第8話 策謀

 時を半年足らずも戻した晩秋の或る日。イナヒはタギシミミの居なくなった天香久宮あまのかぐのみやにアイラ姫を訪ねた。イナヒの夜這いに三猿を決め込んでいたクズヒも居ない。

「アイラよ。未だ気分は優れんのか?」

 寝所の縁側に腰掛けたイナヒは背中越しに、茣蓙布団に臥せるアイラ姫に容態の加減を尋ねた。

 母屋の間近まで迫る天香久山の森の木々は黄色や赤色に色付いている。アイラ姫は紅葉に背を向けたまま、麻布の掛布団のふちきつく握っている。寒さを凌ぐ仕草ではなく、外界との関わりを拒絶したがっている仕草だった。

――兄上はいまだにアイラの心を掴んでいるのか・・・・・・。兄上はまま、アイラの心を根の国まで持って行くつもりではないだろうな?

――アイラが俺の愛を受け入れてくれる事は無いのだろうか? いやいや、俺が弱気になって如何どうする? アイラの傷心を癒してやる事こそ、俺の務めではないか。

 少し肌寒い風がソヨリとイナヒの顔を撫でる。

「アイラよ。俺は、キスミミに兄上の跡目を継がせよう、と考えている」

 背後で衣擦れの微かな音がした。イナヒは振り返り、視線を眼前の紅葉から背後のハイラ姫に移す。左手を寝床に突いて半身を起こしたアイラが居た。悄然とした雰囲気のアイラ姫。精気に乏しく、目付きも虚ろなままだが、外界への関心を僅かに取り戻した光が瞳に宿っていた。

「キスミミを天皇に据え、イスズ妃を追い出せば、アイラを橿原宮かしはらのみやに移せる。陽の当たる場所で親子3人、仲睦ましく暮らそう。タギシミミだって、邪馬台城から呼び戻せるぞ」

 イナヒは自らの野心を優しく語った。アイラ姫の瞳の輝きが強さを増した。

 イナヒはアイラ姫の回復を期待したが、アイラ姫の瞳の輝きは再び勢いを失い始めた。アイラ姫は何かを振り払うように弱々しく首を揺らすと、寝床に臥せってしまった。

 イナヒは寂しげに肩を落とした。そして、何も言わず、天香久宮を立ち去った。


 橿原宮の謁見広間には、イスズ妃、イナヒ、ミケヌの皇族3人に加え、纏向まきむく宇陀うだ・大和の村落長が集っていた。

「夫イワレの跡目を息子ヌナカワミミが継ぐ。何か異存が有るかしら?」

 イスズ妃が高飛車に問い質した。3人の村落長が戸惑った表情を浮かべて顔を見合わせた。イナヒとミケヌは口を差し挟まない。

「イスズ妃。異議を唱えるつもりは毛頭無いのですが・・・・・・、そのう」

「何?」

 モゴモゴと口籠りながら口火を切る纏向村落長オトシキに対し、いらついたイスズ妃は犬が吠えるように声を上げた。

古来いにしえから奈良の各村落では、跡目を長子に継がせるのが慣わしです」

「タギシミミは追放しました」

 イスズ妃は、ことわりを説こうとするオトシキに向かって、冷徹に言い放った。

「承知しております。ですが・・・・・・、キスミミ殿の方がヌナカワミミ殿よりも長じておられるでしょう?」

「僅か1週間の差です。問題有りません」

「いえ。1週間といえども長じておられるのは事実。慣わしをないがしろにしては後々面倒事を引き起こし兼ねませんぞ」

「面倒事なんぞ起きるはずが有りません。

 本来ならば、皇位継承は皇族の間で決められる問題のはず。貴方達の跡目決定に私達が介入した事が有りますか? それと同じです。こうして相談するのは私達が示す誠意のあかしです。

 その誠意を踏みにじり、難癖を付けようとするなんて・・・・・・」

 怒りに身を震わせ、最後まで台詞を継げないイスズ妃。イスズ妃の迫力に負け、宇陀と大和の村落長は俯いたままだが、オトシキは意に介さなかった。

「我らは皇族ではありませんからな。ですが、イワレ様は奈良集落の盟主を語っておられた。イワレ様の後継者も盟主となるのでしょう? そうであれば、我々の意見も聞き入れて頂かなくては」

「貴方は何故、そんなに反対するのです? イナヒもミケヌも同意しているのですよ!」

 敵意を剥き出しにしてイスズ妃が金切声を上げた時。イナヒが初めて口を開いた。

「いや、義姉上。纏向・宇陀・大和の各村落の意向を無碍には出来ません。

 その方が望ましいと言うなら、私はキスミミを後継者に推しましょう」

 イナヒとオトシキは事前に段取りを示し合わせていた。イナヒは予定通りの役回りを冷静に演じる。

 不意打ちを食らったイスズ妃は呆気に取られた表情でイナヒを見た。ほうけた顔をしたのは一瞬だけで、今度は「裏切られた」と憤怒の表情を浮かべ、口撃の矛先をイナヒに向け直す。

「ヌナカワミミが成人するまでの間、後見人として政事まつりごとを執るだけでは飽き足りないのですか?」

「しかし、義姉上。政事とは所詮、各村落長の協力が無ければ果たせぬ事なのです。

 後顧の憂いを避ける為、ここは村落長の多数決で決めませんか?

 私が持つ初瀬はせ葛城かつらぎの権利。オトシキ殿の持つ纏向の権利を合わせると三つ。五つの権利の内、三つがキスミミを推すとなれば、結論は明白ですね」

 イナヒに畳み込まれるイスズ妃も黙ってはいない。直ぐに反撃の狼煙のろしを上げる。

「キスミミを推すと言うなら、イナヒ、貴方は利害関係者の1人。初瀬・葛城の権利を行使するのは筋の通らぬ話。棄権してもらいましょう」

 イスズ妃の反論も予想した通りだ。イナヒは大人しく引き下がった。

「オトシキ殿がキスミミを推すのは仕方無いとして、宇陀と大和は如何どうするのです?」

 獲物を狙う鷹の様な目付きで2人を射竦いすくめる。金切声を収め、普段の声量に落ち着いていたが、声音には威圧的な響きが漂っていた。

 シナリオ通りの展開に、イナヒは落ち着いていた。

 ところが、いつまで待っても、宇陀村落長と大和村落長は意見を表明しなかった。

――オトウカシよ。オトシキの指図通り、キスミミを推せ!

 心の中で念じるイナヒとは視線を合わせず、宇陀村落長オトウカシは顔を伏せたままである。

 宇陀村落長のオトウカシはオトシキの言い成りである。三輪山の祭司には盾突けないと言う精神的な負い目も有るが、宇陀盆地から奈良盆地に抜けるには纏向村落を通らねばならないと言う地政学的な弱みも有った。しかも、2人共、実の兄をイワレに弑逆された恨みも共有していた。

 だからこそ、オトシキはイナヒをたばかり、オトウカシに意見表明するなと指南していたのだ。オトウカシが黙して語らなければ、優柔不断な大和村落長が意思表明するはずが無い。

 皇位継承問題を宙ブラリンの先送り状態に留める事が、オトシキにとっての最善策であった。イスズ妃とイナヒを同時に焦らせ、双方から有意な懐柔策を引き出す事こそがオトシキの思惑だったからだ。


 奈良集落の庶民は冬の間、滅多に外出しない。稲刈りを終えた田圃に出ても仕方無く、専ら屋内に籠って生活物資の補給に余念が無くなる。

 女衆は、乾燥させていた麻の茎を煮て繊維を剥ぎ取り、麻糸を撚る作業に没頭する。

 繊維採取を目的とした麻は痩せた土地に植えるのが望ましく、また花を咲かせる前に刈り取るのが望ましい。従って、田植えの合間を縫って米作りに適さない土地に種を撒き、夏の暇な時期に刈り取ってしまう。

 女衆の仕事にわら編みも挙げられる。麻の繊維に比べて柔軟性に劣る藁は、衣服やロープ、網の材料には適さない。草鞋わらじむしろ、莚を重ね合せた茣蓙布団などに加工している。また、三輪山の神々を祀る注連縄しめなわの材料として使われている点は、奈良集落の特徴かもしれない。

 男衆の重要な仕事は薪割りである。木質の乾燥する冬場は、1年分の薪を仕込むには最適な時期である。鍛冶や陶芸の始まっていない関西圏では奈良集落に限らず、木炭ではなく薪を燃料に使っている。木炭製造に必要な窯が無いからだ。

 また、秋に採った野生のススキやチガヤの茎を乾燥させ、村共同で茅葺屋根の葺き替えを行ったりもする。

 庶民の目に触れ難くなる冬の間に、ミケヌはツクミ姫との逢瀬の回数を重ねていた。男衆は神武天皇陵の造営普請ふしんに動員されてもいた。奈良集落の殆どのエリアでは、例年以上に人影が疎らだった。結果、2人の逢瀬現場を目撃する者は現れなかった。

 また、ミケヌ自身もツクミ姫と遠出する際には、初瀬村落を抜けて金剛山地の南側に回り、和歌山に出るコースを選んだ。人目に触れる事を避ける為であった。特に橿原宮に駐屯する出雲兵の目を警戒した。イスズ妃の耳に筒抜けとなるからだ。

 だから、イナヒがオトシキと政略結婚の話を進めている事に、イスズ妃は気付いていなかった。

 イナヒとミケヌの兄弟を仲違いさせ、離反させようと考えたイスズ妃はミケヌに接近した。新月の晩に下女を遣わせ、ミケヌを母屋に招いたのだ。

「イスズ妃が内密にお会いしたいと申しております。ミケヌ様お一人でイスズ妃の寝所までお越しください」

 母屋の四隅に燃える篝火かがりびだけを頼りに、ミケヌは下女の後ろ姿を追った。夜の静寂しじまに玉砂利を踏み締める足音だけが鳴る。

 寝所で待っていたイスズ妃は、下女を下がらせ、ミケヌを手招きをした。寝所を照らす行灯あんどんは一つだけ。部屋の隅は暗闇のまま。イスズ妃の小袖姿だけを怪しげに照らしている。行灯の横には、酒の入った竹筒と木椀が一つ。

――どうやら、酒を飲ませて懐柔しようとする魂胆か・・・・・・。しかし、人気ひとけの無くなる深夜にしか密談できぬとは言え、女独りの寝所に男を招き入れるとは何と不用心な事。

 虎穴に入らずんば虎子を得ずとばかりに、ミケヌは寝所に上がり込んだ。

 ミケヌの豪胆な行動にイスズ妃はニッコリと笑みを浮かべ、両手で竹筒を持ち上げた。笑みを絶やさず、ミケヌの差し出した木椀に浪々と注いだ。常日頃の神経質な表情は消え、女らしさを漂わせた顔付きをしている。竹筒をひょいと軽く揺らし、まずは飲め――と催促する。

 ミケヌは木椀に口を近付け、一口、二口と酒を含んだ。傾けた木椀の縁越しに、イスズ妃の顔を観察し続ける。

――改めて眺めると、イスズ義姉さんも艶っぽい顔をしているんだな。眉間にしわを寄せなければ、良い女だろうに・・・・・・。

 兄嫁に言う台詞せりふではないので、替りに「義姉さんは?」と相伴しょうばんを促した。イスズ妃は首を横に振り、替りに「ツマミは藻塩もじおしかないの」と言いながら、塩を盛った小皿を尻の影から後ろ手に取り出した。

「どんな密談です?」

「ミケヌはちね」

 イスズ妃はミケヌから視線を逸らし、寝所の外に広がる夜の闇を見詰めた。竹筒を床に置き、右手を床に突いて半身を傾ける。正座を崩して両足を縁側に伸ばし、そして左足だけを戻して膝を立てる。重ね着した小袖と襦袢の裾を曲げた膝がめくり、雪の様に白い太腿と脹脛ふくらはぎを露わにする。

 遠慮無く自分の肢体を眺めろ――と、ミケヌを挑発する妖しげな気配が漂う。

 自然とミケヌの視線はイスズ妃の顔から足へと移り、小首を傾げた格好になる。

「酒だけでは詰まらないでしょう。藻塩を舐めない?」

 イスズ妃は小皿に左手の人差指と中指を這わせ、塩の付着した指先を自分の唇に持って行く。ゆっくりと唇の表面に何度も指を這わせ、藻塩を塗っていく。

 ――今夜は無粋な話をするつもりは無いようだ。ならば、据え膳を食らわぬは恥。

 ミケヌは一段と近くに擦り寄り、木椀から離した口をイスズ妃に近付けた。彼女の薄い唇を舌で舐め回す。藻塩を舐め尽くした舌は、小さく開けたイスズ妃の口の中に侵入する。ミケヌの舌を出迎えるようにイスズ妃が舌を絡める。

 長い接吻の後、ミケヌは飲み掛けの木椀をイスズ妃の目の前まで持ち上げた。イスズ妃はミケヌを見詰めたまま、唇をすぼめる。その仕草に合点したミケヌがイスズ妃の唇に木椀をあてがい、ゆっくりと傾ける。イスズ妃の喉の僅かな膨らみが上下に蠢動する。

 イスズ妃の唇から溢れた酒が二筋、三筋と零れ、首筋から襟の中へと流れる。ミケヌは酒の流れ跡を舐め干し、顔をイスズ妃の胸元に埋める。熱い溜息を漏らすイスズ妃。

「夫イワレが殺されてから、両手の指の数ほども月が満ち欠けしたわ。その間、誰も私を慰めてはくれない・・・・・・。ミケヌ、貴方が最初の男。今夜は・・・・・・、私を好きにして」

 ミケヌが顔を上げる。見詰め返すイスズ妃の口元が妖艶に緩む。流し目で背後の寝床を指し示す。ミケヌもニヤリと笑みを浮かべ、身体を離して胡坐を組み直す。

 イスズ妃は勝ち誇った表情で立ち上がり、腰紐を解き、脱いだ小袖を足元に落とす。袖無し襦袢の左右のおくみを広げ、首元、乳房、へそをミケヌに見せる。はなからふんどしを着用しておらず、同時に股間の陰毛までもがミケヌの視界に入る。

 冬の冷気が肌を刺すが、イスズ妃は全裸で屹立し続けた。下から照らす行灯の燈火ともしびに浮かんだ裸体を、ミケヌが鑑賞するに任せた。暗闇に白い裸体が朧気に浮かび、雪の化身が現れた幻想に陥り兼ねない光景だった。

 ――俺が此の女の虜となるか。それとも、此の女が俺の虜となるか・・・・・・。

 ミケヌは、自分も立ち上がって視姦の余興を楽しんだ事を伝え、直垂ひたたれを脱いだ。全裸のイスズ妃を両腕で抱き上げ、寝床に運ぶ。羽毛の詰まった麻袋の掛布団を捲り、2人して潜り込んだ後は裸体を密着させて温め合った。

 2人の交接は何時間にも及んだ。時の移ろいを告げる月の無い新月の夜には、時間の感覚が麻痺し勝ちである。特にイスズ妃は永遠の快楽を貪っている錯覚に陥っていた。

 数多あまたの経験に裏打ちされたミケヌの性技は、アイラ姫とイスズ妃しか知らぬイワレとは比べ物にならない。イスズ妃の方はイワレしか知らない。時に激しく、時に優しく、緩急巧みなミケヌの攻め口にイスズ妃は臆面も無く喘ぎ声を上げ、絶頂の中に何度も果てた。

 この日以降、ミケヌは、昼間はツクミ姫、夜はイスズ妃の相手をする事になる。母屋での密会が次兄イナヒに露呈しないように努めたので、勿論、連日連夜の夜這いではない。それでも、かなりの頻度であった。

「ミケヌ。ヌナカワミミの天皇擁立が決まったら、私と夫婦めおとにならない?

 そうすれば、貴方は奈良集落の実質的な盟主よ」

 十数回目の情事を重ねた晩。ミケヌの腕枕に頭を預けたイスズ妃が耳元で囁いた。

――夫イワレとの同衾どうきんで、私の心が安らいだ事は一度も無かったわ。

――だって、私を抱いている最中でも、あの女がイワレの心から消える事が無かったもの。私の上で腰を振るイワレの顔を見上げながら、夫に愛されない恐怖に私はおののいていた・・・・・・。

――でも、ミケヌは、私に全てを忘れさせてくれる・・・・・・。

 イスズ妃はミケヌに耽溺し始めていた。年下だからと油断してミケヌを誘惑してみたが、木乃伊みいら取りが木乃伊になる愚を犯していた。

 28歳になるイスズ妃の肢体は、2人の息子を産んだとは言え、未だ未だ瑞々みずみずしかった。色白の肌は絹地の様に滑らかだった。乳房の弾力は衰えようとしていたが、全体的に張りがあった。

 一方、27歳のミケヌは冷静だった。

 確かにイスズ妃の肢体は魅惑的だったが、我を忘れる程ではない。邪馬台城で性行に積極的な女との交接を数え切れない程に重ねたミケヌは、寧ろ淑女の風格を漂わせたツクミ姫に新鮮味を感じる。24歳の若いツクミ姫を自分好みの女に育てたいと言う欲望もあった。

――まあ、多くの女を相手にするのは、男の甲斐性だよなあ。

 ミケヌは不敵な笑みを口元に浮かべただけで、明確な意思表示をしなかった。

 ミケヌの沈黙をイスズ妃は了解の意味と誤解した。快楽の余韻に浸っていた事もことながら、邪馬台城の風習を知らぬイスズ妃には、ミケヌの行状を想像できなかったのだ。


 春一番の嵐が吹き、田起こしが始まると、出雲集落の動きが活発になった。

 冬の間に作り貯めしていた大量の鉄鍋を奈良集落で配給し始めたのだ。イスズ妃への同調者を増やす為のバラマキ政策であった。

 奈良集落の庶民は、無償で支給された文明の利器に疑いの目を当初は向けていたが、騙される事を覚悟して使い始めてみると、鉄鍋の利便性に心酔した。

 従来、奈良集落では須恵器すえき土師器はじきを調理に使用していた。ところが、土器には直火に当て過ぎると割れる欠点が有る。火力をコントロールし易い炭火であれば土器を割るリスクも小さいのだが、奈良集落で一般的な燃料は薪である。火力のコントロールが難しい。

 必然的に土器の割れる頻度が高まり、割れる度に出雲集落から仕入れなければならない。少しずつだが、貯蔵した籾米が減ってしまう。

 ところが、鉄鍋には割れる心配が無い。囲炉裏にべる薪の配置に気を遣う必要が無い。寧ろ大火力で調理できるので、調理時間を大幅に圧縮できる。調理時間を圧縮できれば、女衆の労働力を他に振り向ける事が出来る。

 鉄鍋は大人気となった。

 また、ナタネ油を使って、炒め料理に挑戦する女衆も現れた。調理油が表面に染み込んでしまう土器では出来なかった調理方法だ。新たな味覚に男衆も舌鼓を打った。

 炒め料理に目覚めると、色々な食材を試してみたくなるのが人情だ。家畜の鶏の産む卵だけでなく、鶏自体も絞めて肉を炒めた。味を占めた庶民は鶏の飼育に精を出すようになった。

 それだけでなく、冬の農閑期には山に分け入り、猪や鹿を獲ろうと目論む者も現れた。弓矢の矢尻や槍の穂先の需要が喚起される。

 葉物野菜を炒めると美味しいと知れば、片手間にしか耕さなかった野菜の栽培面積も広げた。荒れ地の開墾用に鍬や鋤を始めとする鉄製農具の需要も喚起される。

 独占的に鉄器を販売していた出雲集落も、鉄鍋以外の品物には見返りとして籾米を要求する。ところが、奈良集落の庶民の懐には例年よりも多くの籾米が貯まっていた。神武天皇陵の造営普請に参加した見返りに籾米を受給していたからだ。

 立腹したイスズ妃が舌打ちしながら支給を決めた普請の使役料だったが、回り回って出雲集落に流れて行く事になった。出雲出身のイスズ妃にとって、結果オーライの因果関係だったとも言える。しかも、使役料の籾米は庶民の購買意欲を満足させ、専横的なイスズ妃への反発心を和らげた。

 時を置かずして、出雲集落の策動は邪馬台城の知る処となる。何故ならば、出雲集落から奈良集落への搬送ルートは、中国山地を南下して、尾道から双胴船で河内湾に海送するルートだからだ。瀬戸内海の海運は日向人が担っている。

 出雲集落の動きに先立ち、タギシミミと相談したオモイカネは冬の間に、何隻もの双胴船に煉瓦とセメントを満載し、窯を作る職人を急ぎ奈良集落に向かわせていた。建造した窯で土器を焼く職人の土器師は未だ粘土の採掘場所を探し出していない。当面、土器の材料とする粘土は九州から搬入する。

 幾つもの陶器窯を同時に建設する事は叶わない。出雲集落との懐柔合戦に勝利する事が最優先なので、イナヒと相談の上、建設地を大和村落の一画に定めた。纏向村落の懐柔策は進めていたし、纏向村落が靡けば宇陀村落も追随する。大和村落には実弾を渡さないと心許無いと判断したのだ。

 結果的に大和村落に陶器窯を構えた判断は間違っていなかった。後年、陶器師が信楽しがらき山地で良好な粘土層を発見したからだ。

 他にも、出雲集落から戻ったオモイカネは竹細工を配給した。出雲人達の受けの良い事を改めて知ったオモイカネが、奈良集落でも歓迎されるだろうと踏んだからだ。実際、オモイカネの読みは当たる。

 土産として出雲集落に持ち込んだざる魚籠びくかご葛篭つづらなどに喜んだだけでなく、奈良人達は一つの竹細工を組み込んだ構造物に感心した。

 やなである。

 梁とは川魚を獲る仕掛けである。川の流れを遮るように川岸の一方から他方に掛けて、石を積んだり杭を打ってせきの骨格を作る。竹を並べた生垣で骨材の隙間を塞ぎ、川魚が一方向にしか泳げないように誘導路を構築する。誘導路の先には生簀いけす状に竹で囲んだ網代あじろを作り、其処に川魚を追い込むのだ。

 奈良盆地を横断するように二つの河川が北上し、生駒山地と金剛山地の狭間を通って、河内湾へと流れ込んでいる。宇陀村落から纏向村落の西端を流れる大和川。そして、更に西の葛城村落を流れる寺川。

 二つの河川に何箇所も梁を構築したので、奈良集落の食卓には魚料理が並ぶようになった。こいふなあゆますなどの川魚の他、うなぎ、川蟹なども食材として頻繁に調理され始めた。

 オモイカネは、九州各地での田植え作業が一段落すれば、第三弾の支援策として、余剰となる在来馬を奈良集落に送り出すつもりだった。

 奈良集落の庶民は、出雲集落と邪馬台城の双方が競い合って提供する支援に瞠目し、戸惑い、そして感謝した。

 出雲集落の支援は消耗品に終始し、邪馬台城の支援は技術ノウハウの伝授に配慮していた。長期的には邪馬台城の方が奈良人達に幸福をもたらすはずだが、肝心の奈良人達は即効性の有る鉄器に心を奪われる傾向にあった。


 オモイカネが邪馬台城に戻った後。出雲集落では、真実を知ったスセリ妃が、クシミカの言動を度々牽制するようになった。時には2人の間で激しい口論が発生し、喧嘩別れする事も有った。

「クシミカ殿。奈良集落に派遣している兵士を、そろそろ引き揚げては如何どうですか?」

「いきなりな物言いですな。何故、また?」

「イワレ様が亡くなって彼是かれこれ1年が経ちます。奈良集落の世情は落ち着いたのではないですか?」

「落ち着いた、とはイスズ妃から聞いておりません」

「混乱が続いている、とも聞いていないのでしょう?」

「いいえ。未だ不穏な動きが有る、と聞いています」

 クシミカは出任せを口にした。スセリ妃も気付いている。眉を寄せ、クシミカを射抜くような視線を投げる。だが、肚の据わったクシミカは動揺した素振りを一切見せない。

「具体的には?」

 追及を止めないスセリ妃に、「詳しくは聞いておりません」と恍ける。

「具体的な状況も分からぬまま、出雲兵を余所に割く事は出来ません。引き揚げさせなさい」

「出来ません」

 険しい目付きで睨み合う2人の間で火花が散る。

「そう、そう。イスズ妃が、浪速なにわ人の兵士を親衛隊として育成したい、と申しておりました。

 彼らを教練する為にも、出雲兵を撤退させるわけには行かんでしょう?」

 クシミカは膠着状態から抜け出す為のからめ手を提示し、緊張状態をほぐそうとした。だが、スセリ妃はクシミカを逃がさなかった。

「月の満ち欠けを何回まで数えれば、親衛隊を育てられるのです?」

「さあ、兵士ではない私には分かり兼ねますが・・・・・・」

「親衛隊が育てば、出雲兵を引き揚げるのですね?」

「そう言う事になるでしょうなあ・・・・・・」

「それでは、教練の状況を私に逐一報告しなさい」

「分かりました」

 問題先送りに成功したクシミカは恭しく頭を下げて、スセリ妃の屋敷から退去した。クシミカが教練の状況報告をしなかった事は言うまでもない。


 一月ひとつき余りが過ぎ、田植えの終わる頃。

 踏鞴たたら製鉄の製造現場で働く1人の男がスセリ妃に密告してきた。

「冬の間に苦労して作り貯めた鉄鍋を、クシミカ殿は無料ただで奈良集落に分け与えています」

「本当なの?」

「はい。確かです」

「証拠は?」

「踏鞴工房の誰もが山ほどの鉄鍋を作った事を知っています。

 鉄鍋が奈良集落に出荷された事は、交易しているかつしゅうに聞けば明らかです」

「でも、無料だと言う事は? 対価を受け取っていない事は?」

「スセリ妃。出雲集落の高床式倉庫を御覧ください。籾米が増えていますか?」

「言う通りね。増えていないわ」

 スセリ妃は密告をネタにクシミカを問い質した。

「またも、私を疑っているのですか?」

 クシミカは聞こえよがしに溜息を吐き、肩を落とした。スセリ妃は怯まず、仕草だけで追及を躱そうとするクシミカに「違うのですか?」と追い打ちを掛けた。緊迫した無言の時間が2人の間に流れる。

 観念したと言う風に肩を竦めたクシミカは、

「対価の籾米は瀬戸内の稲場に預けています。出雲まで持ち帰っても徒労ですから」

 と、何でもない事のように飄々と説明した。

「何処の稲場?」

「淡路の稲場ですよ。疑うなら、人を遣って、確認なされば良い」

 クシミカは最後の語気を強めて言い切った。自信満々の風でもあり、虚勢を張っている風でもある。クシミカの淀みなく話す口調に、スセリ妃は気勢を削がれてしまう。

「分かりました。瀬戸内の海運は日向人の領域。邪馬台城のとまびとに頼んで、確認してもらいます」

 背筋を伸ばし、宣告めいた言い方をするスセリ妃だったが、声に潜む動揺の気配に気付いたクシミカには、スセリ妃の虚勢が明らかだった。

「出雲集落の者はなく、邪馬台城の者に確認させるのですか?」

 意地悪にも、クシミカは攻める手を緩めない。

「そうです。出雲集落以外の者であれば、客観的に真偽を確認してくれるでしょう」

 スセリ妃は威厳を保とうと必死だったが、クシミカは内心でよこしまな笑みを浮かべていた。


 邪馬台城の駐在員が淡路の稲場に向かった日の晩。

 クシミカが1人の男を伴ってスセリ妃の屋敷を訪問した。山師風情の恰好をした男は、手に麻袋を握っている。月光を背に戸口に立つ2人の人相は判別できず、黒い影だけが不気味に並んでいる。

「誰?」

 屋敷を警護する歩哨が誰何すいかの声を上げなかったので、訪問者が顔見知りだとは分かっているが、スセリ妃は不審を募らせて問い質した。

 両手を後ろ手に組んだ男が前に進み出る。行灯の灯りがクシミカの顔を照らし出した。

「何の用です? こんな遅い時間に」

 クシミカはスセリ妃の問い掛けを無視し、無言のまま、草鞋も脱がずに土間から板敷の居間へと踏み上がった。

「何です! 無礼な」

 囲炉裏の脇で寛いでいたスセリ妃は腰を浮かし、動揺した声でクシミカを咎めた。猶もクシミカは歩みを進める。

 スセリ妃の眼前に屹立すると、口の両端をニヤリと広げ、薄い唇を一度だけ舐め回した。スセリ妃は両手を後ろに突いて、尻一つだけ後退あとずさった。スセリ妃の表情が引き攣り、双眸に怯えが走る。

 クシミカは、恐怖に慄くスセリ妃の姿を暫く眺めていたが、満足気にフンと鼻息を鳴らすと、スセリ妃に覆い被さった。

「キャア~! 何、何をするのです! 衛兵っ! 衛兵っ! 誰か助けて!」

 スセリ妃はクシミカの下で足掻き、必死に抵抗した。小袖の衿と衽が左右に開(はだ)け、乳房と太腿が露わとなる。手首をクシミカに抑えられ、両腕は床板に押し付けられている。

「誰も来やしないよ。お前さんが邪馬台城の泊り人を追い遣ってくれたからな」

 クシミカはスセリ妃の唇を吸おうと顔を寄せる。スセリ妃は口を真一文字に結び、頑として抵抗する。接吻を諦めたクシミカは、嘲笑の混じった鼻息をフンと吐くと、スセリ妃の頬を舐め、耳を舐め、首筋を舐め回した。

「最後に、本当はお前さんを犯して遣りたいんだがな。証拠が残ると拙いから・・・・・・」

 クシミカはスセリ妃に重ねた身体を下に這わせ、今度は乳房を口に含み始めた。いつもは自分の唇を舐め回す舌が、蛇の様に彼女の乳首をチロチロと弄ぶ。

 スセリ妃は顔を背けた。薄紫の小さな花をたわわに咲かせた藤の小枝が、視野の片隅に映る。昼間に賄婦が「綺麗でしょ」と言いながら、竹筒に差した生花だった。稲穂の様に頭を垂れた藤の花は、悪夢から逃れる道程を照らす幻想的な灯篭(とうろう)の様に思えた。イスズ妃は薄紫の塊に神経を集中させ続けた。

「馬鹿な女だ。素直に俺の女になっていれば・・・・・・」

 スセリ妃の上半身の隅々で舌触りを散々楽しんだ挙句、もう一度、彼女の顔の前まで自分の顔を戻した。恐怖と嫌悪の眼差しで睨み付けるスセリ妃を、クシミカは蔑みの眼差しで見返す。

「根の国に旅立つ前に、お前も楽しめば良いのに・・・・・・」

 歯が見える程にニッタリと口を広げ、満面に卑猥な笑みを浮かべた。そして、戸口で強姦劇を傍観していた男に「遣れ!」と命じる。

 男が近付き、スセリ妃の右足首を掴む。

「痛!」

 スセリ妃を針で刺されたような激痛が襲った。忌避すべき異物が身体に入り込んだ感覚。

 ドク・・・・・・、ドク・・・・・・、ドクッ・・・・・・、ドクッ。

 心臓の鼓動が強くなる。邪悪な異物が全身を駆け巡る感触に鳥肌が立つ。息苦しさに顎が上がり、上半身がる。

 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドッ、ドッ、ドッ。

 強くなった鼓動は次第に速くなる。速くなると同時に弱くなる。

 スセリ妃は、自分の身体を押し潰そうと被さるクシミカとは別に、禍々しい黒い影が足元から這い上がってくる幻覚に襲われた。彼女の体表には血管が赤く浮き上がり始めた。

 浮き上がった血管を新たな対象と定め、クシミカの舌は赤い線条を辿る事に余念が無い。

 全身の毛細血管が自分の存在を誇示しようと浮き上がり、スセリ妃の裸体は、まるで赤い投網に絡め捕らわれた風になる。

 ハッ、ハッ、ハッ、ハッ。

 必死に空気を取り込もうとスセリ妃の呼吸が荒くなり、次第に弱々しくなった。

 両目の目尻には涙が浮かび、筋となって左右の耳に流れる。瞠目した両目の中で、瞳孔が開き、光を失った。

 スセリ妃の絶命を確認すると、ようやくクシミカは立ち上がった。背後を振り返り、山師に新たな命令を伝える。

「毒蛇は屋敷の奥に投げ捨てておけ。明朝、誰かが毒蛇を発見しないと、謀殺が完成しないからな」


 数週間後、淡路島から戻った駐在員は、スセリ妃の死を知らされる。

「就寝中、屋敷に迷い込んだ毒蛇に噛まれたらしい」

 クシミカに告げられると、駐在員も頷くしかない。既にスセリ妃の死骸は荼毘に付されており、真偽を確かめるすべは無かった。少なくとも、出雲集落の人々はクシミカの言う事を信じている。

 駐在員は邪馬台城に戻った。

 邪馬台城と日向・出雲連合は倭国大乱を治めるに当たり、スセリ妃とナムジの政略結婚を講和条件の一つとした。スセリ妃が亡くなった今、その遂行状況を確認する必要が失せたからである。

 オモイカネは、自身の出雲訪問から2カ月しか経たないタイミングで、スセリ妃の訃報を駐在員から聞かされる事になった。

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