第5話 とけいじかけのたまご
森の中。昼間なのに日の光はほとんど届かず、あたりは薄暗い。時折聞こえる不気味な鳥の声が不安を煽る。ガム達は迷っていた。ヤクシの町を出発し、クジョウに向かう途中である。
クジョウに向かうにはヤクシの東にそびえるダイジンモ山を越えるのが定石であったが、先の大雨で山道が崩れ、通行が不可能になっていた。そこでもう一つのルートである森を抜けるルートを選んだのだ。森の中にも一応道らしきものが通っていたが、ほとんど通行するものがいないため、草が生い茂ってほとんど用を成さなかった。
さらに運の悪いことに途中で狼の群れに襲われ、逃げているうちに道から外れてしまい、現在に至っている。
「ガム、本当にこっちの方角で合っているのか?」
チギリが言う。
「さっき確かめただろ? こっちが東で間違いない」
道から外れて方角を見失ったガムは、近くの大木を長剣で切り倒し、年輪を観察した。樹木は日光の当たらない北側が成長しにくいので、自然と年輪の幅は北側が狭くなる。
「きゃうっ!」
ガムの後ろで悲鳴。エウァがこけていた。
「おい、大丈夫かエウァ? 今日でもう六回目だぞ?」
「えへへ、ごめんなさい」
立ち上がり、法衣についた泥を払う。
再び歩き出すガム達。
しばらくして、木々の陰が薄くなり、徐々に視界が明るくなってきた。そして森を抜ける。そこは崖だった。
森の中にぽっかりと空いた空白地帯。崖の右手、遙か下方には川が流れている。そして崖の左手には岩の斜面になっていた。斜面の一部から、水が涌き出し、小さな泉を作っていた。
「なんか違うとこに出ちまったな。……泉もあるし、少し休憩していくか」
「そうだね。飲み水も蓄えておきたいとこだし」
チギリがガムに同意する。
「え? 泉? どこどこ?」
「あそこだよ」
ガムが斜面の近くを指さす。するとエウァが泉の方に向かって歩き出す。
「歩きっぱなしで喉が乾いてたんだ~……きゃうっ!」
エウァが小石につまづく。
「…………?」
顔を見合わせるガムとチギリ。エウァがこけるのは今日で七回目だ。思えば、ヤクシを出てからエウァはよくこけるようになった。昨日も五回はこけていた。
「チギリ、ちょっといいか」
ガムがチギリに耳打ちする。
そして、ガムが言った。
「おい、エウァ」
「なに、ガム? ……いたっ!」
エウァの後ろ頭に小石が投げられた。
「急に何するですかガム! ひどいです!」
後ろを振り返ってエウァ。しかしそこにいたのはチギリだった。ガムはエウァの前方から声をかけていたのに、エウァは振り返って、チギリに対してガムの名を呼んだ。
「…………!」
エウァは沈黙する。ガムとチギリは確信した。
「エウァ、お前。目が見えてないのか?」
「…………」
エウァの返事はない。肯定のようだった。
「いつからだ?」
「…………」
「なんで黙ってた?」
「……ごめ、なさい……心配、かけたくなくて……」
「馬鹿野郎!!」
ガムが怒鳴る。びくっ、と体をすくませるエウァ。
「目が見えないってのは戦場では死を意味するんだ! 黙ってる方がよっぽど悪いんだよ!」
「そうですよ、エウァ殿。万が一のことがあったらどうするんですか?」
チギリもエウァを非難する。
「……目が、見えなくなったことがばれたら、見捨てられると思ったから……。ごめんなさい……」
不安に押しつぶされそうだったのだろう。エウァはその場にへたり込んだ。
ガムがエウァの頭にぽん、と手のひらを置く。
「お前は俺の雇い主だ。そんくらいのことで見捨てるかよ」
チギリがエウァの手を取った。
「僕らがエウァ殿の目の代わりになります。だから心配しないでください」
「……ごめん。ありがとう」
エウァが小さくつぶやいた。
◆◆◆
「で、いつから見えなくなったんだ?」
三人は荷物を置いて、泉で水を飲んでいる。ガムがエウァに問う。
「ヤクシを出たあたりから」
「全然見えないのか?」
「ううん。視界がぼやけてる。近寄ればガムとチギリの区別は付くけど、遠くだと薄暗い影にしか見えない」
「何か心当たりはあるんですか?」
「ううん……。わかんない」
チギリの問いに首を振るエウァ。
「クジョウに着いたら、まず眼鏡を調達しよう。今よりはマシになるだろ。それまでエウァはチギリにおぶってもらえ」
「ええ? そんな!? チギリのおんぶなんて、ボクは、ボクは……」
頬に手を当てて照れるエウァ。ガムはそんなエウァに冷淡な視線を向けた。
「いや、マジで。お前さっき下手したら泉とは明後日の方向に歩いて、崖からまっさかさまだったぞ?」
「……うぐ」
沈黙するエウァ。
「ガムの鼻と腕力は森の中で頼りになるからね。その方がいいだろう」
チギリに異論はないようだ。
「さてと、それじゃあそろそろ出発するか」
再び出発しよう三人は腰を上げた。そのとき。
三人は森の中からどす黒い殺気を感じた。ガム、チギリ、エウァはそのプレッシャーに冷や汗が出た。先ほど泉で補給した水分が全部出ていきそうだった。
「これは……」
三人は感じていた。これはシンジニの宿で感じたプレッシャーと同じものだ。
ガムは思った。まさか、俺達を追いかけてきたのだろうか。だとしたら、タイミングは最悪だった。目が見えなくなりつつあるエウァ。後ろには崖。どうやって切り抜けるか……。
やがて森から姿を現したのは、予想通りシンジニの宿の前に現れた、全身を黒い衣装で包んだ、包帯の女。以前と同様に頭の左側を包帯で包んでいる。
そしてその女の車椅子を押す、侍従と思われるメイド服の女。
そしてもう一人。ガム達の知らない人間がその後ろにいた。長い金髪を後ろで束ねた、褐色の肌の女。チューブトップにミニスカートとロングブーツという出で立ちだった。手には槍と斧を合わせたような武器、ハルバードを握っている。そして手首には革のリストバンド。年の頃は二十代半ばといったところだ。
ハルバードの女が言った。
「なんや。先客がおるやんか」
包帯の女が凍るような目つきでガム達を一瞥する。
「貴様等がなぜここにいる」
どうやら、偶然鉢合わせしてしまったらしい。冷や汗が相変わらず止まらないが、ガムが口を開く。
「よお、久しぶりじゃねえか美人さん」
「黙れ下衆が。質問にだけ答えろ」
「あんたの質問に答えたら、名前くらいは教えてくれるのか?」
「……鬱陶しい男だ。……もういい」
包帯の女はハルバードの女に命令した。
「イーダ。あの娘をやれ」
包帯の女がエウァを睨んで言う。ハルバードの女の名はイーダというらしい。
「えぇ? うち、わけわからんのんやけど。お嬢、あいつら誰?」
イーダが包帯の女に問う。
「……お嬢と呼ぶな。あの娘がグロピウスだ」
「ふーん。ロクやんが
「いいからやれ」
「はいはい。了解っと」
イーダがハルバードを構える。
「嬢ちゃんに恨みはあれへんけど、堪忍やで」
イーダがエウァに対して間を詰める。そしてハルバードを振り下ろした。何が起きているか訳が分からず立ち尽くすエウァ。
衝撃音が響く。
イーダのハルバードをチギリのレイピアがいなしていた。地面にめりこむハルバード。
「エウァ殿に危害を加えようと言うなら、容赦はしない」
チギリがレイピアでイーダに突刺を繰り出す。ことのきチギリは、イーダの右の太ももに、逆針の徒のマークが彫られているのに気付いた。チギリの攻撃を後ろに飛び退き、かわすイーダ。
「やるやんアンタ。名前は?」
「チギリだ」
「男前やな。うち、男前には弱いねん」
「何を言っている?」
「男前をしばいて屈服させんのがめっちゃ好っきゃねん。よろしゅうな、チギリ!」
ハルバードを構え直し、イーダがチギリとの間合いを詰める。チギリは応戦するためにレイピアを繰り出した。
ハルバードは槍と斧の特性を持った武器だ。斬りと突きの両方で攻撃できる利点がある。そして武器のリーチが長いため、相手に懐に入られる前に攻撃できるのも利点だ。そしてイーダ自身も女性にしては長身であり、それに見合った腕の長さをしている。武器にハルバードを選んだのは、そんな自分の特性を知ってのことだろう。
そのため、チギリは防戦に徹していた。イーダのハルバードの突きをいなし、斬撃をかわす。数少ない隙を見つけては突きを繰り出すが、イーダに届く前によけられるか、ハルバードの柄で弾かれてしまっていた。
チギリは思った。このままじゃ埒が開かないな……。
イーダがハルバードを振りかぶり、チギリに振り下ろす。チギリはそれを紙一重でかわす。地面にめり込むハルバード。イーダの一瞬の硬直を見逃さず、チギリは一歩踏み込んだ。
「!」
イーダが目を見開いた。
イーダに必殺技を繰り出すチギリ。イーダの頭、両手両足、腹をほぼ同時に攻撃する。イーダの体が後方に吹き飛ばされる。はずだった。
実際は、イーダの体は数歩分後ろに弾かれただけだった。チギリの攻撃はイーダに全て防がれていた。
イーダはハルバードを手放し、両腕を体の前で構えていた。イーダの両腕のリストバンドの革がずたずたに引き裂かれ、中から金属が覗いていた。
「あぶな~。そんな奥の手隠し持っとったんかい」
チギリは心中で動揺していた。体の六点をほぼ同時に攻撃するこの技は、相手の体を捉えれば必中が基本だ。六点のうち一、二点を防がれることはあっても、全て防がれることは今まで一度もなかった。
イーダの拳がチギリの顔面を捉えた。尻餅をつくチギリ。
イーダがハルバードを拾い上げ、チギリを見下ろした。
「動揺が顔に出とんで。きばりや」
チギリが立ち上がり、レイピアを構え直す。
「女と思わない方がいいようだな」
「あら、うちのこと女として見てくれるん? 嬉しいわあ。なら、うちと付き合ってみいひん?」
「断る。僕には守らなければならない主がいるからね」
「つれへんなあ。でも、そんな一途なとこも好きやわ」
「それは光栄だ。……今度はこちらからいくぞ」
「望むところや!」
チギリとイーダ、二人の間に剣戟が響く。
「遊びに興じるなと言っているのに。……イーダの悪い癖だ」
包帯の女がつぶやく。
「キリ。お前が娘をやれ」
包帯の女がメイド服の女に命じる。
「かしこまりました。お嬢様」
キリがエウァに一礼する。そして、キリの腕が振りあげられた。手の中で何かがきらめく。
「!」
ぎぃん、と金属同士がぶつかる音がした。ガムがエウァの前に長剣をかざしていた。
からん、と何かが地面に落ちる音。ガムが音の正体を確かめる。それは投げナイフだった。
キリの投げたナイフをガムが長剣で防いだのだ。
「ガム! 大丈夫?」
エウァが言う。
「ああ、問題ない。お前はそこを動くな」
こいつは一体何者なんだ? ガムは内心驚いていた。
キリと呼ばれる女に全く殺気を感じなかったのだ。まるで日常の動作をこなすように殺しにかかってきた。普通戦闘となれば、殺気や熱意、怯えあるいは焦燥などの感情が生まれるものであるが、キリにはそれがなかった。例えていうなら、キリにとっては料理するのと人を殺すのが同じレベルの行動として捉えられていると言ってよかった。
「……お嬢様。当たりませんでした」
「あと百回やれ」
「かしこまりました。お嬢様」
再びナイフを投げ始めるキリ。次は、連続で何本も投げ始めた。ガムは次々に飛来するそれを打ち落としていった。
キリの投げナイフの腕は精密だった。全てがエウァの体に当たるように投擲してくる。だが、それゆえにどこに投げてくるのかが読みやすかった。ガムは思った。このまま相手の体力の消耗あるいはナイフが尽きるのを待てば反撃できると。
一〇本。二〇本。三〇本。
キリから次々とナイフが飛んでくる。
四〇本。五〇本。六〇本。
ガムは次々とナイフを打ち落とす。
一体ナイフを何本仕込んでやがるんだ?
七〇本。八〇本。九〇本。
キリは三分ほどナイフを投げ続けているが、彼女に疲労の色はない。
ガムは思った。この女、見かけによらず体力はあるのか?
さらに一本のナイフがガムに投擲される。ガムはそれを長剣で打ち払った。だが、そのナイフの直後にもう一本のナイフが隠れていた。
ガムは驚愕する。同じ軌道のもう一本!?
ナイフがエウァに迫る。ガムはのとっさに左腕でナイフを防いだ。ナイフがガムの左腕に刺さる。
「ぐっ……!」
刺さったナイフを抜き、放り捨てるガム。
「ガム、どうしたの!?」
「一本当たっちまった。だが、大したことはない」
ガムが両膝を地面につく。長剣を手放す。
「なんだ……? 体に、力が入らない……」
そのままうつ伏せに倒れるガム。ガムは打ち落としたナイフを見た。ナイフの刃には何か液体が塗られている。なんらかの毒薬らしい。
「ガム!」
ガムの劣勢を見取って叫ぶチギリ。
「よそ見しとる暇はないでえっ」
イーダがチギリを攻めたてる。チギリはその場から動けなかった。
「ようやく倒れたかドチンピラが」
ガムを見下ろしながら包帯の女が言う。
「キリ。あの娘のところまで私を連れて行け」
「かしこまりました。お嬢様」
キリが包帯の女の車椅子を、エウァの前まで押す。
「やめろ……」
かろうじて顔を上げ、うめくガム。
「黙れドチンピラが。お前はそこでクソして寝てろ」
包帯の女がエウァを見下ろす。世界中の憎悪を全て凝縮したような視線がエウァを射る。その迫力の前に、エウァの体はすくんで動かなくなってしまった。
「グロピウスの娘よ。呪われた血よ。世界に打ち込まれた
「あ……、あ……」
エウァがうめく。
「エウァ殿!」
チギリが叫ぶ。
「やれ、キリ」
「かしこまりました。お嬢様」
キリの手に握られたナイフがエウァに振り下ろされる。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
ナイフがエウァに当たる直前。ガムが包帯の女の車椅子に体当たりした。ガムから見て、包帯の女の影にいたキリに車椅子が当たり、キリはその場に転んだ。体当たりのはずみで車椅子から放り出される包帯の女。ガムと一緒に崖の外へ飛び出した。エウァは何が起こっているのかわからなかった。
「ガム!」
「お嬢様!」
チギリとキリが叫ぶ。
そのまま崖から落下するガムと包帯の女と車椅子。
遙か下の谷川に、飛沫が三つ。
崖の下を覗くキリ。
「お嬢様……」
エウァは訳がわからず座ったままだ。
チギリとイーダは互いに距離を取り、牽制している。イーダが構えていたハルバードを下ろした。
「一時休戦や、チギリ」
「何だって?」
「えらいこっちゃ。うちはお嬢を助けに行かなあかん。あんたもあのウニ頭、助けに行かなあかんとちゃうん?」
チギリは数秒考え、レイピアを鞘に戻した。
「そうだな……、一時休戦しよう」
「自分はうちの好みやし、殺すのは惜しいし良かったわ」
イーダが不適に笑う。
「馬鹿言え」
「あーん、いけず」
チギリはエウァの元に駆け寄った。
「エウァ殿。お怪我は?」
「うん。大丈夫。それよりガムは?」
「谷川に落ちました」
「ええ!? 大丈夫なの?」
「ガムは悪運の強い男です。簡単には死にません。探しに行きましょう」
「……うん」
心配そうに頷くエウァ。
イーダは崖の下を覗くキリの後ろ襟を掴んで持ち上げた。
「あんまり端っこにおったらあんたも落ちるで? お嬢探しに行くで。ついて
「はい」
持ち上げられた状態でキリが頷く。
チギリとエウァ、キリとイーダの四人は一時休戦し、それぞれガム、包帯の女を探しに行くこととなった。
◆◆◆
薄暗い洞穴の中。洞穴を照らす、たき火の灯り。洞穴の隅には獣の小さな骨が転がっている。
たき火の周りに二人の人影。一人はガム。下半身はズボンをはいているが、上半身は裸だった。左手に歯形がついており、そこから血が滲んでいた。ナイフの毒薬の痺れを一時的に緩和するため、自分で皮膚を噛みちぎったのだ。
もう一人は包帯の女。全裸で、ガムの所持品である黄ばんだ白い布にくるまって寝転がっている。女の肌は磁器のように白く艶やかだった。病的に白く、深窓の令嬢という言葉がぴったりだった。包帯の女は気を失っているらしく、目を覚まさなかった。たき火の周りには、小枝に支えられたガムと包帯の女の服がそれぞれ干されていた。
「思ったよりすぐに血が止まったな。なんでだ?」
ナイフの傷跡が残る左腕を眺めてガムがつぶやく。割と深く刺さったはずだが、既に血が止まっている。痛みももうなくなっていた。
「さて、どうやってチギリたちと合流するかな」
ガム達は谷底の川に落下した。水深が深かったため一命を取り留めた。しかし、なぜか一緒に落ちてきた包帯の女も助けてしまった。落下するときに既に気を失っていたのか、泳げないのか知らないが、包帯の女は水中で全く動かなかった。それを見たガムの体が勝手に動いてしまったのだ。
「取りあえずクジョウを目指すか……。行き先を考えればチギリもたぶんそうするだろ」
服が乾いたら出発するか……。ガムがそう思っていると、包帯の女がうめいた。
「う……ん……」
そしてゆっくりと目を開き、その視界にガムの姿を捉える。
「気づいたか?」
「……ドチンピラが……。よくもやってくれたな」
憎悪を込めた視線がガムに向けられた。相変わらず殺気を放ってくる女。ガムはその視線に内心たじろぎながらも、軽口を叩いた。
「俺の名前はガムっていうんだ。良かったらあんたの名前も教えてくれよ、美人さん」
「下衆に名乗る名などないわ。それより貴様、どうして私を助けた?」
「知らねえよ。体が勝手に動いちまったんだ」
「愚か者が。敵を助けるなど、貴様は何を考えてるんだ」
「あんたは俺たちを敵って言うけど、俺はあんたがなんで俺達を敵っていうのかさっぱりわからねえ。なんでだ?」
「貴様がグロピウスの娘と関わっているからだ」
「エウァのことか? エウァが何だってんだ。ただの子供じゃねえか」
「愚か者が。私はグロピウスの、と言ったんだ。私は世界を壊したい。そしてグロピウスの娘は世界の心臓だ。だから殺す」
「世界を壊したい? それは大層なことだな。なんでだ?」
「世界は腐っている。人は人を殺し、人から奪い、人を貶め、人の不幸を願うばかりだ。そんな生物は生きていることに価値がない。滅ぶべきだ」
「極論だな。人はそこまで価値がないか? 俺は人のために自分の身を削る人間も見てきたぞ?」
カイリンツメのシンシアなどまさにその代表だった。
「そんな人間は他人に利用され、搾取されるのがおちだ。結局、悪貨は良貨を駆逐する」
「お前の過去に何かあったのか?」
ガムは包帯の女の目を見ていた。何があれば人間の目は底なし沼のように、様々な色の絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた結果生まれるような黒色になるのだろうか。しかも二十歳前後くらいの歳で。
ガムは包帯の女に問う。
「あんたがさっき言った、世界の心臓って何のことだ?」
「呆れたな。何も知らないのか?」
「何をだ?」
包帯の女は言った。
「世界を滅ぼすのはグロピウスだ」
◆◆◆
「お嬢の名前はニャギっていうねん。かわええやろ?」
「はあ、まあ……」
変わったお名前ですね、とチギリは心の中でつぶやいた。
森の中を歩くチギリとイーダ。チギリとイーダの間には若干の距離がある。一時休戦しているものの、チギリはイーダに対する警戒を解いてはいない。イーダのハルバードが届くぎりぎり外を歩いていた。エウァはチギリにおんぶしてもらっている。キリはイーダの隣を歩いている。
イーダはチギリの警戒を意に介していないらしく、チギリに一方的に話しかけていた。
イーダはジプシーの一族らしく、世界を放浪して歩いているという。生まれてからずっと一族で放浪しながら生活してきたが、あるきっかけから一人で放浪するようになったという。
「お嬢の目ぇ、めっちゃ恐いやろ? あれでも丸なった方なんやで?」
「はあ、そうなんですか」
気のない返事のチギリ。
「あれは四年前やわ」
イーダはある国で、高級宿に泊まることになった。そこのロビーで激しく責任者を罵っている客がいた。それがニャギだった。ニャギは責任者に理不尽な要求をしていた。部屋が汚い。料理がまずい。景色が悪い。従業員の対応が悪い……数え上げればきりがなかった。ニャギのメイドであるキリがなだめたが、ニャギは一向に聞く耳を持たなかった。
「そこの国で最高のサービスを提供する宿やで? 嘘みたいやろ?」
一時間程、責任者に対するニャギの罵倒は止まらなかった。ニャギは責任者に土下座して謝るよう強要した。ニャギの要求に応じなかった責任者にニャギは言った。
こんな宿は存在している価値がない。町から消え去るべきだ、と。
そしてニャギはキリに責任者をリンチするように命じた。キリはその命令に躊躇した。それでもニャギはキリを脅し、リンチを強要した。キリは命令に従うしかなかったので、リンチを実行しようとした。
それを見ていたイーダが、ニャギの頬を平手で思い切りビンタした。
「うちの方がキレてもうてん。あんときのお嬢のきょとんとした顔は忘れられへんわ」
イーダはニャギを諫めた。
何があったんか知れへんけど、ワレがやっとんのは単なる八つ当たりや。公衆の面前で責任者に恥をかかせようとして、ワレは何様のつもりや。ワレはそんなに偉いんか。人の居場所を奪えるほど偉いんか。と。
「そっからお嬢との付き合いが始まってん。うちも特にやることなかったし、つるんでみよと思てん。そんで色々話しとったら、あいつほんまに名家のお嬢さんやってな」
けらけらと笑うイーダ。
「だからうちはお嬢のこと、お嬢って呼んでんねん。あいつは嫌がっとおけど。いちいち反応すんのが
「わからないですね」
チギリが言う。
「なんが?」
「あなたがエウァ殿の命を狙う理由ですよ」
「あなたなんて、他人行儀な言い方せんでよ。ダーリン」
「誰がダーリンですか」
切り捨てるチギリ。背中でエウァがムッ、と眉間にしわを寄せている。
「あなたは人の気持ちが分かる人です。なんでエウァ殿を害そうとするんですか?」
んー、と考えるイーダ。
「詳しいことは言えへんけど、うちはお嬢と一生つるむって決めてん。そんでお嬢の目的を成し遂げるために力を貸すって決めてん。これは譲れへんし。悪いけど」
「じゃあ、なぜ今仕掛けてこないんです? そちらは二人だ。そして僕は両手がふさがっている。絶好のチャンスじゃないですか」
「お嬢が直接やらな意味ないねん」
「どういうことです?」
「そのへんはお嬢に聞いてや。うちの口からは言えへん」
「そうですか」
しばらく無言で進む四人。イーダが思い出したように言った。
「ところでダーリン。『とけいじかけのたまご』って知っとる?」
イーダはチギリをダーリンと呼ぶと決めたらしい。
「何ですか急に? もちろん知ってますよ」
『とけいじかけのたまご』とはクロノス王国に広く普及している子供向けの絵本だ。必ず一家に一冊あるといっても過言ではない。その内容は以下のようなものだ。
昔々あるところにひとつの村がありました。村の真ん中には大きな時計がありました。村人たちは時計を頼りに朝起き、日中は畑仕事をし、夕方には仕事を終え、夕食をとり眠りにつきました。そして毎日、同じように規則正しく過ごしていました。
しかしある日、時計が止まってしまいました。
すると村には雲が立ち込め、雨が降り始めました。雨は一年以上降り続け、農作物が取れなくなりました。村人は飢え、さらに疫病がはやり、次々と倒れていきました。
村の僧侶はこの事態を、時計が止まったことが原因に違いないと考え、遠くの町から時計の修復師を呼び、時計を直してもらいました。時計が直り、再び時を刻み始めると、やがて雨は止み、村には平和が戻りました。
物語のあらましを語り終えたイーダが言う。
「結末では一見村人が全員救われたように締めくくられとる。でも、本当は
ロクシーが語った『懐中時計』の修復の真実を、エウァから聞いたチギリは薄々感じていた。童話『とけいじかけのたまご』の内容と重なると。
「そんでな、この本と内容の酷似した童話や言い伝えが、世界中にあんねん。うちは世界中を渡り歩いてきたから知っとんねん。クロノス王国以外の国、大陸、海を越えた島々にもな。タイトルとか登場人物こそ
「どういう……ことです?」
「おいおいダーリン、しっかりしいや。エウァちゃんからなんか聞いとおやろ?」
チギリはわからなかった。イーダの示唆していることが。
「エウァ殿、わかりますか?」
「…………」
エウァは無言だった。どこか思い詰めた顔をしている。
「エウァちゃんは感付いとんねんな。名門グロピウス家の面目躍如やな。ダーリンはわからんし。特別サービスで教えたるわ」
イーダは言う。
「製作者がおんねん。この世界の」
チギリは訳がわからなかった。イーダはチギリに言う。
「これはアホ教会がゆうとる『神』とかのことと
「待ってください。……信じられないです」
「うちも信じられへんわ。自分が世界を機能させるための部品のひとつやなんて思いたない。でもな、世界中に共通認識が存在する物語、いわば設計図があるっちゅうのが証拠やで」
「エウァ殿。本当なんですか?」
「……世界中に『とけいじかけのたまご』に似た内容の物語があるのは本当だ。だけど、それ以外の物語でも、似た内容の話は世界各地に数点存在する。イーダの言う『製作者』の実在は決定的じゃない」
エウァが言った。
「まあ、そうやな。今まで誰も『製作者』なんて見たことある奴はおらんし。せやけど『製作者』は時計のズレを決して許さへんという『作為』がある」
「作為?」
チギリは問う。
◆◆◆
「グロピウスが世界を滅ぼすだと?」
ガムがニャギに問う。
「ああ、グロピウスの娘は『世界の心臓』として機能している」
「『世界の心臓』って何のことだ?」
「貴様はこの世界に『製作者』がいると思ったことはあるか?」
「ちょっと待て。一気に色々と言われてもわからねえ」
「説明するのが面倒だ。この世界を時計と考えろ」
「時計?」
「お前は時計の部品のひとつだ。私もな……。時計は当然正確な時間を刻むのが使命だ。『製作者』はそのズレを決して許さない。より精密な時計を構築しようとした」
「…………」
「だが『製作者』は、世界を作る過程で力を使い過ぎ、途中で時計を進化させる力が足りなくなってしまった。そのため『製作者』は直接時計の構築に関わることができなくなってしまった。だが『製作者』は精密な時計を構築することを諦めなかった。そこで時計の構築をある人間に託した。自身の使いとなる者を」
「それがグロピウス家ってことか」
「そうだ。グロピウス家が機能することで時計は、いうなれば世界は正常に時を刻む」
「世界にとってのグロピウス家が、人間にとっての心臓と同じってことか。それでグロピウス家は『世界の心臓』ってか」
「世界の時がズレたときに、『製作者』は調整を行う。何を切り捨てれば、『製作者』が目的とする時計へと進化するのか」
「……まさか、その調整ってのは」
「意外だな。知っているのか? そうだ」
製作者が行おうとする調整が『終末時計』のズレとなって現れる。
ニャギは言った。
「『終末時計』はあの娘の持つ『懐中時計』に連動している。そして『終末時計』は『世界の心臓』と一連託生だ。グロピウス家はそういう意味で呪われている。未来永劫な」
「……何だって?」
ニャギのセリフにガムが疑問を持つ。
「『世界の心臓』を壊すことで、私は世界を壊す」
「一連託生って何のことだ!?」
ガムが身を乗り出し、ニャギに問う。
そのガムを、いや、ガムだけでなくニャギも大きな影に覆われた。洞窟の入り口を塞ぐほどの巨大な熊が立っていた。巨大熊の右前足がニャギの体躯めがけて振り下ろされた。
◆◆◆
「何を証拠にそんなことが言えるんですか?」
チギリがイーダに問う。
「詳しい年号や数は知らんで? けど歴史を見とったら、最初は数えるほどしか存在せんかった国が、百何十にも増えてん。せやけどある年を境にまた数が減っとる。戦争を繰り返して、ある国が別の国を呑み込むっちゅう形で」
チギリとエウァは何も言わない。それは事実だった。
「何千年先になるかは知らんけど、最終的に国はひとつだけが残るやろうと推測しとる。それも戦争いう形で、数え切れんくらいの死人を出した結果な」
チギリは思った。その引き金を引くのが、グロピウス家が行う『懐中時計』の修復だというのだろうか。膨大な犠牲を出す前に、エウァの命を奪おうというのだろうか。
「せやけどうちは『製作者』がおるなんて心の底では
イーダの目が昏くゆらめく。チギリがイーダに問う。
「一泡吹かすって、誰に?」
「『製作者』や」
「それは……なぜ?」
「ダーリンのそれ、クロノス王国の騎士の鎧やろ」
急に話を変えるイーダ。チギリは戸惑ったが、答えた。
「はい。それがどうかしましたか?」
「なんでダーリンは騎士になったん?」
「それは、困っている人、苦しんでいる人を守るためです」
「それは、助けを求めとる人全員っちゅうこと?」
「……全員は無理でも、できるだけ多くの人を救いたい。世界には悪政や飢え、貧困で苦しんでいる人がたくさんいる。僕の力で救えるなら、そういう人たちに手を差し伸べたい」
「はっ、気に食わんな」
イーダが足を止め、チギリを鼻で笑った。
「……何ですって?」
「気に食わん、言うとんねん。なるべく多く人を救いたい? 騎士ごときが何をいきっとんねん」
「……聞き捨てならないですね」
「ほんなら聞くけどな。飢えて死にそうな子供がおる。ダーリンはその子供を見てどないする?」
「……食料を分け与えます」
「そうやな。そしたらその子供は飢えから救われるかもしれん。でもその後、その子供が戦争に巻き込まれて死んだらどうする? それはその子供を救ったことになるんか?」
「それは…………」
「
じゃあ、質問を変えるわ。ダーリンがさっき助けた子供、ダーリンのおかげで成長して、どっかの国の騎士になったとする。戦争になってダーリンには王国から出撃命令が下された。攻撃目標の国の騎士の中に、前にダーリンが助けた子供がおる。ダーリンはその騎士を殺せるんか?」
「……それは…………」
「じゃあ、アンタはその騎士に殺されてもええんか?」
「…………」
チギリはイーダに言葉を返すことができなかった。
「できひんやんな? アンタは優しいし。多くの人を助けたいし。やけどな、中途半端やねん。アンタの優しさは。人間は自分のことで手一杯や。一生で人一人救えるかどうかもわからんねん。……それやのに、多くの人を救いたいとかお前どんだけ偉いねん。いっこだけ
覚悟もないのに人を助けたいとか言うなボケ! 気ィ悪いわ!
イーダがハルバードを構える。
「何を……?」
チギリが戸惑う。
「こんなん
二人の間の空気が張りつめる。チギリもレイピアの柄に手を掛ける。
「……お前みたいなやつがおったらお前の仲間危険に晒す。仲間が殺されてお前が後悔する前に、うちが殺したるわ」
足を矯めるイーダ。
「……やめてください」
「ここまできてまだ迷っとんかい。その優しさはもう悪や。死ね!」
イーダの体が弾けるようにチギリに突貫した。
◆◆◆
巨大熊の右前足の一撃がガムの右肩を切り裂いた。血が噴き出す。ガムがニャギの前に身を乗り出していた。ガムはうめいたが、とっさ立ち上がり、ニャギの体を布ごと引きずって洞穴の奥側、たき火の後ろに移動させた。ガムがニャギを背に巨大熊と対峙する。入り口は巨大熊の体でふさがれた格好だ。どうやらこの洞窟はこの熊の巣らしい。
「おい、お前!」
ガムがたき火を前方に、そしてニャギを背にして言う。
「俺が奴を引きつけるから、その隙に這ってでも逃げろ!」
「愚かな……敵に情けをかけるつもりか?」
「そんなこと今はどうでもいい! お前の帰りを待ってる奴がいるんだろうが!」
「……私のことは捨て置け。私と一緒に死にたいならば話は別だが」
ニャギは微動だにしなかった。
ガムは思い出した。崖の上での戦闘中、ニャギは移動を全てキリに命じていた。そしてこの洞穴でニャギが目を覚ましてから小一時間ほど話をしていたが、その間ニャギは全然動かなかった。頭を頷かせる程度だった。ガムは思い至った。この女は両手足が不随なのだと。
「……馬鹿野郎! 強がってないで、動けないなら動けないって言え!」
じりじりとガムとの間を詰める巨大熊。どうやらたき火を怖がって、簡単には踏み込めないようだ。
「おい、お前」
再びガムがニャギに呼びかける。
「俺があの熊を倒す。そんで一緒に出るぞ」
「……貴様は馬鹿なのか? あんな巨大な熊に人間が勝てるわけがない。格好つけてないでお前一人で行けばいいだろうが」
「ああ。俺は馬鹿だ……。だから倒せる」
ガムは腰の長剣を鞘から抜き、立ち上がって一歩踏み出す。ガムは足下のたき火の、火のついた薪を巨大熊に向かって蹴り飛ばした。
薪に巨大熊が一瞬ひるんだ。だが、ガムにとってはその一瞬で十分だった。
次の瞬間にニャギが見たものは、正面から真っ二つにされた巨大熊の体だった。
巨大熊の体が左右に分かれて倒れた。大量の返り血を浴びるガム。
「うわっ。汚ねえ。もろに浴びちまった!」
「……貴様」
ガムがニャギの方を振り向く。
「な? できただろ?」
ガムはにかっ、と満面の笑みを彼女に送った。
「さあ、行こう。チギリ達と合流しねえとな」
「……その前に血を洗え」
熊の血に塗れたままニャギを持ち上げようとしたガムに、彼女がつぶやいた。
◆◆◆
イーダのハルバードがチギリに襲いかかる。チギリは再び防戦一方に持ち込まれていた。攻撃を受け、かわしてはいるものの、イーダは確実にチギリの体を捉えつつあった。このままではチギリはジリ貧だ。
エウァはチギリから少し離れた背後で、不安そうな面もちで立っている。キリはというと、なぜかイーダに加勢することなく、イーダの後方で戦いを眺めていた。
「はっ! 逃げてばっかでつまらんなあ! ビビっとんかい、男やろ!」
「くっ……」
チギリだって王国の騎士だ。決して弱い訳ではない。むしろ戦闘の能力だけなら騎士団ではトップクラスである。しかし、森の中という、木が障害物となるこの場所ではチギリの機動力、そしてレイピアによる攻撃力は半減していた。
「くそっ、これならどうだ!」
チギリが必殺技をイーダに繰り出す。しかし、イーダはチギリの突き六発全てをかわした。
逆にイーダのハルバードがチギリに襲いかかる。チギリが構えたレイピアをすり抜け、ハルバードはチギリの鎧を突いた。後方に飛ばされ、膝を突くチギリ。
「ワレのその技は後の先を取ってこそ一番効果ある技や。先に仕掛けてどうすんねん。……せやけど、とっさにうちの突きを後ろに飛んで衝撃を逃がすなんて、お前やるやん。でもなあ、それじゃ勝てんでっ!」
イーダの足がチギリの腹を蹴り飛ばす。さらに後ろに吹っ飛ぶチギリ。チギリが転がり、せき込んだ。イーダはそのチギリの姿を見てため息をついた。
「人を守りたい
心底見下したようにイーダが吐き捨てる。
「やっぱ気ィ変わった。グロピウスの娘はうちが殺す。お嬢は怒るやろけど、もうええわ」
イーダがハルバードの切っ先をエウァに向ける。
「なっ……! やめろ!」
うめくチギリ。
「自分も守れん、人も守れん。うちがワレに騎士としての引導渡したるわ」
「やめろっ!」
「グロピウスの娘。恨むんやったらうちじゃなくって、この金髪のヘタレを恨みぃや」
「やめろ……! 頼むから……! 殺すなら僕を殺せ……」
「敵わん思たら、さっさと逃げえや。そしたらお前だけ助かるわ。お前ヘタレやし丁度ええやろ。……キリがワレを襲うゆう心配はせんでええし。あいつはお嬢の命令なしには動かへん。……もういっぺん
イーダが首だけでチギリを振り向いた。
「自分誰も守れん」
イーダが再びエウァの方を向き、距離を一歩、二歩と詰める。イーダにかかれば、エウァなどひとたまりもないだろう。
エウァの表情が恐怖に染まっていく。
「チギリ……助けて……」
エウァが絞り出すような声でチギリを呼ぶ。しかしチギリは先ほどの蹴りのダメージで動けなかった。それでもチギリは叫んだ。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
摘まれようとするエウァの命。そのとき、チギリの脳裏にある光景が蘇った。
炎に包まれた村。攻め込んでくる敵国の騎士。次々に殺される村人。幼いチギリは、母親の手によって家の戸棚に隠された。自宅に侵入する敵の騎士。あっという間に騎士に斬り殺される母親。戸棚の隙間からその光景を見ていたチギリは、恐怖で叫ぶことも出来なかった。母の名を呼ぶこともできなかった。数時間後、敵は引き上げて行った。村は滅茶苦茶に破壊され、見る影もなかった。あちこちから火の手が上がり、
昨日まで平和だった村が、みんなが笑って過ごしてきた時間が、たった数時間で無に帰した。
父も、母も、友達も、密かに恋心を抱いていた女の子も。みんな死んだ。殺された。踏みにじられた。
チギリは強く願った。強くなりたいと。みんなの笑顔を、大切な人を守れるくらい強くなりたいと。だから騎士になった。鍛錬と実践を繰り返し、力をつけてきたつもりだ。
だが現実はどうだ? 敵にやられ、守るべき人を殺されようとしている。自分は何もできないまま。自分が目指したものはこんなものだったろうか。自分が目指した強さはこんな空虚なものだったろうか。また自分は失うのか。守るべき人を。大切な人を。その笑顔を。
瞬間。
チギリは這った状態から足だけで飛び上がりイーダの前に立ちはだかった。
「……絶対に、守る」
熱に浮かされたようにチギリがつぶやく。その様子にイーダが驚いた。
「なんや、まだ動けるん? でもアンタの実力はもうわかった。いつまでおるん」
「誰が、逃げるって……?」
「ああ、逃げたらええやん」
「誰が、誰も守れないって……?」
「ああ、アンタ誰も守れへんって」
そしてチギリが頭を上げてイーダに叫んだ。
「誰が朴念仁ムッツリスケベヘタレ金髪野郎だっ!!!」
誰もそこまでゆうてへんわ!
イーダは心中でつっこんだ。
前方のチギリの姿が一瞬でかき消えた。そして次の瞬間、目の前に音もなく、ぬう、とチギリの姿が現れた。そのままチギリがレイピアで頭を突いてくる。イーダは状態をのけぞらせてかろうじてかわした。
なんや今の! 全然見えへんかったで!
体勢を元に戻すと、既にチギリの姿がなかった。
イーダが辺りをきょろきょろと見回す。
後方に破砕音、そして殺気。
振り向くと、チギリが突きを繰り出して、空を飛ぶように空中から襲ってきた。とっさに横に飛び、チギリの攻撃をかわす。
なんで空中から!? どないなっとんねん!?
イーダがチギリの飛んできた方角の木を見た。その木の、ある高さから上が、大砲にでも打たれたように折れていた。
まさか木の幹を足場にして飛んで来たっちゅうんか!
チギリの攻撃はまるで人間大砲だった。
木の幹が折れる音。今度は横手からチギリが飛んで来る。
ぎりぎりでかわしたが、レイピアの剣先がイーダの右腕をかすめ、血が流れる。
また木の幹が折れる音。今度は正面からチギリがレイピアを突き出して飛んで来た。イーダが思わずハルバードを突き出す。
その直後、一瞬でチギリがレイピアを体の後ろに引いた。
しもた! こいつの狙いは……!
思った時には遅かった。超高速の六点連続突刺が彼女に降り注いだ。
その衝撃で後ろに吹き飛び、木に背中から激突する。強制的に肺の空気が絞り出され、一瞬息が止まる。
「~~~~~~…………っ!!」
なんやねん! こいつさっきと
チギリの脚力を活かした、全方位からの高速跳躍攻撃。
それはイーダの反応速度を超えていた。
イーダは心の中でつぶやく。
せやけど、おもくそ攻撃食ろたわりには、それほどダメージがなかったな……。なんで……?
イーダが背中に柔らかいものを感じて振り向いた。自身と木の間に、キリが挟まっていた。キリのメイド服があちこち破れ、破れた箇所の肌から出血していた。
「キリ! あんた、もしかしてうちをかばって……!」
「……イーダ様はお嬢様の大切なご友人ですから」
「平気か? 動けるか?」
「右腕をやられたようです」
キリが左手で右腕を抱くようにしている。
「すぐにカタつけるから、そこでじっとしときや!」
立ち上がる。その前方に立ちはだかるチギリ。足ががくがくと震えている。
「僕はもう、迷わない。エウァはこの身にかけて守り通す。そのためにまず、お前らを排除する」
「いきんな。立っとるのがやっとやないか」
イーダの挑発するような口調。だが内心は焦っていた。確実に先ほどのチギリの攻撃が足に来ている。キリがかばってくれていなかったら、もう立っていられなかったろう。
「とんでもないもん呼び起こしてもうたかなあ……」
ひとりごちる。
チギリが言う。
「次の一発でしとめる」
まっすぐに、射抜くようにイーダを見つめるチギリ。
「ええ目ぇするようになったやん」
チギリに聞こえないよう言う。
こら逃げられへんな……。
イーダはこの世界が嫌いだった。ジプシーとして生まれたイーダ。ジプシーとは自分の国籍、定住地を持たない民族だ。ある場所にある期間滞在しては、次の場所を目指して世界各地を放浪する。自由といえば聞こえはいいが、それは自分の国籍、居場所を持っている人間のないものねだりだ。イーダは自分がジプシーであることを憎んでいた。どの国に行こうと受け入れられない。旅先で仲良くなる人間がいてもすぐに別れが訪れる。世界を漂泊し、誰の記憶にも残らずこの世界から去っていく。自分は何のために生まれたのだろうか。なぜ、誰も自分を守ってくれようとしないのか。常にイーダはそのことに苛まれていた。
そこにニャギが現れた。彼女はこの世界を壊したいという。彼女の願いが何一つ叶わない冷酷な世界。彼女の大切なものを次々に奪っていく無慈悲な世界。打ちのめされていたニャギは世界を壊すことを決意した。
イーダはそんな彼女に共感し、賛同した。そして彼女のために力を貸すと決意した。
イーダは思った。自分はここで死ぬだろう。ただし、少なくともチギリとは刺し違える。そうすればニャギは必ず、目的を成し遂げてくれるだろう。それなら安心して死ねる。
こんなんうちのキャラ
思って、イーダはハルバードを放り捨てる。そして腰を落とし、右半身を引いて左腕をチギリに向けてかざした。
「……?」
チギリはその行動の意図が分からなかったが、足を矯め、イーダめがけて突貫しようとした。そのとき。
「やめんか馬鹿者っ!!!」
森の中に大音声が響いた。
チギリがその声の方向を見ると、木の陰からニャギが現れた。彼女はガムにお姫様抱っこされていた。
チギリとイーダの構えが解かれる。
「……ガム。無事だったのか」
「ああ、ちょっと怪我しちまったけどな」
「ところで、なぜその人を抱き上げてるんだい?」
ガムの腕の中のニャギを指さしてチギリが言う。
「うっせ。事情があんだよ」
言って、イーダのところに行くガム。
「返す。あんたが一番大丈夫そうだ」
「あ、ありがと……」
イーダにニャギを背負わすガム。
「イーダ。私の命令なしに勝手に死ぬことは許さんぞ」
「悪いな、お嬢」
イーダがニャギに謝る。
身を起こしたキリがニャギに歩み寄る。
「申し訳ございません、お嬢様……。車椅子はお嬢様と一緒に落下し、回収不可能です」
「……構わん。それより、その腕はどうした」
キリの腕を見てニャギ。
「折れました。当分使いものになりそうにありません」
「……早く治して存分に尽くせ」
「かしこまりました。お嬢様」
ニャギがエウァに向けて言った。
「グロピウスの娘よ。今は命を預けておく。しかし次に会ったときは、その命ないものと思え」
言って、ニャギ、イーダ、キリの三人はその場を後にした。
残されたガム、チギリ、エウァ。
エウァはその場にへたり込んだ。
「……怖かった」
その様子を見たガムとチギリが駆け寄る。
「大丈夫か、エウァ」
「お怪我はありませんか、エウァ殿?」
「ボクは平気。そういう二人は?」
「僕は腹を蹴られましたが、一~二日もすれば回復するでしょう」
「俺は右肩を熊にやられた」
『熊!?』
エウァとチギリが同時に聞き返す。
「ああ、洞穴で服を乾かしていたら熊が現れてな。襲われそうになったから返り討ちにしてやった。まあ、怪我はすぐに治るだろ」
「よく帰って来れたね~。すごいよガム」
エウァが感心する。
「悪運が強いなんてもんじゃないね。悪魔が憑いてるんじゃないのか?」
「褒められている気がしねえ……」
肩をすくめるガム。ガムが思い出したように言う。
「そうそう、俺たちが途中立ち寄った泉なんだが、どうやら精霊の加護を受けているらしくて、傷や病気に効くんだそうだ」
「そうなのか?」
「ああ、あの女が言ってた」
「あの女って、ニャギのことかい?」
「ニャギっていうのか? あの包帯女は」
「ああ、イーダが言っていた」
「かわいい名前だな……」
「そうか……? 君も変わったセンスをしてるよ」
呆れたようにチギリが言う。そのチギリの鎧をエウァが引っ張った。
「チギリ。さっき言ったことは本当なの?」
「さっき言ったこと、とは?」
「言ったじゃない。『エウァはこの身をかけて守り通す』って。ボク、とっても嬉しかったよ」
顔を赤らめるエウァ。
「お前そんなこと言ったの? 朴念仁って言って悪かったよ。やるじゃんチギリ」
感心するガム。ところがチギリは首を傾げた。
「……何のことですか? 実は僕、さっきの戦闘の途中から記憶が曖昧なんです。イーダに蹴り飛ばされたところまでははっきり覚えてるんですが、その後どうなったのかが、あんまりよくわかってないんです。気づいたらガムがニャギを抱いていたもので……」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はあの女を持ち上げていただけだ」
「だから、抱いてただろ?」
「抱くっていうな。生々しいだろ」
「じゃあ、どう言えば……」
不毛なやりとりをするガムとチギリ。そのそばで、エウァがわなわなと体を震わせていた。
「………………の、ばか……」
エウァを見てガムが思った。やばい、噴火する。
「どうしたんです? エウァ殿?」
「チギリのばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
エウァはチギリに背を向けて駆けだした。
「エウァ殿! むやみに動いては危ない……」
木の根に引っかかってエウァが転んだ。
チギリがエウァを抱き起こす。チギリの腕の中でじたばたともがくエウァ。
「ほら、危険ですからじっとしてください」
「はっ、離せバカっ! 鈍感! 朴念仁っ! チギリなんかあっち行けっ!」
エウァの拳がチギリの顎を打つ。
「いたっ! 暴れないでください。ガム、君も手伝ってくれ」
「これ以上どうやって援護しろって言うんだよ」
見下げたようにガムが言う。
「俺に言えるのはお前が最低ということだ」
「最低って何だよ! 冗談言ってないで手伝ってくれ」
「知らん。お前が自分でなんとかしろ」
この後エウァは体力を使い果たすまで、チギリの腕の中で暴れ続けるのだった。
◆◆◆
夕暮れ。クジョウへの森を抜けたガム達は、ほどなくクジョウへたどり着いた。
森の中で暴れ疲れたエウァは、チギリの背で眠っていた。
町の中へ入り、エウァが目を覚ます。あたりをきょろきょろと眺めるエウァ。
「目が覚めましたか、エウァ殿」
「…………チギリ、もう夜?」
「ええ、もうすぐ夜ですよ」
「ガム、いる?」
「おう。いるぜ?」
エウァがしばらく沈黙する。
「ガム、クジョウに着いたらボクの眼鏡を買うって言ってたよね?」
「ああ」
「どうやら、その必要はなくなったよ」
「お? なんだ、治ったのか?」
エウァは首を横に振る。
「何も見えない。まっくらだ」
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