの訪問した夜には早速、タケツチの天香久宮訪問が決行された。

 ミケヌとタケツチの2人を先頭に、大八車を在来馬に牽かせた荷馬車が何台も連なった。酒で満たした須恵器すえきの水瓶を荷馬車に満載している。随行する者は、在来馬の隣で手綱を引く荷馬車の御者のみ。

 天香久宮の参道入口に到着すると、ミケヌとタケツチの2人は腰に帯びた刀剣を警邏兵に手渡す。荷台の一画から酒を容れた竹筒を両腕一杯に抱えた。

「水瓶の酒は好きにして欲しい。我らは酌のし易い竹筒を持参したのでな」

 警邏兵に言い残すと、2人は参道を登り始めた。和議が成った事を聞き及んでいた警邏兵は、2人の後ろ姿が見えなくなると直ぐに仲間を呼び寄せ、水瓶を積んだ馬車を天香久山周辺に幾つか設けられた屯所に回した。既に屯所では野戦用の夕餉を囲んでおり、酒の差入れに何処の屯所も大歓迎だった。

 屋敷を警護する警邏兵2人だけは、立場上、酒に有り付けなかった。ただ、麓に陣取る警邏兵が酒宴を楽しんでいる事実を知らないので、彼らが同僚を羨む事は無い。

 イナヒは囲炉裏の上座で胡坐を掻いており、今か今かと2人の到着を待っていた。アイラ姫とキスミミはクズヒの住まう離れの建屋に下がらせているようだった。

 塩を振った鮎の串刺しが何本も囲炉裏に刺されている。居間の床には既に幾つもの料理が並んでいる。鶏の丸焼き、茹で卵、空豆と里芋の水煮。菜種油で揚げた川海老の天婦羅も有った。山菜の季節が過ぎた故、野菜料理の品数が少ないのは仕方無い。海から遠い奈良集落としては、精一杯の御馳走であった。

 イナヒ、ミケヌ、タケツチの3人は囲炉裏を囲み、料理に箸を差しては、木椀に注いだ酒をあおった。当然の事ながら、イナヒが最も陽気だった。大声で哄笑し、愉快そうに膝を叩いた。

 3人は威勢の良い掛け声を上げ、酌み交わした酒を全員同時に飲み干した。場合に依っては、イナヒとミケヌが、そしてイナヒとタケツチが2人で乾杯した。結果的に、イナヒの飲み干した酒量が最も嵩み、傍目にも赤ら顔が明らかだった。

 ミケヌとタケツチの酒量は殆ど同じだっただろう。但し、ミケヌは日向人、タケツチは出雲人。そして、酒は出雲集落の特産品である。つまり、タケツチが最も酒に慣れている。

 タケツチが酒に溺れる事は無く、醒めた状態を保っていた。一方、ミケヌがイナヒに酌をする手元は相当に怪しくなっており、竹筒を傾ける際に木椀から酒を溢れさせ始めていた。

――今が頃合い・・・・・・。

 タケツチは右手に握った木椀を左手に移す。胡坐を組んだ袴の左裾に、そっと右手を忍ばせた。膝上を掻く素振りで誤魔化しつつ、指先に触れる固い感触を確かめる。

 タケツチが忍ばせていた暗器は、強いて言えば、匕首あいくちに近い。但し、さやつかも無く、剥き身の刀身だけ。柄が無い代わりに、末端には丸い輪が付随され、忍者が手裏剣替わりに投擲とうてきした苦無くないに似ている。刀身を握る手が滑らないように、利き手の中指を輪に通す。

 その暗器を左腿の内側に這わせ、太腿に絹糸で幾重にも巻き付けていた。人差指と親指の先端で刀身を手繰り寄せ、鞘替わりの絹糸を潜らせた。袴の裾口から姿を出した刀身を掌で隠し、右手中指を輪に差し込む。

 イナヒとミケヌが乾杯し、木椀に口を付けた顔を上げて喉を鳴らした刹那。

 タケツチは右手を素早く抜き、改めて刀身を握り締めると、組んだ左足を解いてドンと床を踏み鳴らした。左の膝を伸ばし、身体の重心を上げる。伸ばした右足で床を蹴り、暗器を構えた右腕の脇を締める。

 タケツチの俊敏な動きに、イナヒとミケヌは付いて行けない。鈍った眼差しを木椀の辺縁から覗かすも、状況を全く把握できていない有様が明白だった。

 タケツチは、獲物に襲い掛かる鷹の様に、イナヒに突進した。左手でイナヒの肩を掴み、右手の暗器をイナヒの首筋に深々を差し込む。刃先が頸骨を擦る感触を指に感じると、手首を捻じり暗器を90度回転させる。

 広がった傷穴から鮮血が噴き出す。イナヒは見開いた目の中で瞳を右に動かし、タケツチを見る。双眸には驚愕が浮かび、憤怒と絶望が取って変わった。

 タケツチは暗器を抜き、左足を軸足として右足を戻す。その際に時計回りに身体を巡らせ、ミケヌからの攻撃に備える。

 茫然自失となったミケヌの目は、勢いを増した鮮血の噴射に釘付けだった。ほうけた口を開けたまま、タケツチの姿は眼中に無い様子だった。

 ゴボリっとイナヒの喉が鳴らす声ならぬ音で我に返ると、兄の鮮血に顔を濡らしながら飛び寄り、傾くイナヒの身体を抱き上げた。手で傷口を強く押さえるも、ミケヌの掌の隙間から血が溢れ続ける。

「兄さん! 兄さん!」

 ミケヌは何度も必死で呼び掛ける。イナヒが口から血塊を吐き出す。

 ミケヌの反撃が無いと見極めたタケツチは、行灯を掴み、居間から寝所へと抜けた。寝所から外に飛び降りると、手にした行灯を茅葺屋根に投げ上げる。

 行灯の底に無かった菜種油が茅に垂れ、垂れた油を追って火が上がる。小さな火は隣の茅に燃え移り、油無しでも燃え続ける火勢を手に入れた。小さな火は大きな炎となり、茅葺屋根全体を燃やし包む。月夜の薄明るい闇に黒煙が上がり始める。

「何だ!」「どうした?」

 異常事態に戸惑う警邏兵が屋敷の寝所側に回り込んで来たが、時すでに遅し。タケツチは森の中に姿をくらませていた。


 2㎞先の橿原宮の物見櫓ものみやぐらから監視していた出雲兵は、天香久宮から燃え上がる火炎の赤い先端を木々の間に認めると、進軍を開始した。

 駆け足で行進する事、10分強。天香久山の周囲で守備に就いていた警邏兵は誰もが千鳥足で、混乱した状況に右往左往していた。

 出雲兵は天香久山の西側で遭遇した警邏兵を次々に討ち取った。酩酊した敵兵を屠る事など造作も無かった。

 そして、参道を一挙に駆け上がる。天香久山の反対側に駐屯する警邏兵には目も呉れなかった。森の中に潜むタケツチを保護し、アイラ姫とキスミミの身柄確保を優先した。全ては事前にタケツチが指示した通りだった。

 混乱の最中、クズヒは天香久山からの逃走に成功した。アイラ姫ら親子を見捨てる事には少し気が咎めたが、大局的には、惨事の顛末を邪馬台軍の応援部隊に伝える方が重要だと判断したからである。

 イナヒの亡骸に取りすがるミケヌについては、出雲兵が炎上する母屋の中から救出した。但し、麻縄で捕縛された状態で橿原宮に連行された。

 母屋を焼いた火炎は勢い付いた挙句に、離れの建屋をも焼き尽くした。天香久宮は全焼し、燃えるがままに放置された火事が鎮静した頃合いは、明け方近くの時分だった。業火の中でイナヒの骸は焼かれ、遺骨が土師器はじきの骨壺に納められたのは随分と後になる。


 古事記に依ると、神武東征の折、神武天皇は忍坂しのぶざかの地で八十建やそたけるに御馳走を振る舞い、刀剣を隠し持った料理人に斬り付けさせたそうである。忍坂とは初瀬村落の事。

 隣の宇陀村落では直前に、兄エウカシが神武天皇に滅せられ、弟オトウカシが軍門に下っている。次は我が身だと警戒していた八十建が易々と宴席に出向くはずがない。真相は、竜門岳の山頂でイワレがタギシミミに語った通りである。

 古事記には、イナヒの謀殺事件をベースに、登場人物を都合良く変更して記載されている。

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