儚座を追われた皇子~邪馬台国隠滅記2~

時織拓未

第1話 神武天皇暗殺

 西暦247年3月24日、午後5時過ぎ。

 奈良盆地の至る田圃たんぼでは在来馬にすきを牽かせ、田起こし作業を進める姿が見られた。朝日が昇ると同時に農作業を始めているので、夕暮れ時の随分と気温の下がった時間帯にも関わらず、農民達の額には玉の汗が幾つも流れていた。

 額に浮いた汗を右の前腕で拭い、左の拳を腰に当てて背伸びをした農夫が1人。

――今日も暑い一日だった。日没まで、もう一踏ん張りだ。

 自分を奮い立たせ、西南西の方角に見える金剛山地と生駒山地の合間に隠れようしている太陽を眺める。

――うん? 太陽にかげが無いか・・・・・・?

 今度は両手で陰を作り、瞼を細目にして、未だ眩しい残照を放っている太陽を再び見遣る。

「お~い! ゴメス! 太陽さ、おかしくねえか? ちょっと見てみろや」

 呼び掛けられた農夫もまた、右手で庇を作り、太陽を凝視する。

「おお! 小さくなった気がする。何だか、欠けているなあ」

 この日、太陽・月・地球が一直線に並ぶ皆既日食が発生している。アフリカからインド洋を経て、魏王朝の首都洛陽の真上を通って中国大陸を横断し、九州北部に至るベルト地帯では皆既日食が観測された。

 九州北部で日食が繰り広げられた時間帯は、3時過ぎから5時過ぎに掛けての約2時間。3月下旬の日没時刻は6時半過ぎである。つまり、太陽が欠け始め、完全復活するまでの一部始終を観測できた。

 皆既日食となった4時半過ぎの数分間は闇夜の様に真っ暗となった。いや、空に星がきらめいていないだけ、闇夜よりも更に漆黒の闇に包まれたと感じたはずだ。

 その頃、邪馬台城に控える卑弥呼は、狗奴くぬ集落に拠点を構える斯蘆しろ人達の傍若無人振りに頭を痛めていた。太陽が欠けて行く凶事におののき、再び完全なる姿を取り戻した時には大きな安堵の溜息を吐いた。

 一方、ベルト地帯から外れた東に位置する奈良盆地では、皆既日食は観測されないが、月による陰影率が最大で90%を超える部分日食となった。

 しかしながら、日食が繰り広げられた時間帯は5時半から7時半に掛けての約2時間。奈良盆地の日没時刻は6時過ぎである。地平線で観測したとしても、30分強の短い天文ショーに過ぎない。

 日没の軌道が金剛山地や生駒山地に重なる場所で農作業に勤しんでいた者には、夕暮れの暗さが早く訪れたとしか感じられなかっただろう。彼らには部分日食を直に観測するチャンスが無かった。

 広い奈良盆地の中でも、部分日食に気付いた者は纏向まきむく村落の一部の住民に限られたのだが、目撃者は太陽の欠ける怪現象を大騒ぎで周囲の者に伝え、それが三輪山での祭事を司る一族の耳に入った。

 その夜、纏向村落長は橿原宮かしはらのみやに「凶事の兆しが有る故、御用心召されよ」との伝令を走らせた。


 翌朝、初瀬はせ村落の一画で刺殺遺体が発見される。

 初瀬村落とは現在の奈良県橿原かしはら市の南半分に概ね相当する。遺体発見場所は、現在の神武天皇陵と天香久山あまのかぐやまの中間地点。川幅10m程の飛鳥川のほとりの砂洲の上であった。

 四肢を伸ばした全裸の遺体は俯伏うつぶせに転がされており、背中には犂の鉄製歯が深々と突き刺されていた。犂歯すきばの長さは50㎝強。その歯が挿木さしきの様に背中から真っ直ぐに生えていた。

 刺し傷の周囲には血糊が固まっているが、出血の残滓から推察するに、別の場所で殺害してから飛鳥川に運んだものと思われた。

 遺体発見者は、川辺の田圃で田起こし作業を始めた農夫婦の子供達だった。

 在来馬に犂を牽かせるとは言え、田圃の農作業には体力が要る。大人の仕事なのだ。一方の子供達は、目の届く処で遊ばせたいと言う親心と、単に遊ばせておくのは勿体無いと言う経済的事情から、川辺で実を付けるアブラナの種を収集させていた。

 春先に黄色の花を咲かせるアブラナの密集群は現代でも田園風景の一つだが、既に弥生時代から人々の暮らしに取り込まれている。

 稲刈り後、田圃に種を撒いたアブラナは開花を待たずに刈り取られる。開花前に田起こし作業を始める為だが、開花前だからこそ、柔らかい茎や葉は野菜として食するに適している。

 田圃以外に自生するアブラナは、種を実らせるまで放置する。含油量40%の種から菜種油を絞る為だ。

 当時、菜種油を使っている家庭は、奈良盆地の中でも鉄鍋の普及していた初瀬村落に限られていた。鉄鍋であれば炒め料理が可能だが、土師器はじき須恵器すえきを使って調理する場合、食用油として垂らした菜種油が素焼きの陶器に染み込んでしまい、意味を為さない。

 初瀬村落が先進部落だった理由は、神武東征の従事者が根付いたからだ。彼らが出雲集落で製造した鉄鍋を持ち込んだ。

 また、神武東征の従事者には弁韓人も含まれる。弁韓人は、菜種油を照灯油として活用し、日没以降の暮らしを豊かにした。但し、宵闇を手持無沙汰に過ごしても詮無いし、菜種油の取れ高も少なかったので、照灯油として使う時期は日照時間の短い冬季に限られていた。

 そのアブラナの種を摘んでいた子供達が、川辺に倒れている人間を見付けた。子供達は両親に伝え、直ぐに両親は橿原宮に駐在する警邏けいら兵に報告した。

 発見現場に駆け付けた警邏兵は、遺体を裏返して息を飲んだ。

――イワレ様ではないか! 昨夜、天香久宮あまのかぐのみやのアイラ姫を訪れたはずだが・・・・・・?

 イワレとは、日本神話に磐余彦いわれひこ火火出見尊ほほでみみのみこととして登場する男性、崩御後に神武と言う漢風諡号しごうを贈られた初代天皇である。

 奈良集落を統べるイワレには2人の妻が居る。正妻のイスズ妃と副妻のアイラ姫だ。イスズ妃は日本神話に媛蹈鞴ひめたたら五十鈴媛命いすずひめとして登場する女性、アイラ姫は日本神話に吾平津姫あいらつひめとして登場する女性である。

 アイラ姫の方がイワレと結婚した時期は早いのだが、彼女の出自は邪馬台城の侍女だった。一方のイスズ妃は出雲集落から嫁いでおり、彼女の父親はクシミカと名乗る有力者である。奈良県桜井市三輪に所在する大神神社おおみわじんじゃの祭神、倭大物主やまとおおものぬし櫛甕魂命くしみかたまのみことであり、日本神話に大物主おおものぬしとして登場する男性である。

 従って、正妻イスズ妃に気兼ねしたイワレとしてはアイラ姫を冷遇せざるを得ず、アイラ姫は橿原宮を離れ、独りで天香久宮に居住している。

 天香久宮は橿原宮から東に2㎞ほど離れた天香久山の中腹に建立された屋敷である。

 天香久山は標高152mの低い山ではあるが、それなりに雑木林が茂っているので天香久宮から眺望を楽しむ事は出来ない。屋敷の直ぐ傍まで鬱蒼うっそうとした森が迫り、森の牢に幽閉されていると言っても過言ではない。

「卑弥呼に仕えた侍女だったのですから、三輪山の神々の向こうを張って、イワレを神格化するのが相応しいでしょう。奈良集落の人々の求心力を高めるには、イワレを現人神あらひとがみとして敬わせる必要が有ります」

 正妻イスズ妃の主張は、アイラ姫を追い出す目的のていの良い口実に過ぎなかったが、理屈が通っていたのでイワレも無視できなかった。イスズ妃との夫婦喧嘩を避けたと言う側面も有った。

 天香久宮には、アイラ姫の他は、世話をする老夫婦と邪馬台城から派遣された男が1人。全部で4人しか居住していない。当然ながら、極めて小ぢんまりとした木造の屋敷だった。祭事の真似事をさせるのが目的だったはずだが、祭壇や儀礼場も無かった。

 “宮”と称するに相応しい唯一の外観上の特徴は、ふもとから屋敷に至るまでの短い参道の入り口に建てられた赤い門だった。2本の柱を水平材のぬきが固定している。表面を荒削りしただけのかしわの木を使っているので、大した太さはない。

 落葉広葉樹の柏には、冬の間も落葉せず、春の新芽が芽吹く頃に落葉すると言う特徴が有る。だいが途切れない験担げんかつぎに適した縁起の良い樹木だ。反面、木材としての使途に乏しく、隠遁生活を余儀無くされているアイラ姫の境遇を象徴している風でもあった。

 日向集落と邪馬台城の講和条件の一つがイワレとアイラ姫の政略結婚であったので、月に一度、イスズ妃の生理日前後は、イワレも定期的に天香久宮を訪問し、数日の逗留を楽しんでいた。イワレとしても、気性の激しいイスズ妃と接するよりも、心優しいアイラ姫と過ごす時間を楽しんでいた節が有った。


 イワレの他殺体が持ち込まれた橿原宮では、直ぐに親族間で善後策が話し合われた。

 暗殺当時のイワレは35歳。イワレには2人の弟がり、30歳のイナヒと27歳のミケヌは橿原宮にて同居している。2人の弟は日本神話に稲飯命いなひのみこと御毛沼命みけぬのみこととして登場する。

 イワレとイスズ妃の間には、ヌナカワミミとヤイミミと名付けられた2人の息子が産まれており、それぞれ日本神話に神沼河耳命かんぬなかわみみのみこと神八井耳命かんやいみみのみこととして登場する。イワレ暗殺時の年齢は12歳と10歳である。イスズ妃と共々、橿原宮に居住している。

 加えて、アイラ姫との間に設けた息子2人も同居している。タギシミミとキスミミと名付けられ、年齢は18歳と12歳であった。日本神話に手研耳命たぎしみみのみこと岐須美美命きすみみのみこととして登場する。

 アイラ姫は天香久宮に留まったまま。橿原宮に呼ばれる事は無かった。イワレが天香久宮を行き来する道中に暗殺されたと言う事情もことながら、皇族の人間関係を反映した色合いが強い。

 橿原宮の謁見広間では、イスズ妃、イナヒ、ミケヌの3人だけが集っていた。

「当面、次兄イナヒが長兄イワレの代行を務めるのが、宜しいのではありませんか?」

 気を利かせた末弟ミケヌが口火を切った。

 イナヒは無言の表情に応諾の意思を浮かべ、イスズ妃は無言の表情に反抗の意思を浮かべた。

「イスズ義姉さん! 構いませんよね?」

 ミケヌの念押しに、イスズ妃は僅かに口角を曲げ、不承々々ふしょうぶしょうと言う表情で頷く。

 弥生時代の日本では、女性が組織長を務めると言う風習が無かった。唯一の例外は卑弥呼の統べる邪馬台城であるが、世襲を前提とする社会では男が組織長を務めるのが当たり前であったし、奈良集落においても同じであった。

「俺が兄イワレを代行するのは承知したが、各村落長を集めて宣言せねばなるまい。

 葬儀が恰好の場となるだろうが、一方で数日の内には、兄上のむくろを埋葬する必要が有ります。いつまでも兄イワレの魂を此処に留めてはおけぬからな。早急に葬儀の手配に着手しよう」

「兄さん。それと、長兄イワレを殺した犯人を見付けなければ・・・・・・」

「お前の言う通りだ。俺達の身の安全の為でもある。

 ミケヌよ。お前は警邏けいら兵を率いて、犯人捜しを遣ってくれるか? 兵士の運用に長けたお前の能力が活きるだろう」

「分かりました」


 ミケヌの指揮下で犯人捜しが始まったが、警邏兵は現在の警察とは全く違う。現在の業態で例えるならば、警備サービスに近い。犯罪捜査の経験は無く、全てが暗中模索だった。

 手始めに、天香久宮を訪問するイワレを警護した者から事情を聞く。

「我々はイワレ様を天香久宮まで警護しました」

「長兄イワレは無事、天香久宮の建物の中に入ったのだな? すると、帰り道で暗殺された事になるか・・・・・・」

「いえ、ミケヌ様。イワレ様が建物の中に入ったか否かは、我々も目撃していないのです」

「どう言う事か?」

 怪訝な顔をしたミケヌが重ねて問う。

「はい。確かに天香久宮の参道門までは行ったのです。ところが、其処でイワレ様の態度が変わりまして・・・・・・」

「変わったとは?」

「はい。それまでは、軍馬に鞭を入れるでもなく、穏やかな表情で馬上に揺れておいででした。安堵した様子で天香久宮を訪問されるのは、いつもの事なのです。

 ところが・・・・・・」

「ところが?」

「参道門の前に到着されると一転、俄かに表情を曇らせまして、少し怒った様な顔付きで我々に「橿原宮に帰れ!」と一喝されたのです」

「だから帰って来たのだな?」

「勿論、我々も間者の危険を説き、復路の安全確保の為にも留まると抗弁したのですが・・・・・・」

「慌てた様子で人払いした?」

「はい。これより先の事を我々に見せたくない風でした」

 警邏兵の説明内容が腑に落ちず、ミケヌは小首を傾げたままである。

「お前らに対して、何を秘密にしておきたかったのだろう?」

「分かりません。それに、しんば一旦は橿原宮に戻るとしても、翌朝には再び天香久宮に参上します、とも申し上げました」

「長兄イワレは何と?」

「その必要は無い、の一点張りで・・・・・・」

「いつもは何日か逗留するのだろう? その間もずっと警護は不要と言い張ったのか?」

「翌日には橿原宮に戻る故、心配無用だと。物凄い剣幕で追い返されました」

「何が起きたのだろう?」

 当日の状況を知る事は出来たが、長兄イワレが不可解な行動を執った理由は依然として霧の中だった。隔靴掻痒の不快感を覚えながらも、埒の開かない事情聴取を打ち切った。


 数日後、イワレの騎乗していた軍馬が初瀬村落の外れで見付かった。畦道に生えた草を食んでいた軍馬には傷一つ無く、くらも乱れていなかった。軍馬から下馬した状態で暗殺されたと見える。

 一方で、イワレの着衣は発見されなかった。

 イワレは、絹布を繕った七分丈のはかま、同じく絹布の半襦袢じゅばん。未だ夜には冷え込む時期なので、半襦袢の上には熊皮の半纏はんてんを着用していた。きりの板に麻紐を通した下駄を履いていたはずだ。麻布で作ったふんどし以外は、奈良集落の一般住民には手が届かない代物であった。

 物盗りの線を考えて、イワレの衣服の着服者を奈良集落の方々で探したが、所持者を見た者は皆無だった。奈良盆地を囲む山々の奥地に出没する野盗が盗むにしては、狩猟生活には却って不便な衣服なので、考え難かった。

 凶器となった犂歯すきばは、今や奈良集落の至る処で使われている。出雲集落から持ち込まれる鉄器がようやく普及し始めた段階であったが、籾米の収穫を大きく左右する鉄製の犂歯は、最優先で奈良集落の農民達に取り入れられていた。


 ミケヌは天香久宮にアイラ姫を訪ねた。訪問目的は事情聴取である。

「アイラ義姉さん。兄上の事は残念でした」

 わらで編んだ茣蓙布団の上に上半身だけを起こした状態でアイラ姫はミケヌに応対した。ミケヌの訪問直前まで臥せっていたのだ。絹布の小袖を着用し、羽毛の掛布団に重ね掛けする熊の毛皮を、猫背に前屈みとなった背中に今は被せている。

 憔悴し切った表情のアイラ姫は放心状態で、目の焦点も合っていない様子だった。口を固く結び、ミケヌの呼び掛けに対して何も話さない。

――こんなに意気消沈するなんて・・・・・・。アイラ義姉さんは兄上の事を本当に愛していたんだな。

 一人の女性と愛を誓い合った経験の無いミケヌは、アイラ姫の反応に新鮮な驚きを感じたし、長兄を羨ましく感じもした。

――この調子では、アイラ義姉さんから話を聞き出すのは無理だろう。

 そう判断したミケヌは、アイラ姫の寝所を早々に引き揚げた。替りに、邪馬台城の駐在員から当日の出来事を聞く事にする。

 駐在員と世話を焼く老夫婦も天香久宮に居住していたが、アイラ姫の起居する母屋とは別棟で、少しだけ離れている。イワレがアイラ姫を訪れる目的は男女の営みにあり、大声で叫ばない限り、2人の会話内容が付人つきびとに届く事は無い。

 付人用の離れは、母屋同様にひのきの構造部材に杉板で壁を張った木造建築で、奈良集落の一般住民の住む竪穴式住居ではない。茅葺かやぶき屋根だけは共通するが、身分の高い人間である事を如実に物語っていた。

 囲炉裏の掘られた居間で胡坐を組み、駐在員と相対する。王族であるミケヌは絹布で仕立てた小袖羽織に七分丈の袴と言う衣装。駐在員は麻布の貫頭衣。2人共、熊皮の半纏を防寒着として重ね着している。

「長兄イワレが殺された日の事ですが、どなたか、この屋敷を訪れませんでしたか?」

「纏向村落のオトシキ様が訪問されました」

「オトシキ様が? 珍しいですね。義姉上に何の要件だったのでしょう?」

「私は同席していないので要件を知りませんが、オトシキ様は見送りに出た私に、「日没の夕陽に凶事の兆しが見えたので用心するように」と、そう言われました」

「ああ。そう言えば、オトシキ様は橿原宮にも警告に参っていました。橿原宮の後で、天香久宮に立ち寄ったのかな?」

「さあ。私には分かりかねますが、オトシキ様がお見えになった時刻は、ちょうど、私らが夕餉ゆうげを済ませた頃でした」

「直ぐに辞去されたのですか?」

「はい。他に用事も無いでしょうからね」

「それは、そうでしょう。オトシキ様の他には?」

「誰も訪れてはいません」

「そうでしょうね。義姉上を訪れる方なんて居ないでしょうからね。

 ところで、警邏兵に依ると、長兄イワレは正門まで来た時に態度を急変させたそうです。クスビ殿は何が原因だったと思いますか? 何か心当たりが有りませんか?」

「さて・・・・・・、私はイワレ様をお出迎えしておりませんので」

「出迎えていない?」

「はい。イワレ様の訪問日は予告されません。そして、いつも夜が更けてからの訪問となるのです。ですから、私や世話役の老夫婦は普段通りの時刻に床に就きます。朝が早いのでね」

「しかし、母屋の周りには幾つもの灯台を見掛けました。灯台の準備はしていたのでしょう?」

 灯台とは、細目の丸太3本を交差させ縛って作った三脚の上に鉄鍋を置いた物で、高さは1m程である。鉄鍋の中に松脂を塗った松の薪木を入れ、篝火かがりびを焚いている。母屋周辺を見回る警邏兵の照明となり、冬には暖を取る道具となる。

「準備していました。イワレ様の訪問は、そのう・・・・・・、規則性が有りますので、前回から一月ひとつきを経れば、そろそろお越しになるなと見定めるのです。実際、灯台は3日前から準備し始めています」

「そうですか。義姉上も寝床に入って待っているのですか?」

「さあ・・・・・・。ですが、菜種油を注いだ行灯あんどんは部屋に準備しております」

 弥生時代に紙は存在しない。クズヒの言う行灯とは、青銅製のコップ。上半分の側面には無数の小さな穴を開けており、菜種油に落とした麻糸の芯の先端で燃える火の灯りが部屋の壁天井に光明を照らし出す。現代の利器で例えるならば、室内プラネタリウム投影機が近い。

「独りで義姉上は首を長くして待っているのですか? いつ訪れるか、分からぬ兄上を・・・・・・」

「恐らく・・・・・・」

「孤独ですね・・・・・・。

 それにしても、こんな処で暮らしていては、さぞかし義姉上も寂しいでしょう。タギシミミやキスミミは橿原宮で、義姉上とは離れて暮らしていますからね。

 長兄イワレを除けば、クスビ殿。貴方は邪馬台城の方だし、義姉上にとって唯一の話し相手なのでしょうね」

「まあ、故郷の話を懐かしむ分には打って付けでしょう。それが私の役目です」

「それと・・・・・・、邪馬台城の立場で奈良集落を監視するのが貴方の役目」

 ミケヌの指摘を耳にしても、クスビは表情を変えなかった。

「クスビ殿」

「はい」

「長兄イワレが殺害された事で、邪馬台城に動きが出るでしょうか?」

「動きとは?」

「分かりません。邪馬台城と奈良集落の関係に何か影響が出るか? そう言う意味です」

 邪馬台城と奈良集落の間に経済的なつながりは殆ど無い。駐在員が交代する際に、新任の駐在員が絹織物や銅鏡、井草を編んだ茣蓙ござの類を土産として献上するに過ぎない。

 奈良集落が経済的に繋がっている相手は専ら出雲集落である。鉄器、陶器、木炭、味噌、酒などを出雲集落から仕入れ、代金として籾米を供出している。供出された籾米は、出雲集落が瀬戸内各地にフランチャイズした稲場に運ばれる。近畿・中四国の経済圏は出雲集落を中心に運営されていた。

「盟約に従い、イワレ様とイナヒ様は日向集落を立ち退かれた。ミケヌ様も奈良集落に移られた。

 盟約が果たされている限り、邪馬台城が口を挟む事は無いと私は思いますが・・・・・・」

「だが、長兄イワレとアイラ姫の婚姻関係は途絶する事になった・・・・・・」

 ミケヌの言葉を耳にしたクズヒは口角を僅かに歪め、短くフっと笑い声を漏らした。

「婚姻関係を破棄したわけではありませんからね」

 ミケヌの心配を言下に否定したクズヒは、暫く無言で逡巡した挙句、ミケヌの顔を正面から見据えた。

「それよりも、ミケヌ様」

「何ですか?」

 クズヒの真剣な表情に、ミケヌも背筋を伸ばし、居住まいを正した。

「ミケヌ様は日向集落の御出身ですが、邪馬台城でも暮らされた。私は貴方を視野の広い方だと判じております。

 イワレ様が亡くなった今、まま、アイラ姫が奈良集落に留まる事は、果たして賢明でしょうか?」

 ミケヌは、自分を見詰めるクズヒの双眸から、視線を逸らせた。

――クズヒ殿の指摘は的を射ているな。

――長兄イワレの存在がイスズ妃の横暴を抑える歯止めとなっていたが、強欲なイスズ妃の事だ。アイラ姫を追い落とそうと次々に悪企みを繰り出してくるだろう。

――それが奈良集落に禍をもたらさねば良いが・・・・・・。

「何処にアイラ姫をお連れするのです?」

「邪馬台城です。アイラ姫は憔悴し切っております。故郷に帰り、心を癒すべきかと・・・・・・」

「タギシミミとキスミミは、如何どうします?」

「アイラ姫は一緒に連れて帰りたがるでしょうね」

「そうすれば、奈良集落はイスズ妃の思うがままになりますね」

「それが新たな争いを回避する良策です。是非、ご検討ください」

 クスヒは腰を折り、ミケヌに頭を下げた。


 橿原宮で催されたイワレの葬送の儀。

 葬送の儀には、皇族だけでなく、纏向まきむく宇陀うだ・大和の各村落長が参列した。葛城、初瀬の村落長はイワレが務めていたので、両村落からの出席者は居ない。

 アイラ姫は参列していない。アイラ姫は体調を崩したままだったので、イスズ妃の横車とばかりも言えない。タギシミミとキスミミは、イスズ妃の息子ヌナカワミミとヤイミミよりも下座の位置に座って、イワレの亡骸を眺めていた。

 仏教の伝来していない時代の葬儀なので、誰も読経を上げないし、念仏も唱えない。謁見広間の中央に横たえたイワレの亡骸を囲むように座り、瞼を閉じた故人の青白い顔を黙って見下ろすのみである。皇族のみならず、3人の村落長も白い絹布衣装に身を包んでいた事が葬儀らしい唯一の光景であった。

「イワレ様のむくろ荼毘だびに付すやぐらは何処です?」

 纏向村落長のオトシキが、怪訝な表情を浮かべて質問した。

「長兄イワレの骸は荼毘に付さない。骸を磐座いわくらに安置し、しかる後に埋葬して墳墓を完成する」

 イナヒは、憮然とした表情を浮かべながらも、厳かな声音で静かに宣言する。

「何と! 骸を焼かないのですか?」

「そうだ」

「骸を焼かないと、魂が根の国に旅立てませんよ」

「それが日向集落の慣わしだ。その慣わしを踏襲させてもらう」

 イワレの祖父ニニギは可愛山稜えのみささぎに、父ウガヤは鵜戸陵墓うどみささぎに埋葬されている。

「しかし・・・・・・、その様な埋葬は奈良の地で聞いた事が無い。

 幽霊として骸が甦ったらよみがえったら如何どうするつもりなのです? その時には、きっと厄災を招きますぞ」

「長兄イワレが自ら統べた奈良集落に悪さをするはずが無い」

「人間とは死ねば、気が振れるものです。悪霊あくだまとなり、山々に漂うのです。だからこそ、私が三輪山の神々の気を鎮めておるのです」

 奈良盆地周辺の住民にとって三輪山はアニミズム信仰の聖地であり、オトシキの一族は代々祭司として三輪山を崇めてきたのだ。

「悪い事は言いません。イワレ様の骸を荼毘に付すべきです」

「いいや。これは既に決めた事。好きにさせてもらう」

「そんな・・・・・・、身勝手な」

「ちょっと、兄さん。そんな言い方をしては、オトシキ様だって困りますよ」

 険悪な雰囲気になりそうだったので、ミケヌが慌てて執り成した。

「オトシキ様。日向集落で祖父や父を埋葬してから20年余りが経ちます。これまで悪霊が出た事も無く、平穏な日々が続いております。ご懸念には及ばないと思いますが・・・・・・?」

「そう聞いても、気持ちの良いものではありませんが・・・・・・」

「気持ちが悪いですと! 夫イワレの事を気持ちが悪いと言うのかっ?」

 キっと目を向いたイスズ妃がオトシキに噛み付いた。余りの剣幕に全員がピクリとする。

「いえいえ、滅相もありません。ただ・・・・・・、慣れておりませんもので、私らは」

「反対なのか?」

 追い込むイスズ妃の迫力に押され、オトシキも首を左右に振るばかりである。何について否定の意思を現したのかは曖昧だったが、それを了解の意味と解釈した次兄イナヒが畳み掛ける。

「ついては、長兄イワレの墳墓を建設する為、普請ふしん作業に各村落の庶民を徴用したい」

 今度はオトシキだけでなく、宇陀や大和の村落長も異論を挟み始める。

「待って頂きたい。墳墓に埋葬するのは、貴方達の風習。何故、私らが手伝うのですか?」

「夫イワレは奈良集落長。その墳墓建設に尽力するのは庶民の務めでありましょう」

「奈良集落長? イワレ様は奈良の各村落の盟主ではありましたが、支配者ではありませんぞ。我らは同胞、対等の立場にあるはずです」

 イワレは奈良集落の盟主ではあったが、彼の支配力が隅々まで行き渡っていたかと言うと、実態は違う。

 神武東征軍は新参者であり、奈良盆地には既に豪族が割拠していた。自らの存立基盤を抉じ開けるために戦闘に及んだものの、先住民を根絶やしには出来ず、彼らの治世を追認する冊封さくほう政策を採用していた。

 中国の漢王朝も建国当初は冊封政策を採用しており、地方の封建諸侯を滅ぼして名実共に全国制覇を成し遂げた時期は、皇帝の世襲が無事に何代も繋がった後の時代であった。

かつて、夫イワレの軍門に下ったのでありましょう?」

 イスズ妃が嫌味を言う。悔しさに苦虫を噛み潰した風な表情を浮かべ、纏向・宇陀・大和の村落長は押し黙る。

「しかし、今は田起こしの最中。これからしばらく、田植えで庶民は忙しい日々を送ります。

 墳墓の建設にかまけて田圃を疎かにしては、秋の収穫に影響が出ます。冬を越せなくなりますぞ!」

 奈良集落の村民達の生活が脅かされると反論されれば、流石さすがのイスズ妃も矛を収めるしかない。

「分かった。それでは、本格的には稲刈りの済んだ後で、と言う事でどうだ?」

 イナヒが威厳を取り戻すように裁定した。3人の村落長の渋々同意する。

「ですが・・・・・・、労働に見合う報酬を頂きたい。そうしないと、庶民が黙って従いません」

 抜かり無く、大和村落長が釘を刺す。3人の村落長の中で最も親和的な大和村落長に指摘されると、イナヒも無碍むげには出来なかった。

「分かりました。報酬として、普請に参加した庶民には籾米を配りましょう」

 大声でイスズ妃が宣言する。そして、此れ見よがしに舌打ちした。


 ギクシャクした遣り取りを経て、奈良集落はイワレの墳墓造りを進める事になった。

 イワレの亡骸は畝傍山うねびやまの北端に埋葬された。橿原宮の概ね真北400mの場所である。現在、神武天皇陵として治定されている。

 イワレを祀る墳墓の入り口に、イスズ妃は鳥居とりいを建てさせた。

「2本の横串を渡した門は死者に通じる道のしるし。横串が1本ならば、死んだも同然の者に通じる道の標」

 完成した鳥居を見たイスズ姫は不敵な笑みを浮かべて呟き、狂人染みた笑い声を上げた。アイラ姫に呪いを掛けた言葉であった。

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