第7話 母の故郷

 44歳のオモイカネ様は、現人神あらひとがみとなる前にはコトシロと名乗り、俺にとっては大叔父に当たる。

 出雲集落長だったナムジが瀬戸内を放浪中、何処かの村落の娘を孕ませた隠し子がコトシロだ。幼少の頃に引き取られたコトシロには、瀬戸内の故郷に関する記憶が無く、出雲集落を故郷と認識している。

 出雲集落でナムジの補佐をした後、24歳の時に邪馬台城に移り、オモイカネとなった。爾来じらい20年、中国や韓半島を相手に外交を繰り広げ、九州の治世にも心を砕き続けている。俺との年齢差は16歳に過ぎないのだが、技量や見識、経験は俺を遥かに凌ぐ。眩いばかりの人生の大先輩だった。

 オモイカネ様は俺を連れ回し、邪馬台城の至る処を見聞させた。

 案内された工房の一つでは須恵器を製造していた。住居棟と同じく煉瓦積みの壁に杉板の屋根を渡している。但し、壁の高さは住居棟よりも高く、上部には換気用窓が幾つも開いている。建屋の中央には巨大な登り窯が鎮座していた。

 登り窯の中では木炭が高温の炎を上げ、窯の表面付近の空気を揺るがしている。窯の周りの作業場では、焼成前の陶器を並べた板材を抱えて何人もの陶器師ときしが忙しなく働いていた。台座付きの皿、高坏たかつきを製造する予定らしかった。

「オモイカネ様。この工房の中は凄い活気ですね。それにしても暑いですね。まるで夏みたいだ」

 陶器師達は皆、首に麻布を巻き、休憩所には水差しと塩を盛った皿が置かれていた。陶器を窯に入れるまでは余裕が無いらしく、休憩所には誰も居ない。

「此処では粘土をねていないみたいですね」

「ああ。別の工房で捏ねている。後で、そっちの工房も覗いてみよう」

「オモイカネ様。奈良集落でも陶器を作れるようになるでしょうか?」

「ああ。蜻蛉とんぼ返りしたクズヒが何人か陶器師を連れて行ったから、大丈夫だろう」

 案内された別の工房は鍛冶加工の現場だった。小さ目の窯が幾つも並び、一つの窯に何人かの割合で鍛冶職人が陣取っている。灼熱した鉄の小片を窯から取り出し、金台の上に置いて金槌で叩いている。

「オモイカネ様。鉄の素材を摘まんでいる道具は何ですか? あんな道具は見た事が有りません」

 俺は、左右の人差指をクロスさせ、支点を固定して指先を閉じたり開いたりした。

「あれは鉄鋏てつばさみだ。あの通り、丸く曲げた部分に人差指と親指を入れ、開いたりせばめたりすると、反対側で鉄餅てっぺいを掴めるんだな」

「鉄餅?」

「ああ。平餅みたいな形だろう? だから鉄餅と呼んでいる。

 鉄餅は、籾米との物々交換で韓半島から仕入れているんだよ」

「へえ。韓半島から持って来るんですね。私は鉄が赤くなるなんて、知りませんでした」

「窯で焼いて赤くすると、ああ遣って金槌で変形できるようになるんだ。冷たく黒いままの状態では変形しないんだよ」

「不思議ですね。私にとって、邪馬台城は魔法の巣窟みたいです」

「ハハハっ。魔法の巣窟か。初めて目にする技術は魔法にしか見えないだろうな。

 あの鉄鋏だって韓半島で使われている道具だ。鉄箸だと重い鉄餅を巧く掴めないんだな。取り落としてしまう。

 どうやら、韓半島や中国大陸には未だ未だ、俺でさえ知らない技術が幾つも転がっているみたいなんだ。世界を見聞して回り、広い視野で考えないと駄目なんだって、邪馬台城に来てから痛感したよ」

 別の工房には窯が無く、外気と同じ肌寒い環境の中で何人もの職人が働いていた。建屋の広い床一面にむしろが並べられ、莚一枚に1人の職人が座り、一心不乱に石を金槌で叩いて粉にしている。砂粒みたいに小さく砕いた粉を一抱えもある大きな甕に容れて、一連の作業が完了するらしい。

「彼らは何を遣っているのですか?」

「田川集落の近くに広がる白き岩々の山で採掘した鉱石を粉にしているんだよ」

「白き岩々の山?」

「ああ。不思議な岩を採掘する山の事さ。

 さっき見聞した籾米倉庫の床下には、此処で潰した粉を撒き散らしている。そうする事で、籾米を乾燥したままで保存しているんだな」

 オモイカネ様の説明した粉は、乾燥剤とする生石灰きせっかいの事だ。

「この粉を窯で焼いた後、水を掛けておくとな、別の種類の粉に変化する。壁や屋根を上塗りする為の粉になるんだよ」

 オモイカネ様の説明した粉は、生石灰を焼成して作る消石灰、つまり漆喰の材料の事だった。

「他にもな、採掘した段階で既に性質の違う鉱石もある。出雲集落では鋳型を作る材料として重宝しているようだなあ」

 オモイカネ様の説明した粉は、石膏の事だった。

「邪馬台城の秘伝中の秘伝。それは固めかためこだ。水と砂と固め粉を捏ねて乾燥させるとな、煉瓦の様に硬くなる。煉瓦よりも硬いかな。しかも、自由自在に好きな形に固められる。

 この建屋だってな。煉瓦と煉瓦を積み合わせる際、水で溶いた固め粉を塗り込んでいるんだぞ」

 オモイカネ様の説明した粉は、セメントの事だった。

「但し、固め粉は、邪馬台城で製造する粉を何種類も混ぜ合わせるんだが、その比率は卑弥呼様と俺しか知らぬ。ミカヅチ様でさえ知らぬ極秘情報だ」

「大叔父は凄い方なんですね」

 俺はコトシロを益々尊敬するようになった。

「でも、この工房の作業自体は単調ですね。職人達は飽きないんでしょうか?」

「単純作業に飽きるかもしれんな。だが、彼らは奴婢ぬひだから」

「奴婢? 全く気付きませんでした」

「同じ人間だからな。彼らの額を見てみろ。俺達、邪馬台城の庶民と何か違うだろう?」

 俺は目を凝らしたが、庶民と奴婢の相違点は分からなかった。

「着古した粗末な貫頭衣を着ている点ですか?」

「彼らの額にはしるしが無いだろう? 俺達の額には黒い徴が着いているだろう? 卑弥呼様に仕える侍女の額には赤い徴が着いている。これが邪馬台城の庶民である事のあかしなんだよ」

「母さんも、邪馬台城に住んでいた時には、額に赤い徴を着けていたんでしょうか?」

「着けていたよ。日向集落に向かって出立する朝。額の赤い徴を自ら拭っていたよ。

 お前の母上は、当時の侍女達の中で、最も容姿端麗な女性だったんだぞ」

 俺は、オモイカネ様の述懐を耳にして、遥か遠くの天香久宮あまのかぐのみやで暮らす母アイラの面影を思い浮かべた。


 一通りの城内見聞を終えた或る日。卑弥呼様とオモイカネ様を前にして、俺は宮殿大広間に座っていた。オモイカネ様と同じ様に、卑弥呼様から下賜された絹地の直垂を着用している。卑弥呼様は藍染あいぞめした小袖を着用していた。

 ミカヅチ様は同席していない。狗奴くぬ集落に居座る斯蘆しろ人兵士達が小競り合いを仕掛けてきたとかで、城外に出動していたのだ。

「出雲集落から出向中の兵士を戻して欲しいと要請された背景には、その様な状況が有ったのだな」

「イワレ殿の訃報は耳にしていましたが、焦臭きなくさいですね」

「卑弥呼様のおっしゃる通りですな。出雲集落の動きが如何いかにもいぶかしい」

 俺はイスズ妃が出雲兵を橿原宮かしはらのみやに駐屯させ始めた顛末を報告したのだ。

 奈良村落に駐在するクズヒとの連絡員が既に、父イワレの訃報を邪馬台城に報せていた。「殺された模様」との報告を聞いた卑弥呼様は、最後に「物騒ですね。新たな騒乱の元とならねば良いのですが」と口にしていた。卑弥呼様の言葉に、オモイカネ様とミカヅチ様も首肯する。

 イスズ妃が自分の身を案じて出雲集落に支援を求めるまでは理解できる。百歩譲って、出雲兵の派遣まで理解を進めたにしても、派兵する兵士の数が多過ぎる。

「タギシミミが出立した時には既に100名前後の出雲兵が駐屯していたのだな?」

「はい。更には、浪速なにわ集落からも兵を募るつもりだと、叔父ミケヌが申しておりました」

「先に戻した出雲兵は、ちゃんと出雲集落に帰ったのでしょうか? よもや、奈良集落に行ったのではないでしょうか?」

 心配そうな顔をした卑弥呼様がオモイカネ様に質問する。オモイカネ様は「分かりません」と首を横に振るばかりである。

いずれにせよ。奈良集落にはクズヒ以外の者も追加で駐在させるようにしましょう。どうやら連絡を密に取った方が良さそうです」

「その様ですね。クズヒと言えば、イナヒ殿やミケヌ殿は、陶器師の他に、鉄器の供給も求めているのでしょう?」

「そうです。タギシミミよ。奈良集落はの様な鉄器を欲しているのだ?」

「牛に牽かせるすきの歯は既に十分です。庶民の次なる要望品は鉄鍋ですね」

「鉄鍋かあ。鉄鍋も犂歯すきばも出雲集落の鋳造製法の特産品だ。邪馬台城の鍛冶職人も苦手としている。九州各地の集落も出雲集落から仕入れているのが実態だ。

 農具は如何どうだ? くわすきかまなどは?」

「勿論、要望は強いでしょう。余剰の籾米で出雲集落から仕入れる鉄器の数は限られますから。取れ高を増やす効果が最も大きな犂歯を優先して調達しているだけです」

「話を聞いていると、奈良集落には余剰の籾米を貯蔵していないように聞こえるが?」

「大して貯蔵していませんよ。翌年の稲刈りまで食いつなぐ為に必要な量だけです。余剰の籾米は出雲集落との交易で使い切っていますね」

「何と! 出雲集落の良い様にされているのではないか?」

「さあ。でも、昔と比べて日々の暮らしは豊かになっていますから、庶民も不満は抱いていないと思いますけど・・・・・・」

「工具の要望は如何どうか? なたおのちょうな金槌かなづち槍鉋やりがんなくさび、ノミ、小刀など・・・・・・」

「有れば重宝すると思います。でも・・・・・・、木造の建屋が少ないですから。相変わらず、庶民は茅葺屋根だけの家に住んでいるんです」

 奈良集落の人々はもっぱら竪穴式住居で生活している。木造建築物で生活する者は村落長と一族に限られた。

「山々に囲まれた奈良集落では、船も入用いりようではないだろうな」

「そうですね。浪速集落との物々交換を通じて魚介類は手に入りますから。まあ、滅多に食べませんが・・・・・・」

「魚介類を食べないなら、鹿や猪を山で獲っているのか?」

 俺は、オモイカネ様の質問に、首を振って否定の答えを返した。

「春から秋までは田圃の農作業で忙しいですし、冬は、平地ならば滅多に雪も降りませんが、山間部には雪が残りますからね。肉を食べるのも中々・・・・・・」

「タギシミミの話を聞いていると、奈良集落の庶民は慎ましい暮らしをしているようですね」

 俺の話に同情した卑弥呼様が嘆息する。

「周辺の集落も同様に貧しいのか?」

「そうですね。河内集落や和泉集落は、田圃が有っても、在来馬の数が少ないので、未だ未だ取れ高が少ないんです」

「確か奈良村落ではイワレ殿が在来馬の畜産に励んでいただろう?」

「はい。だから、奈良集落には在来馬が行き渡り、籾米の取れ高が豊かになりました。でも、他の集落まで貸し付けるには、頭数が不足しています」

「奈良集落には、鉄器よりも寧ろ、在来馬を提供した方が喜ばれるかもしれんなあ。

 他にも集落は有るんだろう? その河内とか和泉とか言う集落の他にも?」

「はい。浪速集落と和歌山集落ですね。どちらも田圃は殆ど無く、漁業で生計を立てていますね」

「魚介類の取れ高は豊富なのか?」

 俺は「大した道具が有りませんから」と答え、寂しげな表情で首を振った。

「だが、神武東征の折に使った軍船は、何処ぞの集落に下賜したのだろう?」

「はい。和歌山集落に分け与えました」

 オモイカネ様の指摘する“軍船”とは、父イワレ達が乗船していたジャンク船の事である。双胴船は瀬戸内各地を結ぶ内航船に転用したが、80隻のジャンク船は和歌山集落の漁民達に与えた。

 神武東征軍が和歌山集落に再上陸した際、紀の川下流域を支配していた女豪族ナグサとの戦闘が避けられなかった。

 浪速集落との戦闘に懲りた父イワレは軍馬と共に上陸を果たした上で、騎馬戦を仕掛けたので圧倒的な勝利を治めたが、和歌山集落の間に漂う反発を宥める為に、ジャンク船を分け与えたのだ。

 丸太船に比べて大きいジャンク船には多人数の漁師が乗り込める。しかも80隻ともなれば、大船団である。くじらの追い込み漁も行う程に、一時期は漁業が栄えた。

「でも、神武東征から15年以上も経っていますからね。

 時化しけに遭って難破したり、そうでなくても老朽化して水漏れしたりと、稼動している漁船は減っているようです。和歌山集落には造船できる職人が居ませんから」

「そうか。1隻の船を造るには時間が掛かるから、直ぐに提供するわけには行かんが、要望は有りそうだな。

 ところで、和歌山集落に恩を売ったとして、奈良集落の足しになるのだろうか?」

「そうですねえ。単なる施しにしかならない気もします。

 やはり、奈良集落としては、浪速・河内・和泉の各集落との結び付きを深める方が良いように思います。瀬戸内に抜ける接点を作り易いですから」

「だからイスズ妃は、浪速集落を取り込もうと、新兵を募っているのかもな・・・・・・」

 俺とオモイカネ様の話を横で聞いていた卑弥呼様が、「スセリ妃も承知なのかしら」と、心配そうに呟く。

「私が一度、出雲集落のスセリ妃を訪ねて参りましょう。

 私も落ち着かないのです。スセリ妃の人柄と出雲集落の不穏な動きとが、どうも1本の筋で結びつかないのです」

 卑弥呼様は「お願いします」と、オモイカネ様に頭を下げた。

 目の前に座る卑弥呼様は33歳。13歳で卑弥呼の座に就いて以来、もう20年もの経験を積んだ統治者なのに、今でも44歳のオモイカネ様を心強い存在として慕っているのだと、俺は卑弥呼様の仕草から直観した。

 責任有る地位に就いた事の無い俺には、卑弥呼様の心労を想像すら出来なかったが、大叔父を頼りにする気持ちは十分に理解できた。


 タギシミミが邪馬台城で文武両面の鍛錬を積んでいる頃。正確には、住居棟での一時ひとときを楽しんでいた時刻。

 奈良集落では、イナヒが夜陰に紛れ、隠密裏に纏向まきむく村落長オトシキ宅を訪ねていた。オトシキの娘ツクミとミケヌの婚儀を相談する為である。

 陽が沈めば奈良盆地の気温がグッと下がり、底冷えに驚いた身体が時折ブルリと身震いする。

 イナヒはミケヌを伴い、阿吽の呼吸で来訪の意図を察したオトシキは、屋敷の奥から応接間に娘ツクミを呼び寄せた。

「イナヒ様。突然の心変わりですが、どうかしたのですか?」

 皇族間で仲違いが生じつつあるのは、奈良集落の誰もが知る処であった。勘の良い者でなくとも、イスズ妃に対抗しようと考えたイナヒが、仲間として自分を引き入れたがっている事は、火を見るよりも明らかだった。

 当時としては老齢の域である40歳半ばのオトシキの頭は、白髪が全体を覆い、黒髪が疎らに残るだけである。深い皺で歪み、大きなシミが幾つも浮いている顔の皮膚は、不釣合いな程に脂ぎっている。

 神官として根の国に旅立つ心の準備をしていても良さそうなものだが、俗世への未練を断ち切れない様子が厚い唇の動きと突いて出る台詞せりふに滲み、細い目の奥には暗い翳を宿している。

 老いたる身体ではあっても、足腰は矍鑠かくしゃくとしており、息子に跡目を継がせるつもりは未だ無いようであった。

 ミケヌを伴ったイナヒを迎える際にも、息子を同席させず、代わりに婚儀の当事者たるツクミだけを同席させている。

「オトシキ殿。其処に座るツクミ姫の縁談を長らく辞退して参りましたが、婚儀に反対していた長兄イワレも今は亡き人となりました。

 兼ね兼ね、お美しいツクミ姫を我が一族に迎えるのは光栄な事だと、私自身は考えておったのです。

 生憎、私とのえにしは成就しませんでしたが、我が弟ミケヌは私以上に優れた男。ツクミ姫の夫となるのが相応しい男だと考えております」

「それは嬉しい申し出。

 私も耄碌もうろくしてきました。三輪山の神々に見守られ、根の国に旅立つ時期が迫っております。

 ところが、愛する娘ツクミの行く末だけが案じられ、心が休まらなかったのですが、私の悩みも解消しそうです」

「オトシキ殿に賛同頂けると、次兄として、私も肩の荷が降ります。ミケヌが奈良集落に来てから早4年が経ちますが、無為に過ごしていると、私の二の舞に成り兼ねませんからな」

 神妙な顔付きで無言を保つミケヌとツクミ姫を横目に、イナヒとオトシキの2人はワハハと大きな笑い声を上げた。一頻り笑い合った後、オトシキが悩ましい表情で腕組みする。

「しかし、イナヒ様にツクミを娶ってくれぬかとお頼み申した頃から何数もの月日が経っております。我が一族の事情も若干の変化が生じておるのが、少々悩ましい処・・・・・・」

「何か支障が有りますか?」

「いえね。息子の出来がいささか期待外れだったものですから、ツクミを嫁に出す事には躊躇せざるを得ないのです。跡取りの目途が着くまで軽弾みな判断は出来かねるのですよ」

 オトシキの演技染みた条件闘争に、イナヒも負けず劣らず、演技染みた対応を返す。

「それは心配ご無用。ミケヌは皇位を継ぐ立場にはありません。婿養子に差し出しましょう」

 如何いかにも心配顔のオトシキを励ますと言う風に言い放ち、右手で片膝をパチンと打ち鳴らす。

――ミケヌを一族に取り込み、あわよくば皇族の仲間割れに介入して、有利なポジションを狙おうと言う魂胆なんだろう。それは覚悟の上だ。

――今はイスズ妃との権力闘争に勝ち残るのが先決。その為には、是非にも纏向村落の助太刀すけだちが必要だ。

 イナヒは密かな覚悟を胸に秘め、食えぬ男だ――と半ば呆れつつも、予想された反応に淡々と対処した。

――娘ツクミを嫁がせてしまえば、他の思惑には使えぬ。追々おいおい、イスズ妃の方も懐柔策を提示してくるだろう。漁夫の利を貪り尽くさねば・・・・・・。

――しかし、頭領イワレが死ねば、内紛を招くだろうとは予期していたものの、ここまで順調に動き始めるとは期待していなかった。さて、これから如何どう巧く立ち回るか・・・・・・?

 オトシキは細い目を垂れ目に曲げ、頭の中で弾く算盤勘定に余念が無かった。

 イナヒとオトシキの腹の探り合いを余所に、ミケヌはツクミ姫の姿を眺めていた。

――醜女しこめでは? と疑って申し訳なかった。兄さんの言う通り、多少の田舎臭さは漂うが、邪馬台城の侍女にも勝る眉目秀麗な美女だ。

 ツクミ姫は24歳の処女。百戦錬磨のミケヌは27歳。程良い感じの年齢の吊り合いだった。

 ツクミ姫は19歳で還俗するまで三輪山の巫女を務め、巫女を引退した今は補佐役を務めている。嫁いでおらぬ今は清い身体を維持しているので、三輪山の祭場に出入りする事が可能だった。

 目の前に正座するツクミ姫は、白い絹地の半襦袢じゅばん指貫袴さしぬきばかまを着用している。代々の巫女が着る装束だった。長く伸ばした黒髪を一つの束ね、背中に垂らしている。両の掌を太腿に載せ、ピンと背筋を伸ばした姿勢が凛々しい雰囲気を放っている。

 少し浅黒い肌の瓜実顔うりざねがおには細い眉毛がスっと横に伸び、黒目勝ちの大きな両目が意思の強さを匂わせている。整った鼻筋が小高く通り、その下には父親譲りの厚い唇がキリリと結ばれている。

 肌寒い夜にもかかわらず半纏はんてんを重ね着していない処から判断するに、半襦袢じゅばんの下にはさらしを巻いて防寒の一助としているのだろう。それでも胸の膨らみを感じさせる身体の線が服地に現れている。

 ツクミ姫と視線が絡んだ瞬間を狙い、ミケヌは口元に笑みを浮かべた。ミケヌの微笑みに気付いたツクミ姫は頬を赤らめ、恥ずかしげに視線を逸らす。

 見合いの初日は会話を交わす事も無く、ミケヌとツクミ姫は別れた。イナヒとオトシキが同席する場で話が盛り上がるはずが無い。

 だが、翌日には早速、ミケヌはツクミ姫を外に誘い出した。初めての遠出では、橿原宮とは反対の宇陀集落の方角に足を延ばした。出雲兵達の目を気にした部分もあった。

 軍馬から単座の鞍を外し、裸の背に二人して跨った。ツクミ姫を前に座らせ、ミケヌはツクミ姫を背中からかかえるように両手を前に回し、手綱を握った。乗馬の経験が無かったツクミ姫は馬上で身体を強張こわばらせた。背後からは確認できなかったが、顔をらせていたはずだ。

 ミケヌは口元をツクミ姫の左耳に近付け「大丈夫だよ」と囁き、手綱を握る両脇を引き締めて彼女の身体を強く抱き包んだ。男と肌を合わせた事の無い女ならば警戒してしかるべき体勢だったが、恐怖にすくんでしまったツクミ姫に心の余裕は無かった。

 ミケヌは常歩なみあしで軍馬を進め、三輪山と竜門山地の山間に開かれた細道を通過した。ツクミ姫が乗馬の揺れに慣れてきたのを見図り、宇陀盆地に足を踏み入れる頃には速歩はやあしまで軍馬の駆け足を速めた。2人の腰が少しだけ強く上下に揺れる。

 ツクミ姫の着用している指貫袴さしぬきばかまは、裾に通した紐を軽く縛って足首を窄めたデザインをしている。巫女として踊る最中に足元を邪魔しない機能性重視のデザインなのだが、乗馬に際しても打って付けのデザインだと言えた。

 乗馬での遠出を何度かこなした後、「海が見たい」と言うツクミ姫の求めに応じ、遠く和歌山までも出向いたりもした。初瀬村落から竜門山地を南に抜け、紀の川沿いを只管ひたすらに西進した。

 ミケヌは軍馬の尻に鞭を入れ、駈歩かけあしまで速度を上げた。2人の腰は激しく上下し、上半身は前後に大きく揺れた。ツクミ姫が振り落とされないように、ミケヌは左腕で彼女の腰をきつく抱き、ツクミ姫はミケヌの着る直垂ひたたれの袖を握り締めた。

 紀伊水道の海岸に到着すると、馬上から大きな海原を眺めながら、ミケヌはツクミ姫を両手で抱き締め、そのまま右手を半襦袢の裾の下に忍ばせた。ツクミ姫はミケヌの不埒な動きにあらがわず、左の乳房を弄ばれるがままに任せた。ミケヌの唇がツクミ姫のうなじを這い、左手が指貫袴の腰紐を緩めた。

 ツクミ姫は目を閉じ、速まる動悸を鎮めようと、軽い喘ぎ声と共に息抜きした。残念な事に、経験豊富なミケヌの手練手管を前にしては、その喘ぎ声は身体を火照らす手助けにしかならなかった。


 オモイカネが出雲集落のスセリ妃を訪問したのは、翌年4月の事だった。

 冬の間、田川集落を流れる遠賀おんが川河口から響灘ひびきなだを通って出雲集落に至る海路は、日本海が荒波に覆われる為、航行不能だった。

 玖珠くす、九重、由布と山道を通って別府集落に抜け、穏やかな瀬戸内海を伊予灘いよなだ経由で尾道まで航海し、其処から中国山地を縦断して北上するルートも、中国山地に降り積もった雪が封鎖している。

 つまり、冬季に隔絶されてしまうと言う決定的な欠点が出雲集落には有った。出雲集落は、山陰地方の中でも降雪量の少ない地域であり、集落内での経済活動が滞る事は無かったが、他地域との交易は中断せざるを得なかった。

 久しぶりの賓客をスセリ妃は屋敷で出迎えた。稲佐の浜に上陸したオモイカネは、出雲集落中心部まで小一時間の道程を歩いて来たのだ。突然の訪問にスセリ妃は驚き、そして両手を広げてオモイカネを抱き締めると、旧知の者との再会を喜んだ。

「コトシロ殿。あっ、いいえ、オモイカネ殿。もう何年になりますか?」

「父上の墓前を訪ねて以来ですから、彼是かれこれ20年近くになりますね」

「お互い、歳を取るはずですね。私が39歳。貴方は確か・・・・・・?」

「田植えの時期を迎えましたから、45歳です。出雲集落を訪れるのも、これが最後かもしれません」

「私達とは違い、この屋敷は変わっていないでしょう?」

「はい。此処に住んでいた頃を想い出すと、本当に懐かしいです」

 現在スセリ妃の起居する屋敷には、かつてオモイカネが養父ナムジと養母ヤガミ妃と一緒に暮らしていた。邪馬台国と日向集落の終戦交渉を終えたナムジに連れられて、スセリ妃は出雲集落に入り、この屋敷の新たな住人となった。

 郷愁の念に駆られたオモイカネは床板を手で撫で、顔を上げて茅葺屋根の天井裏を眺めて、昔日の想い出に浸っていた。スセリ姫は慈愛の微笑みを口元に浮かべ、オモイカネの仕草を無言で見守っていた。

「もう、父上の墓参りは済ませましたか?」

「いいえ。稲佐の浜から真っ直ぐに参りました。どうせ、暫く逗留するつもりです。父上の墓参りは、暇を見付けてからで十分でしょう」

「お母様の墓も出雲集落に在ると良かったのですけれど・・・・・・」

「仕方有りませんよ。母上の墓には、キマタとヌナカワ妃の夫婦が花を供えてくれているでしょう。

 そう言えば、ミナカタは如何どうしているんだろう? 立派に成人したんだろうなあ・・・・・・」

 邪馬台城で卑弥呼に仕えている時には想い出さないが、流石さすがに故郷を再訪すると、縁遠くなった家族に想いを馳せずには居られなかった。

「もう一度、会いたいでしょうね・・・・・・」

「それも仕方有りませんよ。私は現人神となった身ですから。

 スセリ妃の方こそ。寂しくはないですか? 出雲人は良くしてくれているのですか?」

「幸いな事に、ね。皆、私の政事まつりごとに従ってくれています」

「それは良かった。卑弥呼様もスセリ妃の事を案じておられましたよ。アイラ姫の事があるものですから」

 オモイカネの最後の台詞に眉を寄せ、怪訝な表情で「どう言う事?」とスセリ妃が問うた。

 オモイカネはアイラ姫の置かれた境遇を淡々と語って聞かせた。

 オモイカネの話の途中でスセリ妃は涙を流し始め、語り終えた時には「知らなかった・・・・・・」と項垂うなだれてしまった。

「私は、てっきりイスズ妃が第二婦人に納まっているのだと思っていました。

 それが、どうして。アイラ姫が第二婦人に押し遣られているなんて。そんな馬鹿な事って有るかしら?」

 邪馬台城と奈良集落、邪馬台城と出雲集落の間では駐在員が交代で往来しており、邪馬台城には各地の情報が集まる。ところが、奈良集落と出雲集落との間には情報共有の連絡網が無い。

 正確には、イスズ妃と父親クシミカの2人は連絡を密にしているのだが、クシミカは自分に不都合な情報をスセリ妃には秘匿していた。

 スセリ妃は、自身で目配りの行き届く出雲集落については十分に状況を把握し、善しと判断する政事まつりごとを施せていたのだが、奈良集落については蚊帳の外に置かれていたのだった。

 スセリ妃はクシミカの背信に愕然とした。

 オモイカネも深刻な事態に押し黙ってしまった。前面の韓半島や中国大陸、後背の奴狗くぬ集落と対峙する事に精一杯で、出雲集落や奈良集落への警戒を怠る結果となってしまった事を悔やんだ。気を許した原因の一端には、クシミカの存在が有った。

 オモイカネはナムジの補佐役として出雲集落に暮らした当時、片腕としてナムジに仕えていたクシミカを、寧ろ頼もしい存在として見ていたのだ。それだけに人間の本性を見抜けなかった現実が余計に空恐ろしく、慎重に事を進めなければ――と、気を引き締めるのだった。

 出雲集落に滞在中、オモイカネはスセリ妃の屋敷に逗留した。昼間は出雲人の訪問を受けるが、夜には二人切りとなる。互いに持っている情報を交換し、善後策を話し合った。

 スセリ妃の屋敷に入り浸りでは、周囲からの疑念を招いてしまう。

 オモイカネは日昼、集落内の知己を訪ね歩いた。夕餉ゆうげに招待されれば、喜んで応じた。出雲人が客人を夕餉に招待する際、地酒を振る舞うのが通例であった。酔えば饒舌となるのが人の常。オモイカネは飲んだ振りをしつつ、出雲人達が酔って語る集落情報に耳を傾け続けた。

 勿論、クシミカの屋敷も同じ様に訪問した。オモイカネは「足腰の丈夫な内に故郷を見納めに来た」と恍けた表情で久方振りの来訪目的を説明し、旧交を温め直した。

 20年振りの里帰りにもかかわらず、すんなりとオモイカネが出雲人の輪の中に溶け込めたのには、理由が有った。田川集落から双胴船に積めるだけ、軽くて嵩張かさばらない竹細工を運び入れていた。ざる魚籠びく、大小様々なかご葛篭つづらを土産として大量に準備していたのだ。

 田川集落には職人気質の庶民が多く居住し、大工や建具職人、家具職人に加えて、竹細工職人も揃っていた。竹とは何処にでも生えている材料だが、竹を細く割き、4、5本の竹籤たけひごを三つ編みの要領で編んで丸いたがを作る技量に田川人の職人は優れていた。

 竹細工の優劣は周囲をかたどる箍の善し悪しで決まる。単純作業を厭わなければ、内容物を包み込む面の部分を編む作業は簡単だが、竹細工の形状を整え、耐久性を左右する箍を編む作業には技量を要する。

 残念ながら、箍を作れても、結桶ゆいおけと呼ぶ木製の桶は生産されていない。弥生時代には、現代の植木鋏うえきばさみに形状の似た槍鉋やりがんなしか存在せず、板面を真っ平に削り整える事は不可能だった。

 現代では見慣れた台鉋だいがんなが存在しない当時、円形につなぎ合わせる木片の接合面は微妙に波打ち、隙間からの水漏れが不可避だったのだ。

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