第4話 出雲の圧力

「此処に居る兵士には、私達の安全は守れません! 出雲集落から援軍を呼びます」

 イスズ妃は、橿原宮かしはらのみやの謁見広間で金切声を張り上げていた。

「まあ、まあ。義姉上。落ち着いてください」

 叔父イナヒがイスズ妃を宥めようと無駄な努力を続けていた。

「どうして落ち着いていられるでしょう? 夫イワレが殺されたのですよ!」

「だからと言って、出雲集落から兵士を呼び込んでは、無用の混乱を招きますよ」

「無用の混乱? それがどうしたの? それよりも我が身の安全の方が大事です! 我が子、ヌナカワミミとヤイミミを無事に育てる方が余程大事です!」

 イスズ妃の金切声はボルテージを上げた。

「イスズ義姉さん。落ち着いて考えてくださいよ。出雲の兵士を呼び込んだとしても、敵が分からなければ、兵士は役に立ちませんよ」

 叔父ミケヌも叔父イナヒに加勢した。だが、正妻イスズのヒステリーは収まる気配を見せない。

「問題は、その敵です! 誰が夫イワレを殺したのか。皆目、分からないではないですか?

 犯人は奈良集落の誰かです。しかも、躊躇無しに人を殺せる者です。最も怪しいのは、この橿原宮に仕える兵士ではないですか?」

「そんな馬鹿な! 一介の兵士が頭首かしらを殺すはずが無い。兵士が兄イワレに成り替わる事なんて、有り得ないのですから」

 犯人の目星が着いていない事を指摘されると、叔父イナヒも叔父ミケヌも歯切れが悪くなる。

「その有り得ない事態が起きたのでしょ!

 少なくとも、出雲集落から呼び寄せる兵士達は、夫イワレを殺した犯人ではありません。此処に集う誰よりも信頼が置けます」

 自分よりも出雲兵を信じると断じられれば、押し黙るしか無い叔父イナヒと叔父ミケヌであった。

――誰が、イワレを殺したのだろう?

――何故、イワレを殺したのだろう?

 誰もが心に抱く疑問だった。この疑問が解けない限り、疑心暗鬼の状態は解消しない。

 但し、イワレの命を狙う者が皆無だとは言えなかった。

 纏向まきむく宇陀うだの村落長はイワレに兄を殺されている。可能性は極めて低いが、浪速なにわ集落のニギハヤヒが暗殺者を送り込んだかもしれない。

 一方でイスズ妃の立場から勘ぐれば、次兄イナヒか末弟ミケヌが兄イワレを暗殺し、奈良集落の実権を奪おうとしたのでは? と言う疑いを捨て切れない。

――イワレは、天香久宮あまのかぐのみやを訪れた際、何故、警護兵を橿原宮に帰したのだろう?

 これが次なる疑問である。

 常日頃からイワレは暗殺される可能性を用心深く排除していた。そのイワレが無防備にも、野外で独りとなる状況に自ら身を置いた事には、誰もが釈然としていなかった。

 見ず知らずの者を相手にして取る行動ではない。だからこそ、イスズ妃は親族に疑いの目を向けていた。

「イナヒやミケヌだけじゃない。タギシミミだって怪しいわ!」

 イスズ妃の疑念は、18歳の俺にも容赦なく向けられる。

「好い加減にしてください。息子が父親を殺すはずが無いでしょう」

 叔父イナヒが呆れ声でイスズ妃の暴走を制止しようとする。それに構わず、意見を主張し続けるイスズ妃。

「考えても御覧なさい。夫イワレが亡くなって、最も有利になるのは、そのタギシミミですよ」

「有利?」

 俺はイスズ妃の発言を理解できず、鸚鵡おうむ返しに復唱した。

「そうよ。貴方は成人した男。ところが、私の息子ヌナカワミミは12歳に過ぎない。

 今、イワレが亡くなれば、貴方が二代目を継承する事に誰も文句を言わないわ」

「長男のタギシミミが兄イワレの跡目を継ぐのは当たり前の事だろう?」

 叔父イナヒが強く反論する。

「そんな事は無いわ! タギシミミはアイラの息子なのよ。

 良い? 正妻は私。その私の息子が跡目を継ぐのは、不思議でも何でもないわ。いいえ、寧ろ、そうするのが正統な跡目相続よ!

 ところが、この時期に夫イワレが亡くなれば、正統な跡目相続が難しくなる。だったら、謀反を起こしてやろう。タギシミミなら考えそうな事でしょ?」

「おいおい。タギシミミがよこしまな考えを抱く男に見えるのか?

 義姉と思えばこそ黙って聞いていたが、好い加減にしないと張り倒すぞ」

 叔父イナヒが右手を挙げ、イスズ妃を恫喝する。イスズ妃はヒっと小さな悲鳴を上げ、ようやく口をつぐんだ。


 この頃、俺は叔父ミケヌと木刀で討ち合う稽古を日課としていた。

 太さ10㎝弱、長さ1m強の木片を、手で握るつかの部分だけ本物の刀剣と同じ太さに削った木刀である。形状を表現するならば、木刀と呼ぶよりは、棍棒と呼んだ方が適切だろう。

 但し、騎兵が扱う刀剣と同じ長さに切っており、歩兵が身に着ける刀剣よりも長い。その分、余計に重いが、鍛錬には丁度良い。

 叔父ミケヌが橿原宮に移住してから1年強、俺は畑仕事ばかりを遣らされていた。鍬を振り続ける内に、俺の腕と胸の筋肉は盛り上がり、足腰は強靭となった。

 俺の身体作りが合格レベルを超えると、叔父ミケヌは木刀で討ち合う稽古を俺に付けるようになった。入道雲の湧く青空の下、今日も橿原宮の中庭で木刀を振り回していた。

 2人の木刀は数え切れない程の撃ち合いの結果、刀剣部分の木目は撃ち潰され、滲み出た蝋の様な樹液の残滓が表面を覆って鈍い光沢を帯びている。

 カツーン!

 俺が上段の構えから振り下ろした木刀が、叔父ミケヌの右下から振り上げた木刀と衝突する。相手の木刀を押し遣ろうと、2人して柄に力を込める。力比べをしながら、十字に交差した刀剣越しに睨み合う。

 均衡状態を打ち破ろうと俺が「おりゃあ」と気合を入れ、体重を半歩下げた右足から左の軸足に移そうとした。だが、2本の木刀は微動だにしない。叔父ミケヌは、右足を僅かに下げて俺からの圧力を吸収し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 木刀の位置が動かず、体重を載せて前進しようと試みた結果、俺の腰は僅かに海老反りになっていた。強い圧力を掛けられれば、抵抗し難い体勢だ。その一瞬を突いて、今度は叔父ミケヌが「ふん!」と言う気合と共に木刀に込める力を倍加させた。

 一挙に形勢は崩れ、俺は翻筋斗もんどりを打って後ろに転がってしまう。叔父ミケヌは27歳。充実した体力と武術の勘所を兼ね備えた絶頂期の叔父ミケヌに、18歳の俺は太刀たち打ちできないでいた。

「少しの間、休憩を挟もう」

 砂地に転がった木刀を拾い上げ、直垂ひたたれに付着した土埃を払う俺を横目に、叔父ミケヌは井戸端に向かう。

 叔父ミケヌも俺も、貫頭衣を着用する農民達とは違って、日頃は直垂を着て過ごしている。直垂とは上半身衣かみはんしんごろも下半身衣しもはんしんごろもに別れた衣装で、筒袖の付いた上半身衣は左右のとおえりを前合わせに結ぶ。下半身衣は七分丈のはかまである。

 素材は貫頭衣と同じく麻布であったが、出雲集落から苧麻からむしの繊維をった糸と針が供給されていたので、裁縫が可能となっていた。それでも高級品には違いないので、直垂を着用できる者は限られる。

 丸太をり抜いた手桶を井戸に落とし、水を汲む。麻布を水に浸し、軽く絞って汗を拭う。井戸水に冷えた麻布を首回りに当て、暑気を払った。

 庭木のけやきの広げた枝葉が井戸の上を屋根の様に覆っている。欅の幹に止まった蝉が忙しない鳴声を響かせている。

「ねえ、叔父上」

「何だ?」

「叔父上は何処で武術を習ったのですか? 日向集落には叔父上の指南役が居たのですか?」

「日向集落には居なかったな。神武東征でみんな出て行っちまったからな」

「じゃあ、如何どうやって稽古したんですか?」

「邪馬台城に留学したのさ。冬の農閑期の間だけ」

「邪馬台城? 邪馬台城って、日向集落と戦争をした相手でしょ?」

「そうだがな。俺が物心着いた頃には、もう敵対関係になかったからな」

「でも、邪馬台城に行く時は緊張したでしょう?」

「大して緊張しなかったな」

「凄いですね」

「オモイカネが俺の叔父だしな。ミカヅチも結構、優しかったから」

「オモイカネ? ミカヅチ?」

「ああ。邪馬台城には3人の現人神あらひとがみが居てな。卑弥呼とオモイカネとミカヅチの3人なんだが、卑弥呼は女王様な。

 オモイカネは文官みたいな立場で、どう言う政事まつりごとをするべきだって卑弥呼に進言する役割を担っている。ミカヅチは武官みたいな立場で、邪馬台城の兵士を鍛え、イザとなれば邪馬台軍を率いて戦うのが役割だ」

「そのオモイカネが、私にとっては大叔父なんですか?」

「そうだよ。出雲集落長ナムジの息子なんだけど、邪馬台城と日向集落が講和した際、オモイカネに就任したそうだ」

「オモイカネに就任? オモイカネって名前じゃないんですか?」

「就任前にはコトシロと名乗っていたらしい。現人神になったから、コトシロって言う名前は捨てたんだけどな」

「それじゃ、邪馬台城には私の従兄弟が居るんですか?」

「居ないよ。現人神は結婚しないからな。現人神の誰かが死んだら、本人とは血のつながっていない誰かが跡目を継ぐんだよ」

「でも、妻を娶らないなんて、そのオモイカネって言う大叔父は気の毒ですね」

「なんで?」

「やっぱり・・・・・・、男だったら女と交り合いたいと思うでしょう?」

 気恥ずかしそうに俺が念押しすると、一瞬だけキョトンとした叔父ミケヌは大笑いした。

「ハハハッ。邪馬台城ではな、夫婦って言う風習は無いけど、逆に誰とでも交り合えるんだよ。勿論、相手の女が合意してくれないと駄目だけどな」

「どう言う事ですか?」

「邪馬台城ではな。夜毎、交接の相手を変えるんだよ。男も女も」

「だったら、産まれてくる子供の父親が誰なのか? サッパリ分からないではないですか?」

「邪馬台城の男共全員の子供なのさ。だから、邪馬台城の男共は分け隔てなく、全ての子供を可愛がるんだよ。アレはアレで暮らし易い風習だと思ったなあ・・・・・・。俺は」

「じゃあ、叔父上は、結婚していないけど・・・・・・、そのう、もう経験が有るんですか?」

「経験? 女を抱いた経験?」

 叔父ミケヌの単刀直入な確認に、俺は赤面して俯いた。その様子を見て、再び大笑いした。

「若い頃なんて元気が有り余っているからな。毎晩、誰かと交り合ったぞ。10年近くも通ったから、邪馬台城の殆どの女と交り合ったんじゃないかなあ」

 叔父ミケヌは、自分の甘い戦歴を振り返り、トロンとした目付きで遠くの夏空を見遣った。

 近代に不治の病とされた梅毒は、弥生時代の日本に存在しない。梅毒は、コロンブスが新大陸を発見して以降、活発化した貿易活動に伴って全世界へと急速に伝染していった性病だ。

「叔父上は本当に武術の鍛錬に励んでいたのですか?」

 少しだけ羨望の気持ちを含んだ詰問を俺は投げ掛けた。我に返った叔父ミケヌが慌てて否定する。

「それは夜の話だろ。昼間はミカヅチ相手に厳しい鍛錬の日々さ。お陰で相当に手練れの兵士に成長したと思うよ。

 卑弥呼やオモイカネと同席する朝餉あさげ夕餉ゆうげの時には、韓半島情勢やら狗奴くぬ集落との小競り合いの事やら、政事まつりごとに必要な知識を色々と指南してもらったよ。

 だから、女との楽しい時間を過ごしたのは寝る時だけで、基本は真面目な留学だったんだぞ!」

「留学は冬だけで、田起こしから稲刈りまでの間は日向集落に戻っていたんでしょ?」

「ああ。自分の田圃を耕さないといけないからな。それに年老いた母上の世話も有る」

「話を聞いていると、邪馬台城に居る時の方が楽しかったみたいですね」

「いやあ。日向集落に居ても、女との交接は欠かさなかったからな。一年中、それは変わらない」

「えっ! 誰と? やっぱり叔父上は結婚していたんですか?」

「いいや。いずれ此処に移る事が決められていたからな。家庭は営めんだろう?」

「それじゃ、誰と交り合っていたのですか?」

婢女はしためだよ。日向集落で暮らしていた時には何人もの婢女を抱えていたからな」

「婢女?」

「ああ、女の奴隷を婢女。男の奴隷を奴男やっとこと言う。

 食い詰めた奴や禁忌を犯した奴は奴隷に身を落とすんだが、豊かな集落には奴隷を養う余裕が有るから、邪馬台城や日向集落には多くの奴隷が暮らしているんだ。

 日向集落で暮らす奴隷の殆どは邪馬台城から逃げて来た弁韓人だ。その弁韓人の中には神武東征に従った奴も多かったはずだ。奈良集落にも暮らしているんじゃないかな?」

「この奈良集落では、奴隷なんて見た事が無いですよ」

「神武東征に従った奴隷は庶民の身分を手に入れたからな。僅かでも自分の田圃を支給されて、普通の庶民と変わらない暮らしを送っているはずだ。

 名前とかイントネーションで見分けるしか、誰が弁韓人かを判断するすべは無いと思うぞ」

「まあ、詮索しても仕方無いですからね。

 それよりも、叔父上も多くの奴隷を抱えていたんですか?」

「ああ。集落長の家柄だからな。日向集落で最も多くの奴婢を抱えていた。数百人以上じゃないかなあ」

「婢女もたくさん居ますね?」

 叔父ミケヌは再び腑抜けな表情を浮かべて、「ああ」と相槌を打った。

「でも、叔父上の子供を身籠った婢女も居るでしょう?」

「ああ。何十人かの婢女は俺の子供を身籠ったな」

「何十人も?」

「まあ、驚くなよ。俺も若かったからな。御陰で、女日照りの生活を橿原宮で送っていても、大した苦痛を感じないんだな。もう十分に遣り尽くしたから。

 お前と違って、女にガツガツしてないだろう? 俺は」

「そんな事は、どうでも良いんです!

 それよりも、日向集落に残して来た子供達は、如何どうするんですか?」

如何どうする、とは?」

「橿原宮に呼ぶんですか?」

「そんな事はしないよ。俺の子供を身籠った婢女には、日向集落の田圃を分け与えて来たからな。苦労せずに暮らせるはずだ。奴婢の身分から庶民の身分に格上げされたみたいなもんだ。

 そう言う約束で手籠めに掛けたから、婢女達の家族から俺は感謝されたんだぞ」

「でも・・・・・・、血の繋がった子供に対しても、そんなに淡白なら、まして血が繋がっていない子供なんて、何とも思わないですよね」

 俺は気落ちした声で呟いた。叔父ミケヌに発した言葉ではなく、独白だった。

「・・・・・・イスズ妃の事か?」

 俺の言わんとした事を察した叔父ミケヌがボソリと確認する。俺は叔父の確認を無視し、何も言わなかった。蝉の五月蠅い鳴声だけが響いている。

「私・・・・・・。橿原宮を出て、母の住む天香久宮あまのかぐのみやに身を寄せようと思うんですけど・・・・・・?」

「それは止めておけ。イスズ妃の罵りで気詰まりな思いをしても、強い気持ちを持って此処に留まるべきだ」

 叔父ミケヌは強い口調で言い切った。俺は顔を上げ、叔父の真剣な表情を見詰める。

「逃げれば、父上殺しの汚名を着せられるぞ。今がお前の勝負時だ」


 山陰なりの夏らしい暑気を迎えた出雲集落では、スセリ妃とクシミカが集落長の屋敷で相対していた。

 屋敷と言っても、200平方m前後の長方形をした大広間が有るだけだ。ログハウス調に丸太を積み上げて壁を作り、屋根は茅葺である。ガランとした大広間の片隅に設けた囲炉裏の脇に2人は座っている。

 冬の暖取りを優先させた造りの屋敷には明り取りの窓が無い。陽の差さぬ屋内に座り、戸口から流れ込む乾いた微風そよかぜに首筋を吹かれていると、渓谷に漂う冷気の中で火照った身体を冷ますような快感を覚える。

 スセリ妃は、集落長ナムジの妻で、日本神話に須勢理毘売すせりひめとして登場する女性だ。

 邪馬台城と日向集落の終戦の折、アイラ姫がイワレに嫁いだのと同じ様に、スセリ姫はナムジの妻となった。スセリ妃は18歳、ナムジは50歳だった。

 当時、ナムジにはヤガミ妃と言う妻が居たが、スセリ妃との結婚は講和条件の一つであったので、ヤガミ妃は息子キマタの暮らす高志こし集落に身を寄せた。スセリ妃自身、ヤガミ妃とは面識が無い。

 ヤガミ妃への貞節を誓ったナムジは、決してスセリ妃の身体に手を出そうとはしなかった。そのナムジも2年後に52歳で亡くなる。スセリ妃は僅か20歳の若さで寡婦となった。それから18年間、スセリ妃は集落長代行として政事まつりごとを司ってきた。

 一方のクシミカは、イスズ妃の父親で、日本神話には大物主おおものぬし櫛甕魂命くしみかたまのみこととして登場する。

 クシミカは、斐伊ひい川上流の砂鉄採掘場と踏鞴たたら製鉄の製造現場を牛耳っており、出雲集落の有力者だ。ナムジを片腕として支えてきた流れで、今はスセリ妃を補佐する立場にある。

 ところが、どうしてもスセリ妃はクシミカを好きになれない。集落長として抱いてはならぬ感情だが、虫唾むしずが走るのだ。

 スセリ妃は38歳、クシミカは45歳。今更お互いに色恋沙汰へと発展する年齢ではないのだが、男鰥おとこやもめのクシミカの双眸には怪しい気配が漂う。今も囲炉裏を挟んだ対面に座るのではなく、スセリ姫と隣り合う縁に座っている。

 唇をしきりに舐めるクシミカの癖も頂けない。薄い唇を舐め回す様は、チョロチョロと舌を出す蛇の顔を連想させるのだ。無表情な顔付きと比べると余計に、唇周辺の忙しない動きが強烈な印象を見る者に与える。

――クシミカに手を触られようものなら、全身に鳥肌が立ってしまうわね。

 触られもしないのに、考えただけで鳥肌が立ってしまう。その鳥肌を宥めるように、スセリ妃は腕を擦った。

――私も年を取ったわ。こんなにも肌にシミが浮いている・・・・・・。

 残酷な現実から逃れるように、スセリ妃は自分の若かりし頃の記憶を想い出した。クシミカが開口一番に「イワレ様が亡くなられたそうです」と告げた事も原因の一つだった。

 邪馬台城で侍女として卑弥呼に仕えたスセリ妃には、女としての幸せを追求する運命さだめになかった。

――いいえ。たった一人だけ、私を抱いてくれた男が居たわ・・・・・・。

 スセリ妃を抱いた男とはイワレであった。

 日向集落や出雲集落と邪馬台城との間に政略結婚を結ぶと言う講和条件を成立させる為、ナムジはスセリ妃とアイラ姫の2人を日向集落に連れて来た。そして、イワレは2人の侍女との情交を重ねた後、アイラ姫を選んだのだ。

 当時、スセリ妃は18歳、アイラ姫は16歳。片やイワレは15歳に過ぎない。

――女性の魅力ならば、アイラよりも私の方が勝っていたはずだ。きっと、・・・・・・そう。

――経験の無いイワレは、女を前にして尻込み、自分と近いよわいのアイラを選んだに過ぎないはず・・・・・・。

 女性としての歓びを感じた時間は、イワレに抱かれた短い期間だけ。その時間も最初は、処女だったスセリにとって、激痛が股間を貫く時間だった。

――でも・・・・・・、抱かれ続けた短い日々が、私の人生で最も輝いた時間だったような気がする。

 男を知らずに育っていれば、違った考え方をしただろう。でも、情交の喜びを一度知ると、何度もイワレに抱かれる夢を見てしまう。若い頃は、独りで寝床に入り、火照った身体を何度も自分で慰めた。

 生前のナムジに寄り添い、ナムジの死後は集落長代行として政事まつりごとをしてきた日々に後悔はしていない。邪馬台城で卑弥呼となるかもしれぬと精進に努めていたスセリ妃にとって、庶民に安寧をもたらす善政を敷く事は無上の喜びだった。

 そうは言っても、女としての心の奥底で、アイラ姫に嫉妬する赤黒い残り火が燻ぶっていなかった、とも言い切れない。

――私は、アイラに嫌がらせをするつもりで、イスズ妃を正妻としてイワレにとつがせたの?

 自問自答する度に、心の中でスセリ妃は激しくかぶりを振った。

 実際、イワレとイスズ妃の政略結婚を言い出した者は、イスズ妃の父クシミカである。

「出雲集落と奈良集落の絆が強くなる事は、双方にとって良いはず。戦略物資を送った挙句、奈良集落が出雲集落に抵抗し始めると厄介ですからな・・・・・・。

 それに、今はスセリ妃が居る御陰で出雲集落と邪馬台城の絆は維持されていますが、スセリ妃に再婚の御意思は無いのでしょう?

 スセリ妃が亡くなられたら、血縁による邪馬台城との絆は途絶えてしまいます。その時の予防策として、奈良集落との政略結婚は是非にも進めるべきです。

 まあ・・・・・・、スセリ妃に再婚の御意思が有れば、話は別ですが・・・・・・?」

 爬虫類みたいに無表情の顔に埋まったガラス玉の様な双眸で見詰められたスセリ妃は、クシミカが薄い唇を舌舐め擦りした瞬間、背筋に悪寒が走るのを感じた。

 嫌悪感を振り払いたくて、クシミカに早く退散してもらいたくて、思わず「それが良いでしょう」と口走ってしまった。

――あの決断は軽挙妄動だったのかしら・・・・・・? もし、そうなら・・・・・・、私は取り返しの付かない事をしてしまった事になる・・・・・・。

 新たな悩み事はスセリ妃を不安にさせた。

 クシミカが持ち込んだ相談事とは、イスズ妃の求めに応じて、出雲集落の兵士を奈良集落に派兵する件であった。派兵と言っても、出雲集落には200人前後の兵士しか居ない。

 30年余りも前にホオリとトヨタマ姫が対馬海賊に拉致されて以降、出雲集落が襲撃される事件は発生していない。対馬海賊は、倭国大乱の折に構成員の大半を誅殺されており、その勢力は出雲集落を再び襲える程には回復していない。斯蘆しろ国も韓半島南部の制圧に忙しく、倭国に侵攻する余裕は無い。

 つまり、出雲集落は安全保障面で極めて平和な状態だった。

 必要性の薄い軍隊を解散しなかった理由は、軍事同盟を結んだ邪馬台城の求めに応じたと言うに過ぎない。少人数では軍事訓練もままならないので、200人を二組に分け、兵士の半数は絶えず邪馬台城に交代で出向している。

 イスズ妃の遣わせた使者に依れば身辺警護を目的としているらしいので、出雲集落に残っている100人を当座、奈良集落に派兵する。クシミカはスセリ妃に、そう告げた。

――クシミカの判断に反対すべき理由は何も思い付かない。でも・・・・・・、どうか・・・・・・、新たな災禍を招かないで欲しい。

 不安感を払拭する事は叶わなかったが、スセリ妃は不承不承、クシミカの申請を承諾した。


 標高199mの小高い畝傍山うねびやまでも、傾斜の緩くなった南斜面の一画を切り拓き、橿原宮は建設されている。南北に200m、東西に100m程度の長方形をした敷地が大垣で囲われている。

 大垣とは、石垣の基礎に丸太杉を立て、柱の間には木板をビッシリと横方向に差し込み、貫とする。隙間無く並んだ貫の表面に練土を塗った塀で、塀には杉皮葺すぎかわぶきひさしを付けている。庇が瓦であったら、奈良時代や平安時代に普及した築地塀に瓜二つであった。

 塀の内側は、一面に玉砂利が敷き詰めてある。全てが白とは行かないが、奈良盆地を流れる幾つかの河原で拾った丸い小石を敷き詰めている。空から鳥が橿原宮を眺めたら、畝傍山を覆う樹木の緑色の中に、灰色の長方形が穿たれた様に見えるだろう。

 橿原宮には幾つもの建屋が並んでいるが、どれも杉皮葺の屋根である。新築同時は茶色かったのだろうが、長年の雨に痛んで今は黒染くろずんでいる。雨漏りの補修の為に取り替えた部分だけが茶色く目立っている。

 敷地中央に建てられた母屋が最大で、50畳ほどの謁見広間と、謁見広間の後背に幾つもの個室が隣接していた。母屋の脇には、賄場まかないばの建屋が併設されてある。

 母屋内の個室には、父イワレとイスズ妃、2人の子供達だけが起居する。

 各部屋は、襖替りの木戸で仕切られていて、開閉可能だった。夏の暑い最中は開けっ放しだし、寒くなれば閉めて、火鉢で暖を取る。囲炉裏は食事部屋にしかなく、イスズ妃と2人の息子は食事部屋で過ごす事が多い。

 橿原宮は、父イワレが奈良盆地を何とか支配下に治め、母イワレを日向集落から呼び寄せた時に建設された。母イワレに抱かれて旅をした俺は、僅か3歳の幼子に過ぎなかった。

 2年後にイスズ妃が嫁いで来るまでは、父イワレと母アイラ、俺の3人が暮らしていた。イスズ妃に追い出されるようにして、母アイラと5歳の俺は天香久宮あまのかぐのみやへ移った。

 母アイラが弟キスミミを身籠ると、「妊娠中の母親には、お前を世話する余裕が無いから」と言われ、橿原宮に連れ戻された。但し、新たに建設された別棟だった。だから、俺には母屋で生活した時の記憶が無い。

 今は、叔父ミケヌと弟キスミミの3人で同居している。俺とキスミミの2人が寝泊まりする建屋に、叔父ミケヌが4年前に転がり込んで来たと言うのが実態だ。

 離れの建屋は小さく、囲炉裏を掘った居間に二つの個室が併設されただけの小じんまりした住居棟だ。だから、俺とキスミミは同じ部屋で寝ている。

 叔父イナヒの居住する建屋も同じ仕様である。叔父1人で暮らすには広過ぎるかもしれない。妻を娶れば丁度良い広さなのだろうが、父イワレが叔父イナヒに結婚を禁じていた事を知る俺には、僭越ながら同情を寄せる事しか出来ない。

 叔父イナヒを慰める為と言うよりは、賄婦まかないふの煩わしさを軽減する為に、4人一緒に叔父イナヒ宅の居間で食事を摂る事が多かった。叔父ミケヌが来るまでは堅苦しい雰囲気の食事だったが、叔父ミケヌが加わってからは賑やかになった。

 2人の叔父は酒を酌み交わし、酔って陽気になれば、叔父イナヒは弟キスミミを、叔父ミケヌは俺を揶揄からかいながら、4人で楽しい時を過ごしたものだった。


 夏の激しい残暑が畦道に陽炎を上げ続ける。キリギリスの“ギー、チョン”と言う鳴声を草叢くさむらの至る処で耳にするようになると、橿原宮の要所々々で歩哨に立つ出雲人兵士の姿を目にするようになった。

 母屋の四隅には絶えず2人組の歩哨が立っている。叔父イナヒと俺の住居棟にも2人ずつの歩哨が立っている。それ以外に幾つかの建屋には1人ずつ。残りの兵士は、正門と、敷地を囲む大垣の四隅の角地に立っている。

 24時間、歩哨は交代で立ち続け、夜には灯台の篝火かがりびが周囲を照らした。

 俺は、日課の剣術稽古の合間に、叔父ミケヌに話し掛けた。

「叔父上。何だか、物々しい空気ですね」

「出雲兵の事か?」

 叔父ミケヌが眉間にしわを寄せて、俺を振り返る。

「これでもイスズ妃は安心しないらしいぞ。今度は浪速集落で兵を募るらしい」

「父上が戦い、叔父イツセが命を落とした、あの浪速集落ですか?

 先代集落長のナガスネを父上は誅殺しているんでしょう? 大丈夫なんでしょうか?」

「今の浪速集落長は、大叔父ニニギの隠し子ニギハヤヒだからな。イスズ妃としては、出雲つながりで安心できるんだそうだ」

「でも、兵士の数を増やし過ぎても、何処で寝泊まりさせるんでしょう?」

 出雲人兵士は分散して、橿原宮周辺の竪穴式住居で寝泊まりしていた。兵士に限らず、橿原宮に仕える庶民は皆、自分の家族が暮らす竪穴式住居から出仕している。

「あそこに、敷地内に大きな兵舎を作るそうだ」

 叔父ミケヌは敷地内の一画を指差した。

「兵士に十分な休息を取らせる場所を確保しないと、イザと言う場合に戦えないからな。イスズ妃が言い出したら、誰にも止められない・・・・・・」

「また、普請ふしんの協力を各集落長にお願いしなくてはなりませんね。反発を買わなければ、良いですが・・・・・・」

「全くだ。だが、農閑期に入る事でもあるし、墳墓の作業を遅らせれば、負荷は大して増えないだろう」

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