第2話 優しい魔法
「誠意を見せろっつってんだよ!」
大柄で筋肉質の男ががなっている。顔の造形は、むき出しになった岩肌のようにごつごつしており、均整が取れていなかった。彼のそばには小柄で痩せ気味の、鼻の長い男が腰巾着のように控えていた。
その二人組の男とガム、チギリ、エウァの三人は向かい合っていた。一触即発の雰囲気だ。
ありていに言って、ガム達は因縁をつけられ、からまれていた。
クロノス王国第二の都市、カイリンツメの門をくぐり、ゴウゾを探し始めようとしたところで、ガムは現在目の前にいる大男と肩がぶつかった。
大男は柄にもなく石畳にひっくり返り、転げ回って痛がった。そして小男の方が甲高い声でガムを避難した。
「兄貴が大けがしちまったじゃねえか! どう落とし前つけてくれんだコラ! ああん?」
すると今まで石畳を転げ回っていた大男がむくりと起きあがって小男に言った。
「そう騒ぐなチャッピ。このお方達の格好を見てみろ。この町の人間じゃねえ。きっと旅のお方だろう。この町が珍しくて、ぼーっとしていたにちがいねえ」
小男の名前はチャッピというらしい。
犬の名前みたいだな、とガムは思った。
「しかし、グラダンの兄貴ぃ……」
大男の名前はグラダンというらしい。
グラタンの親戚だろうか、とエウァは思った。もうすぐ正午、昼飯時だった。
「このお方たちだってわざとぶつかったわけじゃああるめぇ。なあ、黒髪のダンナ」
「ん、まあ、な」
ガムは適当に答えた。
「わかってるよ。ダンナはわざとぶつかったんじゃない。そんなことをする顔には見えない」
わざとぶつかる顔ってどんな顔だ。ガムは心の中で突っ込んだ。
「しかし俺はこの通り大けがだ」
自分の肩をさすりながら、大男が言う。
大けがしてるのは肩じゃなくて顔面の方じゃねえか。ガムは再び心の中で突っ込んだ。
「だからよ、平和的に解決するには治療費を払っていただこうじゃないか。どうだ? 悪くない提案だろ?」
「ふざけるな!」
チギリが割って入った。
「わざとぶつかってきたのは貴様等の方だろう! 怪我もしていないのに治療費を請求するなど言語道断だ! さっさと立ち去れ!」
「お、なんだ? 金髪のあんちゃん。俺が嘘を言っているとでもいうのかい?」
「わかりきったことを言うな。僕たちは絶対に治療費など払わないからな!」
「おうおう金髪、兄貴を愚弄するとこの俺も黙っちゃいねえぞ!」
チャッピがチギリを睨み上げる。チギリとは頭一つ分身長差があるので、ほとんど見上げる格好になっている。
「金髪のあんちゃん、俺はな、事を荒げる気はねえんだ。誠意を示してほしいと言っているだけなんだよ」
「こちらが誠意を示す必要などない!」
………………。
そして現在に至る。ちんぴら二人がしつこく治療費を請求し、チギリがそれに反発する。こんなやりとりが半刻ほど続いていた。
茶番だな、とガムは思った。先ほどから周りの通行人も気にもとめずガム達の周りを通り過ぎている。
この二人はしょっちゅう旅人に因縁をつけては金銭を要求しているのだろう。
「ねえガム、ボクお腹すいたよ」
ぐったりした様子でエウァがガムのズボンを引っ張る。
「俺は喉が乾いた。エールが飲みてえ」
ちんぴらは一向に引き下がる様子がない。それもそうだろう。ああいう不良と言われる輩は、チギリのような生真面目な人間を嫌う。互いに反発しあうばかりで決着がつかない。
旅の事情もあるし、あまり目立つのもまずいな……。
相手に隙を作って逃げるか、とガムが思ったとき。
「こら! また貴方達は!」
横手から凛と通った声が響いた。
ガムが声の方を見ると、一人の女性が立っていた。
ストレートの金髪に色白の肌。年の頃は二十台後半といったところだが、垂れ気味の大きな目が実年齢より二~三歳若く見せている。身にまとっている黒い服は修道院のものだ。首から服の中へとペンダントの鎖が下がっている。
「兄貴! またあの女だ!」
「ちっ、もう少しってところで。運が悪ぃ!」
修道服の女性がちんぴらに詰め寄る。
「また見知らぬ人に因縁をつけているのですか? 創造主様は貴方達の行いを嘆いておられますわ」
「るせえ、なにかあれば二言目には『創造主様』とか言いやがって。おめえは創造主サマの使いかよ?」
チャッピが食ってかかる。
「私はいち修道女に過ぎません。ですが、貴方達が悪行を働いているのを見過ごすわけにはいきません。ともに創造主様にお祈りしましょう。きっと救われます」
「へっ、創造主サマなんているかいないかもわかんない物になんて祈ってられるかよ」
「いけません、創造主様をないがしろにしては、天罰がくだりますよ!」
「天罰ならもう下ってるっつうの。おめえが俺たちの仕事のジャマしたんだからよ」
「見知らぬ旅人から金銭を奪うことの何が仕事ですか。貴方達は間違ってます。なぜ真面目に生きようとしないのですか」
「言わせておけば、このアマっ!」
チャッピが修道女に殴りかかろうとした。修道女は身構えた。
「やめろ、チャッピ」
グラダンが修道女の方を見ながら、チャッピの手を掴み制止した。
「兄貴ぃ……けどよ!」
「今日は引き上げるぞ」
「……へぃ」
グラダンの迫力に押されたのか、チャッピにさっきの勢いはない。そのままグラダンとチャッピは修道女の横を通り過ぎ、ガム達から遠ざかっていった。その二人に通り道には一匹の白いやせた犬。犬がグラダンの足下にすり寄る。
その白い犬をグラダンは容赦なく蹴り飛ばした。
「!!」
ガム達と修道女は戦慄した。
犬は放物線を描き、堅い石畳に落下する。犬はびくびくとけいれんし、その場から一歩も動かない。
犬を見下ろすグラダンは口の端を笑みの形に歪めていた。チャッピが修道女に襲い掛かろうとしたとき、グラダンはシンシアの背後にいた犬を見ていたに違いない。そしてこの非道を思いついたのだろう。
そして二人は路地へと消えていった。
犬の周りに小さく人だかりができる。残された四人は犬のそばに駆け寄った。
ガムが犬を抱き起こし、脈を取る。
「これは……、もう助からない。もともとこの痩せようだし、衰弱しきってる」
犬の目からは光が失われていた。
「そんな……、ひどい……」
エウァが手で顔を覆う。
「あいつら、僕らに対する腹いせにこんなことを……!」
チギリが拳を握りしめ、憤る。
「貸してください」
修道女が言った。ガムからはぎとるように犬を奪い、そのままちんぴら達が通って行った路地に駆け込んだ。
「おい、あんた!」
ガムが彼女の背中に声をかけながら、修道女を追った。
怒りにまかせてちんぴら達を追うつもりか?
ガムが思って、路地の中ほどまで入ったところで修道女がうずくまっていた。その体はぼんやりと光っている。
「おい、あんた。大丈夫か?」
修道女は苦しそうに、肩で息をしていた。そしてガムを振り返る。その顔からは血の気が引き、元々白い肌が青く見える。
「……はい。大丈夫です」
答えた修道女の腕の中には、目に輝きを取り戻した白い犬がいた。
◆◆◆
「……魔法?」
ガムの問いかけに修道女が頷いた。ガム達がいるのは、先程出会った修道女が所属する修道院の一室である。赤レンガ作りの壁と床。壁際には綺麗に整えられたベッド。部屋の真ん中には小さな木のテーブルと椅子が二脚置かれている。修道女――名をシンシアという――はベッドの端に腰をかけ、ガムとチギリは椅子に座っている。ここはシンシアの自室だった。
ガムは、路地で衰弱した彼女を担ぎ、彼女の案内で修道院に到着した。先刻、ちんぴらに蹴られた白い犬はシンシアの足元に伏せている。エウァは犬をなで、犬にじゃれついていた。犬の体はグラダンに蹴られる前の状態に戻っていた。
「わたくしの家は魔法使いの家系なんです」
「にわかには信じがたいな」
「無理もありません。魔法とは現在ではないものとされていますから。しかし、決して存在しないということではないのです。忘れられた技術、とでもいいましょうか」
「昔は使用されていたけど、今では廃れてしまったということですか?」
チギリがシンシアに問う。
「その解釈で間違いありません。文献に残っているほうきで空を飛んだり、交霊術を使ったりというのも、魔法の一種です」
「さっきあんたがそいつを抱えたとき、体が光っているように見えたんだが、何をしてたんだ?」
犬を指差してガムが言う。
「それは、この宝石のせいでしょう」
言って、シンシアはペンダントを服の中から取り出した。ペンダントトップには小さなダイヤがはまっている。
「わたくしの家では宝石を媒介に魔法を使用するんです。詳しい手法はお教えできませんが、この宝石を通して『癒しの力』を対象に与えるのです」
「癒し、っていうと怪我を治したりできるのか?」
「はい。その通りです」
「しかし、驚いた」
「でしょうね、ふふふ」
いたずらっぽく笑うシンシア。ベッドから降り、犬をなでるエウァの前にしゃがむ。
「お嬢ちゃん、そこの戸棚からパンを取ってきてくれる?」
「お嬢ちゃん、じゃなくてエウァだよ。シンシア」
にっこり笑ってエウァ。
「あら、ごめんなさい。じゃあ、エウァちゃんお願いね」
「うん」
答えて、エウァが窓のそばの小さな水屋、その一番下の戸棚を開け、パンを取り出しシンシアに手渡した。
「ありがとう」
礼を言うシンシアにエウァがえへ、と笑う。
「そのパンをこの子に食べさせてちょうだい」
「うん、わかった」
パンをちぎって犬の口元に持っていくエウァ。
犬はパンをふんふん、と嗅ぎ、エウァの手ごとパンを頬張った。
「ひゃっ!」
思わず手を引っ込め、尻餅をつくエウァ。犬はしっかりとパンだけを取り、咀嚼していた。
「びっくりした……」
エウァが口に入れられた手を、逆の手でさすっている。
「大丈夫? 噛まれなかった?」
「うん。この子、歯がないみたい」
心配するシンシアに答えるエウァ。
「もうお年寄りなのね。目もあんまり見えていないようだし」
シンシアが言う。
「そいつはお前もエサだと思ったんじゃないのか? エウァ」
「ガムったら、女性に対してひどいです。ばかっ」
ぷんすか怒るエウァ。
「ははっ、悪い悪い」
悪びれず、ガムが言う。
「ところで、シンシアさん」
チギリがシンシアに問う。
「何でしょう?」
「その、魔法というのは使用者に対して何か影響があるのでしょうか? 先程あなたはひどく疲れていたように見えましたが」
ほんの数秒、シンシアは黙っていた。
「……はい。まったく無害、というわけではありません。わたくしの家の魔法にはリスクがあります。使用者の生命力を力の源とするのです」
「ということは、あなた自身の体は……」
チギリが躊躇しながら聞く。
「ええ。生命力を消費しています。ですので、寿命がちょっと短くなってしまうんです」
室内が一瞬沈黙に包まれる。ガムが口を開いた。
「こういう言い方はなんだが、なんであんた、たかが野良犬のために自分の命を削ったんだ?」
シンシアは口に人差し指を口にあて、首を傾げて数秒悩んだ。
「性分、ですかね」
眉根を寄せ、困ったようにシンシアが微笑んで答えた。
「ほっとけないんです。目の前で困っている子を見かけると。この修道院にはたくさんの孤児がいます。戦争や病気で親を亡くした子。親から捨てられた子。みんな、行く場所がなくて困っていました」
シンシアは続ける。
「そして捨てられているのは子供たちだけじゃありません。院内にはこの子の他にも何匹か犬や猫がいます。その子たちはみんな街角に捨てられていました。それを私が拾ってきたんです」
ガムは内心驚いていた。シンシアには自分が手を差し伸べる対象として、人間と動物の区別がない。この腐りかけた国にここまで自分の身を投げ出せる人間は見たことがない。
「わたくしの両親は二人とも教師をしています。わたくしも教師になることを望まれ、育てられました。ですが、この国で教育を受けられるのは上流階級の人間だけです。それは本当に世の中のためになるのでしょうか。日々の食事にもありつけず、飢餓に苦しんでいる子供はたくさんいます。わたくしはそんな子供たちを少しでも減らしたい。そう思ったので、この修道院に勤めることにしたのです」
「で、困っている子供だけじゃなくて、犬も連れてくるようになっちまったのか?」
「ええ、つい」
「その、あなた自身は魔法で寿命を削ることに後悔はないんですか?」
チギリが問う。
「ありますよ。ですが、目の前で苦しんでいる人を助けられるのなら安いものです」
エウァが犬に小さくちぎったパンを与えている。手ごと食べられないように慎重に距離を測っている。
「シンシアさん、あの」
「何でしょう?」
「個人的な願いなんですが……。あなたは魔法の使用に後悔はないとおっしゃいましたが、できるならば使用を控えて欲しい」
「なぜですの?」
「あなたのような素敵な女性には長生きして欲しい」
「あら、まあ……」
チギリの言葉にシンシアは頬を赤らめ、口に手を当て驚く。
一瞬の間。
チギリは自分の発言のうかつさに気付き、目を見開いた。
「あ、あのですね。今のはそういう意味じゃなくて!」
「じゃあどういう意味だ」
ぼそりとガム。
「あなたのような慈愛に満ちた方には、この先もできるだけ長く、困っている人に手を差し伸べて欲しいんです! この国には貧困で苦しんでいる人がたくさんいますから。で、ですがあなたが素敵な女性ではないという意味ではないので、決して誤解しないで下さい」
あたふたと両手をシンシアの方に伸ばし、目の前でぶんぶんと振るチギリ。
「このスケコマシ」
「チギリの女たらし」
ぼそりとガムとエウァ。
「違うんだ。僕は……! シンシアさんに……」
「エウァ、そいつ連れて散歩に行こうぜ」
犬の方を見てガム。
「賛成です。お年寄りと言えど運動は必要です」
ガムとエウァは、シンシアとチギリを部屋に残すことしたようだ。
「ガム、エウァ殿! 僕が言ったのはそういう意味じゃない!」
「そういうってどういう意味だよ」
「いいんだよ、チギリ。ボクはキミに幸せになってもらいたい。ボクも馬に蹴られて死にたくはないんだ」
ぷいとそっぽをむくエウァ。
「だから、違うと……!」
顔を真っ赤にしてチギリ。
「ふふふ、仲がよろしいんですね」
シンシアが微笑む。
「わかっていますわ。チギリさん。お気遣いありがとうございます。わたくしはわたくしの勤めを果たすだけです。ですが、なるべく魔法には頼らないようにしますわ」
「……恐縮です」
胸をなでおろすチギリ。
「振られてやんの」
「チギリ、気を落とさないで。きっと次があるよ」
エウァが嬉しそうに、胸の前で握りこぶしを作っている。
「黙れ。僕は振られてない。エウァ殿も慰めないでください。僕はこんなところで女性ににかまける暇はないんです」
「わたくしに魅力がないというのですね……はぁ」
哀愁を漂わせるシンシア。
「いえ、決してそうではありません! 貴方は素敵な女性です。しかし、僕達は人探しの旅の途中でして……」
喋れば喋るほどどつぼにはまるチギリ。その様子を見てシンシアがくすくすと笑う。
「ふふふ、冗談ですわ。可愛いですね、チギリさんは」
「か……、かわいい……」
愕然とするチギリ。
「ねえシンシア?」
エウァが犬の頭をなでながら、シンシアを見上げる。
「なあに?」
「この子の名前、シラユキってどうかな? 雪みたいに白いから」
「それはいい名前ね」
シンシアがシラユキと名づけられた犬の頭をなでる。
「今日からお前はうちの子よ、シラユキ」
シンシアがシラユキの頭をなでた。
そこに、こんこん、とシンシアの部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「はい、どなたでしょう?」
シンシアがベッドから腰を上げ、扉の向こうに問うた。扉の向こうからはすっぱな声が返ってくる。
「マリアだ。一緒に私の部屋まで来てくれ」
「はい、ただいま」
シンシアは身だしなみを整える。
「マリアって誰だ?」
「この修道院の院長よ」
◆◆◆
「あんた、また犬拾ってきたんだって?」
「ええ、弱っていたので、つい」
マリアの問いにシンシアが答える。
ガム達はマリアとシンシアの後ろを歩き、修道院内の案内をされていた。エウァが礼拝堂を見ていきたいと言ったためだ。エウァの横にはシラユキがついて歩いている。
マリアの外見は金髪のウェーブがかったショートヘア。切れ長の目に浅黒い肌。そして女性にしては身長が高めの美人だった。年の頃は二十台後半といったところだ。
「しか四匹も」
「四匹?」
シンシアが困惑して聞き返す。
「白いのと、黒いのと、金色のと、ちっちゃいの」
「わたくしが連れて来た犬は白いのだけです」
どうやらマリアはガム達三人も犬扱いしているらしい。
「それより、あんたら」
後ろのガム達を振り返ってマリア。
「ガムとチギリだっけ? 彼女とかいんの?」
突然の質問に、相手の意図が読めず戸惑うガムとチギリ。
「いや、いねえ。彼女は作らない主義だ」
「僕もいません」
二人の答えににやりと笑うマリア。
「ちょうど良かった。じゃあさ、どっちかこの子の相手したげてよ。いい歳なのに男を知らないんだよ」
マリアがシンシアの肩に手を置いて、ガムとチギリに促した。マリアのセリフに場が一瞬凍る。そこから一番先に抜け出したのはガムだった。
「お、いいのか? 俺は責任は取らないがやることはやるぞ?」
身を乗り出すガム。
「おいガム、君は知り合って間もない女性になんてことを言うんだ」
ガムを諫めるチギリ。
「それにマリアさん、失礼ですがあなたも修道女としてその発言はどうかと」
「アタシは本気だよー? この子ったらいつまでたっても男に見向きもしないんだもん。子供と動物の世話してばっか。アタシはもうちょっと人生の快楽……もとい楽しみを知った方がいいと思うんだ、実に。チギリ、あんたの方がこの子の好みだと思うから、付き合ったげてよ」
「いえ、僕はそんな……。第一シンシアさんの気持ちを無視して話を進めるのはどうかと……」
「じゃあ、聞いてみようか。どうなんだい、シンシア?」
マリアがシンシアに聞く。
「え、あの、わたくしは、その……」
腹の前で手を組んでもじもじするシンシア。どうやらやぶさかではないらしい。
その仕草にチギリの顔が赤くなった。シンシアの仕草を見たマリアがチギリの方にぽん、と手を置いた。
「ウチの娘をよろしく頼む」
「いやちょっと待ってください僕は旅の途中で」
「ダメーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
エウァの大声が院内に響く。一同はその声に驚き、動きを止める。その様子にエウァが皆をきょろきょろと見渡す。そして両手の人差し指を胸の前で付き合わせ、うつむきながら答えた。
「あの、その、ですね。ボクたちは、ある人を探して、旅の途中なのですね、その人を探さないと、大変なことに……。シンシアはシラユキを助けてあげて、大変良い人ですが、でも、あの、チギリは、その、ダメです……」
言って顔を真っ赤にするエウァ。
エウァの様子にマリアが笑い出す。
「……あっはっは。ごめんごめん。チギリにはもういい人がいたんだねー。これは気付かなくてごめんよ」
マリアはしゃがんでエウァの頭にぽんと手を載せる。
「頑張りなよ、エウァ」
「……はい、です」
エウァの顔はまだ赤い。
「チギリも隅に置けねえな」
「え、何がだ?」
ガムがチギリの肩にぽん、と手を置く。
「わかんねえならいいよ朴念仁。……というわけで、俺はどうだい? シンシア」
ガムがシンシアに問う。
「ガムさんはわたくしの好みではないので……」
「直球だな、あんた」
ガムが玉砕した。
「あーあ、今回のお見合いも破談かあ」
あはは、と悪びれずに笑うマリア。再び礼拝堂に向かって歩き出す。
そこに正面から三人の子供たちがぱたぱたと走ってきた。四~六歳くらいだろうか。一番年上らしい、先頭の男の子がガム達を見て言った。
「あれ? シンシアねえちゃん、その人達誰?」
シンシアがしゃがんで言う。
「お姉ちゃんのお客さんよ。ほら、ご挨拶なさい」
ごきげんよう、と子供たちが頭を下げ、声を揃えて言う。挨拶が終わると男の子が言った。
「シンシアねーちゃ~ん。追いかけっこして遊ぼうよ~!」
続いて後ろの女の子が言う。
「だめっ。シンシアおねえちゃんは私とあやとりするの!」
さらにもう一人の女の子が言う。
「おままごとがいいの!」
子供たちはシンシアを取り囲み、修道服を引っ張ってシンシアを取り合っている。
「ごめんねみんな。お姉ちゃんはこれから用事があるから、終わったら一緒に遊びましょう」
「うん! 絶対だよ?」
「それまで皆で仲良く遊んでなさいね」
「うん! お姉ちゃんもはやく用事終わらせてよ?」
男の子が言う。それを見たマリアが男の子に言った。
「マオ。アタシが遊んでやろうか?」
「げっ。マリアねえちゃんはすぐチョップしてくるからやだ。そんなんだからみんなから『暴れ牛』って呼ばれるんだよ」
「なんだとこのガキっ!」
言って、マリアはマオの両足を自身の両脇に抱え、ぐるぐると振り回し始めた。
「暴れ馬ならともかく、『牛』ってなんだ! アタシがそんな太ってるってのかっ!?」
「わーっ! ちがっ! マリアねえちゃ、おっぱ、むだに、おっきいから!」
ぶん回されながら叫ぶマオ。マリアは止まらない。回りながらもマリアの胸がたゆんたゆんと揺れている。女の子二人はその様子を見てきゃっきゃと笑っていた。ガム達はあっけに取られている。修道女は清廉、というイメージはもはや崩れ去っていた。
「どこ見てんだエロガキ! おめぇにゃ十年はやいっ!」
数十秒振り回した後、マオは開放された。目が回ったためふらふらになっている。
「ほら、お姉ちゃんたちは忙しいんだから、さっさとあっち行きな」
「マリアねえちゃんのばーか! 後で仕返ししてやるからな、覚えてろー!」
行って、走り去る子供たち。
「ったく、困ったガキだよ」
「困ったのは院長様の性格です。お客さんの前ではしたない」
シンシアがマリアを諫める。
「おっと、礼拝堂に行く途中だったね。それにシラユキに首輪作ったげないとね。ほらシンシア、急ぐよ?」
どうやらマリアはさっきの一連の出来事をなかったことにしたようだ。やれやれ、といった様子のシンシア。
「それではわたくしは院長と行きますので。みなさんは、この先をまっすぐ進んで突き当りを左に曲がってください。そのまままっすぐ進めば礼拝堂に当たりますので」
「ああ、ありがとう」
答えるガム。
「それでは、ごきげんよう」
言って、マリアとシンシアはその場を後にした。
◆◆◆
夕暮れ。ある地下の酒場。店内は薄暗く、足元にはごみがところどころに落ちている。ねずみがちょろちょろと動き回っている。そのねずみを革のブーツが踏み潰した。断末魔の声を上げるネズミ。ブーツの主は大柄で筋肉質の男。グラダンだった。向かいには小柄なやせ気味の男、チャッピがいた。二人は酒場の片隅のテーブルを挟み、安いジンを飲んでいた。
「くそっ、あのアマ!」
どんっ、とテーブルに木のジョッキを叩きつけるグラダン。
「ことあるごとに邪魔しやがって。これじゃ俺の面子が丸潰れだ」
そのままジョッキの中身を飲み干す。
「兄貴の言う通り! あの女に一泡吹かせてやりたいぜ!」
チャッピがグラダンに調子を合わせる。「あの女」とはもちろんシンシアのことだ。
「何かいい手はないもんか……」
グラダンがあごに手を置いて考え始めて数秒後。店のベルがからん、と鳴ったかと思うと、今まで騒がしかった店内が一斉に静まり返った。そしてある人影が、グラダンとチャッピの座るテーブルに近づいてきた。
「おやおや、今日は一段と荒れてますねえ、お二人さん」
ぬうっ、と一人の男が現れた。それは全身を黒いフードで覆った、まるで死神のような男だった。背は高いがそれに見合わず体が細い。フードからのぞく顔は頬骨が浮いており、その目には光が宿されていない。黒い絵の具を塗りつぶしたような瞳だった。
「これは、ハチバ執行官どの……!」
グラダンが驚きを隠さず眼を見開いた。チャッピは黒フードの男の不気味な迫力に押されたのか、沈黙している。
「相席、よろしいかな?」
「かまわねえが……」
「では、失礼」
グラダンの言葉を聞き、黒フードの男、ハチバは席に付く。
「ワインをいただきましょうか」
「ひゃ、ひゃいっ」
ハチバの言葉に、チャッピが店員を呼び、ワインを注文した。しばらくして店員が木のジョッキに注がれた赤い液体をハチバの前に運び、さっさとカウンターの奥に戻った。店員の手はこころなしか震えていた。
「では、乾杯」
三人がジョッキを目の前の高さまで上げる。
「執行官どの、俺たちにどんな御用で……」
グラダンの声が少し震えている。チャッピは先程から一言も発さず、自分のジンをちびりちびりと飲んでいた。要するに恐れているのだ。この目の前に座っている黒フードの男を。それは無理もない。執行官といえば教会で異端審問を専門に扱う神官のことだ。教会において絶大な権力を持っており、断罪権というものを持っている。断罪権というのは、一言で言えば『独断で人を裁き、刑を執行できる権利』のことである。
極端な話、執行官の気分で人を処分することができるのである。そもそも執行官という官位が生まれたのは数十年前、凶悪な犯罪が横行した時代である。犯罪件数に対して裁判が追いつかなくなったため、スピーディに犯人を処罰するために臨時で教会が設けた官位だったのだ。それがなぜか犯罪件数がピークの頃より減少傾向になっている現在でも執行官の官位は残っている。教会の権威を保つため、というのがもっぱら通説である。
そんな執行官が自分達の目の前にいる。正直グラダンとチャッピは生きた心地がしなかった。そんな二人にお構いなしに、ハチバはワインを飲み続ける。
そして全て飲みきったところで口を開いた。
「そんなに怖がることはありませんよ。あなたたちにはお願いがあって来たのですから」
「……お願い、ってえと?」
グラダンがハチバに聞き返す。
「聞けばあなたたち、街で旅人から金銭を奪っているそうじゃないですか。いけませんよ、そのような横暴な振る舞いをしては」
このセリフにグラダンとチャッピの背筋が凍った。今この瞬間殺されてもおかしくないと思い、冷や汗が吹き出た。その様子を見たハチバが口を開く。
「いやいや、あなた達を裁きに来たのではありません。言ったでしょう? お願いがあると。いきさつからお話しましょうか。
最近ですね、教会に礼拝に来る信者の数が減っているのです。なぜだか分かりますか?」
「いいや……」
グラダンは神など信じていない。だから教会にも行かない。ハチバは続ける。
「信者が流れてるのです。ある修道院に。聞けばその修道院には女神のような女性がいるというではないですか。誰にでも分け隔てなく優しく、動物にもいたわりの心を忘れないという。まったく、嘆かわしいことです。神たる創造主がおわすのは刻真教教会こそが唯一絶対のものだというのに……」
天を仰ぐハチバ。
「俺にはよくわかんねえけどよ、神サマに祈るんなら教会でも修道院でも一緒じゃねえのか?」
「いえいえ、そうではないのです。創世紀の頃、神は文字通り神殿におわしました。人間は神に日々の感謝を捧げに、神殿に足を運びました。しかし遥か遠くの国から神殿に参るのはあまりに困難。そのため、神は人間に教会を建て、そこで祈りを捧げることを許したのです。
それに対して生活の場と神への祈りの場を同じ土台に並べた修道院など、邪教のものに過ぎません。本来なら存在することさえ許されません。そのうえ神のご威光ではなく、いち修道女の人気などで信者が修道院に流れることなど噴飯ものです。神もお嘆きでしょう」
大仰に天を仰ぐハチバ。
「そこで、です。邪神の教えから人々を救うべく、貴方たちには修道院にある『もの』を運んで欲しいのです」
「ある『もの』ってえのは?」
「これです」
言ってハチバは黒フードの懐から皮袋を取り出す。皮袋は子供の頭くらいの大きさで、口を紐で結んであった。ハチバはさらに懐から一枚の紙切れを取り出し、テーブルの上に広げた。
「そしてこれが修道院内の見取り図です。この×印のところにその袋の中身を置いてきて欲しいのです」
見取り図の×印を指差しながらハチバが言う。
「執行官どの……、話をぽんぽん進めているが、俺たちはまだその話を受けるとは言ってねえぜ?」
「もちろんタダでとは言いません」
渋るグラダンに、ハチバが用意していた先程と同じ大きさの、もう一つの皮袋を取り出しテーブルの上にどん、と置いた。置いた瞬間、じゃりん、と金属同士が擦れる音がした。
袋の口から数枚の金貨が零れ落ちた。
「兄貴ぃ、これ、全部金貨でずぜ……?」
「すげえ……」
思わずつぶやくグラダン。
「依頼を受けていただけるならこの金貨を前金としてお渡しします。依頼完了後にもう一袋分の金貨をお支払いいたしましょう。いかがです?」
グラダンに迷いはなかった。
「やるぜ。俺たちもあの女にゃ何度も邪魔されてんだ。ちっとくらい仕返ししてやんなきゃ腹の虫がおさまらねえ」
「そうだ、俺達の恐さをあのアマに思い知らせてやるんだ!」
いきり立つグラダンとチャッピ。
「貴方たちなら必ず引き受けてくださると信じていました。それではよろしく頼みますよ」
言って、ハチバは席を立ち、ゆらゆらとふらつくような足取りで店の外へと消えていった。
残されたグラダンとチャッピ。しばらくして冷や汗がおさまった。
「兄貴ぃ、その袋何が入ってるんですかい?」
チャッピが問う。
「さあな、見てみるか」
紐を解き、袋の口を開くグラダン。その中身を見て二人は戦慄するとともに小さく嗤った。
◆◆◆
明け方、人々が活動を開始し始める時間。ある宿の一室。ガムは階下の喧騒で目を覚ました。
「気持ちよく寝てたのに、なんだってんだ……」
目を擦りながら客室の扉を開き、階段を下りるガム。見渡すと、朝食を摂っている他の客や店主の顔が上気し、皆落ち着きがなかった。ガムがあくびをしながら老齢の店主に聞いた。
「店主サンよ、どうしたんだ? こんな朝早くから騒がしいようだが」
次に店主が言う言葉は、ガムに衝撃を与えた。
「シ、シンシアちゃんが公開処刑されるっていうんだ!」
「なんだと?」
ガムは店主に聞き返した。
「な、なんでも魔女の疑いとかで、教会の人間が強引に連れて行っちまったらしい……!」
「魔女だと!?」
ガムはその言葉が信じられなかった。
「店主サン、公開処刑ってのはどこでやるんだ?」
「あ、ああ。店を出て左、聖グリマス通りをしばらく北上した広場だ」
「ありがとよ」
言うが早いか、店主の言葉を最後まで聞かず、ガムは二階の自分達の客室に駆け足で向かった。
店主の話が嘘であれ本当であれ、教会に魔女と判断されればまず処刑は免れない。シンシアが魔女かどうかなどわからない。だが直感が言っている。シンシアはこのような形で死んでいい人間ではないと。
ガムは自分が寝ていた客室の扉を乱暴に開くと、チギリとエウァを叩き起こした。
ガムが一階での先程の出来事を説明すると、エウァは一言目に「シンシアを助けに行くよ。ガム、チギリ」と言った。ガム達は仕度を整えると、飛び出すように宿屋を後にした。
ガムはエウァを脇に抱え、チギリと聖グリマス通りを全速力で北上した。通りを歩いている通行人が邪魔でしょうがない。しかも広場が近づくほど、人混みが増えていく。ガムとチギリはなるべく人に当たらないように、しかしぶつかっても決して振り返らずひたすら広場を目指した。
息を切らして広場に駆けつけたガム達。そこには特別に設えられた大きな箱形、木製の処刑台。その上に十字の形に組まれた材木に、シンシアが麻縄で縛り付けれらていた。シンシアの足元には大量の薪。
「シンシア!」
「シンシアさん!」
ガムとチギリが叫ぶ。二人の声にシンシアが振り向く。シンシアは何かを言っているようだが、猿ぐつわをかまされているため、その声はくぐもってガム達には届かなかった。
シンシアの横には黒いマントを羽織った、背の高い、やせ気味で長髪の男。大人の身長ほどもある鎌を手にしている。また、処刑台の周りには黒衣の神官が手に槍を持ち、警備にあたっていた。
広場は異様な熱気に包まれていた。シンシアの処刑を悲しむ人。そして恐いもの見たさに集まった人々の喧騒が。その中にグラダンとチャッピもいた。
「兄貴ぃ、あの女処刑になっちまいますよ? いくらなんでも可哀想じゃないですかい?」
「ふ、ふん。元はといや、あの女が俺らの邪魔ばかりするからいけねえんだ。それに俺らは執行官に言われたことをやっただけだ。俺らがあの女を処刑するわけじゃねえんだ……。それに見ろよチャッピ。こんだけたくさんの金があるんだ。当分は遊んで暮らせるぜ?」
金貨の詰まった革袋を取り出すグラダン。
「でもよぉ、兄貴ぃ、やっぱり……」
「うるせぇ! つべこべ言うな。もうやっちまったもんはしょうがねえだろうが。それにあの女を助けようと教会に逆らってみろ。今度は俺らの命が危ねえんだぞ?」
その言葉にチャッピは黙り込んでしまった。彼らは傍観を決め込んだようだ。
「くそっ、なんだってこんなことに!」
ガムは歯噛みした。
「あれを見てみろ、ガム」
チギリはシンシアの足元を指差した。その先には黒い塊が転がっていた。ガムは目を凝らして黒い塊を見つめた。
それは黒猫の死骸だった。
表面の毛はその猫自身のものであると思われる血がこびりつき、固まっていた。さらに腹が切り裂かれ、内臓がはみ出していた。
「なんだってあんなところに猫の死体が……」
ガムが呟く。
「シンシアが魔女だっていう証拠を衆目に晒してるんだよ」
ガムの脇に抱えられたままエウァが言った。
「魔女裁判では、魔女と一緒に魔女であるという証拠を火刑にするんだ。シンシアは黒猫が原因で魔女にされてしまった」
「シンシアは魔女なんかじゃ、ねえ」
ガムの後ろから苦しげな女性の声が聞こえた。ガムが振り返ると、四つんばいになって顔を上げているマリアがいた。顔には青あざ、服のあちこちが切り裂かれ、切り傷を負い、血が流れ出していた。
「マリア! どうしたんだ!?」
「ひどい怪我じゃないですか! 何があったんです!?」
ガムとチギリが問う。
「今朝、シンシアの、部屋の前に、あの黒猫の死体が、あった」
息も絶え絶えに喋るマリア。
「そしたら、見計らったように、教会の連中が、押し入って、シンシアを連れてっちまった。アタシらは抵抗したんだが、教会の連中、武装してやがって……。……これはたぶん、教会の陰謀だ。あの、黒マント、教会の執行官のハチバだ、マリアの、人気を妬んで……ぐうっ……!」
地面にくず折れるマリア。ガムはエウァを下ろし、マリアを抱き起こした。そのまま近くの民家の壁にもたれかけさせる。息が細り、いまにも意識を失いそうだ。そんな状態でマリアが搾り出すように言った。
「ガム……チギリ……エウァ……、あの子を、助けておくれ……!」
「ああ、なんとかする。お前は安心して休んでろ」
「……頼んだよ……」
ガムが処刑台の方を振り向いた。台の上にたいまつを持った神官が上っていた。シンシアを火あぶりにするつもりだ。苦しそうにうめくシンシア。目には涙が浮かんでいる。エウァがシンシアを見ながら言う。
「シンシアはきっと教会にはめられたんだ。教会の内部は腐敗してる。それは国民の知るところだからね。そんなときシンシアのような優しい人が現れた。すると信者は修道院に流れる。経営がお布施で成り立ってる教会の被害は甚大だったに違いない。教会は信者を取り戻さなくちゃいけない。そこで教会は実行したんだ」
シンシアを処刑して修道院を潰そうと
と、エウァが言った。
「でもよ、エウァ。そんなことをしたら逆に教会は嫌われるんじゃないか?」
ガムが問う。
「うん。だからこの魔女裁判は合理的じゃない。人間の感情が多分に絡んでる。体に何かどろどろするものがまとわり付くような、すごくいやな感じがするんだ」
「そんなことで、シンシア殿が処刑されてたまるか……!」
ぎり、と歯ぎしりをしてチギリが激昂する。
処刑台の上の黒マントの男、ハチバが人々の前で手にした鎌を振るった。
「敬愛なる人々よ。今日はなんという佳き日でしょうか。この町に棲みついた邪悪なるものが私たちの神の元に、その魂を捧げるのですから。これで私たちはまたひとつ、清浄なる存在に近づいたのです」
人々から、どよめきと悲哀、そして興奮の声が上る。
「今こそ、この汚れた異教徒を神への供物とするのです!」
天を仰ぎ、天を抱くように両手を上げるハチバ。磔にされたシンシアの頬を掴み、彼女にだけ聞こえるように言った。
「貴方に直接恨みがあるわけではありませんが、教会の繁栄のために死んでもらいます。なあに、死んでも神がそばにいらっしゃいます。何も怖いことはありませんよ。くっくっく」
シンシアが首を振ってうめいた。
「さあ、火を持ちなさい」
ハチバがたいまつを持った神官を呼び寄せた。神官がたいまつの火をシンシアの足元の薪に移した。
「ガム、行くぞ!」
「おう!」
チギリとガムが飛び出そうとしたが。
「待って、二人とも」
エウァが呼び止めた。
勢いを止められた二人。ガムとチギリがエウァを振り返る。
「何で止めるんだ?」
「今行かないとシンシア殿の命が!」
非難のまなざしを向けるガムとチギリ。
「落ち着いて、二人とも。相手は教会だ。敵に回すには組織が大きすぎる。下手すればボクらも処刑される。それに、本来の目的を忘れないで。ボクらは懐中時計を直してもらわなきゃならないんだ。こんなところで果てるわけにはいかない」
「だからって指をくわえて見てろっても無理な相談だぜ?」
「僕もガムと同意見です。シンシア殿を見殺しにはできない」
「うん。ボクだってシンシアを助けたい。だから作戦がある」
『作戦?』
エウァの言葉にガムとチギリが聞き返す。
「えっとね……」
エウァは内緒話をする時のように、口の周りを両手で覆った。ガムとチギリがしゃがんでエウァの話を聞こうと頭を寄せる。エウァがかかとを上げてつま先立ちの状態で『作戦』を伝えた。
「できるよね、チギリ、ガム?」
「ええ、存分に暴れてやりましょう」
「俺がチギリの役をやりたかった……」
高揚するチギリと不満そうなガム。
「適材適所。この役目はガムの方が向いてるんだ」
「ご指名ありがとうございます、っと。受けたからにはやり遂げるのが傭兵だ。行ってくるぜ。チギリも無茶すんなよ」
言って、路地裏に消えるガム。
「僕も行ってきます。エウァ殿は安全な場所に隠れていてください」
「ううん。ボクは見届けるよ。それに言いだしっぺのボクが隠れることは許されない」
チギリは察した。今のエウァの顔つきは、言っても退かないときの顔だ。
「では、なるべく早く片付けましょう。エウァ殿に危害が及ばないように」
胸の前で握りこぶしを作るチギリ。王国騎士の敬礼の作法だった。
チギリは処刑台に向かって猛然と駆け出した。処刑台の周囲に集まった群衆を押しのける。
そして処刑台を警護する神官達の前で止まり、ハチバに向かって叫んだ。
「その処刑、やめてもらおう!」
突然の闖入者に眉をひそめるハチバと神官達。観衆からもざわざわと困惑の声が上った。
「何です? あなたは?」
ハチバがチギリを見下ろし、言う。神官達が手にした槍を構える。
「そんなことはどうでもいい。その処刑をすぐにやめてもらおう。さもなくば天の鉄槌はあなた方に振り下ろされるだろう」
「何を愚かなことを。この女は魔女です。魔女は人々に無用な不安を与え、社会を乱します。その証拠にほらごらんなさい」
ハチバがシンシアの足元に転がる黒猫の死体を手に持った大鎌で指す。
「この女の部屋でその黒猫の死体が見つかったのです。これは女が黒猫を生贄に悪魔を呼び出そうとしたに違いありません」
「本気でそんなことを言っているのか?」
「これは執行官である私の、言い換えれば教会の決定なのです。逆らえば貴方もこの女と同じ目に遭いますよ?」
「僕に言わせれば彼女は処刑される
薪に移った火が徐々に大きくなる。シンシアのうめき声が広場に響く。
「どうやらあなたも異端者のようですね。……お前たち、この異教徒を捕らえなさい」
チギリの話を無視し、神官達に命令を下すハチバ。一斉に神官達がチギリに押し寄せる。
「やれやれ、聞く耳なしか……。ならば少々痛い目に遭ってもらう」
右手で腰からレイピアを抜き、右半身を後ろに引く。そして左手を刀身に沿わせる。
「
チギリが踏み込みと同時に右手を突き出すと、押し寄せていた神官のうち、先頭の一人が背後の処刑台まで吹き飛んだ。その体が処刑台に衝突し、台が一部吹き飛んだ。
その光景に他の神官達の足が止まり、驚愕の表情を浮かべている。チギリは最初の位置からわずかしか動いていない。一体何があったのか?
「あなた! 何をしたのです!?」
ハチバも驚きを隠せなかった。
チギリは言った。
「お仕置きさ」
◆◆◆
昼間でも薄暗く、ひどい臭気が漂い、じめじめとしている。ガムはあるものを探してそんな空間、下水道を駆け回っていた。
「ちっちゃいやつじゃねえんだよなあ」
ぴちゃぴちゃと足音を立てながら、ガムは辺りをきょろきょろと見回し、走る。
「くそっ、早く見つけねえと、シンシアが……」
右へ、左へ。ガムは探し続ける。視界の隅に、ちょろりと動く影。ガムはそれを見逃さなかった。
あいつだ。よし、逃げるなよ。
影に向かい、素早く忍び寄るガム。
そしてガムは『それ』を捕獲した。
◆◆◆
「どうしたというのです! たかが異端者一人に遅れを取るなど!」
ハチバが神官達を叱咤する。処刑台の前には異様な光景が広がっていた。地に伏す神官達、その前に立つチギリ。チギリ対神官十人。数の上では神官達が圧倒的に有利だった。しかしチギリの最初の攻撃で、神官達は正直恐ろしくなったのだ。近寄ると同じように吹き飛ばされると。自然と神官達の腰は引き気味になり、チギリはその心の隙を突いて次々に神官達を打ち倒していった。
シンシアの足元の火が大きくなり、足に届こうとしている。シンシアの呻き声が大きくなる。チギリの邪魔をする神官は後一人。
「そこを退いてもらおうか」
チギリが神官に詰め寄る。槍を突き出す神官。チギリは難なくそれをかわし、神官の右の太ももをレイピアで突き刺す。倒れる神官。
それを確かめ、チギリは駆け脚で処刑台に上がり、シンシアの元へ向かう。そこで。
チギリの目の前に金属の刃が振り下ろされた。チギリは済んでのところでかわした。ハチバの大鎌だった。
「そうはさせませんよ」
「見てるだけかと思ったよ」
チギリがハチバに皮肉を言う。
「私は執行官です。人を裁くのも、処刑するのも私の仕事です。邪魔立てする者が現れれば、処刑します」
「僕は執行官ってのはもっと、賢い人間の職務だと思ってたよ」
「社会の秩序を守るのが教会の執行官です。あなたは明らかに今、人々を混乱させています。だらか排除するのです」
「善良な女性を殺すのが社会の秩序を守ることなのか?」
「あの女は魔女です。いくら善良を装おうと、魔女は生かしておけません。神が私に告げるのです。教会を守れ、異端者は排除せよと。神は私に与え給うたのです。異端者を狩る使命を! 流血により人々は教会に支配され、従順な信者となり神の教えを守ることで安寧を得られるのです。これ以上に素晴らしいことがあるでしょうか」
「そんなのはお前の妄想だ。お前はただ人が血を流すのを見たいだけだ。それに神は人々を見守るが、恐怖での支配などはしない」
「神の支配による統制が究極の平和を実現するのです。それを成すまで、私はこの鎌を振るい続けます。……行きますよ」
ハチバが大鎌を再び振り下ろす。
「僕はお前に興味はない。だが、シンシア殿を助けるため、お前を倒す」
チギリがレイピアを突き出す。
「そんな針ごときでこの鎌が受けられると思いますか!?」
ハチバが言う。だが、レイピアは振り下ろされる大鎌の側面を撫で、その軌道を変えた。大鎌が石畳に突き立つ。ハチバの動きが止まる。その一瞬をチギリは見逃さない。大鎌を持つハチバの両手に一撃ずつ。
これで大鎌はもう振るえないはずだ。チギリが思ったそのとき。
ハチバが石畳から引き抜く勢いを利用して大鎌をチギリに振るった。大鎌の胴がチギリの頭を打った。チギリの体が宙を舞い、倒れる。
なんでだ!? チギリは驚いた。急いで立ち上がるが、脳震盪を起こしたのか、うまく体勢を保てなかった。ふらつく視界にハチバを収める。突き刺した両腕からは流血している。だが、ハチバは先程と変わらず大鎌を保持している。
こいつ、まさか。
チギリはハチバの顔を観察した。やっぱりそうだ。チギリは確信した。ハチバの充血した目を見て。
ハチバは麻薬を服用している。そのため痛みを感じない状態になっているのだ。チギリはハチバの腕に与えたダメージで、完全に油断した。
そこにもう一撃、ハチバに大鎌で頭を殴られた。地面に伏すチギリ。ふらつくような足取りでハチバが近寄る。その姿を見上げるチギリにハチバが言う。
「いいことを思いつきました。見せしめに貴方の首を落としましょう。そうすれば今後、貴方のような者も現れなくなるでしょう。あの女もひと時は助かると思ったかも知れませんが、あなたが死ぬことでさらなる絶望を味わうでしょう」
ハチバは処刑台の上から群衆を見回し、グラダンの姿を捉え、大鎌で指した。
「そこのお前たち、この異端者の体を押さえなさい」
困惑するグラダンとチャッピ。
「兄貴ぃ、あいつ俺達を呼んでますぜ!」
「落ち着けチャッピ。人間、非常時こそ落ち着きが大事だ。なんのこたあない。死にかけの人間の体を押さえるだけだ。俺達ならできるぜ……。それにほらよ、さらに報酬がもらえるかもしれねえ。逆に言えばチャンスなんだ」
「さ、さすが兄貴。冴えてるぜ」
命令されたグラダンとチャッピは、やけ気味で処刑台に上った。グラダンがチギリの背中に、チャッピが両足に馬乗りになった。
「や……めろ」
呻くチギリ。体の自由が利かなかった。
「あの世で懺悔なさい」
ハチバが大鎌を振り上げる。
「さようなら」
ハチバが大鎌を振り下ろす。
「ずいぶん苦戦してんなあ、チギリ」
その声の直後、処刑台が崩壊した。
足場が崩され、放り出されるハチバ。ほこりが立ちこめ、処刑台が見えなくなる。
「間一髪、ってとこか?」
ほこりの中からひょっこり姿を現したのはガムだった。右手に身の厚い長剣を握っている。しばらくしてほこりが晴れる。シンシアは磔台から開放され、地面にへたり込んでいる。その両足は無数の水ぶくれができ、赤くなっていた。
チギリはレイピアを杖代わりに立っていた。目立った外傷はなかった。
処刑台の崩壊で倒れていたハチバがむくりと起き上がった。その横にチギリを押さえつけていたグラダンとチャッピ。二人は完全に失神していた。
処刑台が崩れたときに引っ掛けたのだろうか。ハチバの服の袖が根元から破れていた。ガムはその右腕に妙な模様を見つけた。円の中に矢印が二本、円を垂直に等分するように互いに頭をくっつけている。
なんだありゃ? とガムは思った。
「……今日はずいぶんと邪魔が入りますね。いいでしょう。あなたも異端者として殺して差し上げましょう」
眉間をひくつかせながらハチバが言う。
「その棒っきれでか?」
ガムがハチバの握っている物を指差す。ハチバは自分の握っている物の先を見て目を見開いた。
大鎌の、鉄製の刃が根元からなくなっていた。否、正確には切断されていた。
先刻、ガムは処刑台の裏からこっそり上った。ハチバが大鎌を振り下ろす瞬間に、自分の長剣でハチバの大鎌を破壊すると同時に処刑台を崩した。そして皆が混乱している隙にシンシアを磔台から開放したのだ。
しかし、ハチバが驚いたのは大鎌が破壊されたことそれ自体ではなく、大鎌の破壊部だった。破壊部はニンジンを包丁で切ったような、きれいな断面を覗かせていた。
……なんという膂力なのでしょうか。
ハチバが大鎌の柄を地面に落とした。がらん、と鈍い音が響く。
ハチバは認めざるを得なかった。自分が不利に立たされていることを。麻薬で痛みを感じなかろうが関係ない。この黒髪の男に斬られれば、文字通り体が真っ二つになるだろう。
「執行官さんよ」
ガムがハチバに言う。
「……なんですか」
「この裁判さ、取り下げてくれないか?」
「そうはいきません。過去、教会は何度も魔女を処刑して参りました。その女だけ見逃すわけがありません」
虚勢を張るハチバ。
「なんでこの女が魔女なんだ?」
「なぜって……、その女が黒猫を飼っていたからです。あまつさえその黒猫を生贄に悪魔を呼び出す儀式をおこなったからです」
ハチバはあくまで主張を変えない。
「黒猫って、あれか?」
ガムは石畳に転がっている磔台のそばの黒い塊を指差す。
そこには大きな黒いネズミが転がっていた。
「な……に……!?」
再びハチバは目を見開いた。先程までいたはずの黒猫の死体がない。その代わりに大きな黒いネズミが転がっている。麻薬のせいで頭がおかしくなったか? いや、あれは間違いなくネズミだ。
「バカな。あそこには確かに黒猫が……」
呆然とするハチバ。黒猫の死体はなくなっていた。それはガムが大きな黒いネズミとすりかえたからだ。ガムはエウァの指令で下水道に大ネズミを捕まえに行っていたのだ。
エウァが、群集をかき分け、その足元からひょっこり顔を出した。
「見間違いだったんじゃないの?」
そのままネズミのもとに歩いていき、近くに落ちていた木片を拾って大ネズミをつつく。
すると大ネズミはむくりと起き上がり、その場から逃げていった。
「ほら、それに生きてる。執行官。やっぱり見間違いだったんだよ」
ハチバに向かってエウァ。
「嘘だ……。貴方たち、私を謀りましたね……。それにお嬢さん、貴方は何なんですか?」
「ボク? ボクはエウァ・グロピウス。クロノス王国『時の番人』グロピウス家次期当主さ」
言ってエウァは胸元からペンダントを取り出し、ハチバに向ける。それはグロピウス家の紋章を象った意匠の宝石だった。
「グロピウス……! バカな。なぜこんなところに……」
「人探しの旅の途中なんだ」
木片を放り出し、ハチバの元に歩み寄るエウァ。ガムがそれについていく。
エウァはハチバに宣告した。
「執行官。今回の件、グロピウス家で預からせてもらうよ。キミが勘違いで裁判を起こし、町を混乱させた。これは執行官という地位にありながら職務を見誤ったんだから、教会としての責任も重い。相当な罰は覚悟してもらうよ?」
「…………」
ハチバの返答はない。
「でもそんなことより、ボクは許せないことがある」
「……」
「キミはシンシアを傷つけた。シンシアに謝って」
「……くそ……、こんな子供に……」
ハチバが小声で呟いた。ハチバがシンシアの前に移動する。
そこで、瓦礫の中から声が上った。グラダンとチャッピだ。
「いててて……、何が起こったんだ……」
「兄貴ぃ、処刑台がバランバランですぜ?」
「そこの二人も!」
エウァがびしっ、とグラダンとチャッピを指差す。
「なんだ? このチビはあ?」
「兄貴ぃ、あれは昨日の金髪の連れのガキですぜ! 昨日はよくも……!」
悪態をつくグラダンとチャッピ。そこにガムが二人に拳骨を叩き込んだ。
「いいから早く行け。首を落とすぞ」
凄みを利かせてガムが脅す。どちらがチンピラか分かったものではない。
しぶしぶとシンシアの前に移動するグラダンとチャッピ。
「早く!」
エウァが怒鳴る。ハチバがゆっくりと口を開いた。
「この度は私の誤認により、貴方に迷惑をかけてしまい、申し訳……」
「土下座して!」
後ろからエウァがハチバとグラダンとチャッピの膝の裏を蹴飛ばした。衝撃で膝を折り、地に両手を突き這いつくばる三人。図らずもシンシアに土下座する形となった。
「それにそんな回りくどい言い方しないで! 『ごめんなさい』でいいんだよ!」
『…………ごめんなさい』
三人がシンシアに頭を下げる。それを見たシンシアは、苦痛に顔を歪めながら言う。
「貴方達がしたことは人として許されるものではありません。ですが悔い改め、生涯を通じて人のために尽くせば、きっと創造主様もお許しになるでしょう」
自分に非道を働いた三人をシンシアは許そうとしていた。しかし、
「誠意が足りない! もう一回!」
エウァがハチバ、グラダン、チャッピに怒鳴る。シンシアは目をぱちくりさせた。
三人が再びシンシアに謝る。
「本当に悪いことしたって思ってる!? もう一回心を込めて!」
エウァが再び怒鳴る。
三人が三度謝る。
「そんなので神様が許してくれると思ってるの!? もう一回!」
「あの、エウァちゃん。わたくしはもう……」
子供に何度も叱られるハチバとグラダンとチャッピを見て、さすがに気の毒になってきたのか、シンシアがエウァを止めようとする。
「何言ってんのシンシア! 殺されそうになったんだよ? 間単に許しちゃダメだよ?
なんなら二~三発ぶったっていいよ!」
なおもエウァの怒りはぷんぷんと止まらない。
「おい、エウァ。さすがにやりすぎだぞ。シンシアがいいって言ってるんだからもういいじゃねえか」
「エウァ殿の怒りもわかりますが、僕もガムの言う通りだと……」
ガムとチギリがエウァをなだめる。エウァは二人を指差し、眉根を寄せる。
「じゃあキミたちは自分が理不尽な理由で殺されそうになっても『ごめんなさい』って言われただけで許そうと思う!?」
「いや、たぶん許せな……」
「でしょ!? 二度とこんなバカなことさせないようにしなきゃなんだよ! シンシアが優しいからって、それに付け込もうとしてるんだよ、この男達は! 大人として恥ずかしくないの? ねえ!」
土下座する三人の背中に吐き捨てるように言うエウァ。
「それでもシンシア殿も困っているようですし……。エウァ殿、ここはシンシア殿の気持ちを察してもらって……」
「シンシアの代わりにボクがぶってやろうか!?」
こぶしを振り上げるエウァ。それを止めるガム。
チギリ、ガムそしてシンシアも、ぷりぷりと怒るエウァをなだめようとした。しかし、その後三人に二十八回謝らせるまで、エウァの怒りが収まることはなかった。
◆◆◆
翌日の早朝。ガム達は修道院の門の前にいた。シンシアが出迎えている。
「本当にありがとうございました」
ガム、チギリ、エウァに頭を下げるシンシア。両方の足を火傷して歩けないため、車椅子に乗っている。両足に巻かれた包帯が痛々しい。
「足、治るのか?」
ガムがシンシアに聞く。
「火傷が重度だったため、元通り歩行できるようになるのは難しいとお医者様に言われました」
「魔法で治せないのか?」
「なぜか、自分の傷は治せないんです」
「案外不便なんだな」
「ええ、ふふふ」
微笑むシンシア。
「たぶん、この力は他人のために使いなさい、という神様からのメッセージなのでしょう」
「すみません……。僕がもう少し早くシンシア殿を助けることができれば……」
チギリがシンシアに謝る。チギリの頭には包帯が巻かれている。
「チギリさんは自身が傷ついてまで私を助けてくださいました。わたくしの足の火傷に関して、あなたを恨むようなことはありません」
「それでも、僕は自分を許せません」
「あまり御自分を責めないで下さい。命が助かったんですから、これ以上のことはありません」
「シンシア殿」
「何でしょう?」
「僕は、もっと強くなります。人を助けられるように」
「それは、大変良い目標ですね。でも、無理をしないでください。人間というものは、自分ひとりさえ助けられるかどうかわからないものですから」
「はい。心に留めておきます」
シンシアに一礼するチギリ。
「シンシア。ごめんなさい、です」
エウァがシンシアに頭を下げる。
「ボクがもっと早く行動していれば、こんなひどいケガをしなかったのに……」
「どうしてエウァちゃんが謝るの? ガムさん、チギリさん、そしてあなたも私を助けてくださいましたわ。エウァちゃんが謝る必要なんてないのですよ?」
「そうだぞエウァ。お前の作戦がなければ俺達ゃただの反逆者として処刑されていただろうしな」
「違うんです、ガム。そういうことではないのです」
ガムはエウァの言葉の裏を読みとった。
世界の『秒針』のズレが今回の教会の凶行に繋がったのではないか。エウァはそう考えているのだろう。
「あんまり背負い込むなよ、エウァ。人ができることなんて限られてるんだ。ケガした本人の前で言うのも何だが、命までは取られなかったんだ。生きてれば、なんとでもなるんだよ」
シンシアがエウァの頭にぽん、と手を置く。
「もう一度言わせてもらうわ。エウァちゃん、ありがとう」
「はい、です」
シンシアの言葉に、暗かったエウァの顔が少しだけ明るくなった。そこでエウァが思い出したように、法衣のなかから一枚の紙切れを取り出した。ゴウゾの似顔絵だ。シンシアに見えるように差し出す。
「シンシア、この人知らない?」
シンシアはしばらく考えて
「確か三年前くらいに見たましたわ。行き倒れているところをわたくしが修道院に連れてきたましたの。三日ほどここに滞在して、出ていきましたわ」
と言った。
「行き先ってわかる?」
「マヤタキに向かうと言っていましたわ」
マヤタキ。ここから北にある寒村の名だ。
「わかった、ありがとう」
言って、エウァは紙切れを再び法衣にしまう。
そこに、修道院の扉を開けてマリアが現れた。シンシアの隣に移動する。マリアの腕や脚には包帯が巻かれ、顔にも絆創膏が貼り付けられているが、怪我自体はたいしたことはなさそうだ。
「おはようさん。あんたら早いね~」
おはようございます、とガム達は挨拶をした。
「もう行くのかい?」
「ああ、ちょっとばかし急いでるんでな」
マリアの問いに答えるガム。
「残念だよ。シンシアにいい人が見つかったと思ったんだけどね」
ちらりとチギリに目配せするマリア。チギリは照れたようにマリアから視線を逸らす。それを見てむくれるエウァ。
「院長様、わたくしは一生独身を通すつもりですから!」
マリアがシンシアに言う。
「なにも結婚しろとは言わないけどさ。女に生まれたんなら、女の悦びってのを知っとかないと人生損だよ? チギリ、ほんの少し時間くれよ。シンシアを女にしてやってくれ」
言って、マリアがチギリを見る。
「ええ!? あの、その、僕は……」
「彼女いないんだろ? シンシアはウブなとこが欠点だが、この通りアタシと違って性格も器量もいい。何が不満だってんだ?」
「いや、シンシアさんは魅力的なのは重々承知ですが、僕はですね、その」
しどろもどろになるチギリ。
「ダメだよチギリ。ボクたちは重要な任務の最中なんだから。寄り道してる暇はないんだからね」
エウァがチギリを睨みながら言う。底冷えするような声音だった。
「ちぇー、残念」
口を尖らして言うマリア。チギリとシンシアはどこかほっとしたような面持ちだった。
「ところでガム。アンタが広場で倒れてたアタシを負ぶってここまで運んでくれたんだって? 礼を言うよ」
言って、マリアはガムの頬に軽く口づけする。ガムは一瞬何が起こったかわからなかったが、
「お、おお。気にすんなよ」
と照れたように言った。ガムは思った。彼女を背負ったとき、背中に感じた素敵な感触のことは黙っておこうと。
「ほらシンシア。アンタはチギリに負ぶってもらったんだろ? 何かお礼しな」
シンシアを促すマリア。
「でも、私には差し上げられるようなものは何も持っていないのですが」
「受けた恩は必ず返す。これがうちの掟だよ? ちょっと耳貸しな」
マリアがしゃがんで、シンシアに耳打ちをした。話が終わり、マリアがシンシアから離れる。
「あの、チギリさん」
「なんでしょう?」
シンシアがチギリに言う。
「少し、しゃがんでいただけませんか?」
「こうですか?」
中腰の体勢になるチギリ。
「あの、もう少し」
「こうですか?」
完全にしゃがみ、車椅子に座るシンシアと頭の位置が同じになる。
そして、シンシアがチギリの頬にキスをした。
「あ、ありがとう、チギリ」
そして礼を言う。チギリは呆然とした状態で、固まってしまっていた。シンシアは顔を真っ赤にしていた。マリアは満足そうににやにやしている。ガムがチギリの肩に手を置く。
「良かったじゃねえか、チギリ。こんな綺麗な人に……あ」
ガムの目線の先。チギリの向こうにいるエウァが顔を真っ赤にして半泣き状態で小さな体をわなわなと震わせている。
「マリアのばかーーーっ!! チギリのえっちーーー!!」
エウァは叫んで、その場から走り去ってしまった。
「おい、待てエウァっ!」
ガムがエウァを追いかける。
それを見たチギリがハっ、と我に返った。
「あの、僕ら先を急ぎますので、じゃあ。お元気で!」
一礼して、チギリもガムとエウァを追いかけた。その後姿を見守って、手を振るマリアとシンシア。
このときのチギリはまだ知らなかった。過去の呪いが自身に災いとなって降りかかることを。
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