クロックワークエッグ【本編】
つぶあん
第1話 グロピウスの娘
刃の切っ先から滴る血。
男の握った剣は女の胸を貫いていた。胸元には、輝きを失った赤い宝石のペンダントが首から下げられている。
男はその顔に苦悶の表情を浮かべている。
対して女は口元に笑みの形。
女は、わかっていた。自分の結末を。
女は男に言った。
「人殺しは、一生、人殺しだ」
男は信念を砕かれ、女は野望を砕かれた。
残されたものは正しい時の流れ。人々を無為に流し続ける摂理だけだった。
遠くで鐘が鳴る。世界の片隅で起きた事件は終結し、過去へは二度と戻れない。世界は男に傷を残し、世界は無情に時を刻み続ける。
◆◆◆
ごぉぉぉん……ごぉぉぉん……
王城の鐘が夕刻を告げる。
城下の町の家々ではガス灯の明かりが灯り、夕餉の準備が始まる。仕事をしていた人々は手を止め、それぞれ今日の作業を終了し始める。彼らは家路についたり、帰る前に仲間と一杯やるために居酒屋に向かったりする。彼らの表情は、一日仕事に打ち込んだ充実感と仕事が終わった解放感で生き生きとしている。
そんな中、一人の男が道端に座りレンチを片手に作業を続けていた。男はえんじ色のツナギを身につけ、ぶつぶつ言いながら、道端の石畳の中に通っている水道管を直していた。
「今日は早く仕事を終わらせて一杯やるつもりだったってのによ。なんで水道管がいきなり破裂するかね」
ウニのような黒髪のツンツン頭、眠そうなたれ目と、それとは反対にぴんと跳ね上がった眉。長身で筋肉質、年の頃は二十代半ばといったところだ。
「家の補修だって専門外だっつうのに、水道管修理なんてやったこともねえっつうの」
男がぶつぶつ言っていると、頭に釘抜きがごちん、と落ちてきた。
「いてぇっ! 何すんだバゼ!」
釘抜きを振り降ろしたのは髪の薄い筋肉隆々の男だった。
年の頃は四十代前半くらいだ。
「ぶつぶつ言ってんじゃねえ。水道管が破裂したのは、お前が家の屋根から飛び降りて石畳を砕いたからだろうが。わかってんのかガム」
バゼと呼ばれた男がツンツン頭の男、ガムに言った。
「このあたりの下町は国の整備が行き届いてないから、いろいろガタがきてやがんだ。お前みたいなでかい奴が飛び降りたら、石畳なんか壊れるに決まってるだろうが」
「はしごで降りるのが面倒だったんだよ」
「そのせいで今、もっと面倒なことになってんだ。ぶつぶつ言ってるともっと帰れなくるぞ?」
「ぐ」
ガムは言い返せない。
「それに水道管は他の家にもつながってるんだ。お前が早く直さないと、ここいらの家の奴は晩飯の用意ができない。早く直せ」
「その前にいいかげん釘抜きを俺の頭からどけろ!」
「おお、そうだったな」
言って、バゼはガムの頭から釘抜きをどけた。
「お前には釘抜きよりドライバーの方が良かったな」
「あ? なんでだよ」
ガムはバゼを睨む。
「頭のネジゆるんでるだろ?」
「うるせぇ馬鹿! あっち行け!」
ガムがレンチを振り上げバゼを狙うが、あっさりとかわされる。
「そんなのろまじゃ俺には当たらねえよ、『おちこぼれ騎士』。さっさと水道管直せよ」
バゼはそのまま去っていった。
「あいつのせいで、また余計な時間使っちまったじゃねえか。ああ、さっさと直して帰ろう」
結局ガムが水道管修理を完了させたのは、日付が変わる直前の時間だった。
◆◆◆
からんからん、と扉の上に取り付けられた鐘が鳴り、木製の扉が開かれる。姿を現したのは長身黒髪のウニ頭、ガムだった。ここは宿屋兼居酒屋「ガトウ」。一階を居酒屋、二階を宿屋として営業している。店主は頭にバンダナを巻いた黒髪天然パーマの四十代の男で、名をカイという。店名のガトウは彼の名字だ。彼で三代目となる。
店内にはカウンターとテーブルがあり、三十人ほどが座れるようになっている。
現在は深夜のため、客は五人しかいなかった。
カイはカウンターの奥でなにやら料理を作っている。
「いらっしゃい……と。今日は遅かったな。いつものでいいか?」
「ああ、頼む」
カウンターに座りながらガムが言う。
「今日は仕事が長引いちまってな」
「今日は誰の依頼だ?」
「二丁目のシャルマン。水漏れするっつうから屋根の修理だ」
カイが一瞬目を丸くする。
「ははっ。遂にボディガードの仕事がなくなったか。元騎士っつう肩書きも潰しがきかんもんだな……はいよ」
カイがガムにジョッキを差し出す。中身は小麦色のエールだ。
「まったくだ。旅の護衛、要人警護に夜間警備。なんでもござれだっていうのによ。最近の仕事といったら、迷い犬の捜索や、飼い主が留守中の猫の世話なんてのばっかだぜ」
ガムがジョッキをを一息に空ける。
「贅沢いうなよ。それもお前さんの腕を見込んでの依頼だろ? おかげでこうして酒にもありつけるわけだ。俺の店も儲かって上々だ。ははっ」
「ぐ」
反論の代わりにガムはカイにジョッキを差しだし、二杯目を頼んだ。カイはエールをジョッキに注ぎ、ガムに差し出す。エールを一口飲み、ガムが言う。
「ところで、今日はセリナはいないのか?」
「いや、二階で客室の掃除をやらせてる。急な客が入ってな。妙な組み合わせの二人組だったな。一人は騎士でもう一人は子供だ。ま、気軽に立ち寄ってもらうのがウチの売りだから詮索はしないけどよ……お、言ってたら」
カイが店の奥に目を向ける。
とんとんとん、と足音を立てながら、一人の女性が階段を降りてきた。
肩口で切りそろえられた金色ストレートボブの髪。頭には花柄の三角巾。ゆるくつり上がった眉に、大きな目。鼻は先端がちょん、と突き上がっている。唇も大きめ。全体的に愛らしい顔立ちをしている。年の頃は二十代前半。体つきといえば、華奢な印象は受けるが、決して弱々しくはない。
「あら~、ガムちゃん。いつ来たの?」
セリナが笑顔でガムに挨拶をする。ハイトーンの声が店内によく通る。彼女が現れると、店内がこころなしか明るくなるようである。
「よう、セリナ。ついさっきだ」
「今日は遅いから、もう来ないのかと思った~」
「まさか。あんたの料理を食べないと、今週が終わった気がしないからな」
「も~、うまいこと言って。照れちゃうじゃない」
ガムの軽口をセリナが受ける。
「こらガム。人の女房を釣り上げるな」
カイが口を挟んだ。実はカイとセリナは夫婦である。年の差が二十歳ほどあるので、どういう出会いをしたのかが常連客の関心の的であるが、二人がいっこうに明かさないため謎のままである。
ガムがカイに言う。
「おっさんこそ、こんな美人どこで釣り上げた? ぜひご教授願いたいもんだぜ」
「俺くらいいい男になると幸運の星が巡ってくるのさ。これは生まれつきだから教えられねぇ」
「じゃあその星はどこにある? 俺がかっさらってやる」
「お前の手の届かないとこさ」
「けっ、言ってろ。セリナ、なんか作ってくれ」
ガムがセリナに注文する。そこにカイが
「ピーマンたっぷり入れてやれ」
と言った。
「やめろ。吐くぞ」
ガムがカイを睨む。
「だからだ。吐いてさっさと帰ってしまえ」
カイの言葉に、厨房に入ったセリナにガムが言う。
「吐いたらセリナ、介抱してくれ」
「ガムちゃんならいいわよ~」
軽く了承するセリナ。それを聞いたカイが
「やっぱりピーマンは入れるな」
と訂正した。ガムは、このおっさんの方がセリナにぞっこんなんじゃねえか、と思ったが口には出さずにおいた。
二杯目のジョッキを空けたガムはおかわりを頼み、カイとセリナと世間話をしながら料理を待っていた。
そのとき上から、がしゃん、というガラスが割れるような音がガムの耳に届いた。カイとセリナ、他の客も同様に聞こえたようだ。
黒ビールをジョッキに注いでいたカイがその手を止め、
「おい、セリナ。ちょっと見てきてくれ」
と言った。
「はい。カイちゃん」
料理をしていたセリナが手を止め、店の奥の階段の方へ向かおうとする。
「待て。俺が行く」
しかしそこでガムが言った。
「何言ってんだガム。客が余計なことすんな」
「いや、こいつはちょっとクサい。セリナが行くと危ない。ここで待ってろ。何もなかったらすぐ戻ってくる」
その言葉に何かを察したカイはガムに言う。
「……頼む。だが俺も行く。客の安全は守らんとな。セリナ、厨房を頼む」
「はい。カイちゃん。気をつけてね」
「ああ、すぐ戻ってくる」
カイを連れ、ガムは階段を上る。
音を立てないよう、しかし素早く。
階段を上り切った先には板張りの廊下が延びており、両側に四部屋ずつ客室がある。
「宿泊客はどこに泊まってる?」
ガムが小声でカイに尋ねる。
「左の奥とその一つ手前。右は手前から二番目と三番目」
「さっき言ってた騎士の部屋は?」
「左の奥だ」
聞いて、ガムは一直線に左の奥の部屋に向かい、カイもそれに付いていく。そしてガムはその部屋のドアを乱暴に蹴り開け、中に突入した。
ガムの目に入ったのは四人の人影だった。手前側、ドアの近くに金髪の男とその後ろに隠れるように白地に金の縁取りの法衣の子供。彼らと向かい合うように対峙した黒ずくめが二人。黒ずくめの後ろにはベッド、その上に窓ガラス。窓ガラスは割れている。黒ずくめはどちらも成人の背丈があるが、体つきからどうやら左が男、右が女のようだった。
そして金髪は手に細剣、黒ずくめ達は左側が剣、右側が両手に短剣を手にしていた。
ガムはその手前の金髪の男に見覚えがあった。
「お前、チギリか?」
ガムが金髪に声をかけた。金髪がちらとガムの方を振り返る。
「ガムか?」
チギリと呼ばれた男はそれだけ言うと、また黒ずくめ達に視線を戻した。肩に届くか届かないかくらいの長さの金髪。切れ長の目に青い瞳。身長はガムよりほんの少し低い。彼は全身に国王軍から支給される白地に蒼い縁取りの鎧をまとっている。それがチギリの外見だ。
目の前の光景を見て取ると、ガムはチギリの右横に並び、右の腰の鞘から小剣を左手で抜刀し、構え、黒ずくめと対峙した。
「ガム、君は手出しするな」
黒ずくめから視線を外さないまま、チギリがぼそりとガムに言った。
「そんなこと言ってる場合なのかよ? 今はこいつらをどうにかするのが先だろ」
ガムも黒ずくめに視線を据えたままチギリに言う。
「……」
チギリから反論はない。
「おっさん。ここは俺らに任せて、セリナとリリと客の避難を」
ガムは部屋の前に立っているカイに言った。
「すまねえ。恩に着る」
言って、カイはその場を立ち去った。
ガムは黒ずくめ達を小剣で指し、言う。
「さてと、お前ら何者だ?」
「お前は知らなくていい。どうせここで死ぬんだからな」
左の黒ずくめが答えた。
「じゃあ、お前は何者だ?」
ガムは右の黒ずくめを指して問うた。
その行為に一瞬、右の黒ずくめの動きが止まったが、すぐに答えた。
「聞こえなかったのかい? お前さんにはどうでもいいことさ」
はすっぱな言葉遣いに女性の声。やはり右の黒ずくめは女のようだ。
「余計なことは喋るな。我々は任務のみ遂行すればいいんだ」
左の黒ずくめが右の黒ずくめに言った。
「それよりお前こそなんだ? 余計なことに首を突っ込むな。我々の邪魔をするというなら本当に死ぬことになるぞ」
左の黒ずくめがガムに言う。
「俺はこいつの知り合いだ」
言いながら、ガムが顎でチギリを指す。
「だから首を突っ込む。ついでに言うと仕事が終わって気持ちよく飲んでたところを邪魔されてちょっと腹が立っている。お前らこそ覚悟できてんだろうな!」
言い終わるが早いか、ガムは床を蹴り、右の黒ずくめに飛びかかった。
「待て、ガム!」
チギリが制止しようとするが、遅かった。
ガムの上段からの一撃を女の黒ずくめは両手の短剣で受け止める。が、衝撃が大きすぎて彼女は前のめりに体制を崩した。ガムは剣を降り下げた反動を利用して今度は斬り上げる。たまらず彼女は後ろに飛びすさり、窓ぎわのベッドに着地した。そのままベッドの弾力を利用して、ガムに飛びかかり、両手の短剣で左右からガムを襲った。ガムは左からの攻撃を小剣で防ぎ、右からの攻撃は素手の右手で彼女の手首を打ち、短剣を落とさせた。彼女はそれでもひるまず、体を回転させながら踊るように残った右手の短剣や蹴りをガムに繰り出してくる。ガムはその攻撃を全て小剣で受け、反撃の隙をうかがっている。
「ニキータ!」
相棒のピンチを見て取った男の黒ずくめが援護を行うためガムに襲いかかろうとするが、チギリのレイピアが行く手を阻んだ。
「お前の相手は僕だ」
チギリは細剣で男の黒ずくめに突きを繰り出した。男の黒ずくめは横薙ぎにチギリの攻撃を払い、反撃に出る。チギリは男の黒ずくめの攻撃を細剣で受け、流す。男の黒ずくめは上下左右から様々な攻撃を繰り出すが、チギリの体に届く前にチギリの細剣に逸らされる。しかし男の黒ずくめに疲労の様子はなく、執拗に攻撃を仕掛けてきた。
チギリと男の黒ずくめの攻防の横で、きいぃん、という金属音が部屋に響いた。ガムと女の黒ずくめの上方で短剣が宙を舞い、ガムの背後の床に突き立った。
「まだやるのか? 退け」
ガムは彼女に言った。
ぎり、と彼女が歯噛みし、
「ちっ、退くよ」
と言って後ろに飛び、割れた窓からその身を夜闇に踊らせた。
「お前もだ」
ガムは男の黒ずくめを小剣で指し、言った。
「……覚えていろ」
チギリと剣を交えていた男の黒ずくめは一瞬躊躇したものの、チギリの攻撃を弾き、彼の方を向いたまま割れた窓に手をかけた。
「待て!」
チギリが黒ずくめに言ったが、次の瞬間には男の黒ずくめは窓から飛び出し、その姿は見えなくなった。
「行ったか」
ガムは窓から外を眺め、黒ずくめの姿がないことを確認し、剣を鞘に収めた。
「ガム!」
後ろからチギリがガムの方を掴み、チギリの方を振り向かせた。
「よお、久しぶりだなチギリ。元気にやってたか?」
「ふざけるな。なんで奴らを逃した。勝手なことをするな!」
チギリは非難の目をガムに向けた。
「積もる話をしてる場合じゃなさそうだな……。なんでって、事情もわからないのに殺したりできるかよ」
「そうじゃない。捕まえて身元を割ることだってできただろう?」
「なんだ、お前あの二人を生け捕りにしようとしてたのか? そりゃ無謀ってもんだ。お前にできるのは二人とも殺すことだけだぞ?」
「なんだと? あれから僕だって強くなった。二人を生け捕るくらいなんともない」
「いや、あいつ等は相当な手練れだぞ? お前も戦ってみてわかったんじゃないのか? なぜが手加減していたようだが」
「それは、そうだが……。やってできないことはなかった」
「そのちっこいのを背負いながらか?」
ガムはチギリの後ろにいる法衣の子供を指さした。
「……」
チギリは反論しなかった。
「お前は正直だけど、熱くなると周りが見えなくなるな。でも、どうしたんだ? そのちびすけは。お前の子供か?」
「いや、この子は……」
チギリが口ごもっていると、法衣の子供がガムの前にとことこと出てきた。そしてぺこりと一礼する。
「初めまして。ボクはエウァ・グロピウスと申します。以後お見知り置きを」
そしてガムににこりと微笑みかける。
肩で切りそろえられた銀色のゆるふわウェーブの髪、くりくりと大きな目にきれいなアーチを描く眉。ちょこんと取り付けたような鼻に大きめの口。顔いっぱいに笑顔を湛えた、可愛らしい顔立ちだ。年の頃は十二、三歳といったところだ。
「あ、こりゃ丁寧に。こちらこそよろしく」
ガムは後ろ頭をぽりぽりとかきながら会釈した。
「なんだチギリ。転職してベビーシッターになったのか?」
ガムがチギリに問う。チギリは首を横に振った。
「しかしグロピウスってどこかで聞いたようなことが……」
ガムはしばらく考え、やがて思い出した。
「グロピウス……もしかして『時の番人』か? このちびすけは?」
チギリが咳払いをし、エウァの頭上に手をかざした。
「この方はグロピウス家の次期当主にあらせられるエウァ・グロピウス殿だ。彼女に対する君の態度は問題だ」
チギリがガムを諫める。
「彼女って……女なのか? このちびすけは?」
「だから彼女をちびすけだなどと呼ぶな。処罰に値するぞ」
チギリがうんざりしたように言う。
「ガムさん」
「ん?」
エウァがガムを見上げて言った。
「ボクのことは『エウァ』って呼んで下さい。代わりにボクも貴方のことを『ガム』って呼びます」
「ん? ああ、構わんが」
「じゃあ、ボクとガムは友達だね」
「そうだな」
「これからよろしくです」
言ってエウァはガムに手を差し出す。
「ああ、よろしく」
ガムはエウァの手を掴み、握手した。
エウァはえへへ、とはにかむ。
「エウァ殿。ここは危険です。すぐに別の宿に移りましょう」
「えー? ボク、ガムともっとおしゃべりしたいよ。ね?」
「なりません。こうしている間にも危険が迫っているかもしれないのです」
チギリがエウァをたしなめる。
「おい、チギリ」
ガムがチギリを呼ぶ。
「なんだ?」
「お前、何の任務をしてるんだ?」
「それは言えない」
「それほど重大な任務なのか? 元同僚の俺にも話せないほど」
「君はもう騎士ではないのだから、何の関わりもないことだ」
「……」
突き放すチギリに、ガムは黙る。
「ボクから話すよ」
エウァが言った。
「なりません、エウァ殿。これは重要なことなのですよ!?」
「チギリ。ガムは信用のできるひとです」
「しかし……」
「そして、ボクはガムに協力してほしいのです。ガムはきっと今回の任務で必要になります」
「……私では力不足ということでございましょうか?」
「そうは言っていません。この任務は、ボクとチギリだけでは足りないものがあるとボクは感じています。しかしそれはチギリが弱いわけではありません。心の何かが足りないのです。ガムならその足りない何かを補ってくれると思うのです。良いですね、チギリ」
「エウァ殿がそこまで言うのであれば、私は従うまでです」
「わかってくれてありがとうございます、チギリ」
エウァがチギリにぺこりと頭を下げる。
「盛り上がってるところ悪いが、俺は協力するなんて一言も言ってないぞ?」
ガムの言葉にエウァは瞳を潤ませて
「ええぇぇぇー? 協力してくれないの!?」
と、今にも泣きそうに叫んだ。
「やだやだ! ガムと一緒じゃなきゃやだ! ボクたち友達でしょ? さっき言ったじゃない!?」
エウァの瞳からは大粒の涙がこぼれそうだ。この反応にガムは困ったような顔を浮かべた。
「う……、話だけなら聞いてやる」
「ほんと? ボク、ガム大好きっ!」
エウァは突進するようにガムの両足に抱きついた。
突然の態度の変わりようにガムは困惑しながら促す。
「で、どんな任務なんだ?」
「えーっとね……」
エウァの説明は以下のようなものだった。
現在、世界は戦争、飢餓、貧困に苦しんでいる。それは世界の『秒針』がずれてしまっているから。元々世界には正しく刻まれるべき時間が存在する。しかしそれが狂うと世界は不安定になり、戦争、飢餓、貧困といった人々を苦しめる現象が現れる。その苦しみを解決するには創世記から伝わる『懐中時計』を直さないといけない。その『懐中時計』は世界の『秒針』と連動している。『懐中時計』は『時の番人』たるグロピウス家が所有している。そして『懐中時計』を直せるのは伝説の修復師の一族だけ。エウァとチギリは『懐中時計』を直してもらうため、行方不明となっている伝説の修復師ゴウゾを探す任務を国から命じられた。しかし世界の心臓たる『懐中時計』は悪用すれば世界を支配できる力を持つ。ゆえに『懐中時計』は反体制を掲げる者達に狙われている。エウァは『懐中時計』を守り、チギリは『懐中時計』を直すまでの間エウァを守る。伝説の修復師の一族の者に『懐中時計』を直してもらえば、任務達成となる。
「……という任務なんだ。さっきボクたちを襲った黒い人たちは、その反体制の人たちだと思うんだ」
「俺の手に負えることじゃねえよ、他を当たれ」
説明を聞いたガムはエウァを突き放した。
「ええぇぇぇー!? ガムさっき『協力してやる』って!」
「『話だけ聞いてやる』って言ったんだ。勝手に話を作るな」
「やだやだ! ガムと一緒じゃなきゃやだ! ボクたち友達でしょ? さっき言ったじゃない!?」
エウァは板張りの床に仰向けに寝転がり、手足をじたばたし始めた。
「だだこねたってだめだ。聞いてみれば蟻が像に挑むような話じゃねえか。いち傭兵の俺の出る幕じゃねえよ」
「でもガムはボクを友達って言ったです……」
ぐす、と袖で顔を拭いながらエウァがガムを恨めしそうに見上げる。
「だめなもんはだめ。俺にも生活があるからな」
エウァが立ち上がり、寝転んだことで付いた法衣の尻の部分のほこりをぱんぱんと払う。
「ただ友達って理由だけじゃないです。さっき戦ってるときの黒い人を退けたガムの力量、深追いしない判断力を評価して、ボクは確信したのです。ガムを加えることで確実に任務が達成できると」
ガムは、エウァはただのちびすけじゃないな、と思った。
彼女は自分の命が奪われるかもしれない戦闘の最中で、悲鳴のひとつも上げなかった。それどころか冷静にガムのことを観察していたのだ。十二、三歳の子供にできることではない。
「俺を買ってくれるのはありがたいが、断らせてもらう。俺は善人じゃない。慈善事業をやる気はねえ」
ガムはにべもない。
「それについては提案があるです。ボクはグロピウス家の次期当主として、今回の任務である程度の権限を家から与えられています。ガム、ちょっとこっちに」
エウァはチギリから離れ、部屋の隅にガムを招く。ガムはそれに付いていく。
エウァは法衣の胸のあたりからそろばんを取り出し、チギリに背を向け、ガムに見えるようそろばんをはじき出した。
「こう……こうで、こんなものでどうです?」
「悪かないが、もうちょっとなんとかなんないか?」
「では……これでどうです?」
「俺、……がないとストレスが溜まるんだ……」
「やはり殿方なのですね……ええ、ボクもゆくゆくはグロピウス家の淑女たらんとする人間です。殿方が……なのは心得ているですよ」
チギリに聞こえないよう、ひそひそ声で話が進んでいる。
二人のやり取りを見て、チギリは不安しか覚えない。
やがて二人は握手を交わし、チギリのところに戻ってきた。
ガムもエウァも満足そうな顔をしている。
「チギリ。ガムとの契約が成立したよ」
「これからよろしくな、チギリ」
「なにを要求したんだ君は」
チギリは不審そのものの目でガムを睨む。
「いや、ちびすけのくせに話が分かる奴だよ、こいつは」
「ううん、ガムにはこれでも少ないくらいだよ。チギリはいい友達を持ってるね」
「エウァ殿をちびすけと呼ぶな。そして私とガムは友達ではありません」
チギリは憤懣やるかたない様子だ。
「エウァ殿。規律に反する勝手な行動は困ります。国王軍の者ならばまだしも下町の住民を仲間に引き入れるなど以ての外です」
「ええぇぇぇー!? やだやだ! チギリとガムが一緒じゃなきゃやだよぅ……」
エウァが再び瞳に大粒の涙を浮かべ、手をばたばた振り回す。
チギリはエウァから顔を逸らしながら、眉間にしわを寄せてエウァを諫める。
「だだをこねてもだめです。私は国王軍の人間です。軍の規律に反する行動は取れません。いち民間人であるガムを国王軍の任務に加えることはできません。仲間を加えるのであれば軍の人間にしてください。それが私がぎりぎり妥協できるところです」
「ガムが国王軍の人間だったら問題ないんだね?」
「は?」
エウァが何を言っているのか、チギリは一瞬わからなった。
「グロピウス家は代々国王軍にも軍人を何人も輩出してるの。お父様の推薦があれば民間人の一人や二人、軍にねじ込むことは簡単なんだ。でもこれはボクの権限には入ってないから、お父様の前で額をこすりつけて頼まないといけないけどね。でもでも世界の危機を救えるんなら、ボクが土下座するくらい安いもんだよ。さっそくお父様に掛け合ってくる」
言ってエウァは部屋を出て行こうとする。
「おいチギリ。お前雇い主にひどいことさせるのな」
「いや、僕はそんなつもりじゃ」
部屋の入り口からエウァがガムを呼ぶ。
「行くよ、ガム。一応お父様に会ってもらわなきゃ」
「おう、さっそく護衛任務開始だな」
ガムがエウァとともに部屋を出る。
「え、ちょっと……」
チギリは思った。いや確信している。
任務が始まってからエウァとは数日の付き合いだが彼女の行動には一切躊躇がない。思いついたらすぐに行動を起こす。数日前から、現在行方不明になっている伝説の修復師の聞き込みを城下町でおこなった。聞き込みをおこなった人数は三日で千人を越えた。聞き込みに行く場所も民家、商店ところ構わず、時にはスラムやホームレスの人間にも聞き込みをおこなった。当然そこにはガラの悪い連中もいるわけで、金銭を要求してくる人間が少なからずいたが、チギリが全部打ち倒してきた。
そんなエウァが言っているのだから、これから彼女はグロピウス家の屋敷に行く。そして眠っているだろう現当主である父を叩き起こし、大理石の床に額を何度もこすりつけガムの入軍を嘆願する。
いたいけな子供にそんなことをさせるのはどうなのか。それは自分の正義に反するのではないか?
考えているうちに、二人の足音はどんどん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
チギリはしばらく逡巡し、結論を出した。
「待って下さい! わかりました! ガムの同行を認めます」
言って、部屋の外に飛び出すチギリ。もう行ったかと思われたガムとエウァは、扉のすぐ外にいた。
「ボクはチギリならわかってくれると信じてたよ」
「よろしくな、相棒」
にやにやと笑うガムとエウァ。チギリは顔を紅潮させ、ため息とともに呟いた。
「ああ、もう……」
弛緩しかけた三人の周りの空気が
ずん
と重くなった。同時に冷や水を浴びせられたような寒気が走った。
そのプレッシャーに、エウァは床にへたり込んだ。全身がかたかたと震え、呼吸がひゅうひゅうと細くなっている。上下の歯がかちかちと音を鳴らす。
「チギリ、エウァを頼む」
ガムは部屋の中に戻り、窓から外に身を乗り出した。
そこでガムが見たのは地獄を凝縮したような存在だった。
ガムの視線の先、宿屋の外の道に、全てを飲み込むような漆黒に身を包んだ女が該当に照らされている。彼女はガムを見上げていた。
全身を覆う烏の濡れ羽のような黒のドレス。頭に乗せた、牛骨を象ったような黒の帽子。背中まで伸びる漆黒のストレートヘア。胸元には鈍く輝く真紅の宝石がはめられているペンダント。顔の左半分は包帯で覆われている。右目は露わになっており、切れ長の目に黒い瞳。整えられ、つり上がった眉。その女は黒い車椅子に乗っていた。傍らには侍従らしき女が立っている。
包帯の女の、ガムを睨みあげる右目。それはこの世の全ての憎悪、怨唆、怒号、悲鳴、呪詛が内包され、今にもそれら負の感情が外に突き抜けんばかりに暴れ回っているようだった。ガムは灼熱する永遠の闇を女の右目に感じた。その目に、ガムは思わず手で胸を押さえ、自身の激しい鼓動を確かめた。
「……なんだ、お前は?」
ガムが声を絞り出すように女に聞く。
「控えろ下衆が。貴様が出る幕ではないわ。グロピウスの小娘を出せ」
女の声がガムの耳を突き刺す。普通の人間であれば聞くだけで不安に陥るような威圧感があった。
「俺はちびすけの護衛だ。ちびすけに会いたけりゃ俺を倒してから行けよ。それより俺と一杯飲まないか? あんたよく見りゃ美人じゃねえか」
「……見下ろすな」
包帯の女が呟く。
「見下ろしてんじゃねぇっ! うつけ者がっ! テメーみたいな不細工はドブに頭突っ込んで溺死しろッ!」
怒号がガムを殴りつけた。
「な……?」
「調子に乗ってんじゃねえぞドチンピラがっ! テメェにゃビチグソ拭き終わった雑巾ほどにも用がねえんだよっ! 私が用があるのはグロピウスの娘だけだ!」
なおも女の怒号は止まらない。
「こちらはいつだってお前らを消す用意があるんだ、覚えとけ! いいか? これは世界に対する宣戦布告だ! 貴様等ごときゴミクズに止められると思うなッ!!!」
周囲の建築物の窓がミシミシと軋んでいる。
包帯の女の目は血走り、顔には汗が噴き出し、息が切れている。
侍従の女が包帯の女に言う。
「お嬢様。あまり興奮なされてはお体に障ります」
「うるさいッ! 私に命令するな!」
「ですが」
侍従の女が胸ポケットからハンカチを取り出し、包帯の女の女の顔を拭う。
「クソッタレが……これだけのことで私の体は……!」
わなわなと震えながら、包帯の女は車椅子の手すりに置いた自分の手を見つめた。そして再度ガムを睨みつける。
「いいか? グロピウスの娘といるとお前は必ず死ぬ。その娘は呪われている。巻き添え食らいたくなければさっさと消えろ。……行くぞ」
侍従の女はかしずき、車椅子を押し、夜闇に消えて行った。
女達の姿が見えなくなるまで、ガムは呆然とその後ろ姿を見つめていた。
「何だったんだ一体……。と、エウァは大丈夫か?」
ガムが部屋の外のチギリに向かって聞く。
「いや、まだ震えが止まらない」
エウァはしゃがんだチギリに抱きつき、かたかたと震えていた。
顔面蒼白だった。ガムはエウァに駆け寄った。
「大丈夫か、エウァ?」
「…ふぅー……! ふぅー……! ふぅうぅぅうぅっうぅ…………」
エウァはチギリの胸に顔を埋め、体を震わせながらしっかりと抱きつく。包帯の女から放たれた殺気がエウァを捉えて放さなかった。
「ガム、さっきのは一体何だったんだ?」
「女が二人。包帯の女とそのおつきの女だ。ただし包帯の女はとんでもなくえげつなかった。睨まれただけで死ぬかと思ったぜ」
「さっきの黒ずくめの二人と何か関係があるのか?」
「わからん。『グロピウスの娘を出せ』と言っていたから、今回の任務に敵対している可能性は高い。あと『こちらにはいつだってお前等を消す用意がある』と言っていた」
「敵は複数……組織である可能性が高いということか」
「ああ、どのくらいの規模かはわからんが。軍の方から何か知らされてはないのか?」
「過去には百年単位の周期で時計の修復は行われている。通常、修復師は常時王城に仕えていたから、敵の襲撃は国王軍が対応し、鎮圧していた」
「なんで『時計』をグロピウス家から持ち出すんだ? 修復師がグロピウス家に出張って直せばいいんじゃないのか? 『時計』を外部に持ち出せば敵の襲撃のリスクが上がるだろ?」
「修復の作業は国王が直に確認しなきゃならないんだ」
「だったら王も一緒にグロピウス家に行けばいいだろ」
「それは王が家臣に頭を下げるようなもんだ。権威に傷が付く」
「世界の安定より優先すべきことなのか?」
「王の権威が傷つけば求心力がなくなって、人民はまとまらなくなる。王は軽々しく動いちゃいけないんだ」
「めんどくせえな」
「そういうものなんだよ。しかし『時計』がグロピウス家から王城を通る道以外に出たことはなかった。修復師が行方不明だっていう、今回が特殊なんだ」
「じゃあ、王城の修復師不在を嗅ぎつけた奴らがいて、この機に『時計』を奪っちまおうってハラだってことか」
「おそらくは。僕らは反体制の勢力からエウァ殿を守らなければならない」
「俺ら二人でか?」
「ああ。成り行き上、二人に増えてしまったが」
「少なすぎねえか? 当初はお前一人だったんだろ?」
「ああ、『時計の修復はあくまでも極秘裏に進めろ』という命令だ。『懐中時計』と『修復師』の存在は王城の一部の人間しか知らされていない。修復師を捜索する際も、修復師だという素性は住民には隠して探している。『懐中時計』の存在が明らかになれば反体制の人間が増え続けて、世界はますます混乱することになるからね。この任務が失敗すれば世界は終わりだ」
「今更ながら、とんでもないことに首を突っ込んじまった……」
ガムは肩をすくめる。
「だから言ったんだ。君には関係ないって」
エウァの背中をぽんぽんと軽く叩きながらチギリ。
「いや、最近仕事が減ってきてな。そこに高額報酬の依頼が舞い込んだもんだから、つい……」
ガムに悪びれた様子は感じられない。
「君って奴は、世界の危機と生活の危機が同レベルなんだな……。呆れを通り越して感心するよ」
「けなしてんのかよ。まあ、世界が終わっても仕事がなくっても俺の命の危機には変わりない。誰かの手で世界が終わっちまうんなら、どうやって終わるかは近くで見たいじゃねえか」
「僕が失敗なんかさせやしない。必ず守る」
「気負い過ぎるのはお前の悪いクセだぞ? もっと気楽に行こうぜ。壊れた普通の時計を町の時計屋さんに持ってくつもりでよ」
「君には緊張感が足りなさ過ぎるんだよ。そんなだから御前試合の時、鞘に剣じゃなくて金尺が入ってたんだ」
「あれは前日の壮行会でお前が酒に酔っぱらって入れたんだろうが」
「普通、試合の直前に確認するだろう?」
「ぎりぎりまで寝てたから確認する暇がなかったんだよ。対戦相手から『お前は自分の身の丈を知れ』なんて言われてよ」
「金尺だけにな」
「うまくねーよ」
ガムは天を仰ぐ。ガムとがまだ騎士だったころに、チギリと何度もおこなわれたやりとりだ。
そこにくすくす、という笑いが聞こえた。
いつのまにかエウァの震えが止まっていた。
「あはは……ガムったらおかしいね。剣じゃなくて金尺って、あははっ……」
エウァが普段の顔色を取り戻しつつあった。
「君のドジもたまには役に立つんだな」
「ぬかせ」
チギリがガムになま暖かい目を向ける。
「チギリ、しばらくエウァを頼む。俺はカイ達の様子を見てくる。
「ああ、頼む」
ガムは一階に降りカイ達の無事を確認しに行った。酒を飲んでいた客は全て避難したらくそこにはいなかった。セリナと娘のリリも無事だった。
リリはセリナの腕の中で眠っていた。
この夜、結局ガムはセリナの料理を食べられないまま、チギリとエウァと別の宿に移動となった。
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