第5話 母アイラ

 世の移ろいから遊離した隠遁生活を送るアイラ姫を語るには、少しだけ時を巻き戻すべきであろう。

 田圃に植えられた早苗さなえはスクスクと伸びる。イネの葉が十分に伸びると、梅雨が始まる。五月雨さみだれが昼夜を問わずに降るようになった或る晩の出来事であった。

 寝床に臥せっていたアイラは、開け放たれた寝所の向こうに広がる暗闇をボンヤリと眺め、降り続く雨の音に耳を澄ましていた。瞼を開けてはいるが、寝所の直ぐ向うには森が迫っているので、視界は真っ暗である。

 聴覚だけを研ぎ澄ませていると、ザーザーと言う単調な音に、軒から滴が地面の水溜りに落ち、ポチャンと撥ねる音が定期的に加わる。いや、雨の滴が落ちる場所は幾つもあり、アイラの耳からの距離も違うので、大きさと間隔を違えた複数の撥ね音が複雑なリズムを加えていた。

 夫イワレが亡くなってからと言うもの、相変わらず憔悴し切っていたアイラだが、自然の奏でる音楽は疲れた精神を癒してくれそうで、耳に心地良さを感じていた。

 催眠術にはまったみたいに瞼が重くなり、アイラが眠りに陥り掛けた頃。外の暗闇に一瞬だけ、光が差したように視覚が錯覚した。

――雷かしら? でも・・・・・・、稲妻は聞こえないわね。見間違いかも・・・・・・。

 微睡まどろみ始めた両目が再び、一瞬だけ闇に浮かんだ森の木陰の姿を捉えた。

――何?

 眠気を覚まされたアイラは目を凝らして暗闇を見詰める。今度は、過敏になった聴覚がチャポリと鳴る水音を捉える。足で水溜りを踏む水音は次第に強くなる。森の木陰が浮かぶ回数も頻繁になり、鮮明度も強くなる。

――今頃、誰かしら? もしかして・・・・・・。2カ月余り、一度も来なかったのに。

 宵の訪問者の到来を確信すると、アイラは寝床の中で身体を強張こわばらせた。ゴソゴソと寝返りを打つと、背中を外に向けた。麻布の掛布団を肩まで引き上げ、裾を握り締めて横顔を隠し、寝た振りをする。

 チャパ・・・・・・、チャパ・・・・・・、チャパ。

 徐々に迫っていた水音が止む。アイラの背後で、ドサリと縁側に腰を下ろす音。続いて、わらを束ねたみのと被り笠をバサリ、バサリと縁側に置く音がした。

「寝ているのか? 起きているのだろう?」

 男は普段通りの声でアイラに呼び掛け、銅鐸どうたくの灯りをアイラの背中に向けた。横たわったアイラの影が板壁に浮かぶ。

 ギシリ。ギシリ。ギシリ。

 床板の軋む音が続く。アイラの返答を待たずに、男は寝所に上がり込み、隣の居間へと移動する。銅鐸の灯りで部屋を物色した後、見付けた行灯あんどんを灯した。無用となった銅鐸は囲炉裏に残し、二つの行灯を両手に持って寝所に戻って来た。

 一つは部屋の片隅に、もう一つはアイラの顔の前に置いた。行灯の灯りが照らすアイラの顔を、胡坐を掻いた男は無言で見下ろしている。

 アイラの瞼の裏では明滅が踊っていたが、元々が狸根入りなので、男を無視し続ける。

 男は長い溜息を吐くと、胡坐のまま、アイラの直ぐ近くまで擦り寄る。右手を麻布の下に差し込み、小袖のおくみの中に這わせ、5本の指を広げてアイラの左の乳房をまさぐった。

 ――まるでヤモリみたい・・・・・・。生温かいヤモリの手。・・・・・・私は、・・・・・・ヤモリに捕らわれた虫。

 嫌悪感を抱きながらも、アイラは強張こわばった肢体を硬直させたまま、目を閉じて耐えていた。

――今日、抱かれるのは、・・・・・・嫌!

 猶も無視し続けるアイラに、男は「起きているのだろう?」と同じ台詞せりふを呟くと、今度は左手も掛布団の下に差し入れる。替りに、右手をアイラの乳房から離した。

 そして、両手でアイラの両腕を掴むと、アイラの身体を乱暴に回転させ、仰向けにした。掛布団が乱れる。次に、アイラの腹の上に跨り、左右のえりもとを掴んで両開きに裏返し、小袖の絹地を肘まで引き下ろした。

 アイラの両腕は捕縛されたように固定され、胸全体が露わとなった。36歳の熟れた乳房が僅かに外側へと垂れる。アイラは目を閉じたまま、寝た振りを続けた。

 男は、アイラの太腿の位置まで尻を擦り下げると、腰を曲げてアイラの乳房に覆い被さった。ネットリと湿った舌がアイラの左の乳首を舐め回す。口に含まれ舌先で弄ばれた乳首が、固く背伸びする。その反応に満足した男は、右の乳首に顔を動かし、同じ様に攻め始めた。

 右手をアイラの股間まで這わせ、強い力で合わせられた太腿の間に指を強引に差し込み、指の腹で陰部を探し当てる。強く、弱く、また強く指の腹で押す。右に、左に、右にと指の腹を動かす。

 乾いた皮膚と変わらぬ手触りだった陰部が湿り始め、滑らかになった指先は激しく動くようになった。

「アイラ・・・・・・。起きているんだろう?」

 男は、アイラ本人に向けてではなく、右の乳房に向かって問うた。

「もう、義姉さんは、名実共に、俺の物だ・・・・・・」

 男は、愛おしくて堪らないと言う口調で呟くと、再び乳首を口に含んだ。

――初めて、私をアイラと呼んだわ・・・・・・。

 探り当てられた性感帯が反応し、身体が上気し始めていたが、不思議とアイラの頭は冷静さを保っていた。

「長かった・・・・・・」

 男の呟きが、葬送の儀を挟んで訪問できなかった今日までの日数を意味するのか、或いは、初めてアイラを抱いた日からの年月を意味するのか。アイラには判然としなかった。

 一心不乱にアイラの性感帯を攻め続ける男。快楽の誘惑に負けそうになるのを堪え、気を散らせようとアイラは瞼を開けた。

 寝所に天井は無く、茅葺の屋根裏が軒先から上り坂の様に斜面を作っている。隣の居間とは木戸で仕切られており、木戸の鴨居と屋根裏の間には杉板が差し込まれている。

 杉板と屋根裏で作られた三角形の空間の隅には蜘蛛が巣を張っていた。雨の夜にもかかわらず、行灯の灯りに誘われた蛾が蜘蛛の巣に捕らわれ、パタパタと羽を動かして無駄に足掻いていた。

――まるで私みたい・・・・・・。

 小刻みに震える蛾の羽に見入るアイラの意識は、いつしか過去の想い出の中に遊離し、頭の中では幾つもの光景が走馬灯の様に移ろい始めた。


 天香久宮あまのかぐのみやでの隠遁いんとん生活が始まったのは、夫イワレの言葉からだった。

「出雲集落が俺に、出雲の女を娶れ、と言って来た」

「もう私と結婚しているのに?」

 私は夫イワレの言葉に戸惑い、思わず尋ねてしまった。

「ああ。それが奈良集落を支援する条件なんだそうだ」

 そう答える夫イワレもまた、戸惑いの表情を浮かべている。私に申し訳ないと思っている雰囲気は感じるが、既に決めてしまった風でもあった。

「集落長代行のスセリ妃が決めたそうだ」

「スセリ妃が?」

 私は、第二の戸惑いの種を耳にして、鸚鵡おうむ返しに呟いた。

「奈良集落と出雲集落の間に政略結婚を実らせねば、安心して支援できないと言う事らしい」

 私は「政略結婚」の言葉を小声で口に出してみた。

 ――政略結婚と言われれば、イワレも断れないわね・・・・・・。私だって・・・・・・、日向集落と邪馬台城の講和条件の一つとしてイワレの妻となったんですもの。

 ――それに、私にとって、イスズ妃は侍女の先輩。先輩に指図には従う必要が有る・・・・・・。

 第二婦人との政略結婚に異を唱えてみても詮無い、と言う事は直ぐに理解できた。

 ――私が反発すれば、イワレは板挟みに遭って困ってしまうだろう。そんな気の毒な状況に夫を追い込みたくはないわ。・・・・・・悔しいけど。

 私は、第二婦人が出現する事態を受け入れ、不本意でも新たな生活に備えようと気持ちを切り替えた。

「それで、この橿原宮かしはらのみやで一緒に住むのですか?」

 決まり悪そうな表情を浮かべた夫イワレは、私の質問に即答しなかった。

「新たに宮を建て、アイラ姫を移せ。橿原宮は出雲の女の新居とせよ。そう言って来たんだ」

 気不味い沈黙の後で、言い難そうに吐き出す夫イワレの回答に、私は仰天した。

「第二婦人なんですよね? 出雲の方は」

 恐る恐る、私はかすれた声で確認した。

「いや、正妻だ」

 返って来た夫イワレの短い回答は、耳を覆いたくなる内容だった。自分の立場が崩れ落ちて行く恐怖を感じた。だから、「私は?」と聞かずには居られなかった。

 夫イワレは「妻だ」と短く答え、「今までと何ら変わらない」と付け加えた。

 でも、結果的には、夫イワレの答えは嘘となった。


 天香久宮の建設は急がれたが、流石さすがにイスズ妃が嫁いで来る日に完成する事は無かった。農作業に忙しい春から秋に掛けて、奈良集落の庶民を普請ふしんに割く余裕は限られる。

 だから、半年弱は橿原宮で同居する事になった。その間も、私とタギシミミは母屋での暮らしを許されず、義弟イナヒの住居する離れに身を寄せた。

 天香久宮が完成すると、イスズ妃に急き立てられるようにして転居した。冬の寒い時期だった。

 5歳のタギシミミが「叔父さんの家より大きいね」と感想を口に出し、新居の中を走り回っては歓声を上げていたのを思い出す。広い母屋から追われたと気付かぬ息子を不憫に感じたものだった。

 新居に移った当日、義弟イナヒも同行し、私達と夕餉を共にした。私は、私達母子を居候いそうろうとして受け入れた流れで、最後の別れを惜しむ為に長居をしているのだろうと考えていた。

 でも・・・・・・、事実は違った。

 遊び疲れたタギシミミを寝かし付けると、私は居間に戻った。

 日向集落から連れて来た弁韓べんかん人夫婦がまかないの一切を世話してくれる。老夫婦も既に就寝していたが、気を利かせて白湯の入った鉄鍋を囲炉裏に架けていてくれた。

 私は木椀に白湯を注ぎ、義弟イナヒに手渡そうとした。ところが、差し出された義弟イナヒの手は、私の手を乱暴に振り払った。木椀が囲炉裏の灰に転がり、白湯の掛かった木炭がジュウっと音を立てる。

 予想外の行動に驚いて動きを止めた私の腕を取り、そのまま覆い被さるようにして、義弟イナヒは私を床板に押し倒した。

 ヒイっと小さな悲鳴を上げる私の唇に自分の唇を重ね、助けを求める手段を封印する義弟イナヒ。差し込まれた舌が私の口の中でうごめき、溢れた唾が私の顎を濡らした。

 私は必死で義弟イナヒの脇腹を叩いたが、女の細腕が大したダメージを与える事も無く、私の両腕は義弟イナヒに押さえ付けられた。

 今夜と同じ様に長襦袢の上半分を裏返しに引き下ろされた。私を押さえ付ける必要の無くなった義弟イワレは、自由になった両腕を使って、私のふんどしを乱暴に剥ぎ取り、私の口に押し込んだ。

 両足をバタ付けせ、床板を激しく叩いた。バタン、バタンと大きな音が鳴ったが、息子タギシミミが起き出す事は無かった。まして、離れの建屋で就寝中の老夫婦を呼び起こす事も無い。

 義弟イナヒは私の太腿の上に跨り、両足の動きを封じた。尚も身悶えして抵抗する私の往生際の悪さに閉口したのか、私の顔を見下ろしながら、残酷な事実を告げた。

「兄上も承知の事なんだよ」

 その一言を聞いた途端、私は抵抗する意思を失った。一挙に身体が脱力する。

 大人しくなった私に満足した義弟イナヒは立ち上がり、勝利の表情で直垂ひたたれを脱ぎ始めた。自分の褌をほどくと、再び覆い被さり、硬く屹立した物を私の股間に捻じ込んだ。

 

 その日以降も、義弟イナヒは頻繁に天香久宮を訪れた。夕刻に現れ、夕餉を食べてから交接に望む日も有れば、今夜の様に夜中に現れる日も有った。

 最初の頃はあらがいもしたが、次第に諦め、私は虚ろな目をして自ら小袖の腰帯を解くようになった。満足気な顔付きで私の腰帯を受け取った義弟イナヒは、建屋の外に姿を消す。その間に私は寝所に移って茣蓙布団に横たわり、小袖のおくみと袖無し襦袢の衽を二重に開いて待つのだ。

 義弟イナヒが再び姿を現すのは、いつも寝所の外から。縁側を上がった義弟イワレは、暫く私の横に座り、左右の衽の間で露わになった私の裸体を眺めて楽しんだ。それが交接を始める儀式だった。

 気持ちは虚ろなままだったが、快感を覚えた身体は正直に反応した。時々上げる私の呻き声に興奮し、義弟イナヒは夜通し23歳だった私の裸体に耽溺した。


 天香久宮に移って数カ月後の事だった。

 夫イワレが「今日は此処に泊まる」と言って、昼に尋ねて来た。タギシミミは大喜びで父親に抱き付き、夫イワレも格闘技の真似事などをして息子に応じて遣っていた。庭で遊ぶ親子の姿を眺め、私は幸せな気持ちに浸っていた。

 知らず知らずに双眸から涙が流れ出た。感情を捨てたのだと思い込んでいたが、無くならないものなのだと、妙な感慨に耽っていた事を覚えている。頬を拭いもしなかったので、夫イワレは私の泣き顔に気付いたはずだが、何も言わなかった。

 夕餉を済ませ、タギシミミを寝かし付けた後、私達は囲炉裏の傍に横並びで座った。横並びとは言っても、手の届かない程度の距離を開けており、2人の立ち位置を微妙に反映していた。私達2人は無言で、赤い木炭からチロチロと上がる小さな炎に見入っていた。

 木椀に入れた白湯がすっかり冷めた頃。夫イワレが重い口を開いた。

「イナヒも17歳だ。女を抱きたくなる年だ」

 言われなくても分かっている。強姦された身を以て承知していた私は、何も言わなかった。

「一方で、俺の弟でもある。立場があるのだ。妻に娶るならば、何処かの村落長の娘だろう。

 だがな。イナヒに娘を嫁がせた村落長は、きっと増長する。増長を許せば、俺の統治力が揺るいでしまう。反対に増長を許さないと成れば、争いが起きるだろう。

 今の奈良村落では起きてはならぬ事態なのだ」

 私は猶も口を挟まず、夫イワレに話を続けさせた。

「イナヒは神武東征の同士でもある。俺は2人の妻を娶り、イナヒは妻を娶れないと成れば、今度は兄弟のいさかいを招きかねない。それも避けねばならん事態なのだ」

 私は、夫イワレの主張自体には全く興味が無かったが、“妻”の言葉には反応した。視線を囲炉裏から夫イワレの横顔に動かし、「妻?」と問うた。

――未だ、私は妻なんでしょうか・・・・・・?

「当たり前だ。アイラは私の妻だ。

 単なる女と思っていれば、今頃、アイラをイナヒに譲っておる」

「それでは・・・・・・、今も私は、愛して頂けているのですね?」

「当たり前だ。俺が愛している女はアイラだけだ。イスズを妻としたのは、政略結婚以外の何物でもない」

 強い口調で言い切ってくれるイワレの言葉が嬉しかった。私は溢れ出る涙を止める事が出来ないばかりか、大声で泣きじゃくってしまった。

 ようやくイワレは私の傍に擦り寄り、私の肩に手を回すと、優しく抱き寄せてくれた。何も言わずに包み込んだイワレの腕から伝わる温かさが、私には心地良かった。数カ月の緊張で凍え付いてしまった私の心が、柔らかく、ほぐれていくのを実感していた。

 イワレは、泣き止んだ私の身体を抱き上げ、寝所にと運んだ。私は目を閉じて茣蓙布団の上に横たわり、日向集落で処女を捧げた夜と同じ様に、イワレのすがままに任せた。

 イワレの抱き方と、イナヒの抱き方は、兄弟なのに全く違う。

 イワレの抱き方は優しい。女である私自身が赤児に戻った錯覚に陥り、イワレに抱かれている状況に安堵してしまう。ヤマドリの羽根で撫でるように軽く、私の肌の表面に掌を這わせる。私の身体は、イワレの動きを追い求めようと、全感覚を研ぎ澄ます。

 反面、イナヒの抱き方は荒々しく、内に秘めたエネルギーを私の裸体につける激しさが有った。情欲の捌け口を相手に求める交接だった。

 でも、久しぶりにイワレに抱かれた夜。私はイナヒの心の一端を理解したように感じた。心に溜まった不安や不満、鬱憤や恐れの混ぜ合わさった気持ちを、快楽と言う練り薬で癒したい。そう思う強烈な欲望を抑え切れないのだ。

 私は自ら両腕をイワレの首に回し、強く唇を合わせた。激しく吸い、舌を動かした。イワレの背中に爪を立て、腰を激しく動かした。息も出来ない程に喘ぎ声を上げ、快楽の絶頂に果てた。

 今度は自分の番だと私の腰を引き寄せ、イワレ自身も激しく腰を振って果てた後、肘枕で私の顔を覗きながらイワレが言った。

「初めて見るアイラの嬌態だな」

 私は、イワレの右手で乳房を弄ばれながら、両手で顔を覆った。恥ずかしさが込み上げてきた。同時に、イワレに捨てられるかも?――と、不安におののいた。

「恥ずかしがらずとも良い。益々アイラの事が好きになった」

 その一言に私は救われ、目尻を涙が滴り落ちた。イワレは私の手の甲に、優しく接吻してくれた。


 その後、イワレは月に一度の頻度で天香久宮を訪れるようになった。

「イスズと言う女は、とんでもなく独占欲の強い女だ。しかも、嫉妬深い」

「俺の子種を全て吸い尽くそうとしているみたいだ。イスズとの同衾どうきんは苦痛でしかないよ。全く気持ちが安らがない」

 天香久宮で零すイワレの愚痴の一つ一つが、私にとっては安心の種だった。私はイワレの愚痴に耳を傾け、逗留中のイワレを甲斐甲斐しく世話した。

 イワレが訪問してくる時の朝餉と夕餉は、同居する老夫婦に任せず、私自身で支度した。隠遁生活では他に塞いだ気持ちを紛らわす術も無く、老婆に料理を習い始めたのだ。

 最初は美味く味付け出来ず、イワレも無言で微妙な表情を浮かべたりもしていたが、回数を重ねる内に舌鼓を打ってくれるようになった。

「やはり、俺の妻はアイラだ。アイラと一緒に居る時が最も安らぐ」

 イワレの褒め言葉を聞く度に、私の心は弾んだ。


 天香久宮に移ってから初めての春が訪れる頃。イワレは沈痛な表情で私に報告した。

「イスズが身籠った」

 夜毎、同衾していれば、身籠るのは自然の成り行きである。イスズ妃が懐妊する事態を、私は考えないようにしていた。考えたくない事が、私には多過ぎた。

 現実逃避する事で偽りの平静を保っていた私は、イワレから改めて告げられ、断崖に追い詰められたと言う恐怖感で息苦しくなった。

――今度こそ、私はイワレに捨てられるのかしら・・・・・・?

 私はイワレの顔を直視できず、横目で盗み見しながら、イワレの次の言葉を待った。自分には如何いかんともし難い悲壮な未来を、十分に覚悟しているつもりだった。

「心配するな。今まで通りだ。俺の愛する女はアイラだけだ」

 私を励ますように、イワレは力強く言った。私はイワレの言葉を頭の中で反芻し、何度も無言で頷く事で自らを奮い立たせようとした。頷く内に涙が溢れ、手で口元を覆って嗚咽を堪えたのだが、泣き声を押し止める事は叶わなかった。

 一方で、別の不安を抱かずにはいられない変調が、私の身体に顕れていた。生理が止まっていた。誰の子を身籠ったかは明白であった。そう、イワレの子供ではない。

――でも、もう少し、イワレには黙っていよう。イワレに見捨てられるのは、・・・・・・嫌だ。


 五月雨の降り続く夜。丁度、今夜の同じ様な晩だった。イナヒが夜這いに訪れた。

 私は悪阻つわりに苦しみ、寝床に臥せっていた。夕餉にも殆ど手を付けずに休んだが、吐き気が堪らなかった。そんな私の体調をイナヒが知るはずもなく、彼は激しく攻め立てようとした。

 イナヒが私の肢体を回転させた刹那、激しい眩暈に襲われた私は嘔吐し、黄色く泡立った胃液を寝床に吐いた。

 異常に驚いたイナヒは呆気に取られ、それまでの行状とは打って変わって、私の背中を優しく擦り始めた。「大丈夫か?」と何度も尋ね、擦り続けた。

 私の吐いた吐瀉物としゃぶつに困惑の視線を投げた後、「待っておれ」と言って隣の居間に姿を消した。麻布の手拭を手にして戻って来たイナヒは、吐き気に身動き出来ない私を尻目に茣蓙布団の汚れを拭い始めた。

「済まぬ」と言いながら、私の身体を寝床に横たえさせ、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

「冷めた白湯が有ったが、口を注がぬか?」とも、尋ねてくる。

 私は力無く無言で首を僅かに振った。

――イワレに似て、根子ねっこは優しいのね・・・・・・。

 気分の悪い原因が悪阻と知っている私は、冷静に、そんな事を考えていた。あの夜の出来事が、イナヒを見る私の目を変えたキッカケだったかもしれない。

 私が大病を患っていると勘違いしたイナヒは、翌朝まで夜通しで看病してくれた。私自身は非常に疲れていて、微睡まどろんだり起きたりしていたが、イナヒは一睡もしなかったようだ。


 それから間も無くして、イナヒは私の懐妊を知った。

「誰の子供だ? 兄上のか? それとも・・・・・・、俺のか?」

 興味津々の気持ちと事実を突き付けられて動揺する気持ちの入り混じった表情で、イナヒは何度も私に質問してきた。私は無視を決め込んだ。何も答えない。

 だが、無言を貫く反応こそが真相を如実に物語っていた。夫イワレの子供ならば、そうだと答えている。そうだと答えられないのは、イナヒの子供だからだ。

 自分に子供が出来た事を悟ると、イナヒは男から父親に変わった。子供を身籠った私の身体を労わる様になり、寝床を共にする事は無くなった。

 深夜に訪れても、私の腹に優しく手を当て、頬擦りするだけでイナヒは満足した。

「道端に生えていたから、摘んで来た。義姉上は出歩かないから、季節の移ろいに疎いだろう?」

 昼間に訪れる場合でも、綺麗な草花や花の付いた小枝を恥ずかしげに差し出すのだった。受け取る私の方でも、自然と頬が緩むのを自覚せざるを得なかった。

――ああ。イナヒとの出合い方が、この様であったなら・・・・・・。

 起きてしまった過去を無かった事には出来ないが、そう思う事も有った。

 多夫多妻制の邪馬台城で育った私にとって、2人の男と交接する事は忌むべき行為ではない。好きで自分から求めようとは思わないが、理解は出来る。

 でも、私は処女のまま卑弥呼に仕える侍女となったし、私の処女はイワレに捧げたのだ。心に決めた夫を裏切り、別の男に寄り添おうとは思わなかった。人一倍、忠誠の心が強かったのだ。

 まして、イワレは今でも私を好いていてくれる・・・・・・。願わくば、イワレと仲睦まじく暮らしたい。それが私の希望だったのだ。いや、実現する可能性は皆無なので、一方的な願望だったのだ。


 妊娠して半年余りが過ぎ、秋が訪れる。その時に悲しい出来事が有った。

 橿原宮の敷地にイナヒの居住する離れとは別に建屋が建てられ、イスズ妃は私からタギシミミを引き離したのだ。

 私とイナヒが肉体関係にある事実は世間に伏せられている。私とイワレ、イナヒの3人だけの秘密だった。イスズ妃は、当然の事ながら、腹に宿る赤児をイワレの子供だと誤解していた。

 イワレを私の元に行かせたくないイスズ妃は、毎晩「自分と寝床を共にせよ」とイワレに強要した。でも、自分に生理が訪れた期間だけは束縛できない。イワレも「邪馬台城との盟約を反故には出来ない」と抗弁する。

 月に僅か数日の訪問でさえ、私はイワレの子供を身籠った。私の孤立を第一に考えていたイスズ妃は、真実とは違う事実を腹立たしく思っただろう。その腹癒はらいせの為に、私から愛する息子を引き離したのだ。

「俺がちゃんと面倒を見るから。時々は天香久宮にも連れて来るから。気落ちするな」

 茫然自失の態で我が子を見送る私に向かい、イナヒは励ましの声を掛けた。

 イナヒに手を引かれながら、タギシミミは泣き止まずに何度も私を振り返った。涙に歪んだ息子の後ろ姿を瞼に焼き付けながら、私はイスズ妃を静かに呪った。


 冬の寒さが一段と厳しくなった頃。私は臨月を迎えた。

 橿原宮に移ったタギシミミも、一時的だが天香久宮に戻っていた。難色を示すイスズ妃に向かって珍しく、イワレが「自分の兄弟の生まれる場に立ち会わせてやれ」と強く主張してくれたらしい。

 奈良盆地には珍しく、何日も雪が降り続いた或る日の晩。屋敷の茅葺屋根や庭、周囲の森は雪化粧に覆われていた。降り積もった雪は音を消し、月光と残雪の反射光が夜のとばりを薄く照らして幻想的な夜景を浮き上がらせていた。

 久しぶりに味わう母子水入らずの状況にタギシミミは喜び、私達は囲炉裏で暖を取りながら、夜更けまで話し込んだ。

「お母さんの御腹の子は、男かな? それとも、女かな?」

「どっちでしょうね。タギシミミは弟と妹のどっちが良い?」

「う~ん。どっちでも良いけど、やっぱり、弟かな。だって、一緒に遊べるもん!」

「もし妹だったら、タギシミミは一緒に遊んでくれないの?」

「そんな事は無いよ! 遊ぶさ。でも・・・・・・、僕、男の遊びしか知らないよ」

 息子を揶揄からかいながら、私は幸せな時間を過ごしていた。

 タギシミミは妹が生まれた時に備えて、遊び方を必死に考えていたようだが、産まれて来た子供は男の子だった。イワレが私の息子にキスミミと名付けた。

「表向きは兄上の息子だからな」

 私と二人切りの夜、イナヒが少し寂しそうな表情で呟いた事を憶えている。

 そのキスミミを出産した日。陣痛に苦しむ私の手を握っていたのはイナヒだった。イナヒの横に座ったタギシミミが、不安そうに私の顔を覗き込んでいた。

 イワレはキスミミの出産に立ち会わなかった。いいや、立ち会えなかったと言うのが正しい。

 息子を出産したタイミングは、イスズ妃よりも私の方が一週間だけ早かった。私が産気付いた日。産婆が天香久宮に呼ばれた事を察知したイスズ妃が、「自分も陣痛が始まった」と言い始めたのだ。

 橿原宮に呼び戻された産婆は、イスズ妃の股間を診て「未だ産道が開いていない」と断じると、再び天香久宮に向かった。

 イワレは産婆に同行しようと試みたのだが、イスズ妃は「私は初産なのよ。不安なの。あの女は二度目でしょう?」とイワレに取りすがったらしい。


 キスミミを産んでからの数年間。私とキスミミ、イナヒの3人は平穏な暮らしを送る。キスミミに乳を含ませる私の姿を、横に座るイナヒは幸せそうな顔で見守った。乳房に触れる小さな掌を通して伝わるキスミミの体温に、私自身も幸せな気分を感じた。

 時にはタギシミミも加わり、3人でキスミミの顔を眺めるのが習慣となった。

 その頃になると、私とイナヒの交接も再開された。私の裸体を抱くイナヒの動きからは刺々しさが抜け、小動物を労わる風に慈愛の満ちた動きに変わった。優しさに包み込まれる居心地の良さに、私の身体は安心して快楽の絶頂を楽しむようになった。

 キスミミが4歳の数え年を迎えた田植えの時期。好機を待ち構えていたイスズ妃が、キスミミを橿原宮に連れ去った。母親から引き離される意味を理解できない幼子おさなごだったので、タギシミミとは違って泣き喚かなかったのが、せめてもの救いだった。

 天香久宮での独り暮らしに戻ると、私とイナヒの関係も微妙に変化した。夫婦の其れから男女の其れへと逆戻りしたのだ。偽りの夫婦生活だったのだから、当然の変化だったのだろう。

 イナヒの抱き方が元に戻る事は無かったが、私の方が寧ろ、イナヒの肉体を荒々しく求めるようになった。最初は戸惑っていたイナヒも、乱暴な扱いは避けながら、私に合わせて激しく交り合うようになった。

 恥じらいを顔に浮かべ、おしとやかな抱かれ方をするのは、イワレに対してだけとなった。イワレに見捨てられる事を、私は恐れていた。

 それ程までに恋い焦がれる夫には本性を見せず、イナヒにだけ本性を露わにする態度は、我ながら矛盾していると思うが、如何どうし様も無かった。

 最愛の男には本性を隠し、私を最も愛してくれる男には次点のポジションしか与えないと言う私の二面性は、結局の処、同時に2人の男を欺いている事になるのだろう。

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