領主と吸血鬼22

 もう少しすれば日が昇ろうかという時刻。

 バーの女主人にロンディヌスの街が一望できると教えてもらったその場所に、彼女は佇んでいた。

 ロアがあの時、ここで落ち合おうと言った場所だ。


「……ちゃんと来てくれたね」


 赤く長い髪を風になびかせ、彼女はマリアを迎えた。

 その手には、ライア・ロビンソンがくれた件の匂い消しがあった。


「どうしてわざわざそれを?」


 マリアの問いに、彼女は笑顔で答える。


「だって誰にも再会を邪魔されたくないじゃない?」


 マリアは静かに首を振る。

 手に持つ刀をぎゅっと握った。


「……再会、ではないでしょう。

 貴女は、誰ですか」


 ロア・ロジェ・クロワの顔をした彼女は、赤い眼を細めて嗤った。


「私は間違いなくロアだよ、マリア。君が違うと言ってもね」

「!」


 ロアと名乗るそれは短剣を取り出しマリアとの間合いを一気に詰めた。

 とっさにマリアは刀を抜く。

 かろうじてその短剣を受け止めるも、


「反応が一瞬遅れたね? やはり君は甘い。やっぱり君にロアは殺せなかった」


 見透かされて、マリアは歯を食いしばる。


「……はぁッ!」


 押し切って短剣を弾き飛ばすも、彼女はにやりと笑んで、すかさず刀を握るマリアの手首をつかんだ。


「!」


 それは振りほどけないほどの力で、マリアはいとも簡単に地面に押し倒された。


「はな、しなさい!」


 拘束されていないほうの手を突き出すと、その腕もまた、たやすく掴まれた。

 次にマリアは足を振り上げようとする。

 しかし


「はい、それもなし」


 脚で大腿部を押さえられて、固められてしまった。

 まるで戯事、遊ばれているようだった。


「……貴女はっ何なんですか!」

「何って、分かっているでしょう、マリア・マグナス。

 結局悪魔になってしまったロアだよ」


 はっきりと現実を言葉で突きつけられて、マリアは言葉に詰まった。


「そんな顔をしないでほしいな。あのまま姿を消しても良かったんだけど、世話になった君には挨拶ぐらいしておかないとと思ってわざわざここに来たんだからさ。ロア・ロジェ・クロワは、君が心底大好きだったからね」


 ロアの声で、その悪魔は優しく言った。

 その声に、マリアの瞳には涙がにじむ。

 その涙をこぼすまいと、マリアは必死に歯を食いしばった。


「本当に君は泣き虫だね。真っ直ぐで、真っ白で、本当にロアを苦しめた」

「……!?」


 悪魔はマリアの首筋を、その舌で軽くなぞった。

 いつもロアが噛んでいた箇所だ。


「ロアはね、本当はもっと君の血が欲しかったんだけど、君に嫌われるのが嫌で言い出せなかったんだよね。君の血をもっと吸っていればあるいは、もう少し魔に近づく時間を遅らせられたかもしれないのに、馬鹿だよね」


「……私を責めているのですか」


「そんなことはない。馬鹿なのはロアだ。あれでいて秘密主義だったからね、君に隠していたことも多い」


 悪魔は次にマリアの胸に顔を埋めた。

 驚いて身じろぎしたマリアの太腿をその手で掴み、その内側を指でなぞり上げる。


「っ、何を、」


 未知の怖れからマリアが暴れると、悪魔はすぐに顔を離した。


「ロアは君に本当に複雑な感情を抱いていたわけだけど、その中に欲情じみた感情があったことに君は気づいていたかな。……この様子だと気付いていなかっただろうね」


 マリアの脳裏にふと、あの時のことが蘇る。

 ロンディヌスに出立する前、ロアがマリアの血を吸った夜。

 あの時の彼女の熱い舌と唇の感触は、今でも肌が覚えている。


「別にロアは君にその想いに応えて欲しかったわけじゃない。君の純粋無垢さをロアは同時に愛しく思っていたから。

 だからこそ感情が余計に複雑になって何も言えなくなってしまったんだけど、それこそ本当に自業自得というやつだ。

 君が可愛くて仕方なくて、結局、君との大事な約束を反故にしたのはロアのほうだったんだから」


 淡々として無表情だった悪魔の顔に、少しばかりの嘲笑が入り混じった。


「君は約束を守れなかったけど、ロアは君を恨まない。君に言っていただろう?」



『マリアが約束を破っても、私はマリアを嫌いにならないよ。絶対に』



「本当に、君が大好きだったんだ」


 それだけ言って、悪魔はそっと、マリアの拘束をゆるめ立ち上がった。

 そのまま背を向け立ち去ろうとする彼女に、


「…………まって、」


 マリアは立ち上がり、叫ぶ。


「待って、――ロア!」


 ロアと呼ばれた悪魔は肩を微かに震わせた。


「貴女は、私の知っているロア・ロジェ・クロワです。……だから行かないで」


 マリアの涙ながらの懇願に、それでもロアは振り返らない。

 マリアは上ずった声で叫ぶ。


「恨みがましい言葉を連ねて、ただお別れを言いに来たんですか!? 違うでしょう? 他に言いたいことがあったんでしょう?

 貴女が言わないなら私が言います」


 マリアは走ってロアの前に立った。


「ロアは私を大好きだと言うくせに、一度も言ってくれなかった!

 私は貴女と一緒にいたいのに!

 私は貴女に、『ずっと一緒にいたい』と、言ってほしかった……!」


 そう叫んでマリアが見上げたロアの顔は、涙に濡れてぐしゃぐしゃだった。

 それはもう、綺麗な顔が台無しというレベルで、子供の泣き顔そのものだった。


「……悪魔でも、いいの?

 本当に、人間じゃなくなってしまったのに、マリアの傍にいていいの?」


 上ずった声で、ボロボロの袖で涙を拭いながらロアが問う。


「……なんて顔してるんですか。いいに決まっているじゃないですか。私は数多の悪魔を使役する、魔王マグナスの弟子ですよ」


 マリアの、無駄に頼もしい言葉に、ロアは何度も頷いた。


「いたい。いたいよ、マリアとずっと一緒にいたい。

 こんなになってもやっぱりマリアに会いたかった」


 そしてマリアをぎゅっと抱きしめる。


「ほんとはね、ずっと言いたかったんだ。

 でも叶わないことを言うのが怖くて、言えなかった。

 ……遅くなって、ごめんね。本当にごめん」


 マリアは泣きじゃくるロアの背中をなだめるように、そっと腕を回す。


「……本当に、遅いんですから。

 でも許します。……もう一度、約束をくれますか?」


 マリアの言葉に、ロアは応える。


「ロア・ロジェ・クロワはマリアの傍にずっといる。君がいらないと言うまで離れない」

「『いらない』なんて、言いませんよ。だから」


 マリアは回す腕に力を込めた。



 ――どうか、ずっと一緒に。




 紺色の空が明るくなる。

 長い夜が、明けたのだ。

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