第3話 父の記憶

 父イワレは幼い俺を伴い、竜門岳の山頂に登る事が多かった。

 弟キスミミが生まれ、母アイラが相手をしてくれなくなった俺を可哀想に思ったのかもしれない。

 或いは、正妻のイスズ妃にも息子が生まれ、母アイラとイスズ妃の間に不穏な緊張感が漂っていたから、父イワレが煩わしい人間関係から逃れたいと思っただけなのかもしれない。

 標高904mの竜門岳の山頂からは、奈良盆地と宇陀うだ盆地の双方を一度に睥睨へいげいできる。父イワレの支配地が一望できるのだ。

 橿原宮かしはらのみやから登山口までは馬に乗る。徒歩でも構わないのだが、田圃の広がる平野部を護衛も無しに歩くのは、父イワレの立場上、好ましい行為とは言えない。

 乗馬中に暗殺される可能性は低いが、竜門岳の山中に待ち伏せされては危ないので、敢えて予定は立てず、父イワレの思い立った朝に竜門岳への遠出は決行される。俺にとっては、いつも突然の誘いだった。

 たとえ従者替わりに声を掛けられたに過ぎずとも、父親と2人だけの遠出を、俺は楽しみにしていた。獣道しか無い登山道を分け進み、半日掛りで山頂に到着すると、父イワレは色んな話を俺に語ってくれたからだ。

 山頂に吹く風に汗を乾かしながら、父イワレと俺は持参した握り飯を頬張る。頬張りながら、父イワレは眼前に広がる下界のあちこちを指差し、俺に苦労話を打ち明けてくれるのだ。

 波乱万丈の人生を送ってきた父親の体験談は、未だ10歳にも満たなかった幼い俺にとって、胸を躍らせる冒険談だった。

「タギシミミよ。眼下に広がる世界がワシの政事まつりごとが及ぶ範囲だ」

「うん。広いよね。父上は凄いですよ」

「ハハハッ。でも、ワシも苦労したんだぞ」

「どんな?」

「この世界に誰も住んで居なければ、何の争いも起きぬ。だが、先住民が住んでおったんだよ」

「誰?」

「タギシミミも橿原宮で時々会うだろう? オトウカシやオトシキじゃ。彼らが先に住んでおったんだ」

「でも、今は父上と仲が良いですよね。後から来た父上達を迎えてくれるなんて、善い人達だね。」

「そう思うか?」

「うん。違うの?」

「ああ、違う。ワシ達は一度、大きな喧嘩をしたんだよ」

「大きな喧嘩? 叩き合ったの?」

「ハハハッ。そんな生易しいものじゃない。殺し合ったんだよ」

「殺し合った? でも、オトウカシ様やオトシキ様は生きているよ?」

「彼らはワシに寝返ったからな。彼らの兄はワシが討ち取った・・・・・・。

 ちょっと立ち上がってみろ。あっちを見てみるんだ」

 父イワレは自分も立ち上がり、右手に見える宇陀盆地を指差した。

「あの地はエウカシとオトウカシの兄弟が統べていた。ワシらはこっちから進軍して来た」

 父イワレはグルリと腰を捻って左手を背面に回すと、宇陀盆地とは反対方向の和歌山を指差した。

「そして、あの地の入口で対峙したんだ。こちらの兵力は900騎余り」

 今度は顔を右向きに戻し、竜門岳の東側裾野、宇陀盆地の南側入口を指差した。

「あの小高い丘を馬で越えたの?」

「ああ、越えた。丘を越えて平地に展開しないと騎馬兵が存分に戦えないからな」

「そして、騎馬兵で宇陀の村落を攻めたの?」

「いいや。平地の南側の隅に布陣しただけだ。ワシだって、無用な殺生はしたくない。兵士が死ぬのも忍びない。だから、使者を遣わせたんだよ」

「使者?」

「ああ。無駄な抵抗をせずに、我らの軍門に下れ、とな。

 その時の使者がミチノオミとオオクメの2人だ」

「父上が信頼している部下ですね」

「そうだ。ところがな、兄の方のエウカシが素直に降伏しなかったんだ。一方で、宇陀の村人達は騎馬兵を恐れて戦おうとしない。

 だから、頭首かしらのワシの命さえ奪えば、神武東征軍は撤退するだろう。そう考えて、罠を仕掛けようとしたんだな」

「父上は罠にはまったの?」

「いいや。弟のオトウカシが兄を裏切って、ワシに騙し討ちの奸計を耳打ちしたのだ」

「へえ。その時からオトウカシ様は父上の家臣になったんだね」

「まあ、そう言う事になるな・・・・・・。

 だがな・・・・・・。ワシとしては、歯向ったエウカシを処罰せねばならん。何もせずに放免しては、舐められるからな。一度舐められると、後の裏切りを誘発してしまう」

如何どうしたの?」

「殺した・・・・・・」

「殺したの?」

「ああ、殺した。だから、オトウカシはワシの事を兄のかたきだと思っているだろうな。ワシに従順な態度を見せてはいるが、内心は煮えくり返っているはずだ」

 俺は父イワレの告白に唖然とした。橿原宮に帰ってから、何事も無い顔でエウカシ様と対面できるだろうかと、不安を感じた覚えが有る。

 無言のままでいる俺の顔を覗き込んだ父イワレは、不敵な笑みを浮かべた。

 その時まで、父イワレの顔に浮かぶ笑顔は、いつも優しい笑顔だった。勿論、叱られた事は何度も有ったが、その時は怒った顔をする。その時の笑顔は、怒った表情とは明らかに違う。でも、奥底では何かがつながっている。そんな不気味な笑顔だった。

 父イワレは猶も話を続けた。

「タギシミミよ。オトシキも同じよ」

「オトシキ様も?」

「ああ。オトシキの兄、エシキはな。この辺りでは最大勢力だった。エシキとオトシキの統べる纏向まきむく村落は、宇陀村落の倍近くの規模を誇っておった。

 彼らとしては、ワシと一戦交えねば、沽券に拘わると考えたのだろう。兵士の頭数だけを比べれば、我らの2倍くらいは居たからな」

「激しい戦闘になったの?」

「いいや。アッサリと勝負は着いた」

「父上の軍勢は強かったんですね」

「彼らが弱過ぎたのだ。神武東征軍の900騎は全て兵士だ。訓練した兵士だ。一方、纏向の村人達は兵士ではない。自警団だ。普段は農作業に明け暮れておる。

 武器だって、槍や弓矢を手にしているが、それは狩猟の道具。身を守る盾も無い。まして、全員が歩兵。我ら、騎馬兵に敵うはずが無い。馬で蹴散らして遣ったよ」

「凄いですね。父上の方が圧倒的だったんですね?」

「ああ。圧倒的だった。ワシは直ぐに「相手を殺すな」と兵士に命令した。「馬で蹴散らすだけに留めよ」と命令を改めたのだ」

「何故です?」

「殺生は憎しみを生む。ワシらの目的は安住の地を得る事。合戦の後でワシらは、纏向村落とは仲良く暮らさねばならん。永劫に戦い合うなど、不可能だからな」

「勉強になります。私はてっきり、軍隊とは敵方を滅ぼす為に存在していると思っていました」

「お前がこの世界を統べるようになった時、今日の教えを思い出すが良い。

 だがな、首謀者だけは生かしておけぬ。これも覚えておけ」

「それで、オトシキ様の兄を処刑なさったのですね?」

 父イワレは、俺の確認に無言の頷きで答え、黙祷を捧げるかの様に瞼を閉じた。

「でも、何故、オトシキ様を放免したのですか? オトシキ様は降伏なさらなかったのでしょう?」

「兄と一緒に最後まで抵抗したな」

「それでは、オトウカシ様以上に、オトシキ様は父上を憎んでいるのではないですか?」

「恐らく、そうであろうな。だが、仕方無かったのだ」

「何ゆえ?」

「三輪山だ」

「橿原宮から東の方に見える、あの三輪山ですか?」

「そうだ。宇陀村落もそうだが、纏向村落、葛城かつらぎ村落の村人達も、三輪山には神が宿っていると信じている。

 その三輪山の神を祀る祭事を代々執り行っているのが、エシキとオトウカシ兄弟の家系だ。兄エシキは処刑しても、弟オトウカシは放免して、祭事を続けさせねばならん。

 三輪山の事情はオトウカシも重々承知していたので、今は何事も無かったようにワシに従っておる。

 仮に祭事を途絶えさせていたら、ワシらは受け入れてもらえなかっただろう」

 父イワレは、先程の不敵な笑みとは違う、何処か疲労感の漂う疲れた笑顔を顔に浮かべた。


 父イワレと俺の竜門岳登りは年に数回の頻度で続いた。もう少し俺が成長して10歳を超えると、父イワレは同じ景色を前にして違う講釈を垂れるようになった。

「タギシミミよ。ワシは眼下の奈良盆地を支配している。だが、支配とは何だろうな・・・・・・?」

 父親の問いの意味が、少年に過ぎぬ俺には理解できなかった。何と答えて良いものやら、適当な相槌を思い付かずに黙り込んでいた。

「ワシやアイラ、お前、弟達、家臣達。みんな、日々の飯を食わねばならない」

 父親の伝えたい事は依然として分からない。

「タギシミミよ。の様にしてめしかてを調達しておる?」

「葛城村落や初瀬はせ村落で収穫されたコメを食べております。コメ以外の飯の糧は、周辺村落との物々交換で仕入れております」

「そうだな。それでは何故、葛城村落や初瀬村落の籾米を手にする事が出来るのだろうか?」

「それは、父上が村落長を兼ねているからです。田圃で収穫した籾米の一部を村落長に納める事は当たり前です」

「そうだな。反面、ワシは纏向村落や宇陀村落の村落長ではない」

「そうですね。オトシキ様が纏向村落長だし、オトウカシ様が宇陀村落長ですね。大和村落にも別の村落長が居ます」

「それでも、ワシは支配していると言えるだろうか?」

 父親の質問に、俺は黙り込んだ。父イワレも俺に返事を期待していなかったと思う。

「各村落を統一して奈良集落とする。その奈良集落長にワシが君臨する。そうすれば、あの金剛山地の向こうに広がる河内かわち集落に匹敵する程の統一勢力となる。

 いや、奈良盆地の方が籾米の生産性で優れるから、河内集落を凌駕する統一勢力になるだろう」

 父イワレは、自身に決意を再確認するかの様に、力強く宣言した。

「父上の描く野心は相当に大きいのですね」

 気宇壮大な父親の力強さに、俺は心を躍らされた。

「でも、今でも父上が実質的に支配しているのではないですか?」

「どうして、そう思う?」

「今、父上がおっしゃった生産性です。高い生産性を実現するには、馬と出雲集落から持ち込んだ鉄器が必要です。父上は馬と鉄器で纏向、宇陀、大和の各村落を実質的に支配しています」

「ほう! タギシミミは幼いが、く社会を見ているな」

 父イワレに褒められた俺は胸を張った。非常に誇らしく感じた事を覚えている。


 あの当時、既に、父イワレは葛城村落の山裾で始めた馬の畜産を軌道に乗せていた。軍馬の繁殖は其処々々に抑え、農作業や運搬作業に投入する在来馬の繁殖を精力的に進めていた。

 在来馬の雌は手元に留め、成長した雄だけを周辺村落との交易対象としていた。春先の種付けシーズンだけ、田植え作業の合間を縫って、雄を牧場に連れ戻す。馬の供給を独占する為であった。

 出雲集落からの隊商も、まずは橿原宮に出頭する。勝手に近隣の村落に直接出向いて交易する事は、御法度として隊商に徹底させていた。鉄器の供給を独占する為の取り決めであった。

 くわすきかまなどの鉄製農具。中でも効果の大きかった農具が、在来馬に牽かせるすきである。

 木材の横軸に鉄製の歯を何本も差し込み、その歯を土に刻んだ巨大な櫛を在来馬に牽かせるのだ。鉄歯の鋭利さと在来馬の馬力が合わさって、従来とは比較にならないほど田圃を深く耕す事が可能となった。

 深く耕せば、作物の根が伸び易くなるし、空気中の窒素が土壌にね入れられる。化学肥料の主要成分は窒素化合物である。この結果、奈良盆地の農業生産性は格段に改善した。

 物々交換の際にイワレは大量の籾米を要求したが、それに反発する庶民は皆無だった。それ以上に収穫量が増えたからだ。

 イワレは馬と鉄器の供給を通じて奈良盆地での地位を不動のものとしていたのだ。


「ところで、父上。如何どうやって父上は葛城かつらぎ村落や初瀬はせ村落の村落長になったのですか?

 纏向や宇陀、大和の村落長の地位も、同じ様にして手に入れたら良いではないですか?」

 父親に褒められて有頂天になった俺は、父イワレを称賛しようと思って質問した。

 父イワレは北西の方角に顔を向けた。

 橿原宮の在る畝傍山うねびやま天香久山あまのかぐやまが眼下に見える。標高904mの竜門岳から標高199mの畝傍山、標高152mの天香久山の二つを眺めると、まるで田圃の中にチョコンと並んで座っている風に見える。

 畝傍山の更に西には葛城村落が広がっている。天香久山を取り巻く狭い田圃エリアは初瀬村落だった。竜門岳からは、畝傍山の手前に天香久山が見える。

 しばらくの間、父イワレは表情を消し、足元の初瀬村落の風景を眺めていた。父親の機嫌を損ねたのかと、俺は内心で慌てた。今から振り返ると軽率な質問だったと悔やむのだが、何も知らなかった俺には予見しようが無い。

「タギシミミよ」

「はい」

 父イワレの呼び掛けに、俺は緊張した声で返事した。

「何年か前。ワシはオトシキやオトウカシの兄の話をしたな。覚えているか?」

「はい」

「初瀬村落でも同じ事をしたのだ・・・・・・」

 父親の紡ぐ述懐に、今度は返事すらしては駄目だと、幼心にも近寄り難い雰囲気を感じた。だから、俺は何も言わず、黙っていた。

「初瀬村落にはヤソタケルと言う豪族が住んでおった。ヤソタケルと対峙したのは、宇陀村落を落とし、纏向村落に向かう途中の忍坂しのぶざかだった。

 今から考えるに、ヤソタケルはエシキに唆されておったのだろうな。滅亡されたくなければ、ワシをたおせと。エシキにすれば、ヤソタケルとの戦いで神武東征軍の戦力が削がれれば、自分にとって有利な展開となるからな。

 小さな村落なのに、ヤソタケルは必死で立ち向かって来たよ・・・・・・。

 初瀬の村人達は、女子供を除き、戦える者は全員、神武東征軍に向かって来た。竹槍を手にして果敢に向かって来た。

 だから、ワシも手加減が出来なかった。多くの死者が出た。殆どは初瀬の男衆だったがな・・・・・・」

 父イワレは口を噤んだ。俺は黙ったままで、父親が再び話し始めるのを待った。

「だがな。その後を考えれば、悪い事ばかりじゃなかった」

 父イワレは思い直す様に、少しだけ元気を取り戻した口調で述懐を再開した。

「一つは、神武東征軍の兵士達の落ち着き先が出来た事だ。初瀬村落に入植したのだ。

 未亡人を娶った兵士もたくさん居る。初瀬村落の女子供が路頭に迷わずに済んだのは、何よりだった。せめてもの罪滅ぼしと言えるかもしれん」

「もう一つは?」

 俺はオズオズと質問を差し挟んだ。そうしないと、父イワレの精神が根の国に行ってしまいそうで、それが怖かった。

 父イワレは俺の方を向き、俺の頭を撫でてくれた。

「葛城村落では戦う必要が無くなったのだ。

 宇陀と纏向が降伏し、初瀬は虐殺に遭った。勝ち目は無いと早々に諦めてくれた。

 ニイキ、コセホギ、イノホギと言う3人の豪族が住んでいたが、村落長の地位を差し出すから、命は助けてくれと懇願して来たのだ」

「その3人は?」

「庶民として今でも農作業に勤しんでおる」

「だから、葛城村落と初瀬村落の村落長を兼ねておられるのですね」

「そう言う事だ」

 話し終えた父イワレは笑顔を見せ、俺に「肌寒くなったな。橿原宮に帰るか」と遠出の仕舞いを告げた。


 西暦243年。四男の叔父ミケヌが、日向集落から橿原宮に移って来た。

 父イワレの母親、つまり俺の祖母となるタマヨリ妃が亡くなったので、叔父ミケヌは日向集落を旅立つ決心をしたと聞いた。それが邪馬台城との盟約だったそうだ。

 俺自身には祖母の記憶が無い。母アイラに連れられた俺が、日向集落を発って橿原宮に来たのは3歳の時。それまでは祖母タマヨリが初孫の俺を甲斐々々しく世話してくれたそうだが、残念ながら記憶には全く残っていない。

 母アイラは異国の地、日向集落で俺を産んだが、その時は既に父イワレは神武東征に出立しており、日向集落には居なかった。心細い想いをしていた母アイラを励まし、大事にしてくれた優しい祖母だったと、以前に母親から聞かされた事が有る。

 叔父ミケヌと対面した時、俺は14歳に成長していた。10年以上の歳月が流れた事になる。

「タギシミミ! 大きくなったなあ・・・・・・。あんなに小さかったのに」

 叔父ミケヌは俺を見て、感嘆の大声を上げた。叔父ミケヌの年齢は23歳。

 俺の身体は、幼児の其れから成年男子の其れへと変化していた。身長も父イワレと遜色無い程に伸びていた。残念ながら、筋肉の厚さ硬さが父親には遠く及ばない。どちらかと言うとヒョロリとした体型で、声変わりを経て低くなった声音だけが大人びている。

「叔父さんが抱子だっこして遣った事、憶えているか? 憶えているはずないよな。

 お母さんから引き離すと直ぐに泣きじゃくってなあ。往生したぞ。ねえ、アイラ義姉さん!」

 久しぶりで橿原宮に顔を出した母アイラが、叔父ミケヌの話に楽しそうな笑い声を立てる。

 ――母アイラの楽しそうな表情は、久しく見ていなかったな。

 と、感傷を伴って思い出した事を俺は覚えている。

「でも、イナヒ兄さん!」

 叔父ミケヌは、次兄イナヒに話し掛ける。叔父イナヒは母アイラの直ぐ傍に座っている。

「何だ?」

「タギシミミの鍛え方が足りないんじゃないか? こんなにホッソリした身体では、イワレ兄さんの跡目は継げないぞ!」

 その時、イスズ妃がキっと目尻を吊り上げ、叔父ミケヌの顔を睨んだ。その瞬間を、今でも俺は鮮明に憶えている。

 俺達は車座になって座っていたが、父イワレは謁見広間の中央奥に座り、叔父ミケヌは対面。父イワレを挟むようにして、片方には母アイラと叔父イナヒ。反対側に正妻のイスズ妃が座っていた。俺は叔父ミケヌの右側、母アイラ側に座っていた。

 父イワレはイスズ妃の鋭い眼光に気付かなかったと思うが、たとえ気付いたとしても知らぬ振りを貫いただろう。実際、イスズ妃と母アイラの同席する場では、父イワレは仏頂面のままで表情を消す事が多かった。

「イナヒ兄さんが鍛えないんじゃ、俺が鍛えて遣る。タギシミミよ。明日から覚悟しておけよ」

 11年ぶりに兄弟と再開した嬉しさで陽気になった叔父ミケヌが、ワハハと大声で笑った。


 叔父ミケヌと再会してから数カ月後。いつもと同じ様に、父イワレと俺は二人切りで竜門岳を登った。

「タギシミミよ。ミケヌの鍛錬はどうだ? 辛いか?」

「朝から日暮れまで、畑でくわを振らされています。橿原宮に戻った時には疲れ果て、夕餉ゆうげを食べたら直ぐに寝ていますよ。そうしないと、身体が持ちません」

「ハハハッ。姿が見えんと思っていたが、畑に行っていたのか。何処の畑だ?」

「葛城村落の方です。畑まで走らされるんですよ。叔父上は馬で行くのに」

「ハハハッ。それは厳しいのう。でも、お前の身体は短期間で見違えるように逞しくなったぞ。

 辛抱してミケヌの鍛錬に付き合うのじゃな。葛城村落の村人達も、お前が畑仕事を手伝えば、喜んでくれるだろう」

「はい。分かっています。

 馬での行き来を除けば、叔父上も畑で鍬を振っていますからね。負けられません」

「アイツも鍬を振っているのか?」

「はい」

「若い体力が有り余っているのだな。

 早く嫁を見付けて遣らねばならんのだろうが、ミケヌよりもイナヒの方が先だからな・・・・・・」

 父イワレの思考は、俺の鍛錬から別の事柄に移った風だった。顎髭を撫でながら、無言で考え事にふけっている。

 俺は「嫁」と言う単語を耳聡く聞き付けた。異性に対する興味が旺盛となっていた。橿原宮では初対面の若い女性に目が行ってしまい、思わず裸体を想像して下半身の緊張を感じてしまう始末だった。

「父上」

「ん?」

「私にも、その内。嫁を探してもらえるのでしょうか?」

「何だ、藪から棒に。女に興味が出てきたか?」

 父イワレの単刀直入な問い掛けに、俺は赤面して俯いた。

「お前も14歳か。そんなよわいにまで成長したと言う事だなあ」

 父イワレは感慨深そうに呟いた。

「だがな、タギシミミ。俺が神武東征に出立したのは16歳の時。

 大叔父ナムジが日向集落を出て、出雲集落に移ったのは15歳の時だと聞いている。ワシの父親ホオリが出雲集落に渡ったのも15歳の時だったそうだ。

 お前も14歳になったのなら、女にうつつを抜かす前に、何か大きな冒険を経験する準備を進めねば、な」

 父親の厳しい反応に、俺はグウの音も出なかった。自分に言い聞かす様に、父イワレの言葉を反芻する。

 ――アレっ? 今、父上は自分の父親をホオリと言ったよな。俺の祖父はウガヤでは・・・・・・?

 一度気になってしまうと、その疑念は中々俺の頭から離れない。

 黙ったままの俺を見た父イワレは、厳しく言い過ぎたかと心配したようで、

「だが、焦る事は無いぞ。今はミケヌに就いて、鍛錬に励んでおれ。いずれ、お前にも試練が訪れるだろうから」

 と、優しい言葉を掛け直した。

「父上。今、父上は父親の名をホオリと言いましたよね? 私の祖父はウガヤではないのですか?」

 父イワレを包む謹厳な雰囲気が緩んだ一瞬、思わず俺は質問してしまった。

 俺の質問を耳にした父イワレの顔に緊張の表情が走る。「迂闊だった」と言わんばかりに少し後悔した表情でもあった。

 だが、直ぐに表情を消し、仮面の様な顔付きでジっと俺の顔を見返す。居心地の悪い無言の時間に負け、俺は「ご免なさい」と父イワレに謝った。

「いや、構わない。いずれ、長男のお前には話さねばならん話だ。二人切りの今こそ、良い機会なのかもしれん」

 そう前振りをすると、父イワレは自分の系譜を俺に話し始めた。


 父イワレの父親はウガヤではない。母親もタマヨリ妃ではない。

 真の父親はホオリと言い、真の母親はトヨタマ姫と言う。祖父と思い込んでいたウガヤも、改名前にはホデリと名乗っていたそうだ。

 産みの親と育ての親は兄弟姉妹の関係にあり、ホオリはウガヤの弟。但し、双子の兄弟。トヨタマ姫は逆にタマヨリ妃の姉だった。

 真の両親であるホオリとトヨタマ姫は対馬海賊にさらわれ、対馬島から脱出する際に自害した。2人の犠牲の御陰で、育ての親タマヨリ妃は幼い父イワレを伴って無事に九州へと逃げる事が叶い、夫ウガヤと出会ったのだ。

 こう言う経緯なので、父イワレと他の兄弟とは血がつながっていない。いや、両親同士は兄弟姉妹なので、血が繋がっていると言えなくもない。

 また、ホオリとトヨタマ姫の誘拐事件に邪馬台城が関わっており、それが原因で邪馬台城と日向集落は何度も戦争を繰り広げた。度重なる戦乱で、俺の曽祖父ニニギと祖父ウガヤは命を落としたそうだ。

 多大な犠牲を払った挙句、邪馬台城と日向集落は戦争終結を決意し、父イワレは神武東征に出立した。その際に叔父イナヒも同行した。俺は知らなかったが、イツセと言う叔父も同行していたらしい。


「残念ながら、浪速なにわ集落の奴らに襲われた際、深手を負って死んでしまったよ」

 父イワレは悲しみを湛えた声でシミジミと呟いた。フっと俺の顔を見遣り、

「今のお前と同じよわい、14歳だった。可哀そうに、女も抱かずに死んでしまった・・・・・・」

 と、付け加えた。父イワレの視線から俺は顔を背けたが、俺の顔に叔父イツセの顔を重ねていたのだと思う。

 ちなみに、その浪速集落を父イワレは討伐している。討伐軍を率いて橿原宮を出立する父親の後ろ姿を、俺は朧気ながら憶えている。

 父イワレは海から攻め入るのではなく、生駒山地を抜け、得意の騎馬戦を仕掛けた。集落長ナガスネを殺し、その跡をニギハヤヒと名乗る者に継がせた。

 ニギハヤヒは、ナガスネの妹を娶っていたが、本人はナムジの隠し子だと主張した。

 ナムジとは、曽祖父ニニギの義弟で、出雲集落長を務めていた人物だ。もう既に亡くなっているが、ナムジは一族の中で最も広い地域を放浪した経歴を持ち、各地の娘との間に子供を儲けたそうだ。

 血縁者を集落長に添えた浪速集落とは現在、友好関係を築いている。父イワレとニギハヤヒは甥と叔父の関係だが、少なくとも妻は「兄の仇敵きゅうてきである橿原宮に胸襟を開くな」とニギハヤヒをそそのかしているだろう。纏向村落や宇陀村落と同様、浪速集落とも水面下で緊張状態が続いていると言う情勢だった。


「叔父イナヒは何故、妻をめとらないのでしょう? 私と違って、神武東征にも参加して、男として十分に経験を積んでいるでしょうに・・・・・・」

 俺は兼ね兼ね抱いていた疑問を父イワレに問うた。イナヒ本人に問うのははばかられたからだ。

「それはな。ワシが結婚させないからだ」

「何故です?」

「誰と結婚させる?

 ワシの部下の娘と結婚させれば、イナヒの位置付けは、明らかにワシよりも格下となる。最初は良くても、その内にイナヒは面白くないと思い始めるだろう。そう言う風に周囲の者がイナヒを扱い始めるからな。

 そうかと言って、誰か村落長の娘と夫婦めおとにさせると、その村落はワシの対抗勢力としてし上がって来るだろう。そのつもりで相手も自分の娘をイナヒに差し出すだろうからな。

 纏向や宇陀、大和の村落との関係が安定するには、今暫いましばらくの時間を必要とするのだ」

「結婚とは難しいのですね・・・・・・」

「そうだな。一族を率いる者には責任が生じる。本人の好きと言う感情だけでは結婚できないのだ」

「父上が2人の妻を娶っているのにも、理由が有るのですね?」

「ああ、当然だ。アイラを娶ったのは、邪馬台城との盟約を果たす為。イスズを娶ったのは、出雲集落との関係を緊密にする為だ」

「それでは、父上は母上を愛していないのですか?」

「ハハハ。聞き難い事をズバリと質問する奴だな」

「ご免なさい」

「今日は構わんよ。お前とも男同士の話をすべき頃合いなのだろう。タギシミミよ」

「はい」

「ワシはアイラを愛しておるよ」

「それを聞いて安心しました!」

 妙に元気付いた俺の反応を耳にした父イワレは、さも楽しそうに笑い声を上げた。

「でも、叔父イナヒは可哀想ですね。独身の暮らしが未だ未だ続くのでしょうから・・・・・・」

 俺の素直な感想に、父イワレは「相応の償いはしておる」と短く答えた。

 その「相応の償い」について、父イワレが俺に真相を話す事は、その後も無かった。

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