第2話 神武東征

 西暦230年。神武東征軍が日向集落を出立してから2年後の出来事である。

 日向集落を出立した神武東征軍は、瀬戸内の各地で歓待を受け、淡路島まで辿り着いた。

 瀬戸内各地で歓迎された理由は、出雲集落長を務めていたナムジが幾つもの稲場いなばを設けて余剰の籾米を貯蔵した事に加え、出雲集落との間で特産品を交易して経済的関係を深めた結果であった。

 但し、経済圏を広げようとするナムジの開拓努力も大阪平野までには及んでいない。此処からは未知の領域に入る。

 ナムジとは、日本神話の国造り伝説や白兎伝説に大国主おおくにぬしとして登場する男性で、イワレの大叔父に当たる。

 新天地への植民が遠征目的であるので、歓待にうつつを抜かし続けているわけには行かない。台風の到来期が訪れる前に出帆するべきであった。

 淡路島まで辿り着いた神武東征軍には、関西への進入路として二つの選択肢が有った。

 一つ目は、イワレが採用したルートで、淡路島北端と明石の狭い海峡を抜け、大阪湾に至る航路。

 二つ目のルートは、淡路島と四国とが向かい合う鳴門海峡を通過して、和歌山に抜ける航路。但し、鳴門海峡には日本一の渦潮が立ち塞がり、弥生人が渦潮の発生タイミングを見極める事は不可能だった。地元民の強い反対を無視してまで採用しようとはイワレも思わない。

 その為、日用品や馬を載せた双胴船は淡路島に留め、兵士の乗ったジャンク船だけで船団を組み、明石海峡を抜けて河内かわち潟に侵入したのだ。

 ジャンク船の数は大凡80隻。1隻に12人の兵士が乗り込んでいるので、総勢1000人弱の大水軍であった。


 当時の大阪平野の地形は、現在とは全く異なっている。

 平たく言えば、大阪平野の北側半分は干潟であった。

 唯一の例外は、大阪城から住吉神社に掛けて伸びる上町台地うえまちだいちのみ。上町台地の標高は低く、北端の大阪城近辺で38m、南端の住吉神社近辺では6mに過ぎない。

 前期縄文時代まで遡れば、干潟すら無かった。

 今よりも奥地まで広がっていた大阪湾は、南から北に向けて半島状に突き出た上町台地に半ば分断され、中央部の括れた瓢箪の様になっていた。東半分の内海、つまり内陸側の内海を考古学的には河内湾と呼んでいる。

 淀川の河口は、現代と比べて遥かに琵琶湖に近く、現在の枚方市辺り。

 大和川の河口も現在とは大きく異なる。生駒山地と金剛山地の間を西に向かって流れ出た後は大きく北にカーブし、幾筋もの流れに分岐して河内湾に注ぎ込んでいた。

 大阪市の中でも、れっきとした陸地だったのは南端の住吉区・東住吉区・平野区辺りに過ぎない。東隣の八尾市も北側半分は内海である。河内湾は生駒山地に迫っていたので、東大阪市や大東市は全域が内海だった。

 5千年以上もの長い時間を掛けて、淀川と大和川は土砂を運び、河内湾を干潟へと変えていった。考古学的には、河内湾から河内潟へと呼称が変わる。

 両河川の運んだ土砂は上町台地にも押し寄せ、天満砂洲てんまんさすとして蓄積され、半島を北に伸ばしていた。

 その結果、ジャンク船が航行可能な水域は、天満砂洲と吹田砂洲すいたさすに挟まれ、干潮時には僅かな横幅を残すのみとなる。現在の場所に比定すると、新幹線の新大阪駅から北に1㎞弱の地点。淀川の支流である神崎川の流れる辺りだった。

 この地形が、イワレ達、神武東征軍の判断を狂わせた。


 上町台地を迂回し、河内潟の入り口に侵入した神武東征軍は、干潟で漁をしていた1隻の小さな漁船に近付いた。

 ジャンク船の大きさは長さ10m弱、幅2m弱。海戦時は2個小隊が乗船し、左右に10人ずつの漕ぎ手が配置されるが、遠征中の今は1個小隊を6人ずつの列に分けている。船底の空いたスペースには食糧や自炊用の土師器はじきなどを積載している。

 漁船の方は丸太船で、やっと2人が前後に乗れる程度の船体だ。

 80隻もの大水軍に包囲された形になった漁師は瞠目し、恐怖の表情を浮かべる。

「我はイワレ。日向集落を統べる者だ。汝らの集落長と話がしたい。

 我らは移住先を探しておる。我らを受け入れてくれれば、イネの収穫は上がり、漁の取れ高も増えるだろう。その為に必要な知恵を授ける。

 そう伝えてはもらえんか?」

 指揮船から声を掛けるイワレ。

 歯をガタガタと震えさせた漁師は、絡繰からくり人形の様にカクカクと首を頷かせる。動揺した漁師の漕ぐオールは虚しく空を切り、中々船速が上がらない。それでも何とか、竪穴式住居が点在する浜辺を目指して引き揚げて行った。


 河内潟を囲むように大阪平野北部に形成された浪速なにわ集落では、半農半漁の暮らしを送っていた。

 大阪平野南部には広大な田圃が広がっていたが、其処は河内集落のテリトリーであり、浪速集落とは殆ど交流が無い。河内集落の農耕技術は稚拙であり、両集落ともに余剰物資を生まないギリギリの経済状態だったので、物々交換の関係が育たなかったのだ。

 漁師の報告を聞いた浪速集落では、集落長の屋敷に集まった村幹事が神武東征軍への対処策を話し合っていた。

「タゴサの話じゃあ、魚の群れみたいに、仰山ぎょうさんの船が集まってるらしいで。船の上には両手の指ほどの兵士が乗っておったそうじゃ」

「全部、若い男なんじゃろう?」

「噂に聞いた“兵士”って言う奴らじゃないか?」

「あの・・・・・・西の方で戦ばかり繰り広げているって言う、奴らの事か?」

「そやないか・・・・・・?」

「その兵士が移り住んだとして、奴らを食わせる余裕が浪速集落に有るんか?」

「タゴサの話じゃ、知恵を授けるから心配すんなと言っておったそうな」

「そんな、けったいな話が有るんかいな?」

「まあ、あんじょう行ったとしてよ。女は如何どうするよ?」

 弥生時代末期の大阪平野周辺には約5万人の弥生人が暮らしていた。

 半農半漁の浪速集落に約8千人、南隣の河内集落に約2万5千人、更に南の和泉いずみ集落に約1万人。河内集落と和泉集落はもっぱら農耕で生計を立てている。

 各集落の周辺にも竪穴式住居は点在しており、それら辺境域を合わせると1万人弱が、縄文時代と大して変わらぬ生活を送っていた。

 浪速集落に話を戻すと、年寄りや子供を除いた労働力人口が約6千人。男女は概ね3千人ずつとなる。その浪速集落に1000人の若い男達が入り込むと、それだけ浪速集落の男達が溢れる事になる。3人に1人は結婚相手を見付けられずに家庭を営めなくなる。

「確かに・・・・・・な」

「浪速集落の女は全て、日向人の男に独占されるぞ。奴らの方が生活力に逞しいはずだからな」

「そりゃ堪らんな・・・・・・。俺の息子が嫁を貰えなくなるのは困る」

 更には、男達の4人に1人が日向人となれば、その発言力は無視できないだろう。

「それだけじゃない。集落長や村幹事の地位も日向人に占められるぞ。

 そのイワレって言う男。年端も行かぬのに、あの大水軍を率いておるのだろう?」

「俺達の地位も危ない言う事か。・・・・・・それは叶わんなあ」

「奴らを追い出すしかないで・・・・・・。でも、如何どうするよ? 俺達に勝てるんか?」

「俺に良い考えが有る」

 集落長のナガスネが謀議を引き取った。悩みを抱えた一堂は、自信に満ちたナガスネの一言に胸を撫で下ろした。ナガスネの知恵には村幹事の誰もが一目置いている。

 ナガスネとは、那賀須泥毘古なかすねびことして古事記の神武東征伝に登場する豪族である。


 漁師の漕ぐ小さな漁船が村幹事の1人を同乗させ、イワレの乗る指揮船に横付けした。

「もう少し、干潟の奥さ、入ってくだせえ。村の漁師に案内させますけえ。

 そして、浜に揚がってくだせえ。全員を労わる事はでけんが、偉い人だけなら持て成す事もできるでしょう」

 イワレは村幹事の誘いを快く受け、大水軍を河内潟の奥へと移動させた。

 9月の夕暮れ。潮が随分と満ちてきた。兵士達は温い海水に足を踏み入れ、バシャリ、バシャリと砂地の浅瀬を2㎞ほど歩いて、浜辺に上陸する。

 浪速集落が用意した薪に火を着け、夕餉ゆうげの支度を始める。夕餉と言っても、周囲の漁民から譲り受けた魚介類を焼くだけだ。それでも、淡路島を出発して3日間、干し肉や干し魚しか口にしていないので、御馳走だった。

 イワレ、イツセ、イナヒの3兄弟。そして、3人の大隊長の6人だけは、集落長ナガスネの屋敷に招待される。

 出雲集落とは交易していない浪速集落には、味噌も酒も伝わっていない。調味料は魚醤ぎょしょうと塩のみ。味付けのレパートリーは乏しいが、イワレ達の食べ慣れたあわび栄螺さざえだけでなく、海老や蟹など、干潟特有の海産物も並んでいた。

 乾物しか食べていない事情はイワレ達も変わらず、粗食であっても陸地で真面な食事を摂ると、人心地が着いた。

 集落長は宴会中も当たり障りの無い内容しか話さない。イワレの方も、先進文明の有り難さは目で見ないと理解できないと心得ていたので、社交辞令的な事しか話題にしなかった。

 そして、数時間の宴会の後、「込み入った話は明日改めて」と仕切り直し、ジャンク船に引き揚げた。浜辺で食事を終えた兵士達も一斉に引き揚げた。

 一方のナガスネ屋敷では、村幹事の一堂が最後の意思確認を行っていた。

「もう潮が引き始めてんからな。干潮の夜半には、奴らの船は身動き出来なくなるやろ」

「予定通り、いてまうのか?」

「当たり前や。若い衆を海に潜ませているんやろ?」

「それは大丈夫や。そやけんど、奴ら。暮らしを豊かにすると豪語していた割には、具体的な事を何もしゃべらんかったな・・・・・・」

「そんな知恵なんか持ってないんちゃうか。俺達の出す食事に満足するようじゃ、あかんやろ」

「ほな、気張るしか無いな」


 ジャンク船の一隻一隻に交代で歩哨が立つ。此処を戦場とは捉えていないが、それがシオツチの軍事訓練で身に付いた習慣だった。

 ところが、戦場ではないと認識していたのは神武東征軍だけであって、浪速集落の方では戦のつもりだった。

 潮騒の響き渡る浅瀬に浮かんだ木片が幾つも波間に漂う。木片の漂流自体は不自然ではない。だが、大き目の木片を浮き輪替りにして、浪速人の若衆が海中に潜んでいた。

 水深は1mにも満たない。中腰に屈み、砂地を蹴る様にしてジャンク船に忍び寄る。歩哨には気付かれないように、潜望鏡の様に水面に出した顔は木片の陰に隠している。右手には漁に使うもりを握り、追加の銛を左手で小脇に抱えている。

 若衆の全員が配置に就いたと思われる頃、リーダー格の若衆が浅瀬にヌっと立ち上がる。

 銛を掴んだ右手を大きく振り被り、勢い強く右腕を前に繰り出す。

 歩哨を目掛けて、銛が一直線に飛ぶ。

 ウっと呻き声を上げた歩哨が翻筋斗もんどり打って、海面に落ちる。

 バシャーン!

 その水音に驚き、船底で寝転がっていた兵士達が起き出してくる。

 水面に浮かぶ歩哨の死骸。胸に生えた1本の槍を認めると、一気に戦闘モードになる。

「敵襲! 敵襲だあ!」

 舷側げんそくに身を隠しながら周囲を見回すも、敵兵は見当たらない。銛を放った若衆は再び水中に身を隠している。

 月明かりで海面は仄かに見通せる。穏やかに揺れる波間には月が幾つもの輝点となって反射している。人影が有れば、見逃すはずがない。兵士達は船縁から顔の上半分を覗かせ海上を見渡すが、木片が波間に漂っているだけである。

 僚船からの警戒の声を耳にしても、80隻前後のジャンク船の全てが反応したわけでもない。何か異変が生じた事は理解できても、その何かが理解できなかった。「敵襲」と言われても、肝心の敵の姿が見当たらない。

 最初に襲撃されたジャンク船の近くに停泊していたジャンク船では歩哨が身を屈めたが、遠くに停泊中のジャンク船では逆に、歩哨以外の兵士も船縁に身を乗り出して状況を確認しようと試みた。

 無防備に周囲の水面を覗いていた兵士の1人に銛が突き刺さる。

 バシャーン!

 波紋が広がる様に、周囲のジャンク船に乗り込んだ兵士達が舷側の壁に身を隠す。

 バシャーン!

 離れた場所で3回目の水飛沫が上がった。

「おい、イツセ! この海域から離脱するぞ。何やら魔物が棲んでいるようだ」

 背中を舷側に押し付け身を隠した体勢で、イワレは隣のジャンク船に乗るイツセに大声で呼び掛けた。

「分かった。兄さん! 部下にオールで漕がせよう」

 だが、イワレの乗る指揮船も、イツセの乗るジャンク船も微動だにしなかった。潮の引いた砂地に船底が埋まっていたのだ。

 遠浅の海が干潮時には船の航行を不可能にする。地元の人間ならば当たり前に知っているが、神武東征軍の兵士達が知っている海は水深の深い日向灘の海のみ。想像できなかったのだ。

 しかも、村幹事がイワレ達を引き入れた時間帯は満潮時。遠浅であっても、ジャンク船の航行には支障無い。それを計算して、村幹事はイワレの指揮船に近付いたのだ。その企みをイワレ達が察知するのは不可能だった。

 砂を掻くオールが重い。オールを漕ぐ兵士の額に玉の汗が浮かぶが、ジャンク船はビクともしない。

「兄さん! 駄目だ。船が埋まっている。重過ぎるんだ!」

「イツセよ。じゃあ、如何どうする?」

「まずは荷物を海に捨てて、船を軽くする。それから兵士を船から降ろし、全員で押すしかない。全員で押せば、少しは動くだろう」

「だが、魔物が襲って来るのでは?」

「相手が魔物ならば、船に隠れていても同じだろう。早く逃げる方が、助かる見込みは高いと思う」

「分かった。こっちの船でも全員を降ろす」

 イワレの指揮船とイツセの船からは、積載していた土師器などが片っ端から投げ捨てられた。派手な音を立てて、水面に飛沫が飛ぶ。鮫の様な魔物が水中に潜んでいると思い込んでいるので、魔物を遠ざける為にワザと騒々しく投げ捨てたのだ。

 残念ながら、イワレ達の思惑とは反対に、少し離れた場所で水軍を監視していた若衆も誘き寄せる事になった。

 次に、兵士達が船縁を跨ぎ、ゆっくりと足先から海に入る。今度は音を立てないように。イワレとイツセの2人も海に入った。

 二つのジャンク船の周囲には複数の若衆が集まり、兵士達の動きを監視していた。イワレとイツセは大声で怒鳴り合っていたので、たとえ水音を立てないように用心しても、その後の行動は筒抜けであった。

 イワレ達26人は2隻の船尾に回る。或る者は肩を、或る者は両手を船体に押し付け、砂地に足を踏ん張った。イワレとイツセの囁く様な掛け声を合図に、兵士達が力を合わせる。

 その様子を水中から眺めていた若衆の1人が立ち上がる。腰から下は水中に隠れている。

 左足を前に出し、右足に重心を載せて、銛を握る右腕を振り被る。そして、渾身の力を込めて、銛を投げ付けた。

 ウッ!

 背中に銛を撃たれた兵士が呻き声を上げる。ギョっとするイワレ達。

「隠れろ!」

 大声で退避を命じるイワレであったが、何処に逃げるべきか?――は、皆目分からない。既に銛を撃った若衆は水中に潜っている。

 反射的に身体を水中に沈める。

――魔物が相手ならば、寧ろ水中に引き摺り込まれ易いかもしれない・・・・・・。

 不安が兵士達の心を鷲掴みする。恐怖にった表情で24個の目玉を必死に彷徨わせる。10mほど離れたイツセの船でも、13人が同じ様に身体を水中に沈めていた。

 次なる襲撃は無い。単調な潮騒だけが辺りを包み込む。

 慣れと言うのは不思議なもので、絶体絶命と思われる状況下でも、船体を後ろ盾にして海中に潜んでいると不安が薄れ始める。新たな思考が再開される。

 絶命した兵士の死骸を盾代わりに抱えていた兵士が、「イワレ様」と小声で呼び掛けた。

「何だ?」

「これを」

 首だけを水面に出して囁き声で交わす密談。兵士は死骸に突き刺さった銛をイワレに見せる。

「魔物ではないな・・・・・・」

 無言で頷く兵士。イワレの一言に、残りの兵士達の表情も変わる。

――相手が人間ならば、対処しようが有る。要は、如何に戦うか。否、如何に逃げるか・・・・・・。

 兵士達の双眸からは恐怖心が消え、代わりに勇猛果敢な光が宿っていた。

「イツセ!」

「何です?」

「敵は魔物ではないぞ! 人間だ。海に潜んでいる人間だ!」

 イワレが大声で隣のジャンク船に真相を伝える。

「何人の敵兵かは分からん。だが、相手が人間ならば、乗り切れるはずだ」

如何どうやって攻撃してきたんです?」

「銛だ!」

「銛?」

「そうだ!

 こうやって船尾に隠れているのは得策ではないだろう。イツセ達は船の右側に回れ! 俺達は左側に回る! 互いに相手の顔を見ながら舷側の陰に隠れていれば、船と船の間を25人で監視も出来る」

「了解した!」

 首だけを水面に出した中腰で2個小隊は舷側に展開した。監視効率を高める為に、約2mの等間隔に広がる。ジィっと水面に目を凝らすが、細波が揺れるばかりである。

――自分達は魔物ではなく、人間に過ぎないとバレた事は敵兵にも伝わっているだろう。あれだけ大声で怒鳴り合っていたんだから・・・・・・。

――攻撃して来ない処を見ると、さては逃げたか?

 クシュン。

 末端で隠れていた兵士が小さくクシャミする。9月とは言え、長時間、海に浸かっていれば体温も奪われる。

 口の中で押し殺したクシャミだが、潮騒よりも遥かに大きな音が鳴り響いた様に錯覚した。それだけ、イワレ達は正体不明の敵兵に慄いていたのだ。

――敵兵だって身体を冷やしているはずだ。やっぱり退却したのか?

――いやいや、ここは我慢の為所だ。軽挙妄動は慎まねば・・・・・・。

 相手の定まらぬ睨み合いが猶も続く。


 更に小一時間が経った頃。新たな動きが生じた。

 ウグゥ~。

 くぐもったうめき声を上げ、イツセが海中に身体を折った。左右で水面を監視していた兵士が「イツセ様!」と叫び、波を掻いてイツセに近寄る。左右の脇の下から腕を差し入れ、一度は水中に没したイツセの身体を抱き上げる。

「イツセ! 如何どうした?」

 10mほど離れた水面からイワレが大声で状況報告を求めてくる。

「イツセ様は敵兵に撃たれました! 大量に出血しています!」

 イツセの腹には1本のもりが突き刺さり、辺りの海水が一段と暗い色に染まっている。

「敵兵は何処だ! 何処から銛を撃った!」

「水中からだと思います! 潜ったままで銛を撃ったのでしょう!」

 兵士の報告に瞠目したイワレは、見開いたままの両目で水面を見回した。月夜とは言え、水中の動きは全く見えない。

 イワレは身震いした。海水に冷やされただけではない。姿を見せない敵兵への恐怖心が背中を這い上がってくる。

「イワレ様! このまま海中に留まっていては、イツセ様の手当てが出来ません!」

 空中で放たれた銛と違い、イツセを撃った銛は水中で突かれたので勢いが減殺されている。これまでに犠牲となった兵士が一撃で絶命したのに比べ、未だイツセには息が有った。

如何どうしますか? イワレ様!」

 指示を求める兵士に向かい、動転したイワレは、

「もう一度、船に上がる。急げ! 皆も急いで乗船しろ! そして隠れるのだ!」

 と、大声を上げた。

 急場凌ぎの指示であったが、能々よくよく熟慮したとしても、これ以上の良策は出ようが無かった。

 体温低下の危険性が有るので、いつまでも水中に留まる事は出来ない。仮に水中に身体を隠していても、攻撃から逃げ切れない事が判明した。

 一方で、イワレ達の手には武器が無い。ジャンク船を押す為に海に入ったので、弓矢や刀、槍の類は全て船内に残している。再乗船し、舷側の壁に身を隠すのが最も相応しい行動だった。

 但し、乗船時には無防備な状態を曝け出す事になる。しかも、敵兵の放つ銛には殺傷力が有る。浪速人の若衆も狙っていたようだ。

 兵士達が両手を船縁に掛け、懸垂の要領で舷側を這い上がろうとした際に、複数の若衆が上半身を水面から浮かび上がらせた。背中を向けた兵士達からは完全に死角である。

 若衆達は次々に銛を放ち、乗船中に7人の兵士が海に落ちた。

 先に乗船した兵士が槍を手にして海に飛び込む。敵兵を牽制する為である。舷側から離れる事なく、海中を槍で目暗撃ちする事で用心した。

 残りの兵士は船上で弓を構え、海面に矢を向けた。

 その間に負傷したイツセを引き上げる。イツセの回収を確認した後、槍を手にした兵士も乗船し直す。


 それからは只ひたすら舷側に身を隠し、時の過ぎるのを待った。

 そうこうする内に、ジャンク船が波に揺れ始めた事に気付く。再び潮が満ち始め、船底が砂地から離れたのだ。

 夜明けまでには未だ時間が有り、周囲は暗い。それでも敵地から離脱する方が先であった。

「者共! オールを漕げ! 今なら船が動く! 此処から脱出するのだ!」

 イワレが大声で命令する。

 まずはイワレの指揮船が航行し始め、少し遅れてイツセの船も動き始めた。漕ぎ手の数が減っている分だけ、イワレの指揮船に比べると船速が遅い。

 この2隻が航海を再開すると、周囲のジャンク船にも脱出の意図が伝わり、三々五々に河内潟からの離脱を始めた。


 イワレの率いる大水軍は、うの体で淡路島に逃げ帰った。

 淡路島で応急処置をしたイツセが健康を取り戻す事は無かった。イツセの腹部を突いたもりの傷は浅かったのだが、運悪く肝臓を傷付けていた。

 治療と静養の甲斐も無く、発熱と黄疸に苦しんだ挙句、イツセは短い一生を終えた。享年14歳。西暦230年の出来事であった。

 イツセを看取った後、80隻のジャンク船で構成される大水軍は、50隻もの双胴船を引き連れて出航する。淡路島を東回りに南下し、和歌山に再上陸する。

 河内集落や和泉集落をも大きく迂回した理由は、敵対行動を取った浪速集落の勢力圏が南方の何処まで広がっているのかが判然としなかったからだ。

――再び河内潟に侵入し、憎き浪速集落に攻め入りたいのは山々だが、残念ながら、我らが奴らのゲリラ戦法を打ち破るのは至難の業であろう・・・・・・。

 昼間であればゲリラ戦法の効果は薄れるはずだが、半日毎に潮が引き、船の身動きが取れなくなる海から攻め込む作戦は、非常に危険性が高い。万が一、陸上戦で予期せぬ反攻を受けたら、海に撤退できないだけに逃げ場が無い。

――我らの遠征目的は移住先を確保する事。先住民が我らに歯向うならば、平定するまでの事。だが、我らの得意な戦法は騎馬戦法。陸地から攻め込むのが賢い遣り方だ。

 イワレは熟慮に熟慮を重ね、そう言う決断をしたのだ。

 イツセの亡骸は、淡路島で火葬する事無く、和歌山まで運んで、其処で荼毘に付した。

 古事記に「神武東征の途中、矢傷を負った五瀬命いつせのみことは紀国で亡くなった」と記述されている背景には、この様な経緯が有った。


 和歌山に上陸した神武東征軍には、幾多の苦難が待ち構えていた。橿原宮かしはらのみやに落ち着くまでには、幾つもの豪族を相手に戦乱を繰り広げる事になる。

 その戦乱を潜り抜けた経験はイワレを逞しくし、押しも押されぬ指導者として成長させた。

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